第10話 明日死ぬ人
「明日」という言葉は、誰にとっても同じ日を指すとは限りません。
眠って目を覚ましたあと。
日付が変わったあと。
あるいは、死者が次に目を開く場所。
放送が告げる「明日」を、生きている人の時間で考えてはいけません。
『透真』
鉄の扉の向こうで、音無小夜子が立っていた。
十三年前に亡くなったときと同じ姿。
白いワンピース。
長い黒髪。
胸には、幼い透真から命を引き受けた証のような穴が開いている。
そこから血は流れていない。
代わりに、黒い糸が何本も伸び、放送室の壁や天井へつながっていた。
『今度は、お母さんを選んで』
その声は小夜子の口から出ていない。
天井のスピーカー。
放送卓。
廊下の奥。
町中の町内放送設備。
あらゆる場所から、母の声が流れていた。
「母さん」
透真は一歩進んだ。
篠崎が腕を掴む。
「近づくな」
「でも、母さんが」
「あれが本物でも、今のお前に触れれば何が起こるか分からない」
「本物だと分かるんですか」
「分からないから止めている」
早坂澪は、透真の反対側の腕を握っていた。
「音無くん」
「はい」
「さっきの記憶では、お母さんはあなたを生き返らせるために残ったんだよね」
「そうです」
「なら、もう一度自分を選べなんて言うかな」
透真は母を見た。
小夜子は悲しそうに微笑んでいる。
記憶の中と同じ顔。
同じ声。
同じ仕草。
それでも、何かが違う。
「母さん」
透真は鉄の扉の手前で立ち止まった。
「僕が四歳のとき、寝る前に読んでくれた本を覚えてる?」
小夜子の笑顔がわずかに揺れた。
『覚えているよ』
「何の本?」
『青い鳥のお話』
「違う」
小夜子の顔から笑みが消える。
「母さんは本を読んでくれなかった」
澪が透真を見る。
「読んでくれなかったの?」
「毎晩、話を作ってくれました」
怖がりだった幼い透真のために、小夜子は眠る前になると、その場で物語を作った。
暗闇を食べる猫。
雷を瓶へ集める少年。
泣くたびに雨を止める雲の女の子。
同じ話は一度もなかった。
「本を読んでと言っても、母さんは自分の話のほうが面白いって言ってた」
小夜子の顔が少しずつ平らになる。
目。
鼻。
口。
輪郭から表情が消えていく。
『よく覚えていますね』
声が変わった。
母の声ではない。
複数の死者の声が重なった、呼名女の声。
「母さんの姿を使わないでください」
『姿は借りていません』
「嘘です」
『これは音無小夜子本人です』
透真の呼吸が止まる。
『ただし、声は私が使っています』
小夜子の体が震えた。
胸から伸びる黒い糸が引かれる。
顔のないまま、彼女の両腕がゆっくり持ち上がった。
助けを求めるように。
透真へ手を伸ばすように。
「母さんの意識はあるんですか」
『あります』
「なら、声を返してください」
『返せません』
「なぜ」
『この方は、死に終わっていないからです』
放送室の壁にある十三台の録音機が、一斉に動き始めた。
きゅる。
きゅるる。
一本目のテープに、幼い透真の泣き声。
二本目に、小夜子の声。
三本目に、避難放送。
四本目に、火災警報。
残りのテープからは、聞き取れないほど多くの死者の声が流れた。
『死には、三つの終わりがあります』
呼名女が説明する。
『体が止まる』
小夜子の胸の穴が広がる。
『名前を呼ぶ人がいなくなる』
壁に貼られた古い名簿から、小夜子の名前が浮き上がる。
『最後の言葉が届く』
透真の耳元で、母の声がした。
『生きて』
十三年前に聞いた最後の言葉。
「母さんの言葉は届いています」
『いいえ』
「覚えています」
『あなたは、言葉の一部しか受け取っていません』
「一部?」
『音無小夜子が最後に話した言葉は、ほかにもあります』
透真は母を見る。
小夜子の指が動いた。
唇はない。
声も出せない。
それでも、指で床を叩いている。
とん。
とん。
少し間を置いて。
とん、とん。
「何か伝えようとしてる」
澪が言った。
「音無くんには分かる?」
透真は耳を澄ませた。
死者同士の会話は、別の音へ変換される。
足音。
水滴。
風鈴。
ノック。
母の声も、どこかの音に変わっているはずだ。
小夜子がもう一度、指で床を叩く。
とん。
とん。
とん、とん。
短い音が二つ。
続いて二つ。
「四回?」
篠崎が呟く。
「違います」
透真は首を横に振った。
「音の間が違う」
短く二回。
長く二回。
幼い頃、小夜子と使っていた合図。
透真が暗い部屋で怖くなったとき、壁を二回叩く。
小夜子は隣の部屋から、少し長く二回返してくれた。
ここにいるよ。
大丈夫。
二人だけの合図。
「母さんは、ここにいると言っています」
『そうです』
呼名女が答える。
『だから選んでください』
「何を?」
『音無小夜子を完全に死なせるか』
放送卓に一枚の白い札が現れる。
音無小夜子。
『早坂澪を明日へ送るか』
二枚目。
早坂澪。
『音無透真が、元の死へ戻るか』
三枚目。
音無透真。
三枚の札が並ぶ。
『一つを選べば、残り二つは今夜を越えます』
「また同じです」
透真は札を睨んだ。
「誰か一人を選ばせる」
『今回は違います』
「何が違うんですか」
『選ばなければ、三名とも明日になります』
澪が眉を寄せる。
「死ぬということ?」
『明日になります』
「同じ意味じゃないの?」
『生者にとって、死は明日です』
放送室の時計が、午前零時十三分から動かない。
秒針だけが逆回転している。
十三。
十二。
十一。
時間が過去へ戻っているように見える。
『死者にとって、明日は生者の時間の先ではありません』
呼名女の声が低くなる。
『死を受け入れた次の瞬間です』
篠崎が顔を上げた。
「だから予告された日付が合わないのか」
「どういう意味ですか」
「明日というのは、午前零時を越えた次の日ではない」
篠崎は時計を見る。
「呼ばれた人間が、自分の死を受け入れた瞬間。その次が、呼名女にとっての明日だ」
透真は澪を見る。
澪はまだ生きようとしている。
だから、明日にはなっていない。
だが、未来の幽霊を見せられ、逃げ道を奪われ、自分が死ぬと受け入れた瞬間。
その瞬間に、予告が成立する。
「諦めなければ、明日は来ない」
澪が言った。
「少なくとも、こいつが言う明日は」
『人間は必ず諦めます』
呼名女の声に、わずかな笑いが交じった。
『痛み』
『孤独』
『罪悪感』
『守りたい相手』
『どれか一つで十分です』
透真の前に、母の姿がある。
澪を救いたい。
母を救いたい。
自分も生きたい。
すべてを望めば、何も選べない。
その迷いを利用して、呼名女は誰か一人を差し出させようとしている。
「選びません」
透真は言った。
『三人とも失います』
「それでも選びません」
『早坂澪が死にます』
「死なせません」
『音無小夜子は永遠に声を失います』
「声を取り戻します」
『あなた自身は、十三年前へ戻ります』
「戻りません」
『すべては叶いません』
「叶える方法を探します」
呼名女の声が途切れた。
放送室に静寂が落ちる。
小夜子が床を叩いた。
とん。
とん。
とん、とん。
ここにいる。
透真は母へ向かって頷いた。
「分かってる」
顔のない母の体が少し揺れた。
「母さんも、選んでほしくないんだよね」
今度は、一回だけ床を叩く。
とん。
肯定。
呼名女の声が戻る。
『音無小夜子には、選択権がありません』
「どうして?」
『声を失った者は、意思を証明できません』
「今、返事をしました」
『ただの音です』
「僕には言葉として聞こえる」
『証明できません』
「証明する必要がありますか」
『生者へ届かなければ、言葉ではありません』
透真は気づいた。
死者の想いを届けるということは、ただ代わりに話すことではない。
その言葉を、生者が受け取り、返事をするところまで含まれる。
美月と雫。
ハナと康介。
真帆と篠崎。
すべて、死者から生者へ届き、生者が返事をしたときに怪異が解けた。
「澪さん」
「何?」
「母の音を聞いてもらえますか」
「私に聞こえる?」
「今は呼名女に名前を呼ばれています。死者側の声が少し聞こえるはずです」
「やってみる」
澪は目を閉じた。
小夜子が床を叩く。
とん。
とん。
とん、とん。
澪は眉を寄せる。
「ただのノックにしか聞こえない」
「意味を探さないでください」
「え?」
「何を言っているかではなく、何を伝えようとしているか」
透真自身も、祖母からそう教えられた。
死者の声は、完全な文章にならないことがある。
音に残る感情。
繰り返す間隔。
強さ。
途切れ方。
そこから、言葉になる前の想いを受け取る。
小夜子がもう一度叩く。
とん。
とん。
とん、とん。
澪の表情が変わった。
「ここにいる」
透真は息を呑む。
「そう聞こえる?」
「言葉じゃない。でも、置いていかないでって感じじゃない」
澪は小夜子を見ることができない。
それでも、音のする場所へ顔を向ける。
「あなたは、音無くんに自分を選んでほしくないんですよね」
小夜子が一度、床を叩く。
とん。
「私にも聞こえました」
澪ははっきり言った。
「返事です」
呼名女が黙る。
「音無小夜子さんには意思があります」
澪は続ける。
「声がなくても、伝えています」
『認めません』
「では、私が受け取りました」
澪は胸へ手を当てる。
「音無くんに、自分を犠牲にさせないでほしい。そう伝わりました」
小夜子の指が激しく床を叩いた。
とん。
とん。
とん。
何度も。
「合っています」
透真は目頭が熱くなるのを感じた。
十三年前。
母は透真に選ばせたのではない。
選ばされた。
四歳の子どもの言葉を、呼名女が契約として利用した。
母は今も、その選択をやり直したいわけではない。
透真に、同じことを繰り返してほしくないのだ。
「母さん」
透真は小夜子へ話しかける。
「僕は誰も選ばない」
とん。
「澪さんも助ける」
とん。
「母さんの声も取り戻す」
とん。
「僕も生きる」
長い沈黙。
小夜子が床を叩いた。
とん、とん。
長く二回。
大丈夫。
透真は少し笑った。
「それは、今言う言葉じゃないよ」
小夜子の肩がわずかに揺れた。
笑ったように見えた。
◇
放送室の照明が赤く変わった。
『意思の確認を終了します』
呼名女の声から感情が消える。
『選択は行われませんでした』
三枚の札が燃え始める。
透真は安堵しかけた。
『したがって、三名様を明日へ移します』
「話が違います!」
『選ばなければ、三名とも明日になるとお伝えしました』
放送卓の下から黒い糸が噴き出した。
透真。
澪。
小夜子。
三人の足首へ絡みつく。
「篠崎先生!」
「分かっている!」
篠崎が壁の非常用斧を掴む。
糸へ振り下ろす。
刃が触れた瞬間、斧が黒く錆びて崩れた。
「物理的には切れない」
『言葉で結ばれたものです』
黒い糸が透真たちを鉄の扉の奥へ引き始める。
澪が床へ手をつく。
「この先に行ったら?」
『明日です』
「死ぬの?」
『あなたが死を受け入れれば』
「受け入れなかったら?」
『受け入れるまで、同じ音を聞いていただきます』
鉄の扉の向こう。
暗い廊下の奥から、澪の声が聞こえた。
『助けて』
別の方向から透真の声。
『母さんを置いて逃げた』
小夜子の声。
『透真、おかえりなさい』
篠崎の妹、真帆の声。
『お兄ちゃん、どうして逃げたの』
美月。
『先生が殺した』
康介。
『帰ってきて』
ハナ。
『一人にしないで』
これまで聞いたすべての声が、責める言葉へ変えられている。
同じ音を繰り返し聞かせ、罪悪感を育て、死を受け入れさせる。
呼名女が作る「明日」。
「聞かないでください!」
透真が叫ぶ。
「全部、本人の言葉ではありません!」
『本物も混ざっています』
呼名女が答える。
『どれが本物か、選んでください』
「また選ばせるんですか!」
『人間は、選ばなければ生きられません』
透真たちは扉の奥へ引きずられていく。
篠崎が黒い糸を両手で掴んだ。
皮膚が焼ける。
「早坂!」
「はい!」
「放送卓の下に、主電源がある!」
澪は床を這い、放送卓へ近づく。
未来の幽霊たちが、その前に現れた。
首を吊った澪。
焼けた澪。
水に沈んだ澪。
無数の未来が、同時に手を伸ばす。
『止めないで』
『私たちを生ませて』
『生きるのは疲れるよ』
澪の動きが止まる。
未来の自分たちが囁く。
『頑張らなくていい』
『選ばなくていい』
『死ねば、全部終わる』
「澪さん!」
透真の声が届かない。
澪は未来の幽霊を見つめている。
今までは見えていなかった。
だが、死者側へ引かれたことで、姿が見えるようになったのだ。
「私……」
澪の顔から力が抜ける。
『分かるでしょう』
老婆になった澪が微笑む。
『未来は、失うものばかり』
『傷つく』
『失敗する』
『大切な人と別れる』
『それでも生きるの?』
澪の指が床から離れる。
黒い糸が首へ巻きつき始めた。
「澪!」
透真は初めて、名字ではなく名前を呼んだ。
澪が顔を上げる。
「返事をしないで!」
透真は叫ぶ。
「未来のあなたに、今のあなたを渡さないで!」
『澪』
未来の幽霊たちも呼ぶ。
『こっちへ来て』
「澪!」
生者と死者が、同じ名前を呼ぶ。
澪の口が開く。
どちらへ返事をするのか。
透真は黒い糸に引かれながら、必死に手を伸ばした。
「さっき言いましたよね!」
澪の瞳が揺れる。
「二人でカレーを食べる未来があるって!」
未来の澪たちが黙る。
「そんな約束してないけど」
生きている澪が、小さく笑った。
「未来の話をしたでしょう!」
「カレーくらいで生きろって?」
「今はそれしか思いつきません!」
「本当に普通だね」
「普通でいいんです!」
透真は声を張り上げた。
「普通の明日へ行きましょう!」
澪の目に光が戻る。
「うん」
死者たちではなく、透真へ返事をした。
首へ巻きついていた黒い糸が一本切れる。
澪は放送卓の下へ手を伸ばした。
赤い主電源レバーを掴む。
『止めれば、音無小夜子の声も消えます』
呼名女が告げる。
澪の手が止まる。
透真は母を見る。
小夜子が一度、床を叩いた。
とん。
「切ってください!」
澪がレバーを下ろした。
がこん。
施設全体の電源が落ちる。
照明。
録音機。
送信機。
スピーカー。
すべてが停止した。
完全な無音。
黒い糸が消える。
透真は床へ倒れた。
澪も放送卓の前に座り込む。
鉄の扉の向こうで、小夜子の姿が暗闇へ沈んでいく。
「母さん!」
透真は立ち上がろうとした。
小夜子の指が最後に床を叩く。
とん。
とん。
とん、とん。
ここにいる。
姿は消えた。
◇
数秒後。
非常灯が点灯した。
薄い緑色の光。
篠崎が懐中電灯をつける。
「二人とも無事か」
「はい」
透真は立ち上がる。
澪も頷いた。
「今、何時?」
澪が携帯電話を見る。
午前零時十四分。
「過ぎた」
澪は自分の体を確かめる。
「私、生きてる」
「はい」
「音無くんも」
「たぶん」
「そこは生きてるって言って」
「生きています」
透真は澪の背後を見る。
未来の幽霊はまだいる。
しかし、首に巻かれていた黒い糸はすべて切れていた。
制服の血も消えている。
未来の澪は、普通の制服姿で立っている。
『一つ、変わった』
「澪さん」
「何?」
「未来のあなたの姿が変わりました」
「死なない?」
透真は未来の澪を見る。
少女は首を横に振る。
『今日は死なない』
「今日は、だそうです」
「十分」
澪は長く息を吐く。
「明日のことは、明日考える」
篠崎が鉄の扉へ懐中電灯を向ける。
小夜子の姿はない。
床には、一本のカセットテープが落ちていた。
透真が拾う。
ラベルには、手書きで名前がある。
音無小夜子。
「母さんの声……」
カセットのテープは途中で切れていた。
前半だけが巻き取られ、残りは黒く焼けている。
「全部は戻らなかったようだな」
篠崎が言う。
「でも、一部は取り返せた」
透真はカセットを胸へ抱いた。
母の最後の言葉。
呼名女が隠していた、本当の声。
再生できるかは分からない。
それでも、ここにある。
旧放送局の奥から、金属の軋む音がした。
ぎい。
三人が振り返る。
非常灯の先。
別の扉が開いている。
扉には白い文字で書かれていた。
第二放送室。
「さっきまで、あんな扉ありましたか」
澪が尋ねる。
「ない」
篠崎の顔が強張る。
第二放送室の中から、大勢の会話が聞こえる。
幽霊と人間。
子どもと老人。
死者同士。
声が重なり、意味を聞き取れない。
その中に、透真自身の声があった。
『一日目、終了』
続いて、呼名女。
『早坂澪さんの死亡を延期しました』
さらに、知らない男の声。
『代替者を選択してください』
機械音。
紙を送り出す音。
じじじじ。
第二放送室の暗闇から、一枚の紙が滑り出てくる。
篠崎が拾った。
そこには、明日の死亡予定者と書かれている。
「誰の名前ですか」
透真の問いに、篠崎は答えなかった。
紙を握る手が震えている。
澪が横から覗き込む。
顔色が変わった。
「どうして……」
透真も紙を見る。
印字されていた名前。
音無誠一。
透真の父だった。
その下に、死亡予定時刻。
午前零時十三分。
そして死因。
息子からの電話に応答後、死亡。
透真の携帯電話が鳴った。
画面には、父の名前。
着信時刻は午前零時十三分。
一分前だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
呼名女が告げる「明日」は、日付が変わった次の日ではありません。
人が自分の死を受け入れた次の瞬間。
透真と澪は、普通の明日を選ぶことで、ひとまず死の予告を退けました。
しかし、延期された死は消えたのではなく、別の人間へ移されてしまいます。
第11話「鳴り続ける携帯電話」では、透真の父・誠一へ死の予告が移ります。
父からの着信に出れば、父が死ぬ。
出なければ、父が一人で怪異へ向かう。
透真は、どちらも選ばないために、鳴り続ける電話の向こう側へ言葉を届けます。




