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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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第98章:江戸患いと、全粒粉のクッキー

 盛大なパーティの喧騒の中、アレンの聴覚は過剰な音圧をすり抜け、周囲の貴族たちの小声の雑談を正確に拾い上げていた。


「……本当に、うちの娘はもうダメかもしれませんの……」


「お医者様も原因不明と首を傾げるばかりで……最初はただ怠そうだと言っていたのが、今や歩くこともままならない。食事も喉を通らず、筋肉は衰える一方だ……」


 一組の夫婦の悲痛な囁き。その症状の羅列を聞き、アレンの脳裏で前世の記憶データベースが瞬時に検索される。


 ――倦怠感、食欲不振、下肢の筋力低下、歩行困難。そして、この世界の貴族たちが好んで食べる精製された白亜のパンや上等な白米。


「……江戸患い、か」


 かつて日本で流行した、ビタミンB1不足による脚気かっけ。精製された穀物ばかりを摂取し、ビタミンやミネラルを欠乏させた結果引き起こされる現代病ならぬ現代的栄養失調の一種だ。


 アレンはグラスの酒を傾けながら、その貴族の男にさりげなく声をかけ、詳細な症状を聞き出した上で、後日のアポを取り付けた。


 約束の日。アレンは自室の机に向かい、奇妙な違和感を覚えて首を傾げていた。


「……俺は一体、何をやっているんだ?」


 効率を重んじ、無駄なノイズや他人のトラブルを徹底的に排除してきたはずだ。他人の病気など、自分の知的好奇心や生存最適化には本来なんの利益ももたらさない。


 だが――。


「……まあ、自分の知識にあるもので、ただの栄養失調が直るなら、実験ついでに試してみるか。ダメなら仕方ない、俺は医者ではないのだからな」


 どこか投げやりな、しかしどこか人間味のある言い訳を自分自身にしながら、アレンは料理の計算を始めた。


 症状を聞く限り、現在はすでに重度の食欲不振に陥っている。肉やウナギ、玄米や麦といったビタミンB1豊富な食材は効果的だが、胃腸が弱っている今の彼女にそのまま食べさせるのはハードルが高い。


「なら、手軽につまめて効率よく栄養が摂れる『お菓子』にでもするか」


 アレンは買い出しの際に入手していた材料を机に並べる。


 ビタミンB1とミネラルが豊富な全粒粉の小麦、タンパク質とビタミンを含む豆の粉、そしてこの世界では希少で高価な砂糖。さらに、風味と代謝を促すための少量の酒を隠し味に加え、絶妙なバランスで生地をこね上げ、焼き固めた。


 香ばしい匂いとともに完成したのは、素朴ながらも栄養素が凝縮された特製の「全粒粉クッキー」だった。


     *


 数日後。アレンはその貴族の屋敷を訪れていた。


 ベッドの上でやつれ、虚ろな目をしていた貴族の娘――少女の前に、アレンは包みからクッキーを一つ取り出して差し出す。


「やぁ、初めまして。アレンだ。ちょっと君の家の事情を耳にしてね。お見舞いなんだ。良かったら、これ食べてくれないか?」


 怪訝そうな表情の少女に、アレンは淡々とそれを手渡す。


 少女が恐る恐る一口かじった瞬間――その瞳が驚愕に見開かれた。


「……っ! 甘くて、香ばしくて……不思議な食感……! おいしいわ……っ!」


 食欲不振ですっかり痩せ細っていたはずの彼女が、目を輝かせて次の一口を口プッシュする。その様子を見た両親が、信じられないものを見るような目でアレンを仰ぎ見た。


「よかったら、これ余分に作ってしまったんだ。大量にあるから、毎日5枚くらいずつ食べてほしい」


「えっ、毎日こんな美味しいものを……?」


「あぁ。ただ、一度にたくさん食べると急激な血糖値上昇や消化不良で太ったり腹を壊したりするから、そこは気を付けるんだぞ。用法・用量を守れ」


 医者でも匙を投げた病に対し、謎の菓子を置いて淡々と注意点を言い残し、アレンはそそくさとその場を後にした。


     *


 それから数日後。


 帝都の街や酒場の噂話として、アレンの耳に一つの情報が飛び込んできた。


――あの貴族の令嬢の病が嘘のように快癒し、今や元気に庭を歩き回っているという。


 ただのビタミン不足の解消がもたらした劇的な回復劇。


 酒場でその噂を聞きながら、アレンは「まあ、化学的に当然の結果だな」と心の中で呟き、いつも通りに自分の研究と次の計算へと意識を戻すのだった。

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