第117章:地下大保管庫と、腫れ物への最高権限
アレンが風のように謁見の間を去った後、残された法皇と最高参事会の高官たちは、しんと静まり返った大理石の空間で呆然と立ち尽くしていた。
静寂を破ったのは、法皇自身のかすかな息吐きだった。
「……喉の痛みが、まったくない」
法皇は自らの喉元にそっと手を当てた。
長年、国中の高位神聖術師や宮廷医術師たちが匙を投げ、どんな神聖魔法も効かなかった気管支の熾火のような激痛。それが、アレンが差し出した怪しげな薬湯を一杯飲んだだけで、綺麗さっぱり消え去っているのだ。声のかすれすらも無い。
「ほう……法皇殿下……お声が……! 激しい咳込みが、完全に止まっておられます……!」
「ああ。それだけではない……」
法皇は、手の中に残された小さな小瓶を見つめた。
人前に出ると激しい動悸と痙攣を起こし、倒れてしまう第一王子。その病に対し、アレンは「即効で治る万能薬」などという安易な奇跡を口にしなかった。
『病そのものを一瞬で消すのではなく、恐怖を去らせ、心身を段階的に整えさせる』という、極めて合理的で深遠な治療法と、それを支える薬を遺していったのだ。
「あのお方は……単に神のお言葉を伝えにきただけの『使者』などではない……」
参事会の主席司祭が、震える声で言葉を漏らした。
「神託を授かるのみならず、神域の調合術と、人間の心身の理を完全に把握しておられる……。まさしく『理と秩序の神』の力をそのまま体現された『神医』……いや、神の化身そのものでは……!?」
「それをどう扱うかだ!」
最高貴族の司祭が頭を抱え、悲鳴のような声を上げた。
「ただの『神託を受けた巡礼者』であれば、国の貴賓として歓待し、聖職の位を授ければ済む! だが、あのお方は法皇殿下の不治の病を一瞬で癒やし、王子の難病にまで解を示されたのだぞ!? 国賓どころの格ではない!」
「かといって、国師や最高顧問として宮殿に繋ぎ止めようとすれば、あのお方の意に反する……! 『私はここで商売と調査をしたいだけだ』とおっしゃっていたではないか!」
「神の化身とも言えるお方に『不敬な拘束』を試みれば、この法皇国に神罰が下るぞ……!」
謁見の間は、パニックに近い大議論へと発展した。
神託の価値すら国家的大事件だったのに、そこに「国家最高峰の医療・奇跡をあっさり行使する絶対者」という属性まで加わってしまったのだ。大げさに祭り上げれば不快感を示され、かといって雑に扱えば神聖冒涜になるという、究極のジレンマであった。
額の汗を拭いながら、法皇は深く息を吐き出し、重々しく決断を下した。
「……あのお方の望みは『自由な調査と、市場での循環』だ。我々がなすべきは、そのお邪魔を一切せず、影から最高度の便宜を図ることのみ」
法皇は控えていた騎士団長と地下保管庫の責任者を呼び寄せた。
「聞きなさい。あのお方が地下大保管庫にお越しになられた際は、一切の制限を設けず、いかなる超希少素材であっても望むままにお渡ししなさい。理由を聞くことも、記帳を強制することも禁ずる」
「は、はっ!」
「それから、あのお方が市場で買い物をされる際、代金はすべて国庫から支払うよう裏で手を回しなさい。ただし、あのお方に『気を使わせている』と察せられぬよう、あくまで露店商との自然な取引を装うのだ」
「……殿下、それはあまりにも……」
「よいか! あのお方は我らの信仰の試練であり、同時に恵みなのだ。決してお立場を縛ろうとしてはならぬ。『ただの珍しい客』として聖都を歩いていただくことこそが、我が法皇国の平穏を守る唯一の道なのだ……!」
最高幹部たちは「ははぁっ!」と一斉にひれ伏した。
その頃。
「……なんか、視線が増えたような気がするな」
法皇庁の地下大保管庫へと向かう回廊を歩きながら、アレンは背後に感じる異常なまでの気配の数に、心の中でそっと溜め息をついていた。
気配遮断をした神聖騎士や高位神官たちが、つかず離れずの距離で、まるで「触れてはならない神体」でも追うかのように恐る恐る追尾してきている。
(また大げさに捉えられたか……。まあ、地下保管庫への立ち入りを邪魔されないなら、どうでもいいか)
アレンは背後の過剰な重圧を完全に無視し、目の前に現れた重厚な地下大保管庫の大門へと、マイペースに足を進めるのだった。
法皇庁の地下深くに位置する地下大保管庫。そこは建国以来、法皇国が収集してきた国宝級の魔導具、超希少な触媒、古代の古文書が厳重に封印された、国家最高の禁域であった。
重厚な極小銀の扉の前で待っていたのは、冷や汗で服を湿らせた保管庫長と、高位の神聖司祭たちだった。
「し、神託の使者様……! 法皇殿下より『特級閲覧許可』の命を賜っております。どうぞ、こちらへ……」
保管庫長は膝を大きく震わせながら、重厚な三重の封印鍵を解いた。
彼らは法皇庁の緊急通達により「あのお方に対して一切の制限を設けるな」「何をどれだけ持ち出されても理由を聞くことも記帳させることも禁ずる」という、前代未聞の指示を受けていたのだ。
(まるで腫れ物に触るような対応だな。まあ、邪魔されないなら好都合だ)
アレンは彼らの過剰な緊張を完全に無視し、開放された大門を潜り抜けた。
保管庫内部は広大な空間となっており、防腐と静電気防止の魔導陣が静かに青い光を放っている。棚には各地から集められた希少鉱石、魔獣の器官、古代の精霊樹の乾燥皮などが厳重な魔導障壁で保護されて整然と並んでいた。
アレンは固有スキル『鑑定』の情報を視界に走らせながら、静かに棚の合間を練り歩く。
(市場で手に入れた【石膏】や【代赭石】などの鉱物生薬は揃った。ここでの目的は、手持ちの薬草・鉱物から抽出できる有効成分をさらに純化し、瞬時に調合するための『超高導電性触媒』と『安定化媒体』の確保だ)
歩みを進めるアレンの後ろを、保管庫長たちが一定の距離を保ちながらおそるおそるついてくる。彼らはアレンが一歩動くたびに「何を奪われるのか」と生きた心地がしていなかった。
アレンの足が、一つの重厚なガラスケースの前で止まった。
そこに鎮座していたのは、数百年前に死火山から回収されたとされる巨大な霊性結晶――『赤陽の涙石』だ。
(……ほう。高い魔導導電性と熱伝導率を持っているな。これなら本来数時間煎じなければ抽出できない生薬の有効成分を、魔力を通すことで数秒で高純度抽出できる)
アレンがケースに手を伸ばすと、保管庫長が「ひっ……!」と息を呑んだ。それは歴代の法皇ですら持ち出しを制限されていた国家指定の超一級触媒だったからだ。
しかし、アレンはケースの障壁をあっさりと解除すると、結晶の表面に軽く触れ、スキルを起動した。
(現物を丸ごと持っていく必要はないな。必要なのは構造データと、抽出用のアンプルの核となる部分だけでいい)
アレンの手元で静かな光が走り、結晶の最純度部分だけが小さな核となって切り出され、そのまま『アイテムボックス』へと格納された。残された『赤陽の涙石』はサイズこそ一回り小さくなったものの、輝きと安定性は以前よりも増していた。
「な……!? 触媒の不純物が除去され、純度が高まっている……!?」
後ろで見ていた保管庫長が目を見開いた。国家の国宝を破壊されるかと思いきや、アレンはスキル『ラフ・アジャスト』の副産物として、保管庫内の素材の構造の欠陥まで勝手に最適化・修復してしまったのだ。
続いてアレンは、古代の粘土質鉱物『龍骨土』の棚へと向かった。
これは抽出した強烈な薬効成分を劣化させず、常温で長期間カプセル化・安定保存するための緩衝媒体として最適な素材だ。
「これと、あっちの精霊樹の樹脂をもらっていく」
「は、はいっ! 幾らでも……幾らでもお持ち寄りください!」
アレンは『龍骨土』と『精霊樹の樹脂』を十分な量だけ採取し、手際よくアイテムボックスへと収めていった。
(よし。基本の植物生薬、リスク制御・重鎮用の鉱物生薬、そして抽出と保存を極限まで高める超高純度触媒と安定化媒体……。これで完璧な『即時精製キット』が完成したな)
急性の高熱や激しい気管支炎から、慢性の自律神経の不調、さらには過酷な環境での急激な体調崩れに至るまで、あらゆる症状に対して即座に最適解の「薬」を処方できる環境が完全に整った。
目的を完璧に果たしたアレンは、満足して振り返った。
「用は済んだ。元の市場に戻る」
「お、お見送りいたします……! 神託の使者様……!」
平伏する神官たちをあとに、アレンは何事もなかったかのように地下大保管庫を後にした。
陰で彼を観察していた法皇庁の者たちは、国宝を奪われるどころか、保管されていた素材の質まで高めて去っていったアレンの圧倒的な「神技」に、もはや恐怖すら覚えて深々とひれ伏すのだった。




