力の動き
力の動き
北川辺、権現堂そしてケヤキの民の集落は違う動きを示していた。
いわば、この三つの集落は、北川辺の大巫女でつながった共闘帯でもあった。
しかし暮らしの中での武力による身分の上下がどうしても生まれてきた。
まず、北川辺では、大きな網を持つ家が男どもをまとめる族長的なものとなり、共闘での狩りにより大きな手柄を立てたとなっていた。
北川辺でも竹弓は、使われており、竹弓を使う者が、川での猟は、女達が中心になり、獣を狩る男どもが横暴に力を持った。
大巫女が支配することに興味を持ってなく、地の流れ、風の動きを感じ、それぞれの巫女の思いまで考えていた。
そこで、男たちは、猟の手配や川魚の漁の方法、女どもの採集の動きを指導する者共が集まり、大巫女の動きとは別の指導体制が生まれていた。
中心は大網を持った親父が族長的な存在になり、それぞれの技術を話せる者が集まるようになった。
権現堂では、巫女が竹弓の名手で、自分でも動くことが好きなので、集落のものは、自然と巫女の家来的な動きになった。
水田開発には、北川辺から移ってきた者が巫女の動きに従う事から、ここは巫女による支配が強力になった。
また、千葉や三殿台からの交流の中、物のやりとりをするものも現れ、巫女の下についた。
ケヤキの民は、どうしていただろうか。
巫女とリーダーがツートップで皆を導いていた。
それでも男小屋の中で序列が生まれていた。女小屋でも、同じだったが、年齢に従う邸であった。
しかし、東山道の整備が少しずつ進む中で、足利や佐野周辺に水田集落が増え、利根川まで狩りをするものが現れてきた。
彼らは宇都宮の巫女の影響を受けていたが、ケヤキの民としては敵対というか情報交換の瞬間があったようだ。
こうした動きはケヤキの民のリーダーや巫女に話が伝わり、巫女が北川辺の大巫女と話し合うことになった。
三殿台の巫女はどう考えていたのだろうか。
近畿圏の知識を持ち、水田や狩猟、採集手の暮らしも大きくなってきていた。
族長が元々いたので、巫女には関東の巫女に対する認識が少なかった。
舟による交流は、男どもが自由にやっていて、巫女の指示するところではなかった。
そして千葉や北川辺との交流では、米作の優位性しかなく、狩猟のやり取りでは北川辺や千葉の方が勝っていたので、力的には静かにしていた。
関東のそれぞれの地域で、巫女中心のまとまりの他に武力というもう一つの力が目に見えるような形ができ始めていた。




