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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第二部 未来から来た死者

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11/30

第11話 鳴り続ける携帯電話

電話は、離れた場所にいる人の声を届ける道具です。


だからこそ、画面に知っている名前が表示されると、私たちは安心して応答します。


けれど、その声の持ち主が本当に生きているとは限りません。


午前零時十三分に鳴る電話には、出てはいけません。


たとえ、家族の名前が表示されていても。

 透真の携帯電話が鳴り続けていた。


 画面に表示されている名前は、音無誠一。


 透真の父親だ。


 着信時刻は午前零時十三分。


 現在時刻は午前零時十四分。


 一分前から届いた電話が、今も鳴っている。


「出ないで」


 澪が透真の手首を掴んだ。


「分かっています」


 透真は携帯電話を握りしめた。


 第二放送室から吐き出された紙には、はっきりと書かれている。


 明日の死亡予定者。


 音無誠一。


 息子からの電話に応答後、死亡。


「でも、本当に父さんからだったら」


「出たら死ぬって書いてある」


「父が死ぬのであって、僕ではありません」


「だから出ちゃ駄目なの!」


 澪の声が旧放送局の廊下へ響いた。


「音無くんは、自分じゃなければ危険を選んでもいいと思ってる」


「思っていません」


「さっきも自分が死ぬって言った」


「状況が違います」


「同じだよ」


 透真は返事ができなかった。


 篠崎が紙を懐中電灯で照らしている。


「電話に出ることが死亡条件とは限らない」


「どういうことですか」


「正確には、応答後と書かれている」


 篠崎が紙の文字を指差した。


「電話へ出た瞬間に死ぬのではない。通話によって、死につながる行動を取らされる可能性が高い」


「声で父を誘導する」


「ああ」


 電話が切れた。


 透真は息を吐く。


 しかし、三秒後。


 再び着信音が鳴った。


 音無誠一。


 着信時刻、午前零時十三分。


「また……」


 拒否ボタンを押す。


 すぐに鳴る。


 もう一度拒否する。


 また鳴る。


 呼び出し音が、少しずつ変化していた。


 最初は透真が設定した普通の電子音。


 ぴりりり。


 ぴりりり。


 やがて音の奥に水音が交じる。


 ちゃぷ。


 ぴりりり。


 ちゃぷ。


 ぴりりり。


 さらに、子どもの声が聞こえ始めた。


『出て』


 透真は携帯電話を床へ落としかけた。


『お父さんが待ってる』


「誰ですか」


『電話に出て』


「父さんではありませんね」


 呼び出し音の中の声は答えない。


『早くしないと、お父さんが死ぬよ』


 その言葉に、透真の指が応答ボタンへ伸びる。


 澪が携帯電話を奪った。


「駄目」


「でも」


「『出ないと死ぬ』って思わせるために言ってる」


「本当に死ぬかもしれません」


「出ても死ぬかもしれない」


 携帯電話の振動が澪の手を震わせている。


「だったら、別の方法でお父さんを助ける」


「別の方法って?」


「家へ行く」


 澪は電話の電源を切った。


 画面が暗くなる。


 それでも、端末から呼び出し音が流れ続けた。


 ぴりりり。


 ちゃぷ。


『出て』


「電源を切ったのに」


「携帯電話が鳴っているんじゃない」


 篠崎が言った。


「電話の形を借りて、音を聞かされている」


 透真は携帯電話を鞄へ入れた。


 布越しでも、呼び出し音は小さくならない。


「急ぎましょう」


 三人は旧放送局の出口へ向かった。


 第二放送室の中から、紙を送り出す音が響く。


 じじじじ。


 振り返ると、新しい紙が床へ滑り出していた。


 死亡予定時刻変更。


 午前零時二十六分。


 残り十二分。


     ◇


 篠崎の車が山道を下っていく。


 透真は助手席で、鳴り続ける携帯電話を握っていた。


 澪は後部座席から、透真の父へメッセージを送っている。


 ――電話に出ないでください。


 ――透真くんは無事です。


 ――今から家へ向かいます。


 既読にはならない。


「位置情報は?」


 篠崎が前を向いたまま尋ねる。


「共有していません」


「自宅へ固定電話は?」


「ありません」


「父親がよく行く場所は」


「この時間なら家にいるはずです」


「はず、では困る」


「分かっています」


 透真の声が強くなった。


 篠崎が黙る。


 自分でも焦っていることは分かっていた。


 父とは、普段からそれほど多く話さない。


 朝食と夕食。


 学校の予定。


 必要な買い物。


 母のことや幽霊のことを話そうとすると、父は会話を終わらせる。


 それでも、父がいなくなる未来など考えたことはなかった。


 携帯電話が震える。


 留守番電話の通知。


「録音が届きました」


「再生するな」


 篠崎が言った。


「罠かもしれない」


「でも、父の居場所が分かるかもしれません」


「音無くん」


 澪が前の座席の間から顔を出す。


「一人で聞かないで。スピーカーにして」


 透真は頷き、音声を再生した。


 ざあああ。


 激しい雑音。


 水が流れる音。


 遠くで、警報音が鳴っている。


 かん。


 かん。


 踏切に似ているが、少し違う。


 水門の開閉を知らせる警報音だ。


『透真』


 父の声。


「父さん」


『この録音を聞いているなら、電話には出るな』


 透真は携帯電話へ顔を近づけた。


『さっき、お前から電話が来た』


 父の荒い息。


『助けてと言われた』


 透真は電話などしていない。


『旧排水路にいると』


「夕名川の旧排水路です」


 透真は篠崎を見る。


「ここから十分くらい」


 篠崎がハンドルを切った。


 車が大きく揺れる。


 録音は続く。


『お前の声だった』


 父の背後で、水音が大きくなる。


『でも、話し方が違った』


 透真は息を止めた。


 父は偽物だと気づいている。


『お前は、助けてほしいときでも、大丈夫と言う』


「そんなこと……」


 澪が透真の肩へ手を置いた。


「言いそう」


『だから、電話の声はお前じゃない』


 父の声が遠くなる。


『それでも、ここへ来た』


「どうしてですか」


 録音の向こうへ問いかけても返事はない。


『お前じゃなくても、誰かが助けを求めていたからだ』


 透真は目を伏せた。


 父も同じだ。


 幽霊を信じないと言いながら、助けを求める声を無視できなかった。


『排水路に、子どもがいる』


 水の中から、携帯電話の着信音が聞こえる。


 古い単音のメロディー。


『ずっと電話が鳴っている』


 父の声が震えた。


『水の中にいるのに、止まらない』


 ざざっ。


 雑音が入る。


『透真』


 今度の声は父ではなかった。


 透真自身の声。


『早く来て』


 録音が切れた。


 車内に沈黙が落ちる。


「死亡予定時刻まで?」


 篠崎が尋ねる。


 透真が画面を見る。


 午前零時十九分。


「七分です」


     ◇


 夕名川の旧排水路は、十五年前に閉鎖されていた。


 川沿いの道路から細い坂道を下った先に、コンクリート製の水門がある。


 立入禁止の柵。


 錆びた警告板。


 大雨の際、町中の雨水を川へ流すために使われていた施設だ。


 篠崎が車を止める。


 三人は外へ飛び出した。


 夜の川は黒い。


 街灯は少なく、水の流れる音だけが響いている。


 ちゃぷ。


 ちゃぷ。


 ちゃぷ。


 閉鎖された排水路の入口に、一人の男が立っていた。


「父さん!」


 誠一だった。


 川へ背を向け、暗い排水路の奥を見つめている。


 手には携帯電話を持っていた。


「透真?」


 誠一が振り返る。


 怪我はない。


「電話に出ましたか」


「お前からの電話には出た」


 透真の胸が冷たくなる。


 死亡条件は、すでに成立している。


「何を言われたんですか」


「ここに来いと」


「それだけ?」


「それだけじゃない」


 誠一は透真の背後を見る。


「小夜子がいると言った」


 透真は言葉を失った。


 誠一は母の声に呼ばれて来た。


「母さんの声だったんですか」


「いや」


「違った?」


「お前の声だった」


 息子の声で、亡くなった妻が待っていると告げられた。


 父は偽物だと気づきながら、来ずにはいられなかったのだ。


「どうして来たんですか!」


 透真は思わず声を荒らげた。


「罠だと分かっていたでしょう!」


「分かっていた」


「なら!」


「小夜子のことを言われたら、無視できない」


「僕には関わるなと言うのに!」


 誠一の顔が歪む。


「お前には、同じ思いをさせたくなかった」


「同じ思い?」


「声が聞こえるたびに、まだ助けられるんじゃないかと思う」


 誠一は暗い排水路を見る。


「十三年間、ずっとだ」


 透真の父は幽霊を信じていないのではなかった。


 信じないふりをしていた。


 聞こえないふりをしていた。


「父さんにも、聞こえるんですか」


「声は聞こえない」


「では、どうして」


「電話だけだ」


 誠一は手に持った携帯電話を見た。


「十三年前から、ときどき小夜子の番号から電話が来る」


 透真の胸が締めつけられる。


「どうして、言わなかったんですか」


「お前まで待つようになるからだ」


 風が止まった。


 水音の奥から、着信音が聞こえる。


 ぴっ。


 ぴっ。


 ぴっ。


 排水路の中。


 暗い水面に、小さな光が浮かんでいた。


 古い携帯電話。


 画面を上に向け、浅い水の中で鳴っている。


「さっきの電話ですか」


 透真が尋ねる。


「俺のものじゃない」


 誠一が答える。


「ここへ来たときから鳴っていた」


 水中の携帯電話に表示されている名前。


 お母さん。


 通話は切れても、すぐにまたかかってくる。


 ぴっ。


 ぴっ。


 ぴっ。


 携帯電話の横に、一人の少年が座っていた。


 十五歳ほど。


 濡れた制服。


 首元には、イヤホンのコードが絡みついている。


 髪から水が滴り続けていた。


 透真以外には見えていない。


「君の電話ですか」


 少年が顔を上げる。


『見えるの?』


「はい」


『声も聞こえる?』


「聞こえます」


 少年は水中の携帯電話を見る。


『じゃあ、出て』


「僕が?」


『お母さんから』


「あなたのお母さんでしょう」


『僕は出られない』


「どうして?」


『死んでるから』


 淡々とした声だった。


 自分の死を理解している幽霊。


「名前は?」


『三谷悠人』


「いつ亡くなったんですか」


『三年前』


 少年の周囲で、水音に交じって別の音が聞こえた。


 電車ではない。


 車でもない。


 誰かが携帯電話のボタンを押す音。


 ぴ。


 ぴ。


 ぴ。


 何度も番号を入力している。


『お母さんは、毎晩かける』


「三年間?」


『うん』


「亡くなったあなたの電話に?」


『解約してないから』


 水中の携帯電話が鳴り続ける。


『つながると思ってる』


「出たことは?」


『ない』


「出られないのではなく、出ていないんですね」


 悠人の目がわずかに動いた。


『出たら、聞かれる』


「何を?」


『どうして死んだのか』


 透真が質問しようとした瞬間、誠一の携帯電話が鳴った。


 表示された名前は、透真。


「出ないで!」


 透真は叫んだ。


 誠一は画面を見ている。


「今、目の前にいる」


「だから偽物です」


 呼び出し音に、幼い透真の泣き声が混ざった。


『父さん』


 誠一の指が動く。


『助けて』


「聞かないでください!」


『水の中にいる』


 誠一は排水路の奥を見た。


 暗闇から、四歳の透真が歩いてくる。


 濡れた服。


 青白い顔。


 誠一にも見えているらしい。


「透真……」


「僕はここです!」


 現在の透真が父の腕を掴む。


 幼い透真は水の中から手招きする。


『お父さん』


 誠一の携帯電話。


『迎えに来て』


 幼い透真。


『今度こそ、助けて』


 誠一の体が前へ傾く。


 水門の警報音が鳴り始めた。


 かん。


 かん。


 かん。


 閉鎖されているはずの排水扉が、ゆっくり開いていく。


 奥から大量の水が流れ込んでくる。


「父さん!」


 透真が腕を引く。


 誠一は動かない。


「十三年前、助けられなかった」


「僕は生きています!」


「一度死んだ」


「戻ってきました!」


「小夜子が代わりに残った!」


 誠一が叫ぶ。


「俺は、何もできなかった!」


 透真は初めて、父が抱えてきた罪悪感を知った。


 母を失ったのは自分だけではない。


 父も、妻を助けられなかった夜に縛られている。


 幼い透真の幽霊が笑う。


『今度は間に合うよ』


 水位が上がる。


 誠一の靴が水に浸かる。


『こっちへ来て』


 父は息子を助けようと、水の中へ進もうとする。


「違う!」


 透真は父の前へ回り込んだ。


「あれは僕じゃない!」


「分かっている」


「分かっていません!」


「分かっていても、置いていけない!」


 誠一の言葉が胸へ刺さる。


 それは、透真自身が何度も口にしてきた言葉だった。


 困っている死者を見捨てられない。


 偽物かもしれなくても、助けを求める声を無視できない。


「父さん」


 透真は父の肩を掴んだ。


「僕も、いつも同じことをしています」


 誠一の目が透真へ向く。


「怖くても、助けを求められたら近づく」


「お前はやめろ」


「父さんもやめられないでしょう」


「俺とお前は違う」


「同じです」


 水が膝まで上がる。


「だから、声だけで決めないでください」


「何を」


「今、目の前にいる僕を見てください」


 透真は父の手を自分の胸へ当てた。


 心臓が動いている。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


「聞こえますか」


 誠一の指が震える。


「僕は生きています」


 幼い透真が水の中で叫ぶ。


『嘘だよ!』


「十三年前に一度死んだとしても」


 透真は父の手を離さない。


「今はここにいます」


『その子は偽物!』


「電話の声ではなく、触れている僕を信じてください!」


 誠一の目から涙が落ちた。


「透真」


「はい」


 父が現在の息子の名を呼ぶ。


「お前は、生きているのか」


「はい」


 透真は強く答えた。


「生きています」


 誠一の携帯電話が砕けた。


 幼い透真の姿が水へ崩れ落ちる。


 水門の警報音が止まった。


 上がっていた水位が、急速に下がっていく。


 誠一の死亡予定時刻。


 午前零時二十六分。


 透真の携帯電話の時計が、その時刻を示した。


 しかし、父は立っている。


 生きている。


「変えられた」


 澪が安堵したように息を吐いた。


 篠崎は排水路の奥を警戒している。


「まだ終わっていない」


 水中にある古い携帯電話が鳴り続けていた。


 ぴっ。


 ぴっ。


 ぴっ。


 画面には、変わらず「お母さん」と表示されている。


 少年の幽霊、三谷悠人が携帯電話の前に座っている。


『いいな』


「何がですか」


『お父さんに言えて』


「何を?」


『生きてるって』


 悠人は自分の濡れた手を見る。


『僕は言えない』


「亡くなったことを?」


『それは、お母さんも知ってる』


「では、何を言えないんですか」


 携帯電話が鳴る。


 少年は耳を塞いだ。


『ごめんなさい』


 水滴が落ちる。


『お母さんのせいじゃないって』


 もう一滴。


『僕は、自分で水に入ったって』


 透真は息を止めた。


「事故ではなかったんですね」


『事故ってことになってる』


「お母さんは?」


『本当は気づいてる』


 悠人の声が震え始める。


『だから毎晩、電話をかけてくる』


「あなたから、本当の理由を聞くために?」


『違う』


 悠人は首を横に振る。


『僕が生きていたとき、最後の電話に出なかったから』


 水中の携帯電話。


 母親からの着信。


 三年前の夜にも、同じように鳴っていた。


『僕が電話に出ていたら』


 悠人の首に絡んだイヤホンのコードが締まる。


『死ななかったと思ってる』


「違うんですか」


『分からない』


「電話に出なかったことを後悔している?」


『出たくなかった』


 悠人が初めて強い声を出した。


『お母さんの声を聞いたら、死ねなくなるから』


 その言葉と同時に、排水路の奥から女の声が聞こえた。


「悠人?」


 透真たちが振り返る。


 入口に、一人の女性が立っていた。


 寝間着の上からコートを羽織り、裸足のまま。


 手には携帯電話。


 画面を耳へ当てている。


「悠人、そこにいるの?」


 少年の母親だ。


 水中の携帯電話が鳴っている。


 女性の携帯電話は発信中。


 二つの端末が、三年越しにつながろうとしていた。


「どうして、ここへ……」


 澪が呟く。


 女性は透真たちを見ていない。


 水の中だけを見つめている。


「今、悠人から電話が来たんです」


 女性の顔に、泣き笑いが浮かぶ。


「母さん、迎えに来てって」


 悠人が青ざめた。


『僕じゃない』


 排水路の闇から、透真自身の声が聞こえた。


『電話に出て』


 続いて、悠人の声。


『お母さん』


 女性が水の中へ一歩入る。


「悠人」


『こっちに来て』


 悠人が叫ぶ。


『来ないで!』


 母親には聞こえない。


 透真は女性の前へ走った。


「その電話の声は、息子さんではありません!」


「あなたは誰?」


「三谷悠人さんの声が聞こえます」


 女性の目が見開かれる。


「悠人がいるの?」


「います」


「何て言ってるの?」


 悠人は激しく首を横に振った。


『言わないで』


「あなたに来てほしくないと言っています」


「嘘」


『やめて』


「ここへ来るなと」


「嘘よ!」


 女性が透真を押しのける。


「悠人は私を呼んだ!」


『僕じゃない!』


 少年の叫びが、水門の壁へ反響する。


 水中の携帯電話が、ひときわ大きく鳴った。


 ぴっ。


 ぴっ。


 ぴっ。


 画面に表示される文字が変わる。


 お母さん。


 そして、その下に。


 応答すれば、母親死亡。


 透真は悠人を見た。


「あなたが電話に出なければ、お母さんが死にます」


『出ても死ぬかもしれない』


「それでも、伝えるべきことがあります」


『言えない』


「言わなければ、呼名女があなたの声を使い続けます」


『本当のことを言ったら、お母さんは壊れる』


「嘘の声に呼ばれて死ぬよりいい!」


 悠人が透真を睨んだ。


『君には分からない!』


「分かりません!」


 透真は認めた。


「でも、分からないから話を聞きます!」


 悠人の表情が揺れる。


「何があったのか」


「なぜ死を選んだのか」


「お母さんに、何を言えなかったのか」


 水中の携帯電話が鳴り続ける。


「全部聞きます」


 透真は少年へ手を差し出した。


「だから、あなた自身の声で電話に出てください」


 悠人は携帯電話を見つめた。


 母親は水の中へ進もうとしている。


 足元には黒い手が伸び始めていた。


『怖い』


「僕もです」


『お母さんに嫌われる』


「本当の言葉を聞いたあと、どう答えるかはお母さんが決めます」


『許してくれなかったら?』


「それでも、偽物の声よりは届きます」


 透真の手が震えている。


「死者の言葉を、生きている人へ戻してください」


 悠人はゆっくり立ち上がった。


 水中の携帯電話へ手を伸ばす。


 濡れた指が応答ボタンへ触れる。


 ぴっ。


 呼び出し音が止まった。


 排水路に、完全な静寂が訪れる。


 母親の携帯電話から、小さな息遣いが聞こえた。


『お母さん』


 女性の体が固まる。


「悠人……?」


 少年の声が、生者の電話へ初めて届いた。


『ごめんなさい』


 母親の目から涙がこぼれる。


「どこにいるの?」


『僕は――』


 その瞬間、通話へ別の声が割り込んだ。


『真実を伝えてはいけません』


 呼名女。


 排水路の奥から、赤い傘が現れる。


『母親に言えなかった言葉は、私が預かります』


 悠人の口へ黒い糸が巻きつく。


『次の席が必要ですから』


 母親の携帯電話から、悠人の苦しむ声が流れた。


「悠人!」


 黒い水が排水路を満たし始める。


 呼名女の赤い傘がゆっくり開く。


『三谷悠人さんの最後の言葉を』


 顔のない女が透真へ向く。


『あなたは、本当に届けられますか?』

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


透真は、電話の声ではなく、目の前にいる自分を信じてほしいと父へ伝え、誠一の死亡予定を回避しました。


しかし、排水路には三年間、母親からの電話に出られない少年・三谷悠人が残されていました。


悠人の死は事故ではありません。


そして母親も、その事実に気づいています。


第12話「母親に言えなかったこと」では、悠人が死を選んだ本当の理由が明らかになります。


それは母親を責める言葉でも、助けを求める言葉でもありません。


透真は、母親を壊すかもしれない真実と、死者の声を奪う呼名女の間で、届ける言葉を選ぶことになります。

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