第155章:【加速する勘違い】
いつものように、生徒会室はガラガラだ。静まり返った部屋にいるのは俺一人。
まあ、他の役員たちが来られないように仕事を極限まで効率化して追い払ったのは俺なのだが、当人は「一人で集中して自作の小説を書くのに最高の環境だな」くらいにしか思っていない。広々とした室内、重厚で肌触りの良いデスク、そして何より誰にも邪魔されない静寂。ここは俺にとって、至高の執筆空間であり、憩いの聖域であった。
ペンを走らせ、主人公がライバルとの決戦に挑む熱いシーンの推敲に没頭していると、不意に扉から規則正しい音が響いた。
――コンコン。
「どうぞ」
静かに声をかけると、重厚な木製の扉がすっと開き、入ってきたのはシャルロットと彼女の取り巻きたち――ソフィア、リゼット、そしてニーナの4人だった。
「ごきげんよう、アレン様」
シャルロットはどこか頬をほのかに朱に染め、初々しくも洗練された手つきで持参した最高級のティーセットを取り出すと、手際よく俺の机にお茶を注ぎ始めた。湯気とともに広がっていくのは、王室御用達クラスの極上の茶葉の香りだ。その佇まいは、まるで「将来を約束された婚約者として、夫を支えるのは当然の嗜みですわ」とでも言いたげな、妙な決意と慈愛に満ちている。
(……ん? なんだ急に。お茶を淹れてくれるのはありがたいが、妙に気合いが入ってないか?)
俺が内心で首をかしげていると、その横でニーナが目を皿のようにして、穴が開くほど俺と生徒会室をじっと観察していた。
(あ、あの二人の空気感……! やっぱり間違いありませんわ! シャルロット様のあの献身的なご様子……! これはまさに『家族公認の極秘婚約』の証拠……! 探偵ニーナの推理は当たっていました……!)
ニーナの視線はもはや事件の真相に辿り着いた名探偵のそれである。一人で勝手に納得し、胸の前で握りこぶしを作っている。
一方、後ろに控えるソフィアとリゼットの二人はといえば、
(えっ……? なぜシャルロット様がアレン様にお茶を……? え、いつの間にそんな深いご関係に……!?)
(シャルロット様、生徒会室に入るなり迷いのない動作でお茶の準備を……私、何か重要な歴史的瞬間に立ち会わされているのかしら……!?)
と、何が起きているのか完全に理解が追いつかず、目を白黒させて固まっていた。
シャルロットは優雅に扇を閉じると、気品に満ちた笑みを浮かべて尋ねてきた。
「アレン様。見回しましたところ、生徒会室には他に役員の方の姿が見当たりませんけれど……ほかの方はどちらに?」
「いないが?」
俺が至極当然のように短く返すと、シャルロットの瞳に強い使命感の炎が宿った。
「――では、私たちが生徒会役に立候補いたしますわ! いいえ、やらなければなりません! この広大な生徒会業務を、将来……コホン、アレン様おひとりに全て押し付けるなんて、あまりに酷いですもの!」
「えっ!?」
「ええええっ!?」
後ろで固まっていたソフィアとリゼットから、悲鳴が上がった。
完全にシャルロットの熱量と脳内設定に巻き込まれる形となった二人は、拒否権すら与えられないまま生徒会の過酷な(と勘違いされている)業務に巻き込まれていくのだった。
(……いや、だから俺は一人で静かに小説が書きたいだけなんだが……?)
アレンのささやかな平穏は、公爵令嬢の盛大すぎる勘違いによって、静かに打ち砕かれようとしていた。
◇
生徒会室の中に漂う、妙な緊張感と熱気。シャルロットは「妻としての完璧なサポート」を実践すべく、腕をまくわんばかりの意気込みで俺のデスクの端に積まれた書類へ手を伸ばそうとしていた。
「アレン様、まずはどのようなお仕事から手伝えばよろしくて? 予算案の精査でしょうか、それとも各部活動の予算配分の見直しでしょうか。我がローゼンベルク家の教育を受けてきた私ですもの、数値の計算ならばお任せくださいませ!」
自信満々に胸を張るシャルロット。だが、俺としては非常に困る。
なぜなら、その書類の束の大半は、学園の業務などではなく、俺が趣味で書き溜めている自作小説『小説の先の世界』の草案だからだ。見られたら恥ずかしさで死んでしまう。
「いや、シャルロット嬢。気持ちはありがたいが、俺の作業はすべて事前に処理が終わっている。君たちの手を煩わせるような仕事は一切残っていないんだ」
「まあ……ご自分の過労を隠すために、私にまで嘘をおつきになるのですか?」
シャルロットは悲しそうに眉をひそめた。
(やっぱり……! あの方、ご自身の圧倒的な負担を隠し、一人で全てを背負い込もうとなさっているのだわ! なんて健気で、そして頑固なお方……! ですが、これからのパートナーとなる私が、それを見過ごすわけにはいきませんわ!)
思考が完全にあらぬ方向へ暴走しているシャルロットは、引くどころか一歩踏み込んできた。
「アレン様、遠慮なさらないでください。私を……私たちを頼ってくださいませ。ローゼンベルクの長女として、貴方のお力になりたいのです!」
「いや、本当に仕事はないんだって。これ全部、個人的なメモと雑務の整理だから」
「まあ、個人的なメモ……!? それは、学園の機密事項や国家級の魔法理論のメモということでしょうか……!?」
「違う、全然違う」
俺が必死に原稿用紙を守ろうと手で覆うと、後ろで見ていたリゼットがゴクリと唾を飲み込んだ。
「シャルロット様……アレン様があそこまで頑なに隠そうとされるなんて、きっと触れてはならない世界の真理や、解読データに違いありませんわ……!」
「ええ、きっとそうですわね。アレン様は私たちを危険に巻き込まないよう、一人でその過酷な知識と戦っていらっしゃるのね……っ!」
ソフィアまで目頭を熱くし始めている。
ただの自作小説の原稿だと言ったら、どんな顔をするのだろうか。いたたまれなさすぎて絶対に言えない。
そんな押し問答が続き、生徒会室の空気がカオスを極めようとしていた――まさにその時だった。
◇
「……アレン。いつもここね、最近は」
扉の開いたままの生徒会室に、まるで自分の家であるかのように慣れた足取りで入ってきたのは――女神エルエル(と、その後ろで申し訳なさそうに控えているルカ)だった。
「見えないところでいろんなことしてさ……あたしを置いて清々してる? あたしがいると面倒とか思っているでしょう。ルカもいるんだけどさ」
ジト目でアレンを見つめながら、エルエルはズカズカと部屋の中へ踏み込んできた。
「もうちょっと気にかけてよ。(……給料とかさ)」
「「「「………………!?」」」」
部屋にいた少女たちの時が、再び止まった。
シャルロットは、手に持っていたティーポットをカタカタと震わせ、目を限界まで見開いている。
(な……なんですの、この方は……!? 理由もなく生徒会室へ入り込み、あのアレン様に対してあまりにも『慣れ親しんだ』態度……! それに『私を置いて清々してる』『気にかけて』……って……!?)
ニーナは探偵どころではなくなり、泡を吹いて倒れそうになっていた。
(ひ、ひぇぇぇええっ!? 秘密の婚約者どころか、『本命の影の女性(しかも生活費を請求してくるレベルの深い仲)』が存在したんですかぁぁぁっ!??)
ソフィアとリゼットも顔を見合わせ、言葉を失って固まっている。
当のアレンはといえば、自分のデスクで原稿用紙から顔を上げ、心底頭が痛そうにこめかみを押さえた。
(……面倒が増えたな)
アレンからすれば、エルエルは「勝手に世界の異常に手を加えては、後から『苦労代』や『給料(お供え物や研究資金)』をたかりに来る駄女神」でしかない。
「エルエル、頼むからいま仕事(執筆)中なんだ。給料(経費精算)の話なら後でバルツァー・ラボの会計を通せと言っただろう」
「ちょっと! なんでそんな冷たいのよ! あたしがどれだけ裏で問題の穴埋めをして苦労してると思ってんの!? あのとてつもない魔素の異常の時だって――」
「はいそこまで。守秘義務違反だ」
アレンは冷酷にエルエルの口を封じるが、その会話のドロドロとした(ように聞こえる)やり取りは、シャルロットたちの脳内をさらに破滅的な方向へと加速させていた。
(膨大な魔素……!? 穴埋め……!? 経費精算……!? この方、アレン様の『裏の膨大な資産と秘密』を全て握っていらっしゃる……『本妻』のような存在……!?)
シャルロットは青ざめた顔で扇を強く握りしめ、自分の中に芽生えていた「正妻(婚約者)としての覚悟」が音を立てて揺らぐのを感じていた。
「アレン様……この……愛らしくも厚かましい……コホン、このお方は……一体どのようなご関係なのですか……?」
震える声で尋ねるシャルロット。
「ただの押し売りと、その被害者だ」
アレンは事実そのままを答えたが、シャルロットたちの目には「照れ隠しで複雑な愛憎関係を誤魔化す孤高の絶対者」にしか映っていなかったのである。
◇
「押し売りだなんて失礼ね! あたしがどれだけアレンのために働いてあげてるか、分かってないんでしょ!」
エルエルは不満げに頬を膨らませると、アレンのデスクの脇へずいっと寄っていき、置いてあったお茶を勝手に一口飲んだ。
「あ、それシャルロット様が淹れた――」
ニーナが思わず声を上げそうになるのを、シャルロットが制した。シャルロットの瞳には、激しい動揺とともに、決して負けられないという炎がメラメラと燃え上がっている。
(この美貌の女性……ただ者ではありませんわ。その佇まい、纏う雰囲気……まるで人間離れした神秘性を感じます……! ですが、アレン様の横に立つのは、学園と彼を公私ともに支えられるローゼンベルクの人間であるべき……!)
シャルロットは一歩前へ踏み出し、気品あふれる笑みを浮かべてエルエルに対峙した。
「初めまして、お嬢様。私はシャルロット・ローゼンベルクと申します。アレン様とは……その、学園にて深く関わらせていただいている者ですわ。貴女様は、アレン様とどのようなご縁で?」
エルエルはシャルロットをじろりと見つめると、興味なさそうに髪を弄くった。
「ローゼンベルク? ふーん、人間のお金持ちさんね。あたしはエルエル。アレンに雇われてるような、こき使われてるような……まあ、切り離せない悪縁ってやつ? アレンがやらかした問題の後始末は、いっつもあたしがさせられてるんだから」
(問題の後始末……!? やっぱり、このお方はアレン様が裏で動かしていらっしゃる国家規模……いいえ、世界規模の暗闘のパートナー……!?)
シャルロットの脳内で、誤解のピースが完璧に組み合わさっていく。
アレンが演習場で見せた常識外れの魔法。
バルツァー・ラボの最高責任者すら従える絶対的な権力。
選ばれた者しか扱えないような圧倒的な存在感、そして謎の美女・エルエルの存在――。
(ああ……何ということでしょう。私たちが学園で能天気に過ごしている間にも、アレン様はこのお方とともに、世界の崩壊を防ぐための壮絶な戦いを繰り広げていらっしゃったのですわね……! 給料や経費というのも、その膨大な作戦資金のこと……!)
シャルロットの中で、エルエルに対する嫉妬は、瞬く間に「世界を救う重責を分かち合うライバルへの敬畏」へと変換された。
「……分かりましたわ、エルエル様。アレン様が背負っていらっしゃるものの大きさを、改めて痛感いたしました。ですが、私も引くわけにはいきませんの。学園という表の舞台において、アレン様を支えるのは私の役目ですわ!」
「は? 何言ってるのこの子……? アレン、あんた学園で変な集団でも作ったの?」
「俺に聞くな。俺も被害者だ」
アレンは心底疲れた顔で頭を抱えた。
「おいエルエル、用がないなら帰れ。それからルカ、お前も放置してないで連れ戻してくれ」
後ろで申し訳なさそうにペコペコと頭を下げていたルカが、「申し訳ありません、アレン様……!」と言いながらエルエルの袖を引っ張る。
「ちょっとルカ、引っ張らないでよ! あたしはまだ給料の前借り交渉が――」
「却下だと言ったろう。ラボの経理を通せ」
冷たく突っぱねられたエルエルは、「もう! アレンのケチ! 堅物!」と捨て台詞を吐きながら、ルカに引きずられるようにして生徒会室を去っていった。
嵐のような去り際を見送った後、生徒会室には再び重苦しい静寂が訪れた。
シャルロットは決意に満ちた目でアレンを見つめ、静かに深々と頭を下げた。
「アレン様……大変なご苦労をお察しいたしますわ。あのような破天荒なパートナーをお持ちで、裏のお仕事もさぞかし過酷なのでしょう……。ですがご安心ください! 私たちは、貴方が表の学園生活で少しでも安らげるよう、全力でお手伝いいたしますわ!」
「「「お任せください、アレン様!」」」
ソフィア、リゼット、ニーナの3人も、シャルロットに続いて力強く宣言した。
(……だから、俺はただ静かに小説が書きたいだけなんだが……??)
アレンの切実な心の叫びは、誰にも届くことなく、放課後の夕暮れの風に乗って消えていくのだった。




