第110章:温泉宿の夜と、無自覚なデバッグ作業
神の間から現実世界の森へと戻ってきた俺は、異世界人の悲惨な歴史と神の身勝手な愚痴に軽くため息をつきつつ、元の木漏れ日が差す『ささやきの森』の小道に立っていた。
目指すは、ささやきの森の深部にある温泉村(国境防壁手前の宿場町)の宿だ。
「……ふう。要するに、あそこの世界構造がガタガタになってるから、俺に歪みを直せってことか。まったく、どいつもこいつも他力本願なこった」
影の領域で、かつての転移者「サトオ」の遺産である『万物鑑定』の残影が、うるさい音声出力を遮断されたまま、ジジジと静電気のようなノイズを立てて収まっている。
俺はそれを無視して、数日間の長旅で凝り固まった肩を回した。
「ま、いい。まずは予定通り、あの村の温泉で汗を流すのが先だ」
足早に森を抜け、俺は国境防壁の手前にひっそりと佇む小さな温泉村へと足を踏み入れた。
辺境の村とはいえ、湧き出る温泉を利用した宿場町はそれなりに活気があり、硫黄の香りが心地よく鼻腔をくすぐる。
旅人向けの古びた宿屋の戸を叩くと、人の良さそうな宿の親父が顔を出した。
「おや、珍しい旅の御仁だねぇ。空いてる部屋は……っと、一番奥の湯治用の離れならあるよ」
「そこでいい。一泊と、あと晩飯を頼む」
銀貨を数枚放り投げ、俺は鍵を受け取ると、さっそく湯気立ち込める温泉へと向かった。
板張りの浴室には、白濁した湯がトクトクと湯船を満たしている。服を脱ぎ捨て、ドブンと肩まで浸かった瞬間、全身の筋肉に溜まっていた疲労が一気に溶け出していくのを感じた。
「ふあぁ……生き返る……」
理の書き換えだの、神の間の茶番劇だので酷使していた頭や神経が、温熱効果によってゆっくりとほぐれていく。
だが、リラックスしている最中も、俺の頭の片隅では無意識の魔力制御が走り続けていた。
(この温泉、湯量の割に源泉の温度が妙に一定すぎるな。地下の地熱脈が熱源になっているのか……いや、構造的に熱の逃げ道が多すぎる。ちょっといじるか)
職業病というか、目の前の非効率な構造を見るとどうにかしたくなる悪癖だ。
俺は湯船に浸かったまま、右手の指先で微量の魔力を宙に走らせ、浴室の地下深くを流れる熱源の魔導回路へこっそりと調整を加えた。
ガチッ、と微かな歯車の音が地下から響いた直後。
「――っぶねえ!?」
ドバッ! と、湯船の底から一瞬だけ沸騰したような激しい熱湯が噴き出し、危うくゆでダコになるところだった。
「おっと、魔力の流しすぎか。出力を少し落として、っと」
慌てて出力を絞り込むと、湯船の温度は絶妙な「41度ジャスト」の極上コンディションに固定された。
その結果、この村の温泉は翌日から「入るだけで疲労物質が消え去り、古傷まで治る奇跡の霊泉」として、大陸全土から観光客が押し寄せる一大リゾートへと変貌を遂げることになるのだが、今の俺はただ、極上の湯加減に目を細めて「ふふ、完璧な温度管理だ」と一人満足していただけだった。
風呂から上がり、宿の食堂で出されたのは、素朴な塩焼きの川魚と、ほかほかの雑穀スープ……ではなく、いつもの硬い黒パンと乾燥肉だ。
「まあ、文句は言うまい」
俺は黒パンをスープに浸してかじりながら、窓の外に広がる星空を眺めた。
神の間にいた「神」の言葉が、脳裏によみがえる。
――世界の崩壊を防ぐために最小限の歪み修正を外注された。
(俺のやっていることは、あの神の仕事と本質的に変わらないわけか。面倒なところを見つけて、勝手に直して、誰にも感謝されないまま日常に戻る……と)
一口のスープを飲み込み、俺は苦笑した。
「泥臭い職人仕事より労働環境が酷いじゃないか。……ま、報酬のアイテムボックスが手に入るまでは、付き合ってやるとするか」
漆黒の夜の帳の下、聖都や神界の連中がどんなに頭を悩ませていようとも、俺は目の前の硬いパンを淡々と咀嚼し、明日の調査に向けた体力の回復に集中するのだった。




