東山道の工事
※この第五章は、『忘れられた王国』第五章と同じ内容です。
『関東の縄文』第四章を執筆している過程で、
『忘れられた王国』の構想が完全にまとまりました。
現在は次作『もう一つの武士の誕生』の執筆に力を注いでいます。
本作を完結させるため、同章の文章をそのまま掲載いたします。
どうかご理解いただければ幸いです。
東山道の工事
宇都宮の先にあった那須より先へも近畿圏の侵攻は続いた。
しかし、その侵攻の為の道づくりは、難航した。
山を削るにも、工作機械があるわけじゃない、山間の道は、流れに沿って、馬が通れることを優先して作られていた。
平地の道はしっかりと測り、道幅は、確保されていた。
官道としての道が通るようになると、弥生の一般の民が平地を耕作して、米が出来るようになり、集落が点在し始める。
道は国の道なので、一般の人は入れない。
しかし人は、道ができれば、密かに入り込むし、通り抜ける。
工事の為の人が入り、その後に民が入ってくるようになった。
さらに、元々いた縄文の民たちも平地での暮らしを覚え、少しずつ、人が増えていった。
福島を超えるとさらに先に進んでいった。
白石、柴田、岩沼、名取、その先に多賀城があった。
道の原型が生まれると、何十年もかかったが、東山道という官道が出来た。
すると、そこに人が入り込み、周りの平地に田んぼが出来る。
すると、集落が生まれてきた。
東北方面に進んでいく、東山道は、官道であったが、平民はその官道に引きずられるように増えていった。
近畿圏は、官道を作ることで大きく人を増やしていくことになった。
蝦夷の民が、弥生化して集落が増えていくことにも、関心はなかったようだ。
東山道は、紀元6世紀頃になると、完成していた。
近畿圏では、東征という理屈で征夷大将軍としての兵力を出すことになった。
ここに近畿圏の勢力としての東北が生まれていた。
伊勢で、出会った九州勢力は、どうだったろうか?
かつて、3世紀頃に伊勢であった九州勢力。
近畿圏と九州勢力は、争っていたが、結果的に暴力という形の支配よりも、権威ある支配に妥協せざるを得なかったようだ。
近畿圏では奈良に政権を置いて全国支配の形を整えていくようになった。
近畿圏の王は、その支配の古さから、血の継承を続けていて、新たに生まれた九州勢力に説得力がかなわなかったようだ。
新たに海の向こうから、来た者たちもいたようだが、近畿圏の王権に従ったが、彼らの中では、勢力を伸ばし合うような、争いもあったようだ。
関東にとって、細かい争いの理屈などは分からなかった。
ケヤキのリーダーは、何年かに何回かは、信濃を通り、敦賀や奈良への訪問をしたが、近畿圏の中までは分からなかった。
近畿圏では、形としての日本全国へ、官道作り、伸ばしていたが、それに伴う弥生化の集落のあり様には無沈着であった。
東北方面ばかりでなく、官道を作る動きに付随するように人口が増えていくのであった。
人口が増えると支配の構造の複雑な仕組みが、頭でっかちのようになることも否めなかった。
地方を押さえる支配の構造と、全国をひとつとして治める統治に大きな矛盾があった。
豪族化が進み氏族としての立場や権力が上がっても、民がその氏族に従うわけではない。
彼らは自らの食料を分け与えるようにはならない。
つまり支配の構造として、食料生産を支配する必要があったのだ。
権威だけでは、民を従えられない。
人口が増え、集落が増えると、王権による統治が、王権の権威を理解されず、統治される事自体に矛盾が生まれてくるのであった。




