第99章:秘薬の調合と、不本意な成分 数日後。
アレンの元に、ベルンハルト侯爵家の執事を通じて一通の手紙が届けられた。
差出人は、あの夜のパーティですれ違った武門のエリート、エレーナ・ベルンハルト本人だった。
封を切ると、丁寧な謝辞に続いて、後半にはいかにも「なんてことない雑談」のような体裁で彼女の悩みが綴られていた。
――肌の乾燥、まとまらない髪、冷え性。自分だけでなく、周囲の友人たちも口を揃えて同じような不調に悩まされていると。
アレンはその手紙に目を通すと、「ふむ」ふんわりした、いつもより弛緩した表情でそれを机の上に置いた。
血流の循環不全、あるいは微量栄養素やホルモンバランスの揺らぎに起因する現代的な不定愁訴。
生理学のデータとしては極めてありふれたエラーだが、誇り高い侯爵令嬢がわざわざそんな私的な悩みを他人に漏らすというのは、よほど日々のパフォーマンスを削られてイライラしている証拠だろう。
「まあ、人間という有機物のメンテナンスは面倒だな」
心の中でそう呟きながらも、アレンはその情報を脳内の片隅――いつか使うかもしれない一時メモリへと格納したのだった。
*
それから数日後。アレンの姿は、アルカディア魔法帝国の中枢にある中央書庫の一角にあった。
いつでも国家最高機密の禁書を閲覧できる特権を手にしていながら、アレンはあえてそれを急ぐことはしない。
知の探求とは、シークエンスを一段階ずつ踏むからこそ意味がある。今はただ、一般の書架を気ままに巡り、この世界の基礎物理や魔導の歴史的データを回収している最中だった。
ふと、視界の端に一冊の古びた薬草調合の書物が引っかかった。
何気なしに手に取り、ページをめくる。
そこに記されていたのは、かつて失われたとされる美容と体質改善のための万能調合液のレシピだった。だが、現代の魔導基準や環境ではすでに「調合不能」とされているものらしい。
材料の指定はこうだ。
――綺麗な水、薬草、豆の抽出液、酒、生姜。
そして、最後に付記された「秘密の成分」。それは現在では伝説の幻とされ、一切の入手が不可能とされているものだった。
それは――『天使の涙』。
アレンはその文字を眺め、わずかに首を傾げた。
「ふむ。さすがに入手困難な伝説の成分なんてものは手に入らないが……まあ、分子構造の近似値から逆算すれば、それに準じた血流改善・保湿溶液くらいなら作れそうだな」
脳裏に過ったのは、先日のエレーナの手紙だ。冷え性や肌の乾燥、代謝の低下。
「……お土産にでもしておけば、今後の資料閲覧の際の無駄な社交的摩擦係数がさらに下がるか。ちょうどいい実験材料だ」
そう独り言をつぶやき、アレンが実験用の簡易ビーカーと調合器具に手を伸ばそうとしたその時だった。
――あ、あのクソアレン……! 許さない……絶対に労働基準法違反で天界の裁判所に訴えてやるんだから……ブラック企業よりブラックだよ……
背後から、恨みつらみを呪文のように吐き出し続ける忌々しい金切り声が聞こえた。
見れば、アレンのせいで連日こき使われ、すっかり精神的に摩耗した女神エルエルが、机の端でそのまま力尽きて眠りこけている。
その目尻には、日々の過酷な労働(と理不尽なデバッグ作業)に対するストレスで滲んだ、本物の涙がうっすらと浮かんでいた。
アレンは「やれやれ、相変わらずリソースの無駄遣いが多いプログラムだな」と呆れたように息を吐くと、トコトコと歩み寄り、そっとエルエルの顔を覗き込んだ。
そして、ハンカチを取り出す代わりに、指先でエルエルの頬からその涙をスッとぬぐってやった。
少し考える。
……待てよ、と。
アレンは自分の手元にある、先ほどから作ろうとしている調合液の鍋に視線を落とした。
そして、自分の指先に付着した、今しがた拭い取ったばかりの透明な液体を見つめる。
「……こいつ、一応は天使なんだよな....」
シュールにつぶやきながら、アレンは全く迷うことなく、指先に付いた「女神の涙」を、調合液の入ったビーカーの中へと――ぽいっと無造作に放り込んだ。
瞬間、ビーカーの中で激しい化学反応を示すかのように、調合液が淡く神々しい光を放ち、しかし次の瞬間には極めて安定した分子配列へと綺麗に落ち着いた。
伝説の書物が求めていた本物の「天使の涙」が、まさか目の前の爆睡している自称・管理者のものによって秒速で、しかも極めてぞんざいに調達されてしまったとは知る由もない。
アレンは「よし、これで効能のベース値が物理的限界を超えて跳ね上がったな」と、至って真面目な顔で満足げに頷くのだった。「天使だったんだ....」




