第12話 母親に言えなかったこと
真実を伝えることが、必ずしも相手を救うとは限りません。
けれど、相手を傷つけないためについた嘘が、長い苦しみを残すこともあります。
言えなかった言葉の中には、謝罪でも恨みでもない、もっと小さくて切実な願いが隠れています。
『三谷悠人さんの最後の言葉を』
赤い傘の下で、呼名女が透真へ問いかけた。
『あなたは、本当に届けられますか?』
黒い糸が、悠人の口へ何重にも巻きついている。
少年は両手で糸を引き剥がそうとしていた。
だが、指が触れるたび、糸はさらに深く唇へ食い込んでいく。
『ん……っ!』
「悠人!」
母親が携帯電話へ叫んだ。
「聞こえる? 返事をして!」
通話は切れていない。
しかし、電話から聞こえるのは、少年の苦しむ声と水音だけだった。
呼名女の足元から、黒い水が広がる。
排水路の水位が、透真たちの足首を越えた。
冷たい。
触れた場所から感覚が奪われていく。
「その糸を外してください!」
透真が叫ぶ。
『できません』
「あなたが巻いたんでしょう!」
『この糸は、三谷悠人さん自身が作ったものです』
呼名女が細い指を悠人へ向ける。
『言いたくない』
『知られたくない』
『嫌われたくない』
『その想いが、声を縛っています』
悠人は首を横に振った。
母親には姿が見えていない。
それでも、息子がいるらしい場所へ水をかき分けて進もうとしていた。
「悠人、どこなの?」
「止まってください!」
澪が母親の肩を掴んだ。
「これ以上進むと危険です!」
「離して! 息子がいるの!」
「います。でも、今近づいたら、あなたまで引き込まれます!」
「三年も待ったのよ!」
母親は澪の手を振り払おうとする。
「毎日電話をかけた!」
涙と雨のような汗が頬を流れている。
「誰も出ない電話に!」
悠人の目が苦しそうに閉じられた。
「今日、やっと声が聞こえたの!」
『お母さん』
呼名女が悠人の声を使った。
母親の携帯電話から、少年と同じ声が流れる。
『こっちへ来て』
悠人が激しく首を振る。
『違う!』
だが、口を塞ぐ黒い糸のせいで、声にならない。
「悠人!」
母親が水の中へ踏み出した。
篠崎と誠一が両側から腕を掴む。
「離してください!」
「その声は息子さんじゃありません!」
篠崎が叫ぶ。
「どうして分かるの!」
「本人が来るなと言っている!」
「あなたに悠人の何が分かるのよ!」
篠崎は答えに詰まった。
呼名女が赤い傘を傾ける。
『生者は、聞きたい言葉だけを信じます』
母親の携帯電話から、優しい悠人の声が流れる。
『お母さんは悪くないよ』
女性の表情が止まった。
『全部、事故だった』
悠人の目から黒い涙が落ちる。
『お母さんの電話に出られなかっただけ』
「悠人……」
『だから、自分を責めないで』
母親の足から力が抜ける。
彼女が三年間、最も聞きたかった言葉。
息子の死は自分のせいではない。
最後の電話に出なかったことを、自分は恨んでいない。
その優しい嘘を、呼名女は正確に選んでいる。
『この言葉を届ければ、母親は救われます』
呼名女が透真を見る。
『真実を隠したまま』
「それは悠人さんの言葉ではありません」
『しかし、母親が望む言葉です』
「望んでいるからといって、偽物を届けるわけにはいきません」
『本物の言葉は、この方を壊します』
呼名女の白い手が母親を示す。
『三谷悠人は、自ら命を絶った』
水面が大きく揺れた。
『母親からの電話に出れば、決意が揺らぐと分かっていた』
母親の顔から血の気が引いていく。
「何を、言っているの……?」
呼名女の声は、透真たち全員に聞こえている。
『だから電話を無視した』
「やめてください!」
透真が遮る。
『母親の声を聞きたくなかった』
「違う!」
悠人が口の糸を引きちぎろうとする。
唇から黒い血が流れる。
『母親から逃げるために、死を選んだ』
「違う!」
今度は、かすかに声が出た。
黒い糸の隙間から漏れた、少年自身の声。
母親が息を呑む。
「悠人?」
『違う……』
悠人は水の中へ膝をついた。
『お母さんから、逃げたかったんじゃない』
呼名女の傘が揺れる。
黒い糸がさらに締まる。
『黙りなさい』
「本人が話そうとしています!」
透真は悠人へ駆け寄った。
黒い水をかき分け、少年の前へ立つ。
「何を言いたかったんですか」
悠人は透真を睨んだ。
『聞いたら、届けるの?』
「はい」
『全部?』
「それは約束できません」
『どうして』
「あなたが話した言葉を、そのまま伝えることが正しいとは限らないからです」
悠人の目が揺れる。
『都合よく変えるの?』
「変えません」
「でも、言葉の奥にある想いまで聞きます」
透真は黒い糸へ手を伸ばした。
触れた瞬間、冷たい痛みが指先から腕へ走る。
頭の中へ、悠人の記憶が流れ込んできた。
◇
小さな食卓。
向かい合って座る母と息子。
母親は仕事着のまま、携帯電話を操作している。
『学校はどうだった?』
「普通」
『友達とは?』
「普通」
『先生から電話があったけど』
「何て?」
『最近、保健室にいることが多いって』
「少し体調が悪いだけ」
『病院へ行く?』
「いい」
母は心配している。
悠人にも分かっている。
それでも、何を聞かれても「普通」「大丈夫」と答えた。
学校では、同級生から無視されていた。
机の中に濡れた雑巾を入れられた。
体育着を隠された。
携帯電話へ、死ね、消えろ、気持ち悪いという言葉が届いた。
けれど、母には言えなかった。
母は一人で悠人を育てている。
朝早く家を出て、夜遅く帰る。
疲れている。
自分のために働いている。
これ以上、困らせたくなかった。
『本当に大丈夫?』
「大丈夫」
母が手を伸ばす。
悠人は反射的に避けた。
母の顔が傷ついたように曇る。
「ごめん。眠いだけ」
『そう』
その夜。
悠人は部屋でイヤホンをつけた。
音楽を大きく流す。
母親の声が聞こえないように。
学校の通知音が聞こえないように。
自分の考えていることが聞こえないように。
次の日も。
その次の日も。
イヤホンの音量を上げ続けた。
やがて、音楽が止まると不安になるようになった。
無音の中では、自分を責める声が聞こえる。
弱い。
情けない。
母親に迷惑をかけている。
生きていても何も変わらない。
死ねば、母親は楽になる。
その夜。
大雨が降っていた。
悠人は旧排水路へ向かった。
携帯電話が何度も鳴った。
お母さん。
画面に表示された名前。
イヤホンから大きな音楽を流し、着信音を消した。
水へ入る。
足首。
膝。
腰。
携帯電話が鳴り続ける。
母は、息子の異変に気づいていた。
仕事を抜け出し、家へ向かいながら電話をかけていた。
悠人は応答ボタンへ指を伸ばした。
だが、押せなかった。
『声を聞いたら』
記憶の中の悠人が泣いている。
『帰りたくなる』
もう一歩、水へ進む。
『帰ったら、また心配させる』
もう一歩。
『また嘘をつく』
水が胸まで来る。
『大丈夫って言う』
携帯電話が鳴る。
『本当は大丈夫じゃないのに』
悠人は電話を水へ落とした。
それでも画面は光り続けた。
お母さん。
最後に見えた文字。
水が頭を覆う直前。
悠人は声にならない言葉を口にした。
『助けて』
記憶が途切れた。
◇
透真は黒い水の中へ倒れそうになった。
澪が背中を支える。
「音無くん!」
「大丈夫です」
「全然大丈夫に見えない」
透真は悠人を見た。
「死にたかったんじゃない」
『何を言ってるの』
「苦しみを終わらせたかった」
『同じだよ』
「違います」
悠人が怒ったように顔を上げる。
『僕が自分で水に入った!』
「はい」
『電話にも出なかった!』
「はい」
『お母さんを無視した!』
「それでも、最後に助けてと言った」
悠人の表情が止まる。
『聞こえるはずない』
「音には残っていました」
『嘘だ』
「水に沈む直前、あなたは助けてと言った」
『言ってない』
「声にはなっていません」
透真は自分の胸へ手を当てた。
「でも、想いは残っています」
悠人の肩が震えた。
『今さら、助けてなんて』
「今さらでも届けられます」
『死んだあとに助けを求めて、何になるの』
「お母さんが、あなたの死を自分の責任だけにしないためです」
母親は、誠一と篠崎に支えられながら立っている。
通話中の携帯電話を胸へ押しつけていた。
「悠人は、何て言っているの」
透真はすぐには答えなかった。
呼名女が赤い傘の下で待っている。
『真実を、そのまま伝えなさい』
「あなたに指図されるつもりはありません」
『母親には知る権利があります』
「権利を利用して傷つけたいだけでしょう」
『あなたは真実を隠すのですか』
「隠しません」
透真は母親へ向き直った。
「三谷さん」
女性が透真を見る。
「悠人さんは、事故で亡くなったのではありません」
顔が強張る。
それでも女性は目を逸らさなかった。
「知っています」
静かな声だった。
「警察は事故だと言いました」
母親は水中の携帯電話を見る。
「でも、あの子の靴が、きれいに揃えてあった」
悠人が俯く。
「イヤホンをつけたままだった」
女性の声が震える。
「悠人は、音がないと眠れなくなっていた」
「気づいていたんですね」
「何かがおかしいことには」
「理由は?」
「分からなかった」
母親が唇を噛む。
「聞いても、大丈夫としか言わなかった」
悠人の体から水滴が落ちる。
ぽたり。
『ごめんなさい』
透真はその言葉を受け取った。
「悠人さんは、あなたに謝っています」
母親の涙がこぼれる。
「謝ってほしいんじゃない」
『分かってる』
「生きていてほしかった」
『分かってる』
「どうして、話してくれなかったの」
悠人は答えようとした。
黒い糸が口を締めつける。
透真が代わりに言葉を届ける。
「困らせたくなかったそうです」
「私は母親よ」
「一人で自分を育てているあなたが、いつも疲れていることを知っていた」
「それでも!」
「これ以上、心配を増やしたくなかった」
母親は首を横に振る。
「心配させてよ」
叫びに近い声だった。
「迷惑をかけてよ!」
悠人が顔を上げる。
「親なのに!」
女性は携帯電話を強く握る。
「仕事なんて休めばよかった!」
「学校へ怒鳴り込んでもよかった!」
「一緒に逃げてもよかった!」
声が排水路へ反響する。
「あなたが死ぬくらいなら、全部捨てたのに!」
悠人の口を塞ぐ黒い糸が一本切れた。
『お母さん』
電話から、かすかに本人の声が流れる。
女性が息を呑む。
「悠人?」
『ごめん』
「謝らないで」
『ごめんなさい』
「謝らないでって言ってるでしょう!」
『最後に』
悠人の声が途切れる。
黒い糸が再び締まる。
透真は糸を両手で掴んだ。
冷気が腕を這い上がる。
「続きを言ってください!」
『無理だ』
「本当に伝えたいことです!」
『言ったら、お母さんが』
「もう聞こうとしています!」
澪も黒い糸へ手を伸ばした。
「私も手伝う」
「触ると危険です」
「一人でやるよりまし」
澪が糸を掴む。
顔を苦痛に歪めながら引いた。
篠崎と誠一も加わる。
四人で、悠人の口を縛る糸を引く。
呼名女の傘が大きく開いた。
『やめなさい』
黒い水が腰の高さまで上がる。
『言えなかった言葉は、私のものです』
「違います!」
透真は叫ぶ。
「言葉は、話した人と受け取る人のものです!」
『死者に話す権利はありません』
「なら、どうして声を奪うんですか!」
呼名女が黙る。
「価値があるからでしょう!」
黒い糸が軋む。
「届かなかった言葉には、人を縛る力がある!」
透真は力を込める。
「でも、届けば誰かを救うこともできる!」
『救えません』
「それを決めるのはあなたではない!」
糸が一本。
また一本。
切れていく。
悠人の唇が見えた。
「今です!」
悠人は母親を見る。
三年間、毎晩電話をかけ続けた母親。
最後の電話に出られなかったことを、自分の責任にしている人。
『お母さん』
「ここにいるよ」
母親が答える。
『最後に電話が鳴ったとき』
「うん」
『本当は、出たかった』
「うん」
『助けてって言いたかった』
母親は泣きながら頷く。
『でも、言ったら困らせると思った』
「困らせてよかったの」
『今なら分かる』
「遅いよ」
『うん』
「遅すぎるよ」
『ごめん』
母親は何度も首を横に振る。
悠人の姿が少しずつ透けていく。
想いが届き始めている。
『お母さん』
「何?」
『僕が死んだのは、お母さんのせいじゃない』
呼名女が笑った。
『同じ言葉です』
先ほど呼名女が作った、優しい嘘と同じ言葉。
だが、悠人は続けた。
『僕だけのせいでもない』
母親が目を見開く。
『学校で嫌なことがあった』
『誰にも言えなかった』
『自分が弱いと思った』
『お母さんを困らせると思った』
『全部が重なった』
悠人の声は震えていた。
『だから、一人だけを悪いことにしないで』
母親の唇が震える。
『お母さんも』
『学校の人も』
『僕も』
『誰か一人のせいにしたら、ずっと終わらない』
透真は、その言葉の重さを受け取った。
許しではない。
責任を消す言葉でもない。
悠人は、自分の死を一つの原因へ閉じ込めないでほしいと願っている。
「分かった」
母親が言った。
「すぐには無理かもしれない」
『うん』
「自分を責めると思う」
『うん』
「学校のことも調べる」
『うん』
「あなたが何をされたのか、知りたい」
『怖い』
「それでも知る」
『僕の嫌なところも分かるよ』
「それも知る」
『お母さんが知らない僕がいる』
「当たり前でしょう」
母親は涙を拭った。
「子どもの全部を知っている親なんていないよ」
悠人の目から、透明な涙が落ちた。
初めて黒くない涙だった。
「でも、知ろうとすることはできる」
『うん』
「今度は、電話じゃなくて、ちゃんと聞く」
『もう話せないよ』
「今日の声を忘れない」
『忘れてもいい』
「忘れない」
『忘れても、生きて』
母親が泣き崩れた。
「それ、親が言う言葉でしょう」
悠人が少し笑う。
『一度、言ってみたかった』
「生意気」
『ごめん』
「だから、謝らないで」
悠人の姿が光へ変わっていく。
首に絡んでいたイヤホンのコードがほどけ、足元へ落ちた。
水中の携帯電話から、一度だけ通知音が鳴る。
ぴっ。
画面に表示されていた「お母さん」の文字が消えた。
代わりに。
通話終了。
三年と十三分。
あり得ない通話時間が表示されていた。
『お母さん』
「何?」
『電話、出てくれてありがとう』
「遅くなってごめんね」
『僕も』
少年は静かに消えた。
◇
排水路から黒い水が引いていく。
呼名女は赤い傘を持ったまま、奥の暗闇に立っていた。
『一つ、届きました』
無感情な声。
『三谷悠人の席を解放します』
透真は呼名女を睨んだ。
「その席へ、また別の人を座らせるんですか」
『空席は埋められます』
「させません」
『あなたは、すべての言葉を届けられません』
「それでも続けます」
『届けるたび、あなたの声は減ります』
透真の喉に痛みが走った。
声を出そうとする。
「……」
音が出ない。
これまでよりも長い。
透真は喉を押さえた。
「音無くん?」
澪が顔を覗き込む。
透真は大丈夫だと手で示した。
だが、呼名女が透真の声で笑った。
『大丈夫です』
透真自身の声。
『心配しないでください』
同じ声。
同じ話し方。
透真の口は動いていない。
『僕は、まだ生きています』
呼名女の顔のない部分に、透真の口が現れた。
「返してください!」
澪が叫ぶ。
『死者の想いを一つ届けるたび、音無透真の声を一ついただきます』
透真の口が、呼名女の顔で動く。
『これは、最初から決められた交換です』
篠崎が一歩前へ出る。
「誰が決めた」
『音無小夜子』
透真の胸が痛む。
母が、自分を生き返らせるために結んだ契約。
死者の言葉を届ける代わりに、透真の声が死者側へ戻っていく。
「契約は解除できますか」
透真は声が戻らないため、携帯電話のメモ画面へ文字を打ち、澪へ見せた。
澪が代わりに読み上げる。
「契約を解除する方法は?」
『あります』
三人が呼名女を見る。
『音無透真が、死者の言葉を届けることをやめる』
透真は首を横に振った。
『今後、いかなる声も聞かない』
呼名女の顔にある透真の口が笑う。
『困っている死者を見捨てる』
『そうすれば、残った声は返します』
透真は答えられない。
声がないからではない。
条件を受け入れるつもりがないからだ。
呼名女には、それが分かったらしい。
『優しい方ですね』
その言葉には、嘲る響きがあった。
『だから、最後にはすべて失います』
赤い傘が閉じる。
呼名女の姿が暗闇へ溶けていく。
『次の声を、お待ちしております』
女が消えたあと、透真の声が戻った。
「待たなくていいです」
かすれた声。
以前よりも少し低く、弱い。
澪が心配そうに見つめる。
「声、変わった」
「自分でも分かります」
誠一が透真の肩へ手を置いた。
「もうやめろ」
「父さん」
「これ以上続けたら、声がなくなる」
「分かっています」
「なら」
「でも、悠人さんの言葉は届きました」
排水路の入口。
母親は、水の中に残された古い携帯電話を両手で抱えている。
泣いている。
傷ついている。
真実を知ったことで、明日からさらに苦しむかもしれない。
それでも、偽物の声を追いかけて死ぬことはない。
「正しかったかは、分かりません」
透真は言った。
「でも、本人の言葉を届けないままにはできませんでした」
誠一は長いあいだ黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「小夜子と同じ顔をするな」
「どんな顔ですか」
「自分が傷つけば済むと思っている顔だ」
透真は答えられなかった。
「父さん」
「何だ」
「母さんからの電話は、今も来ますか」
誠一の表情が固まる。
「ああ」
「最後に来たのは?」
「昨日だ」
「何と言っていましたか」
「声はなかった」
「無言電話?」
「違う」
誠一は川の流れる音へ耳を澄ませる。
「子守歌が聞こえた」
透真の記憶にある歌。
幼い頃、母が眠る前に口ずさんでいたもの。
「録音は残っていますか」
「留守番電話にある」
誠一が壊れた携帯電話を見る。
先ほど怪異によって画面は砕けている。
「家へ帰れば、予備の端末から聞ける」
透真の胸が高鳴った。
旧放送局で手に入れた、小夜子のカセットテープ。
父の電話に残された子守歌。
二つを重ねれば、失われた母の声を復元できるかもしれない。
そのとき。
排水路の奥で、新しい携帯電話が鳴った。
ぴりりり。
三谷悠人の物ではない。
水の中に、黒い端末が浮かんでいる。
画面には、透真の名前。
発信者。
音無小夜子。
透真は近づかなかった。
電話は三回鳴った。
ぴりりり。
一回目。
ぴりりり。
二回目。
ぴりりり。
三回目。
留守番電話へ切り替わる。
母の子守歌が流れ始めた。
優しく、静かな旋律。
透真は目を閉じる。
歌の途中。
雑音に交じって、小夜子の声が聞こえた。
『透真』
「母さん?」
『十三人目を、捜して』
声が途切れる。
『あの人は、まだ生きている』
電話の画面に、一枚の写真が表示された。
十三年前。
旧町内放送局の前に立つ職員たち。
小夜子。
若い頃の篠崎。
誠一。
そして、顔を黒く塗り潰された一人の女性。
写真の下に、名前が浮かぶ。
旧町内放送局・主任技師。
御影冬子。
篠崎の顔色が変わった。
「この人を知っているんですか」
透真が尋ねる。
篠崎は写真を見つめたまま答えた。
「呼名女の正体だ」
排水路のすべての携帯電話が、一斉に鳴った。
ぴりりり。
ぴりりり。
ぴりりり。
無数の画面に、同じ文字が表示される。
御影冬子から着信中。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
悠人が母親へ伝えたかったのは、単純な謝罪でも許しでもありませんでした。
自分の死を、母親や自分自身など、誰か一人だけの責任にしないでほしい。
そして、最後には本当は助けを求めていたという言葉でした。
しかし、死者の想いを届ける代償として、透真の声は少しずつ呼名女へ奪われています。
第13話「最後の着信」では、小夜子が残した子守歌とカセットテープを調べます。
十三年前に旧町内放送局で働いていた主任技師・御影冬子。
死者の名を呼ぶ女の正体とされる彼女は、記録上では現在も生存していました。
そして、透真の父の電話へ、御影冬子本人から着信が届きます。




