関東の豪族の形
※この第五章は、『忘れられた王国』第五章と同じ内容です。
『関東の縄文』第四章を執筆している過程で、
『忘れられた王国』の構想が完全にまとまりました。
現在は次作『もう一つの武士の誕生』の執筆に力を注いでいます。
本作を完結させるため、同章の文章をそのまま掲載いたします。
どうかご理解いただければ幸いです。
関東の豪族の形
近畿圏の王権を持って弥生化した集落を治めていた豪族の中で、小さな矛盾が生まれている中、関東の豪族化はどうだったんだろうか?
通常の弥生化した集落を治める豪族たちは、荘園のように領地を囲み、王権による強制力で治めることでさえ、何故、治められる。支配されるのかという矛盾があった。
それは、収められてる農民にこそ、その食料を作る技術を持って、水利の管理もみずから行う者たちが、兵の力で押さえつけないと支配される事に、矛盾を感じていた。
しかし、関東では、支配する、されるという関係では暮らしていなかったようだ。
むしろ、共同体という社会の中でそれぞれが役割をこなし、助け合う事が当たり前の社会、つまり、縄文の理の中の社会として成長していた。
それは、ケヤキの集落では、リーダーが頭となって、理屈を巫女が押さえる。
という社会。
権現堂では、巫女が中心となった武の力で、農民たちを守るという社会。
儀礼的な事に関しては、北川辺の大巫女に従う権現堂の巫女の姿があったようだ。
この小さな矛盾の中で、北川辺の大巫女は、族長達が近畿圏の姫が生んだ子供を盾に、権威をかざすようになる事にうんざりする事が生まれていた。
大巫女は、自分の北川辺での役割の代わりが出来ると、権現堂の巫女の下へ、移り住むのであった。
大巫女は権現堂にあった竹藪の中に小さな祠を作り、静かな暮らしを求めた。
始め、権現堂の巫女は、大巫女様としていたが、そのうち、司祭様と呼ぶようになっていた。
竹藪の中に生まれた新たな祠は、権現堂の巫女が信ずる大いなる縄文の理の存在となっていた。
千葉では、海の巫女がすべての差配をしていたが、漁師の頭を長とした豪族化が進んでいた。
ここには近畿圏の勢力が弱く、交流として、三殿台や北川辺とのつながりを育てていた。
海の巫女は、北川辺やケヤキの巫女に対する心の中での忠誠はあったようだ。
漁師たちは、槍などを使い、平地に広がる農民を守り、豪族としての地位を作り上げていた。
関東の豪族は、東山道の完成が進むにつれて、近畿圏からの意識から外れていて、独自に成長を進めていた。
北川辺での族長の家系だけは、王権の親戚であることの権威だけが一人歩きをしていた。
何回目かの古墳が生まれた時に、関東の王権を名乗るが、それはケヤキの集落も権現堂でも、そういう事かという程度のものでしかなかった。
関東の王権は、結果的に忘れ去られる運命でしか無かったのである。




