紀元前1世紀
紀元前1世紀
関東で、得意な地形で得意な発展を遂げたのが千葉だった。
紀元前5世紀以降に三浦半島から直接、海の浮島的な存在だった千葉に上陸した弥生の集落があった。
こちらは、三殿台に入った近畿圏からの勢力とは関係のないもので、縄文の世界であった千葉の浮島に広く米作を広げ、定着し、集落の規模も膨らんでいた。
早くから縄文との混血で集落の規模を膨らませていたが、千葉の北側にいた海の巫女には、敬意を持って接していた。
紀元前3世紀頃には、集落の規模も膨らみ土浦との交流が激しくなった。
紀元前1世紀になるとその交流は、米作にも影響し、三殿台とのつながりも持つようになっていた。
関東の北では、紀元前3世紀頃には、碓氷峠など人がようやく通れるところから平地を目指してきた弥生の民が、群馬からの宇都宮、那須、そして那珂川を通って水戸に押し寄せ、平地での米作の耕作が広まった。
しかし、それだけではなかった。
この人がようやく通れることのできる道を使い近畿圏の勢力も入っていたようだ。
東山道の道の元となる街道の整備が徐々に進み、その勢力の静かな圧力が御子たちを悩ませていた。
紀元前1世紀になると、東北に延びる道は、まだまだ街道とは云えなかったが、その勢力の圧力が現実のものとなっていた。
しかし、宇都宮や那須の巫女達は、縄文の記憶を大事に持っていて、流れに身を任せながら、支配には応じる様子がなかった。
三殿台ではどうであろうか。
紀元前3世紀頃に米作の耕作が実現可能になり、伊勢から巫女が入り、暮らしの安定は保たれていた。
巫女は上手くこの地に馴染んだようだった。
紀元前1世紀頃になると米作は安定し、千葉との交流や北川辺との交流も進んできて、しかも北川辺からの毛皮や石などの道具のやりとりはむしろ助かっていた。
かつて、北川辺に侵攻しようと考えていた事など、思いもよらない交流ぶりであった。
米作の発展が遅れていても、北川辺の統治の姿がまるで見えない。そんな思いが膨らんでいた。
北川辺では、米作ができるようになり、三殿台から来た技術者が水田開発、水利の管理などを進めていた。
まだまだ米作だけでは食べれないので、どうしても狩猟が大きな力となっていた。
また、権現堂に移ってきて、新たな巫女として動き始め、新たな集落開発を行った。
権現堂は、元々竹弓を使う種族であり、狩猟の力があった。
北川辺の協力で、米作の開発も進んでいた。
こうした北川辺と権現堂の武力を見て、ケヤキの民のリーダーは、ある決意を持って、大巫女と巫女に提案をした。
季節は、冬に入った時期。
風が冷たく吹き付けていた。




