時代の流れ
時代の流れ
三殿台に基礎を作り始めた新たな集落では、水田の米作りができなかった。
しかし、基礎的な力のある集落の形成であったから、狩猟・採集でその場をしのぎ、しかも海洋技術の応用で静かな海にも出るようになった。
米は、湿地帯に苗を植え付け、わずかな米作りを何とか進めていた。
肝心な事は、近畿圏との交流であった。
関東へのつながりの拠点となりつつあった。
北川辺では、外敵が襲来した記憶により、集落の結束が高まっていた。
狩猟グループを強化し、遠征をすすめた。
採取も湿地帯の植物の活用や米の植え付けなどで新たな食料の確保に熱が向いた。
また、土浦、水戸、那須、宇都宮の巫女からの連絡も活発になり、交流も膨らんでいた。
情報交換のネックは巫女たちの感性に求められていた。
一方、海の巫女はどうしたんだろう。
近畿圏の勢力とは別な弥生集落が、三浦半島から直接、千葉方面に上陸し始めた者たちと融合する事になり、新たな弥生集落の形成が生まれ、新たな勢力が生まれていた。
こうして、紀元5世紀から4世紀に駆けて、湿原が多い関東での新たな勢力との交流が、始まり勢力の形も変わって来ていた。
ケヤキの集落でも代替わりが進み、狩猟や採集での生活に加え荒川の先の長瀞辺りでの石の採取が特産物として、移動する動きを含め、北川辺の大巫女にも大事に使われていた。
そして、紀元前3世紀に入った。
三殿台では、いち早く、湿地帯の水が引き、水田づくりが始まっていた。
そして近畿圏からの連絡ややり取りが進んでいて、鉄器や光熱で側が薄く強い焼物が入るようになっていた。
人口も大きくなり、大きな集落として弥生期の形ができていた。
北川辺は、縄文期の暮らしが続いていたが、関東の巫女達との交流が膨らみ、人口も増えていた。
ケヤキの集落の力を借りて、移動するグループが動き、関東の巫女ネットワークが構築しつつあった。
そこに、三殿台から米作りの技術者が集落へ参加したいとやって来た。
彼は、関東の広さに新天地の期待があったのかもしれない。
北川辺でも、湿地帯でそこそこに作っていた米に対する期待もあり、この技出者を受け入れたのである。
こうした人的交流が、先行し、物品のやり取りの交易な始まっていた。
また、海の巫女のいる千葉では混血し共生が進み、新たな弥生期の集落としての形ができ、水田作りも進み、土浦との交易が始まっていた。
関東では、広い平野での交流がさかんになり始め、新たな動きが始まったようだった。
中でも、三殿台と北川辺の間をつなぐ丸木舟による交流は物品ばかりか人的なやりとりが濃厚になっていた。
三殿台の族長が舟で交易をしている者に聞いた。
「北川辺の集落では、大巫女が頭なのか?」
交易担当が答える。
「いや、大巫女様は、交易では表に出られず、集落の長が別におられるようです。」
族長は、北川辺の暮らしを理解してない事を理解した。
近畿圏との交流を、どのように付けるべきか悩んでいた。
東京湾も嵐が来ると波が強く動けない。
つよい風が雨とともに降り続いていた。




