北の弥生化
北の弥生化
北川辺では、新たな技術者を三殿台から向かい入れていた。
新たな弥生の能力を持った者たちが、その他にも何人か来るものがいた。
三殿台では、こうした若い技術者に対しては、動きに任せていた。
物品の交流のみで北川辺との交易を進めていた。
千葉では、移住してくる弥生の人間も落ち着き、混血による新たな集落が形成され、海の巫女が精神的指針を示し、弥生集落としての形ができていた。
こうした三者三様の動きに対して、行田のケヤキの集落のリーダーは、北川辺の大巫女や関東各地の巫女との連携に足を使い、つなぎを行う感じだった。
利根川や渡良瀬川は、ようやく落ち着きのある流れを見せていて、湿原の水も引き始めていた。
こうなると、移住してきた技術者が、水利を考え小さな田んぼを耕作し、わずかな水田の開発も進んでいった。
北川辺の女どもは、この技術者という事に従い耕作を手伝うものが出てきた。
男どもは、狩猟に集中し、武器の扱いや集団での大物の獣を退治するなど、その技術を鍛えていった。
紀元前3世紀から1世紀にかけて、このような形が固定され、関東の川の流れが安定してきて、弥生化した集落が生まれていた。
関東での交流も盛んに進み、互いの地域での特性が見えてきたようである。
北川辺でも、弥生の能力を持った技術者により、壺を焼く窯が工夫され、三殿台との交流で、わずかに鉄製品が入り、鏃やナイフなどが徐々に使われだした。
しかし北川辺では、大巫女が、大きな動きを伝え、神との交流はしてくれるが支配者ではなかった。
集落の族長のようなものはいたが、狩猟のリーダーだったり、女たちは採集を自ら行うなど、縄文の集落的な暮らしが続いていた。
三殿台では、すっかり弥生集落の形ができ、丸木舟による北川辺との交流のほか、千葉方面に出て、海の巫女がいる弥生集落との交流も行われるようになり、関東の広さをやっと実感する事が出来てきた。
近畿圏が北陸から中部地方に影響を示しつつ、弥生化は進んでいた。
しかも、群馬や栃木(宇都宮)は、既に弥生化の真っ只中にあった。
碓氷峠を歩く連中が先へ進み弥生化を推進したと思われる。
ケヤキの民のリーダーが宇都宮を見て、水田が開発され、集落が大きく膨れ上がるのを見て、宇都宮の巫女との面談をやめて、北川辺の大巫女に知らせた。
「弥生化が悪いわけじゃないが、縄文の理の外に行ってしまったのだな」
大巫女は、集落の者共にも知らせ、利根川や渡良瀬川の北方面への動きに注意を払うように告げた。
ケヤキの集落でも、むしろ来たと南の勢力の中で生きる模索を考えるようになった。
利根川の流れは、落ち着いてきていた。
風が川面から吹くことが心地よかった。




