第14話 プールの笛
水泳の授業では、プールへ入る前と出たあとに、必ず人数を確認します。
事故を防ぐためです。
けれど、入った人数より、上がってきた人数が一人多かった場合。
その一人を、誰として数えればいいのでしょうか。
蛇口から噴き出していた水は、午前二時十四分になると一斉に止まった。
台所。
洗面所。
風呂場。
二階の手洗い場。
音無家の床という床が水浸しになっていた。
それでも、濡れているのは床だけだった。
水を直接浴びたはずの透真たちの服には、一滴の染みもない。
「怪異の水か」
篠崎が屈み、床へ指先を近づける。
「触らないほうがいいです」
透真が止めるより早く、水面から白い指が伸びた。
篠崎の手首を掴もうとする。
「っ!」
篠崎はすぐに腕を引いた。
指は水へ沈み、跡形もなく消える。
「触らなくて正解だったな」
「触りましたよね」
「掴まれてはいない」
「そういう問題ではありません」
澪は時間割を見つめたまま、唇を噛んでいた。
「二時間目の水泳、休めないかな」
「休むべきです」
透真は即答した。
「学校にも行かないほうがいい」
「私だけ休んでも、ほかの人が授業を受ける」
「それは……」
「電話の子は、私たちのクラスを指定したわけじゃない。二年生合同って言った」
澪の言うとおりだった。
二年生四クラス。
水泳授業は男女を分け、二クラスずつ合同で行われる。
明日の二時間目は、透真と澪のいる二年二組と二年三組の女子。
三時間目に男子。
怪異が狙っているのは、澪一人とは限らない。
「授業を中止させます」
篠崎が言った。
「学校へ連絡する」
「こんな時間に?」
「校長と教頭の緊急連絡先は知っている」
篠崎は携帯電話を取り出した。
数回の呼び出しのあと、教頭へつながる。
「篠崎です。明日の水泳授業を中止してください」
電話の向こうから、眠そうな声が返ってくる。
篠崎は旧排水路での出来事には触れず、プール設備に重大な異常がある可能性を伝えた。
しかし。
「確認は朝で構いません。とにかく使用を止めてください」
篠崎の表情が次第に険しくなる。
「安全確認が済むまで、授業を行うべきではありません」
しばらくして、通話が切れた。
「どうでしたか」
透真が尋ねる。
「朝、設備担当に確認させるそうだ」
「中止には?」
「異常が見つかれば」
「見つからなかったら?」
「予定どおり行う」
澪が肩を落とす。
「幽霊がいるから中止にしてください、とは言えないもんね」
「言っても信じません」
透真は水浸しの床を見る。
水面には、学校のプールが映っていた。
夜のプール。
水面に浮かぶ十三人の子ども。
皆、同じ方向を見ている。
プールサイドに立つ一人の女。
御影冬子。
首から笛を下げている。
彼女が笛を吹く。
ぴいっ。
水面の映像が乱れた。
十三人のうち、一人が沈む。
「今、見えましたか」
透真が尋ねる。
澪と篠崎は首を横に振った。
「何が?」
「十三年前のプールです」
透真は水面へ顔を近づけた。
もう何も映っていない。
ただ、天井の照明が揺れているだけだった。
「御影冬子さんが、笛を持っていました」
「プールの監視員だったのか」
篠崎が考え込む。
「旧放送局の主任技師ですよね」
「災害時、学校は避難所になる。職員が設備点検へ来ていても不自然ではない」
「でも、子どもが十三人も夜のプールに?」
澪の問いに、誰も答えられなかった。
透真の父・誠一は、黙って水を雑巾で拭き始めた。
「父さん」
「何だ」
「十三年前、学校のプールに行きましたか」
誠一の手が止まる。
「行っていない」
「本当に?」
「あの日は放送局にいた」
「母さんと?」
「ああ」
「顔を消された少女を見たのも放送局?」
「そうだ」
誠一は水を絞る。
「その子は、冬子さんに連れられてきた」
「娘ですか」
「冬子さんは、娘だと言っていた」
「名前は?」
「思い出せない」
誠一の顔が苦しそうに歪む。
「呼ぼうとすると、頭の中で笛が鳴る」
その言葉を聞いた瞬間。
透真の耳にも笛が聞こえた。
ぴいっ。
一回。
庭からではない。
家の中。
床下。
濡れた床のさらに下から。
『名前を呼んではいけません』
少女の声。
『数が合わなくなるから』
◇
翌朝。
学校のプールには、異常が見つからなかった。
設備担当者が濾過装置、排水口、水質、給水設備を確認した。
水温二十七度。
塩素濃度正常。
排水口の蓋にも破損はない。
ただし、一点だけ奇妙な報告があった。
「水深が十センチ深くなっていた?」
職員室で、篠崎が体育教師へ聞き返す。
「ああ。でも昨夜の雨で水位が増えただけだろう」
体育教師の宮田は、問題ないという口調だった。
「雨は降っていません」
「この辺りでは降ってなくても、山のほうでは降ったかもしれない」
「プールは川とつながっていません」
「水道設備の逆流かもしれない。設備の人間は危険なしと言っていた」
「水を抜くべきです」
「今日の授業を全部潰せって?」
「安全のためです」
「篠崎先生」
宮田はため息をつく。
「昨日から少しおかしいぞ。水上美月の件を警察へ話すとか、夜中に教頭へ電話するとか」
篠崎の表情が固くなる。
「美月の件は、俺が責任を取る」
「なら、授業の邪魔をしないでくれ。水泳は日数が限られている」
「事故が起きてからでは遅い」
「事故は起きない」
その瞬間。
職員室の天井にあるスピーカーから、笛の音が流れた。
ぴいっ。
透真には聞こえた。
篠崎にも聞こえたらしく、顔を上げる。
しかし、ほかの教師は誰も反応しない。
「今、笛が」
「何も聞こえなかったぞ」
宮田は怪訝そうに眉を寄せた。
スピーカーの奥から少女が囁く。
『一回目』
「授業を中止してください」
篠崎がもう一度言う。
今度は教師としての依頼ではなく、懇願に近かった。
「頼む」
宮田は少し怯んだ。
だが、最終的には首を横に振った。
「設備に異常はない。予定どおり行う」
◇
二時間目。
二年二組と二年三組の女子生徒が、プールサイドへ集まった。
透真たち男子は本来、教室で別の授業を受ける予定だった。
しかし篠崎は、透真を資料運搬の手伝いという名目でプール近くへ残した。
プールが見える体育倉庫の窓。
そこから、澪たちの様子を監視する。
「絶対に水へ入らないでくださいと言ったのに」
透真は窓から澪を見ていた。
澪は水着の上にタオルを羽織り、列の端に立っている。
「本人が残ると言ったんだ」
篠崎が答える。
「ほかの生徒が危険だからと」
「分かっています」
分かっているからこそ、止められなかった。
澪は自分だけが安全な場所へ逃げることを選ばなかった。
その点では、透真とよく似ている。
「似た者同士だな」
篠崎が言う。
「何がですか」
「自分より先に他人を心配する」
「僕は澪さんほど勇気がありません」
「怖がりながら行くほうが、勇気は必要だ」
透真は返事をしなかった。
プールサイドでは、宮田が出席簿を確認している。
「二年二組、十六名」
「はい」
「二年三組、十七名」
「はい」
合計三十三名。
見学者は二名。
水へ入るのは三十一名。
透真は声に出して確認した。
「三十一人です」
「ああ」
篠崎も数えている。
準備運動。
シャワー。
足からゆっくり水へ入る。
水泳授業としては、何もおかしくない。
だが、水へ入った生徒たちは一様に肩を震わせた。
「冷たっ」
「水温、本当に二十七度?」
「昨日より冷たくない?」
宮田が笛を吹いた。
ぴいっ。
「静かに。最初は水中歩行から」
笛の音。
一回。
昨夜、少女が警告した音と同じだった。
透真の背筋に冷たいものが走る。
「今のは先生の笛です」
「ああ」
「怪異の笛とは違う?」
「分からない」
宮田が実際に吹いた笛。
だが、音の余韻に誰かの声が混ざっている。
『一回目』
生徒たちはプールの端から端まで、二列になって歩き始めた。
水は胸の高さ。
本来なら一・二メートルほどの水深。
しかし、背の低い生徒は顎まで水に浸かっている。
「深すぎます」
透真は窓へ近づく。
「水位がまた上がっている」
プールサイドの目盛り。
一・三メートル。
今朝よりさらに十センチ深い。
それでも宮田は気づかない。
生徒たちも、少し深いと感じる程度で授業を続けている。
「早坂!」
篠崎が倉庫の窓から叫んだ。
澪が振り向く。
その足元。
水中に、白い顔が浮かんでいる。
澪と同じ方向へ歩きながら、水面から目だけを出している少女。
顔を塗り潰された写真の子どもだ。
生徒の脚の間を縫うように進んでいる。
「澪さんの近くにいます」
「見えるのか」
「はい」
少女は水の中で指を折っていた。
一。
二。
三。
生徒の人数を数えている。
透真は窓を開けた。
「澪さん! 水から出てください!」
宮田がこちらを睨む。
「音無! 授業中だぞ!」
「水の中に誰かいます!」
「生徒がいるに決まってるだろう!」
「違います!」
少女が透真を見上げた。
水中にいるはずなのに、声がはっきり聞こえる。
『まだ二十九人』
「三十一人入ったはずです」
『二人、沈んだ』
透真はプールを見回す。
水面にいる生徒を数える。
一。
二。
三。
二十九。
「二人足りない!」
透真の叫びに、篠崎が倉庫を飛び出した。
「宮田! 人数を確認しろ!」
宮田は不満そうにしながらも、笛を吹いた。
ぴいっ。
二回目。
「全員、その場で止まれ!」
生徒たちが立ち止まる。
水面が静かになる。
宮田が一人ずつ指を差して数える。
「一、二、三……」
澪も数えていた。
顔色が変わる。
「二十九人しかいない!」
プールサイドにいた見学生徒が悲鳴を上げた。
「誰がいないの?」
名前を確認する。
二年二組の女子生徒、坂田。
二年三組の女子生徒、磯部。
見当たらない。
「潜ってるんじゃない?」
「ふざけるな! 全員水から上がれ!」
宮田が叫んだ。
透真の耳に、昨夜の少女の言葉が蘇る。
『笛が三回鳴ったら』
『水から上がっちゃ駄目だよ』
「笛を吹かないでください!」
透真がプールサイドへ走る。
「次の笛は駄目です!」
「何を言ってる!」
「三回目が鳴ったら、水から上がってはいけません!」
「二人沈んでいるんだぞ!」
宮田は笛を口へ運んだ。
篠崎が腕を掴む。
「吹くな!」
「離せ!」
「手で指示を出せ!」
「混乱している生徒に聞こえるか!」
宮田が篠崎を振り払った。
笛を吹く。
ぴいいいいっ。
三回目。
その瞬間。
プールの水面が鏡のように固まった。
生徒たちの動きも止まる。
水滴が空中に浮かんだまま、落ちない。
風。
鳥の声。
校舎から聞こえる授業の音。
すべて消えた。
透真と澪と篠崎だけが動ける。
宮田は笛を口に当てた姿勢で固まっていた。
「時間が止まった?」
澪が水の中から尋ねる。
「怪異の中へ入っています」
透真はプールを見た。
水中。
静止した生徒たちの脚の間に、何十人もの子どもが立っている。
古い水着。
昔の学校指定帽。
全員、目を開けたまま水の底にいる。
少女が数える。
『一人』
水中の子どもが一人、生徒の背中へ重なる。
『二人』
別の子どもが、生徒の体へ入る。
『三人』
次々と。
死者が生者へ重なっていく。
「何をしているんですか!」
『水から上がる準備』
「上がってはいけないと言ったのは、あなたでしょう!」
『生きている人は、上がっちゃ駄目』
少女は笑う。
『死んでいる人が、上がるから』
静止していた生徒たちが、一斉に動き始めた。
全員、無言。
目を閉じたまま、プールサイドへ向かう。
水中の子どもの霊を体へ入れた状態で。
「止まって!」
澪が声を上げる。
誰も反応しない。
生徒たちは梯子や縁へ手をかける。
一人。
二人。
三人。
水から上がっていく。
「上がらせてはいけません!」
透真と篠崎が、生徒たちを押し戻そうとする。
だが、触れた体は氷のように冷たい。
力も異常に強い。
「目を覚ましてください!」
透真が肩を揺さぶる。
少女の口から、知らない子どもの声が漏れる。
『やっと上がれる』
「あなたの体ではありません!」
『十三年間、水の中にいた』
「それでも駄目です!」
『寒い』
『苦しい』
『外へ出たい』
死者の願いは本物だった。
だからこそ、透真は強く拒めない。
水底へ閉じ込められた子どもたちは、ただ外へ出たいだけなのだ。
「でも、生きている人の体を奪ってはいけません!」
透真は声を張る。
『ほかに方法がない』
「あります!」
『十三年間、誰も助けてくれなかった』
「今、僕が聞きます!」
子どもの入った生徒が、透真を見る。
瞳の奥に、別の顔が浮かんでいる。
『聞くだけ?』
「外へ出る方法を探します!」
『いつ?』
「必ず!」
『いつまで待てばいい?』
透真は答えられない。
十三年間。
それだけ待った者へ、もう少し待ってくれとは簡単に言えなかった。
その間にも、生徒たちは水から上がっていく。
プールサイドに並ぶ人数を、顔を塗り潰された少女が数えている。
『二十七人』
『二十八人』
『二十九人』
水中に残ったのは澪だけだった。
澪には死者が重なっていない。
呼名女に選ばれたことで、すでに死者側へ半分近づいているからかもしれない。
「音無くん!」
「水から上がらないでください!」
「分かってる!」
澪の足元。
深い青色の底から、二本の手が伸びている。
行方不明になった坂田と磯部。
二人はプールの底に沈み、黒い髪を水中へ広げていた。
澪が潜ろうとする。
「待ってください!」
「二人を助けないと!」
「一人で行くのは危険です!」
「じゃあ来て!」
澪は息を吸い、水中へ潜った。
「澪さん!」
透真は迷わずプールへ飛び込んだ。
水へ入った瞬間、全身を冷気が貫いた。
深い。
水深一・三メートルではない。
足を下へ伸ばしても、底へ届かない。
目を開ける。
プールの底が、遥か下に見える。
十メートル。
二十メートル。
まるで深い海。
沈んだ二人の生徒は、さらに下へ引かれている。
澪が一人の腕を掴む。
透真ももう一人へ泳ぐ。
肺が苦しい。
耳の奥で笛が鳴る。
ぴいっ。
水中なのに、鮮明な音。
『三十人』
少女が数える。
誰を数えたのか。
透真。
それとも澪。
透真は磯部の手首を掴んだ。
冷たい。
脈は分からない。
上へ向かおうとする。
しかし、磯部の足に白い腕が絡みついている。
水底にいる子どもたちが、二人を離そうとしない。
『この体を使う』
『上へ行く』
『返さない』
透真は首を横に振る。
声は出せない。
それでも、子どもたちへ手を伸ばす。
話を聞く。
そう伝えたかった。
一人の少年が、透真の手へ触れた。
記憶が流れ込む。
◇
十三年前。
大雨。
夜の学校。
体育館には避難してきた住民が集まっている。
プールサイドに十三人の子どもが並んでいた。
御影冬子。
音無小夜子。
数人の大人たち。
子どもたちは濡れた服を着ている。
冬子が人数を数える。
「一、二、三……十二」
十二人。
その場にいるのは十二人だけ。
「十三人いたはず」
小夜子が周囲を見回す。
「冬子さんの娘は?」
「ここにいる」
冬子は隣の少女の肩を抱く。
顔を塗り潰された子。
「それなら十三人」
誰かが言う。
しかし、冬子は首を横に振る。
「この子を入れて十二人」
プールの水面から笛が鳴った。
ぴいっ。
全員が振り返る。
水の中央に、一人の少女が浮かんでいる。
白い水着。
顔は水へ伏せている。
「もう一人いる!」
大人がプールへ飛び込む。
少女を引き上げる。
だが、その顔を見た瞬間、全員が言葉を失う。
御影冬子の娘と同じ顔。
同じ髪。
同じ服。
二人の少女。
一人はプールサイド。
一人は水の中。
「どちらが本物?」
誰かが言った。
冬子は娘を抱きしめる。
「この子に決まっている!」
水から引き上げられた少女が目を開けた。
『お母さん』
同じ声。
冬子の腕の中にいる少女も言う。
『お母さん』
二人が同時に冬子を呼ぶ。
プールのスピーカーから、呼名女の声が流れた。
『十三人目を選んでください』
記憶が途切れた。
◇
透真は水中へ戻った。
二人の御影冬子の娘。
どちらかが偽物。
あるいは、両方が本物。
十三人目を選ばせるため、怪異が複製したのか。
子どもの幽霊が透真の腕を掴む。
『あの日、一人を選んだ』
別の子ども。
『選ばれなかった子が、水の底へ沈められた』
『僕たちは見ていた』
『だから消された』
プールに沈む子どもたちは、災害で亡くなったのではない。
十三人目の秘密を知ったために、声と記憶を水底へ閉じ込められた。
透真の肺が限界を迎える。
澪が坂田を抱え、上を指差す。
透真も頷いた。
しかし、子どもの手が磯部を離さない。
透真は自分の喉へ手を当てた。
水中で声を出せば、水を飲む。
それでも、言葉でしか届かない。
「あとで……」
泡とともに声が漏れる。
「必ず……聞く……」
水が口へ入る。
苦しい。
子どもたちが透真を見る。
「だから……今は……返して……」
白い手が少しずつ緩む。
最後に、顔のない少年が尋ねた。
『約束?』
透真は頷いた。
子どもたちは磯部の足を離した。
透真は残る力で水面を目指す。
遠い。
頭上の光が小さい。
澪が先に水面へ到達し、坂田をプールサイドへ押し上げる。
篠崎が受け取る。
透真も磯部を押し上げた。
次に自分が上がろうとする。
その足首を、誰かが掴んだ。
顔を塗り潰された少女。
御影冬子の娘。
水中で透真を見つめている。
『あなたは、どちらを選ぶ?』
少女の隣に、同じ顔の少女が現れた。
二人。
一人は白い水着。
一人は黄色い服。
『私?』
『それとも、私?』
透真は首を横に振った。
選ばない。
二人の少女が同時に笑う。
『選ばなければ』
『二人とも上がるよ』
透真の足を掴む手が離れた。
二人の少女が、水面へ向かって勢いよく泳ぎ始める。
透真も追う。
水面を破る。
「音無くん!」
澪が手を伸ばす。
透真はプールサイドへ引き上げられた。
激しく咳き込み、水を吐く。
時間が動き出した。
止まっていた水滴が落ちる。
鳥が鳴く。
校舎の授業音が戻る。
「何が起きた?」
宮田が混乱したように周囲を見る。
プールサイドには、生徒たちが整列していた。
目を閉じていた者たちも、今は普通に呼吸している。
坂田と磯部は横向きに寝かされ、咳き込みながら水を吐いた。
命はある。
「救急車を!」
篠崎が叫ぶ。
宮田が携帯電話を取り出す。
透真は生徒たちを数えた。
一。
二。
三。
三十一。
入水した人数と同じ。
「三十一人です」
澪も数える。
「うん。合ってる」
見学生徒二人を含めれば、三十三人。
宮田。
篠崎。
透真。
人数は合っている。
そのはずだった。
プールサイドの列の最後。
見覚えのない少女が立っている。
古い型の学校水着。
白い水泳帽。
顔は普通に見える。
十七歳ほど。
透真たちと同じ年齢。
髪も体も濡れている。
少女は、当然のように二年三組の列へ並んでいた。
「澪さん」
「何?」
「あの人を知っていますか」
透真が列の最後を指差す。
澪は少女を見る。
「誰?」
「知りませんよね」
「転校生?」
しかし、ほかの生徒たちは少女を不思議に思っていない。
「人数を確認するぞ!」
宮田が出席簿を持つ。
一人ずつ名前を呼ぶ。
「早坂澪」
「はい」
「坂田真由」
「はい」
「磯部夏海」
咳き込みながら手が上がる。
最後まで名前を呼び終えた。
全員いる。
それでも、少女が一人余っている。
「先生」
透真は宮田へ尋ねた。
「あの人の名前は?」
「誰だ」
「列の最後です」
宮田が見る。
「ああ」
当たり前のように答えようとする。
しかし、口が動かない。
「名前は……」
額に汗が浮かぶ。
「誰だったか」
隣の生徒も少女を見る。
「同じクラスだよね」
「うん」
「名前、何だっけ」
「毎日会ってるのに」
誰も少女の名前を言えない。
顔も。
存在も。
知っている。
だが、名前だけが抜け落ちている。
御影冬子の娘。
本当の十三人目。
透真が一歩近づく。
「あなたは、誰ですか」
少女は透真を見る。
その顔は、十三年前の写真で塗り潰されていた子どもが成長した姿に見えた。
「御影冬子さんの娘ですか」
少女は微笑む。
「その名前を、どこで聞いたの?」
「あなたのお母さんからです」
「お母さんは、まだ電話を受けてる?」
「はい」
「かわいそう」
少女は水泳帽を外した。
長い黒髪が濡れた肩へ落ちる。
「私の代わりなのに」
「代わり?」
「お母さんは十三人目じゃない」
「あなたが本当の十三人目?」
少女は答えない。
プールの笛を拾い上げた。
宮田が持っていた物とは別の、錆びた古い笛。
「私は、数えた人」
「水から上がった人数を間違えた人ですか」
「違う」
少女が首を横に振る。
「間違えたんじゃない」
笛を口へ当てる。
「一人、多く数えたの」
ぴいっ。
笛が鳴った。
プールの水面が大きく揺れる。
中央に、もう一人の少女が浮かんだ。
白い水着。
同じ顔。
水面の少女が目を開く。
「私は、水から上がったほう」
プールサイドの少女が言う。
水面の少女も同時に口を開いた。
『私は、水に残ったほう』
二人の声が重なる。
『どちらか一人が偽物です』
プールの底から、校内放送のチャイムが聞こえた。
きん。
こん。
かん。
こん。
排水口の蓋が、内側から持ち上がる。
そこにはスピーカーが埋め込まれていた。
十三年前の避難放送が、水中から流れ始める。
『大雨特別警報が発表されました』
雑音。
『住民の皆様は、ただちに高台へ避難してください』
透真は息を呑む。
小夜子の声だ。
放送が途中で歪む。
『ただし』
別の女性の声が入り込む。
御影冬子。
『学校へ避難してはいけません』
篠崎の顔色が変わった。
「こんな放送は記録にない」
水面に浮かぶ少女が笑う。
『記録される前に、消されたから』
排水口の奥で、何か巨大なものが動いた。
プールの底がゆっくり開いていく。
青い水の下に、もう一つの校舎が見えた。
水没した十三年前の学校。
窓という窓に、子どもたちの顔が並んでいる。
『本当の放送を聞きたい?』
二人の少女が同時に透真を見る。
『なら、水の底まで来て』
プールサイドにいた少女が、透真の腕を掴んだ。
氷のように冷たい手。
「待ってください!」
澪が透真を掴む。
だが、少女の力は強い。
透真の体が水面へ引かれる。
篠崎も腕を伸ばす。
その直前。
プールの底から母の声がした。
『透真』
透真の動きが止まる。
『今度こそ、本当の避難放送を聞いて』
水面が黒く変わった。
二人の少女が同時に笑う。
『どちらのお母さんを信じる?』
透真は水の中へ引きずり込まれた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
笛が三回鳴ったあと、水から上がった人数は、入った人数より一人多くなりました。
現れたのは、名前を失った御影冬子の娘。
しかしプールの中には、同じ顔をしたもう一人の少女が残っています。
十三年前、水から上がった少女と、水の中へ残された少女。
どちらか一人が偽物とされていますが、それを決めたのは呼名女の「選択」です。
第15話「水の底の校内放送」では、透真が十三年前の水没した学校へ引き込まれます。
そこで流れていた避難放送は、町に残された記録とは正反対の内容でした。
そして透真は、小夜子が町内放送を途中で止めた本当の理由を知ることになります。




