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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第二部 未来から来た死者

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15/30

第15話 水の底の校内放送

放送は、同じ言葉を多くの人へ届けるためのものです。


けれど、誰かが途中から声を重ねたなら。


正しい避難場所が、最も危険な場所へ変わってしまうこともあります。


水の底に沈んだ放送は、十三年間、続きを聞く人を待っていました。

 冷たい水が、透真の頭上を覆った。


 息を吸う暇もなかった。


 口から泡が漏れ、視界が青黒く染まる。


 澪と篠崎がプールサイドから手を伸ばしている。


 だが、その姿は水面の向こうへ急速に遠ざかっていった。


「……っ!」


 透真の腕を掴んでいるのは、プールサイドに現れた少女だった。


 御影冬子の娘。


 名前を失った十三人目。


 少女は水中にいるにもかかわらず、苦しそうな様子を見せない。


 濡れた黒髪を揺らしながら、透真を深い底へ引いていく。


『息をしないで』


 声が、水の中へ直接響いた。


『ここで息をしたら、十三年前の水を飲むことになる』


 意味は分からない。


 だが、飲んではいけないことだけは分かった。


 透真は口を閉じ、両手で鼻を押さえた。


 プールの底は、もう見えない。


 代わりに、古い校舎の屋上が近づいていた。


 水没した十三年前の学校。


 屋上に設置された時計は、午前零時十三分で止まっている。


 校舎の窓には、大勢の子どもたちが張りついていた。


 顔。


 顔。


 顔。


 どの子も口を大きく開き、何かを叫んでいる。


 だが、水の中では声にならない。


 窓ガラスを叩く音だけが伝わってくる。


 こん。


 こん。


 こん。


 三回。


 すべての窓から、同じ間隔で。


 透真は胸が苦しくなった。


 息が続かない。


 少女は校舎の屋上へ降り立つ。


 足が床へ触れた瞬間、水が消えた。


「はっ……!」


 透真は膝をつき、激しく息を吸った。


 頭上には大量の水がある。


 青黒い水面が、空の代わりに広がっている。


 それなのに、屋上には空気があった。


 制服も髪も濡れている。


 しかし、呼吸はできる。


「ここは……」


『十三年前の学校』


 少女は答えた。


「本当に過去なんですか」


『過去じゃない』


 少女は屋上の扉を開ける。


『過去から出られなくなった音の中』


 階段へ続く暗闇。


 下の階から、校内放送が流れている。


『大雨特別警報が発表されました』


 小夜子の声。


『住民の皆様は、ただちに高台へ避難してください』


 雑音。


 ざああああ。


 その奥へ、御影冬子の声が重なる。


『学校へ避難してはいけません』


 二人の声は反対の内容を話しているように聞こえる。


 だが、透真は違和感を覚えた。


 小夜子は高台へ逃げろと言う。


 冬子は学校へ来るなと言う。


 どちらも同じ方向を示している。


「正反対じゃない」


 透真は呟いた。


「二人とも、学校から離れろと言っている」


 少女が振り返る。


『そうだよ』


「では、記録に残っている放送は?」


『学校へ避難してください』


「誰の声ですか」


 少女は答えず、階段を下り始めた。


 透真は後を追う。


 屋上扉が閉まる。


 がちゃん。


 頭上の水の気配が消えた。


     ◇


 三階の廊下には、避難してきた住民たちが立っていた。


 全員、動かない。


 まるで映像を一時停止したように、同じ姿勢で固まっている。


 濡れた服。


 泥のついた靴。


 泣きそうな子どもを抱く母親。


 毛布を肩へ掛けた老人。


 透真が近づくと、彼らの顔がゆっくりこちらを向いた。


 体は動かない。


 首だけが回る。


 ごき。


 ごき。


 ごき。


 全員の口が同時に開く。


『学校へ避難してください』


 男の声。


 女の声。


 子どもの声。


 何十人もの声が重なる。


『学校は安全です』


「誰が言わせているんですか」


 少女が廊下の先を指差す。


 校内放送室。


 扉の上に赤いランプ。


 放送中。


『あそこ』


 透真が扉へ近づく。


 住民たちの首が、その動きを追う。


『学校へ避難してください』


『学校は安全です』


『水は来ません』


 足元の床が濡れ始めた。


 廊下の端から、黒い水が流れ込んでくる。


 くるぶし。


 膝。


 水位が急速に上がる。


「急いだほうがよさそうですね」


『毎回そうなる』


「毎回?」


『放送が始まる』


 少女が言う。


『みんな学校へ来る』


『水が入る』


『放送が途切れる』


『また最初から』


 十三年間、同じ避難放送と浸水を繰り返している。


 届かなかった音の記憶。


 透真は放送室の扉を開けた。


     ◇


 室内には、三人の女がいた。


 一人目は小夜子。


 二人目は御影冬子。


 三人目は、赤い傘を持った顔のない女。


 小夜子は放送卓の前に座り、マイクを握っている。


 冬子は送信装置の操作盤へ手を置いていた。


 赤い傘の女は、その二人の間に立っている。


 透真たちには気づいていない。


 十三年前の場面を、そのまま繰り返しているのだ。


『高台へ避難してください』


 小夜子がマイクへ呼びかける。


『学校には来ないでください』


 冬子が別の回線へ声を流す。


 赤い傘の女が、ゆっくり両手を広げた。


 小夜子と冬子の声が吸い込まれる。


 二人の口は動いている。


 だが、スピーカーから流れたのは別の放送だった。


『こちらは夕名町災害対策本部です』


 小夜子に似た声。


『住民の皆様は、夕名第二中学校へ避難してください』


 透真の通う学校。


『学校は安全です』


 赤い傘の女の平らな顔に、小夜子の口が浮かんでいる。


「母さんの声を使った」


『最初は、小夜子さんの声だった』


 少女が答える。


『町の人が一番信用していたから』


「母は放送の担当者だったんですか」


『町内放送のアナウンスをしていた』


 災害時に聞き慣れた声。


 住民が疑わず従う声。


 呼名女は、その信頼を利用した。


 冬子が操作盤を叩く。


『回線を切って!』


 小夜子が叫ぶ。


『切れない!』


『送信機の電源を落とす!』


『駄目! 避難放送そのものまで止まる!』


『このままなら、全員学校へ来る!』


 赤い傘の女が二人の声を使い、笑う。


『皆様、安全な学校へお越しください』


 放送室の外。


 廊下にいる住民たちが、一斉に窓の外を見る。


 校庭へ、さらに大勢の人が押し寄せている。


 その背後。


 山から黒い土砂と水が迫っていた。


 学校は高台ではない。


 谷の出口に建っている。


 雨水と土砂が最も集まる場所だった。


「学校へ集めて、まとめて殺そうとした」


『殺すためじゃない』


 少女が首を横に振る。


「では、何のために?」


『声を集めるため』


 赤い傘の女が住民の名前を一人ずつ呼ぶ。


『佐藤美津子さん』


『中川健さん』


『白石和代さん』


 名前を呼ばれた人間は、放送室の方角へ顔を向ける。


『最期に伝えたい言葉を、お預かりします』


 家族への感謝。


 謝罪。


 助けを求める声。


 死の直前に生まれる、強い言葉。


 呼名女は災害を起こしたのではない。


 災害を利用し、死者になる人々の最後の声を一か所へ集めた。


「それが、十三の席になった」


『最初は十三じゃなかった』


 少女は言った。


『もっとたくさんいた』


 小夜子が送信装置へ走る。


『冬子さん、みんなを外へ出して!』


『どこへ逃がすの!』


『北側の旧道! そこだけは土砂が来ない!』


『放送できない!』


『なら、直接伝えて!』


『間に合わない!』


 小夜子は操作盤の非常停止カバーを叩き割った。


 赤いレバー。


 主送信停止。


 これを引けば、町内すべての放送が止まる。


 正しい避難情報も送れなくなる。


 冬子が小夜子の腕を掴む。


『待って!』


『止めるしかない!』


『放送を止めたら、外にいる人へ何も伝わらない!』


『この声を聞かせるよりいい!』


 小夜子がレバーを下ろした。


 がこん。


 すべての音が消えた。


 放送。


 警報。


 住民たちの声。


 雨。


 雷。


 完全な無音。


 透真の耳には、自分の鼓動さえ聞こえない。


 小夜子が口を動かしている。


 冬子と何かを話している。


 だが、音がない。


 透真は少女を見る。


「何を言っているんですか」


『聞こえない』


「あなたも?」


『ここから先の音は、消された』


 赤い傘の女だけが動いていた。


 無音の中で、傘を閉じる。


 白い顔に、初めて小さな穴が開いた。


 口。


 そこから声ではなく、黒い糸が吐き出される。


 糸は小夜子。


 冬子。


 廊下の住民たち。


 子どもたち。


 すべての喉へ絡みついた。


 音がないため、誰も叫べない。


 伝えられない。


 助けも呼べない。


 赤い傘の女が、無音の世界で唇を動かす。


 透真には、その形が読めた。


 ――いただきます。


 黒い糸が、人々の声を吸い上げる。


 廊下の住民たちが一人ずつ倒れる。


 まだ死んでいない。


 しかし、声を奪われている。


 冬子が操作盤から一本のケーブルを引き抜いた。


 予備回線。


 学校のプール監視設備へつながる非常用通話回線。


 冬子は十三人の子どもをプールへ移動させる。


 子どもたちの声を、一時的に水中へ隠すつもりだった。


 水は音を歪める。


 呼名女が名前を聞き取れなければ、子どもたちは席へ座らされずに済む。


 透真は記録の意味を理解した。


「プールへ沈めたのは、子どもではない」


『声』


 少女が答える。


『名前と声を、水の中へ隠した』


 しかし、十三人のうち一人だけ、声を二つ持つ少女がいた。


 御影冬子の娘。


 水へ隠された声。


 プールサイドに残った声。


 同じ名前。


 同じ記憶。


 二つに分かれた存在。


「どちらかが偽物ではない」


 透真は二人の少女を思い出す。


「一人の人間が、二つに分けられた」


 少女が初めて頷いた。


『私は、水から上がった声』


 放送室の窓。


 外側の水に、もう一人の少女が浮かんでいる。


 白い水着。


『あの子は、水に残った名前』


「だから、どちらにも完全な名前がない」


『二人で一人』


「本当の十三人目は、あなたたち二人ですか」


 少女は首を横に振った。


『私たちは、十三人目を隠すために分けられた』


「本当の十三人目は別にいる?」


『うん』


「誰ですか」


 少女が透真を見た。


『あなた』


 透真の息が止まった。


「僕は写真に写っていました。でも、少女の隣です」


『写真では、十三人の子どもが並んでいた』


「はい」


『十二人と、二つに分かれた私』


「それなら十三人です」


『違う』


 水に残った少女の声が、窓の外から響く。


『私は数に入っていない』


 透真は写真を思い出す。


 十三人の子ども。


 その中に幼い自分。


 顔を消された少女。


 しかし、二人に分かれた御影冬子の娘が一人として数えられていたなら。


 本来の人数は十四人。


 呼名女は、最初から一人を数から消していた。


「消された一人が、僕?」


『十三年前に死んだ子』


『お母さんが連れ戻した子』


『死者の席から、名前を抜かれた子』


 透真の胸が痛む。


 自分は十三人目だった。


 だが、小夜子が透真を生者へ戻したため、席の数が合わなくなった。


 冬子の娘を二つに分け、一人分の名前と声を身代わりとして使った。


 冬子自身も声を差し出した。


 それでも、完全な代替にはならなかった。


「だから、呼名女はずっと僕を呼んでいる」


『空いた席を埋めるため』


「でも、母さんは、十三人目を捜せと言いました」


『あなたに、自分が十三人目だと思い出させるため』


「どうして直接言わなかったんですか」


『言えば、呼名女にも届くから』


 透真は放送室の小夜子を見る。


 十三年前の母。


 非常停止レバーを下ろした直後。


 無音の中で、幼い透真を探している。


 透真は放送卓の下にいた。


 煙を吸い、すでに意識を失っている。


 小夜子が息子を抱き上げる。


 胸へ耳を当てる。


 心臓は止まっている。


 赤い傘の女が近づく。


 ここから先は、透真が第9話で見た記憶と同じだ。


 声を返してほしい。


 命を差し出す。


 子どもに選ばせる。


 母を残し、自分が戻る。


 だが、今回は記憶の続きを見ることができた。


 小夜子が倒れたあと。


 冬子が透真を抱え、放送室の外へ走る。


 赤い傘の女は追わない。


 小夜子の胸から伸びた黒い糸を、満足そうに巻き取っている。


 冬子は透真をプールへ運んだ。


 十三人の子どもが並ぶ場所。


 冬子の娘が二人いる。


 一人はプールサイド。


 一人は水中。


 冬子が叫ぶ。


『この子の名前を隠して!』


 プールサイドの娘が透真の手を握る。


 水中の娘が、透真の名前を飲み込む。


 音無透真という名前が、水の底へ沈む。


 冬子は代わりに、自分の娘の名前を透真へ与えようとする。


 小夜子の声が、遠くのスピーカーから流れる。


『駄目!』


 死にかけた母が、最後の力で放送している。


『別の子の名前を使わないで!』


 冬子が泣きながら叫ぶ。


『このままでは透真くんが連れていかれる!』


『誰かを代わりにしないで!』


『ならどうするの!』


 小夜子の声が途切れる。


 長い雑音。


 そして。


『名前を半分だけ返して』


 小夜子は言った。


『生者として呼ばれる名前と、死者として呼ばれる名前を分けるの』


 冬子の娘が二つに分かれた理由。


 一人は、透真の死者としての名前を持つ。


 一人は、自分自身の生者としての名前を持つ。


 だが、どちらの名前も完全ではない。


 冬子が娘へ尋ねる。


『怖い?』


 二人の少女が同時に答える。


『怖い』


『でも、透真くんを助ける』


「僕のために……」


 透真の声が震えた。


 自分は小夜子だけでなく、御影冬子と、その娘の犠牲によって生きている。


 少女は透真を見つめる。


『だから、お母さんは電話を受け続けている』


「あなたたちを元に戻すため?」


『私たちと、あなたの名前を分けたままにするため』


「元へ戻せば、どうなるんですか」


『あなたが死者になる』


 水中の少女が窓ガラスへ手をつく。


『私たちは一人に戻る』


 プールサイドの少女も、反対側から同じ場所へ手を当てる。


『お母さんは声を取り戻す』


 三人の状態は、一つの結び目になっている。


 透真。


 二つに分かれた少女。


 声を失った冬子。


 誰か一人だけを救うことはできない。


 また怪異が選択を迫っている。


「選びません」


 少女が首を傾ける。


『まだ何も聞いてない』


「僕が死ねば、あなたたちが戻ると言うつもりでしょう」


『そう』


「でも選びません」


『お母さんを助けたくない?』


「助けたいです」


『私たちを一人に戻したくない?』


「戻したいです」


『なら、あなたが死ねばいい』


「その方法は選びません」


 透真は小夜子の前へ歩いた。


 十三年前の映像に触れようと手を伸ばす。


 指は母の体をすり抜けた。


「母さんも、そう言うはずです」


 放送室の小夜子が突然、透真の方を向いた。


 過去の映像のはずだった。


 透真を見られるはずがない。


 それでも、母の目は現在の息子を捉えている。


『透真』


 声が聞こえた。


 呼名女のものではない。


 小夜子自身の声。


「母さん?」


『そこまで聞いたのね』


「聞きました」


『ごめんなさい』


「どうして謝るの」


『あなたを生かすために、冬子さんとあの子を巻き込んだ』


「母さんだけが決めたことではありません」


『でも、始めたのは私』


「僕を助けたかったんでしょう」


『それでも、誰かの人生を分けていい理由にはならない』


 小夜子は冬子の娘を見る。


『十三年間、あの子は自分の名前を呼ばれていない』


 プールサイドの少女の顔が揺らぐ。


 水中の少女も目を閉じる。


「名前を覚えていますか」


 透真が母へ尋ねる。


 小夜子は答えようとする。


 しかし、放送室のスピーカーが激しく鳴った。


 ざあああああ!


『お伝えしてはいけません』


 呼名女。


 赤い傘が、小夜子と透真の間に現れる。


『名前が戻れば、数が変わります』


「変わればいいでしょう」


『十三人目が確定します』


「僕が十三人目だと分かっています」


『いいえ』


 赤い傘が開く。


『十三人目は、名前を呼ばれた者ではありません』


 放送室の床が揺れる。


『最後に、誰かの名前を呼んだ者です』


「どういう意味ですか」


『死の直前』


『音無透真は、母親の名前を呼んだ』


 幼い透真の声が流れる。


『お母さん!』


『音無小夜子は、息子の名前を呼んだ』


 小夜子。


『透真!』


『御影冬子は、娘の名前を呼んだ』


 冬子の口が動く。


 しかし、その部分だけ音が消えている。


『そして娘は』


 二人の少女が同時に透真を見る。


『誰の名前も呼ばなかった』


 呼名女が笑う。


『だから、名前を失いました』


「名前を呼ばなかったから?」


『最後の席は、呼ぶ者の席』


『呼ばれた人を死者へ引き入れるための席』


『十三人目は、最初に他人を呼んだ人間』


 透真は理解しかけて、首を横に振った。


「人数ではない」


『そうです』


「十三人目とは、役割」


『死者の側から、生者の名前を呼ぶ者』


 赤い傘の女が、自分の胸へ手を当てる。


『呼名女になる者です』


 透真の背筋が凍った。


「御影冬子の娘が、次の呼名女?」


『名前を持たない者だけが、すべての名前を呼べる』


 二人の少女の体から、黒い糸が伸び始める。


 互いの首。


 透真の喉。


 放送卓のマイク。


 すべてがつながる。


『二人が一人に戻れば、新しい呼名女が完成します』


「だから、御影さんは二人を戻せない」


『そして音無透真が死ねば』


 黒い糸が透真の胸へ入る。


『この方は最初にあなたの名前を呼びます』


 二人の少女が同時に口を開く。


『透真』


 透真の声が出なくなった。


 喉が塞がれる。


 呼名女が近づく。


『次の呼名女を選んでください』


 小夜子の声。


 冬子の娘の声。


 澪の声。


 無数の女性の声が重なる。


『この少女か』


『音無小夜子か』


『早坂澪か』


「……」


 声が出ない。


 選ばないと言えない。


 透真は黒い糸を掴んだ。


 外れない。


 呼名女が楽しそうに傘を傾ける。


『声がなければ、拒否もできません』


 その瞬間。


 天井の水が大きく揺れた。


 遠くから、鈍い音。


 どん。


 もう一度。


 どん。


 水面を叩いている。


 澪だ。


 プールの上から、透真を呼んでいる。


『音無くん!』


 水を通して、かすかな声が届く。


『聞こえるなら返事して!』


 透真には声がない。


 それでも、床を叩いた。


 とん。


 一回。


 澪の声。


『そこにいる?』


 とん。


 一回。


『生きてる?』


 とん。


 一回。


『戻ってくる?』


 透真は一瞬迷った。


 戻れるかは分からない。


 それでも。


 とん。


 一回。


 呼名女の顔から笑みが消える。


『言葉ではありません』


 透真はもう一度床を叩いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 母と使った合図。


 ここにいる。


 小夜子が同じリズムで返す。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 プールの上から澪も真似をする。


 どん。


 どん。


 どん、どん。


 三人の音が重なる。


 呼名女が耳を塞ぐ。


『やめなさい』


 透真は少女たちを見る。


 二人は驚いた顔をしている。


 十三年間、名前を呼ばれなかった。


 だが、名前がなくても、ここにいると伝えることはできる。


 透真は二人へ向かって床を叩いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 少女たちも、恐る恐る返す。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 放送室全体が震えた。


『名前がなくても』


 プールサイドの少女が言う。


『返事はできる』


 水中の少女が続ける。


『呼ばれなくても』


 二人の声が重なる。


『ここにいるって言える』


 黒い糸が切れた。


 透真の声が戻る。


「あなたたちは、呼名女になりません」


『どうして言い切れるの?』


「名前を呼んで人を連れてくる必要がないからです」


『でも、私たちの名前はない』


「一緒に探します」


『見つからなかったら?』


「新しい名前を決めてもいい」


 二人の少女が目を見開く。


「あなたたち自身が、選べばいい」


『二人なのに?』


「一人へ戻るか」


 透真は言った。


「二人のまま生きるかも」


 少女たちの体をつなぐ黒い糸に、亀裂が入る。


「誰かに選ばせるのではなく、自分たちで決めてください」


 呼名女が絶叫した。


『選択を与えてはいけません!』


 放送卓が爆発する。


 火花。


 煙。


 十三年前の場面が崩れ始める。


 廊下の住民。


 水没した校舎。


 小夜子。


 すべてが水へ溶けていく。


「母さん!」


 透真が手を伸ばす。


 小夜子が息子へ微笑んだ。


『次は、祭囃子を追って』


「待って!」


『冬子さんは、そこにいる』


「母さんは?」


 小夜子の姿が薄くなる。


『私は、あなたの声が届くところにいる』


「それはどこ?」


『まだ教えられない』


「どうして!」


『あなたが来れば、私は喜んでしまうから』


 小夜子の目から涙が落ちた。


『でも、来てほしくないから』


 その言葉を最後に、母は水へ崩れた。


     ◇


 透真の体が浮き上がった。


 水没した校舎が遠ざかる。


 二人の少女が左右から透真の腕を掴み、水面へ運んでいる。


 頭上に光。


 澪の手。


 篠崎の影。


 透真は水面を破った。


「音無くん!」


 澪と篠崎が透真を引き上げる。


 プールサイドへ倒れ込み、激しく咳き込む。


 時計を見る。


 水中へ引き込まれてから、現実では一分も経っていない。


 救急隊員が坂田と磯部の処置をしている。


 生徒たちは校舎へ移動させられ始めていた。


 宮田は放心したようにプールを見ている。


 誰も、透真が深い水底の校舎へ行ったとは気づいていない。


「何があったの?」


 澪が尋ねる。


 透真は息を整える。


「本当の十三人目が分かりました」


「誰?」


「僕です」


 篠崎の表情が強張る。


「やはりそうか」


「ただし、十三人目は死亡者の番号ではありません」


 透真はプールを見る。


 二人の少女が水面に立っている。


 今は透真にしか見えない。


「次の呼名女になる人を示していました」


「次の?」


「名前を失った人が、すべての名前を呼ぶ役目を引き継ぐ」


「御影冬子の娘が?」


「そうされる予定でした」


「予定?」


「本人たちが拒みました」


 澪は少し笑う。


「音無くんが説得したんだ」


「僕だけではありません」


 透真は濡れた床を叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「澪さんの音が届きました」


「ただ必死に叩いただけだけど」


「言葉になっていました」


「何て?」


「ここにいる。戻ってきて」


 澪の頬が少し赤くなる。


「そこまで言ってない」


「想いとしては、そう聞こえました」


「都合よく訳してない?」


「死者の声の翻訳には、ある程度の解釈が必要です」


「生きてるけど」


 透真は初めて少し笑った。


 そのとき。


 プールの中央で笛が鳴った。


 ぴいっ。


 二人の少女が同時に祭りの方向を指差す。


 町の中心部。


 今週末、夏祭りが行われる神社。


『御影冬子は、祭囃子の中にいる』


「祭囃子?」


『笛と太鼓に声を隠してる』


『呼名女に聞かれないように』


 二人の姿が薄くなる。


「待ってください。あなたたちの名前は?」


 少女たちは顔を見合わせた。


『まだ思い出せない』


『だから、今は二人で決める』


「何と呼べばいいですか」


 プールサイドにいた少女が答える。


『私は、アサ』


 水の中にいた少女が続ける。


『私は、ヨル』


「本当の名前ではありませんね」


『今の私たちが選んだ名前』


 アサとヨル。


 二つに分かれた少女が、自分たちで初めて選んだ名前。


「分かりました」


 透真は頷く。


「また会えますか」


『笛を三回鳴らして』


 ヨルが言う。


『でも、水のそばでは駄目』


 アサが笑う。


『また誰か増えるから』


 二人は水へ溶けるように消えた。


 プールの水深が、ゆっくり元へ戻っていく。


 底にあった水没校舎も見えなくなった。


     ◇


 その日の夕方。


 水泳授業は全学年で中止となった。


 坂田と磯部は病院へ運ばれたが、命に別状はなかった。


 二人とも、沈んでいた間の記憶はない。


 ただ、坂田は意識を取り戻した直後、知らない子どもの名前を十二人分、順番に口にした。


 その名前は、十三年前の災害で行方不明になった子どもたちと一致した。


 学校は警察へ連絡し、プールの全面調査を決めた。


 透真と澪は、放課後の教室に残っていた。


 篠崎は警察へ水上美月の件を話すため、先に学校を出た。


「先生、本当に全部話すのかな」


 澪が窓の外を見る。


「話すと言っていました」


「逮捕される?」


「分かりません」


「水上先輩が戻るわけじゃない」


「はい」


「それでも、話す意味はある?」


 透真は少し考えた。


「美月さんが望んだからです」


「生きて、自分のしたことを話してって」


「はい」


「罰を受けるため?」


「それだけではないと思います」


「じゃあ、何のため?」


「隠した音を、現実へ戻すためです」


 事件の記録。


 殴った音。


 美月が逃げた足音。


 事故へつながった真実。


 死者の言葉を届けるだけでなく、生者の世界に記録として残す。


 そうしなければ、時間が経てば再び忘れられる。


「私たちも記録したほうがいいね」


 澪は携帯電話を取り出した。


「何を?」


「これまで起きたこと」


「信じてもらえません」


「信じてもらうためじゃなくて、忘れないため」


 透真は澪を見る。


「怖くありませんか」


「怖いよ」


「関わり続けることが」


「音無くんほどじゃないけど」


 澪は少し笑った。


「でも、一人で覚えているより、二人のほうがいいでしょう」


 透真は頷いた。


「ありがとうございます」


「じゃあ、まず名前から」


「名前?」


「作品名みたいに、記録へタイトルをつける」


「必要ですか」


「必要。見返しやすいから」


「どんな名前ですか」


 澪は少し考えた。


「死者の声を届ける記録」


「そのままですね」


「じゃあ、音無くんが決めて」


「僕は題名をつけるのが苦手です」


 そのとき、校庭のスピーカーから太鼓の音が聞こえた。


 どん。


 どどん。


 夏祭りの練習。


 神社の氏子たちが、祭囃子の稽古を始めたのだろう。


 笛。


 太鼓。


 鉦。


 明るい祭りの音。


 だが、透真にはその奥に別の会話が聞こえた。


『冬子さん』


『まだ隠れてる?』


『見つかったら、次はあなたの声が呼ばれるよ』


 幽霊同士の声。


 さらに。


 御影冬子の擦れた声。


『来てはいけない』


 太鼓が鳴る。


 どん。


『でも』


 笛。


 ぴい。


『助けて』


 鉦。


 ちん。


 三つの音が、一つの言葉を作る。


『祭りの列についてきて』


 澪も何かを感じたらしく、窓へ近づく。


「今の音、変じゃなかった?」


「聞こえましたか」


「言葉までは分からない。でも、呼ばれた気がした」


 校庭の向こう。


 学校の門の前に、浴衣を着た人々が並んでいた。


 男。


 女。


 子ども。


 全員、顔へ白い布を掛けている。


 足元に影はない。


 死者だけの祭りの行列。


 先頭には、赤い傘を持つ女。


 その後ろ。


 声を失った御影冬子が、太鼓を背負って歩いていた。


 冬子が透真を見上げる。


 口は動かない。


 太鼓を一度叩く。


 どん。


 短く二度。


 どどん。


 母と同じ合図。


 ここにいる。


 赤い傘の女が振り返る。


 冬子はすぐに顔を伏せた。


 行列が歩き始める。


 神社のある町の中心部ではない。


 山の奥。


 旧町内放送局の方角へ。


「追いかけます」


 透真が鞄を持つ。


 澪も立ち上がった。


「私も行く」


「危険です」


「今さらだね」


 廊下へ出たとき、校内放送が流れた。


『生徒の皆さんへお知らせします』


 普通の女性教師の声。


『本日の下校時刻を過ぎています』


 続いて、呼名女の声が重なる。


『祭囃子が聞こえても、列には加わらないでください』


 透真と澪は立ち止まった。


 呼名女が警告している。


 初めてだった。


 これまで人を誘導していた呼名女が、行くなと伝えている。


「どうしますか」


 澪が尋ねる。


 透真は窓の外を見る。


 死者の行列は、少しずつ遠ざかっている。


 御影冬子。


 十三年間、声を失い、電話を受け続けてきた人。


 助けを求めている。


「行きます」


「呼名女が止めてるのに?」


「だからです」


 呼名女にとって都合の悪い何かが、祭囃子の先にある。


「でも、一つだけ気をつけてください」


「何?」


「祭囃子が止まっても、歩くのをやめないでください」


「どうして?」


 透真の耳には、行列の幽霊たちの会話が聞こえている。


『音が止まった人から』


『自分が死んだ日の祭りへ戻る』


「列の中で音が聞こえなくなったら、その人は死者の時間へ連れていかれます」


 遠くで太鼓が鳴った。


 どん。


 どどん。


 笛。


 鉦。


 そして、死者たちの笑い声。


『おいで』


『生きている人も』


『一緒に踊ろう』


 透真と澪は、夕暮れの校舎を走り出した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


十三人目は単なる死亡者の番号ではなく、次に生者の名前を呼ぶ「呼名女」の役割を示していました。


御影冬子の娘は一人の存在を二つへ分けられ、透真の名前と命を隠すために利用されていました。


アサとヨルは、誰かに本物と偽物を決められることを拒み、二人のまま生きる道を選び始めます。


そして、小夜子が放送を止めた本当の理由も明らかになりました。


正しい避難放送を止めるためではなく、呼名女が小夜子の声を使い、住民を危険な学校へ集めようとしたからです。


第16話「祭囃子についていくな」では、透真と澪が死者だけの祭りの列を追います。


祭囃子が聞こえている間だけ、生者は現在へ戻れます。


音が止まった瞬間、二人はそれぞれが最も後悔している夏の日へ連れ戻されます。

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