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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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116話:波濤の向こうへ

【世界平和会議】


レムリア法皇国の聖都にそびえ立つ大円卓の会議室には、大陸全土の覇権を握る主要国――アルカディア魔法帝国、ゼノリス王国、クレイズ神聖王国、そして主催国たるレムリア法皇国の首脳陣が一堂に会していた。


その上座、あらゆる政治的利害を超越した中心点に位置するのは、渡洋遠征の基幹設計を担うアレンであった。彼がただ静かに座しているだけで、室内には息を呑むような絶対の威圧感が満ちている。


会議の口火を切ったのは、レムリア法皇国の法皇であった。


「――皆様、迅速なご参集に感謝いたします。今回、我が国が緊急の招集をかけた理由……それは、世界の存亡に関わる重大な局面にあります」


法皇の低く力強い声に、円卓を囲む各国の代表たちが一斉に緊張の色を深める。


「神託により確認された。南の大陸において、数百年の沈黙を破り『魔王』が誕生しつつあります。さらに……これほどの巨大な異変の兆候がありながら、現世のどの国家も天体周期の都合上、事態を打破し得る『勇者召喚』の術式を起動することは物理的に不可能――これが、私たちが直面している動かしがたい現実です」


法皇の口から突きつけられた「魔王の誕生」と「勇者召喚の不能」という絶望的な現実。その重すぎる言葉に、各国の代表たちは青ざめ、激しい動揺と恐怖に喉を鳴らした。静かな波紋が広がる会議室を見渡しながら、法皇は続けて核心を提示する。


「この未曾有の脅威に対処するため、我が国は南の大陸へ至るための国家プロジェクトを立ち上げます。すなわち、巨大海獣が蠢く魔海域を突破するための『渡洋遠征』の立案です」


未知の魔海域を越え、魔王の領域へと踏み込むという途方もない計画。しかし、誰もがその壮大さに息を呑む中、法皇は一切の揺らぎのない冷徹なトーンで告げた。


「この遠征における細部の役割分担や資材の提供については、各国の能力に応じた協力を求めます。ですが――全体の舵取り、および今回の遠征における絶対的な指揮権については、すべてアレン殿へ全権委任することに決定いたしました。……異存は認められません」


法皇の絶対的な宣言に対し、円卓の空気は一瞬にして凍りついた。自国の軍権や主導権を完全に手放し、一人の青年へと委ねるに等しいその決定。


しかし――アレンという規格外の存在を目の前にし、その過剰な存在感に平伏している首脳陣にとって、それは反論の余地など皆無の、唯一生存に残された選択肢であった。


自発的な服従。恐怖と現実の前に、言葉を挟む者など一人として存在しない。


こうして、アレンを絶対的な最高司令官とした「渡洋遠征」の全権委任は、静寂による全会一致という名の完全なる服従をもって採択されたのだった。


◇


【波濤の向こうへ】

アレンが差し出した羊皮紙の図面を覗き込み、造船親方は腕を組んだまま鼻を鳴らした。


「ほほう、欲張ったもんだ。マストは2本、一番前にはガフセイルを据え、さらにその上部にフォアコースの横帆を一枚噛ませる――おまけに船体は細く長く、かといって乾舷(かんげん)は低くしすぎず波をかぶらないようにか」


親方は鉛筆を置き、図面の上を太い指でなぞる。


「だが、理にかなっている。細身の船体で波を切り裂きつつ、前檣(ぜんしょう)に縦帆と横帆を組み合わせれば、逆風での切り上がりと順風での推進力の両方が稼げる。外洋のうねりに対しては、乾舷を十分に取って浮力を確保しておけば、甲板に波が這い上がってくる心配もいらねえ」


親方は乾いた笑みを浮かべ、ガシリとアレンの肩を叩いた。


「よし、その構造なら我が国の造船技術ですべて形にできる。ただの連絡船じゃねえ、嵐をいなして荒海を駆け抜ける俊敏な足になるぞ。さっそくこの設計図通りにキールを削り直させよう」


◇


港の奥深く、神聖な静寂に包まれた造船ドックでは、世界平和会議へ赴くための船の建造が急ピッチで進められていた。中立港などという都合の良い場所はない。世界の命運を握るこの船は、レムリア法皇国の厳重な管理下にある国内最大の造船所で、そのキール(竜骨)を据えられていた。


潮風が吹き抜けるレムリア法皇国のドックには、数日前に交わされた取り決めの現実が、材木と汗の匂いとなって充満していた。


「アルカディアからの特選木材だ。長期間の塩害に耐えるよう、樹脂の二度漬けと徹底した窯焼き乾燥が施されている。キールの補強に回せ!」


レムリアの親方が声を張り上げ、クレイズ神聖王国から派遣された腕利きの造船技師へと指示を飛ばす。「ゼノリス王国が提供した強靭な麻縄と帆布は、すでに巨大な倉庫からドック脇へと山積みにされていた。


会議で各勢力が率先して支援を誓い合ったのは、口先だけの外交辞令ではない。ゼノリスの職人が持ち込んだ独自の木組みの継ぎ手技術と、レムリアの伝統的な竜骨の据え付け法が組み合わされ、ドックの底では国境を越えた職人たちが怒号と槌音を交わしながら船体を組み上げていっていた。


アルカディアの硬質木材とレムリアの重厚なオーク材が、各国の技術を総動員した木釘と組み手によってガッチリと噛み合わされ、外洋の荒波をも飲み込むような圧倒的な質量を持つ木造船の骨格が、確かな手触りを持って形作られていく。


「これだけの材と技術があれば、どんな嵐が来ようとも折れやしないさ」


クレイズから来た技師が、汗にまみれた額を拭いながら誇らしげに笑う。会議室の机上で結ばれた同盟と支援の約束は、いまやこの巨大な木の骸のなかで、確かな血肉を通わせ始めていた。


やがて、幾重もの木組みが組み上がり、美しい流線型の船体が姿を現す。

マストが天を突き、巨大な帆が風を捉える準備を整えたその日、出航に向けた人選も最終局面を迎えていた。


レムリア法皇国の造船責任者を筆頭に、各国から集まった腕利きの船大工や操舵士たちが航海チームの結成を宣言する。そしてその船腹には、アルカディア、ゼノリス、クレイズ、レムリア――四大国の未来を背負う外交使節団の面々が続々と乗り込んでいった。


それぞれの思惑と、しかしそれを越える「平和」への願いを乗せた純木造船は、静かに係留綱を解かれ、世界平和会議が待つ未知なる海原へと、雄々しく舵を切ろうとしていた。


アレンは舵輪に軽く手を添え、白い飛沫を上げて波を切り裂く船首を見据えながら、どこか懐かしむような低いつぶやきを漏らした。


「これがスクーナーってやつだよ」


その言葉に、隣で帆の張りを確かめていた造船親方が怪訝そうに眉をひそめる。


「スクーナー? なんだ、その妙な響きの名は。この国じゃ聞いたことがねえが、お前さんの故郷の呼び名か?」


アレンは答えず、ただ微かに笑って水平線の彼方を睨んだ。かつての知識と、この世界の木造技術が噛み合わさって生まれたこの俊敏な帆船は、今まさに、あらゆる思惑を乗せて歴史の海原へと滑り出していた。


【荒海への二週間】

レムリア法皇国の白亜のドックに繋がれた新造船の周囲には、いつの間にか張り詰めた空気が満ちていた。海風が真新しいマストを鳴らし、張られたばかりの麻の帆を重々しく揺すぶる。


未知の大陸を目指すこの船を動かすため、海に面した国家であるレムリア法皇国とゼノリス、そして内陸に拠点を置くアルカディア魔法帝国やクレイズ神聖王国から、各分野のエキスパートたちが招集されていた。


甲板の一隅で、ゼノリスから派遣された若い航海士が真鍮の四分儀を手に取り、太陽の光を反射させながらレムリアの老練な水夫へと説明を飛ばす。


「いいか、測位の基本はこうだ。まず天体の高度を正確に測定し、同時に時間を記録する。次に、天体が真上を通る地点――緯度Xを基準にして現在の推定位置を割り出す。この二つを照らし合わせれば、俺たちが今どこにいて、どちらを向いているかの方位と緯度は自ずと弾き出せるはずだ」


教わる側の水夫が険しい顔でうなずき、手元の海図にコンパスを走らせる。

海図の上で交差する線は机上の空論ではない。これから待ち受ける外洋の荒波、果てしない水平線のなかで命綱となる唯一の計算式だった。


「理論はそこまでだ。問題は、この揺れる甲板の上で足を踏み外さずにそれをやれるかどうかだな」


低くしわがれた声とともに現れたのは、今回の航海で総指揮を執るレムリア出身の老船長だった。その肌は長年の潮風と紫外線に焼き尽くされ、海の気配や海獣の気配を誰よりも早く嗅ぎ取る鋭い眼光を宿している。


船長がドックの柵を叩くと、甲板のあちこちで怒号と足音が跳ね上がった。


出航まで与えられた訓練期間は、わずか2週間。


総勢16名の乗組員たちは、国籍の壁を越えて過酷な分業体制に組み込まれていた。

舵を握り、風の道を一寸の狂いもなく読み解くのは、ゼノリスとレムリアの海を知り尽くした航海士・操舵手たち(3名)。

そして、前檣に据えられたガフセイルと上部のフォアコースセイルを操り、荒波の中で迅速なタッキング(方向転換)を完遂させるため、アルカディアやクレイズから駆り出された頑強な甲板員・操帆手たち(10名)が、ロープの引き回しを何百回と繰り返していた。

さらに、長旅の命を守る船医と調理員(2名)が、塩害対策の保存食や真水の配分を厳しく管理する。


「おい、そこの横帆の引き込みが緩いぞ! アルカディアの魔法仕込みの硬い木材で作ったマストだからって、帆が風を逃したらこの細身の船体は一発で持っていかれるんだ、腕を引け!」


ゼノリスの航海士の叱責が飛ぶ。

はじめは互いの国の言葉のなまりや、勝手の違いに戸惑い、足並みが乱れることも少なくなかった。しかし、幾度も繰り返される過酷な帆走訓練のなかで、怒号は自然と息の合った掛け声へと変わり、国旗の違う男たちの手が同じロープを引き締めていく。


「よし、今の風変わりを見逃すな! 舵をわずかに右へ!」

「応っ!」


船体がキィキィと心地よい木質の悲鳴を上げ、鋭い峰のような波を切り裂いていく。

2週間の地獄のような訓練の果てに、ただの寄せ集めだった者たちは、一つの魂を持つ「船乗り」へと変貌を遂げていた。


出航の日は、もうすぐ目の前まで迫っていた。



【三十日の境界線】

出航の刻が訪れた。


レムリア法皇国のドック脇には、アレンが事前に指示を出してかき集めさせた膨大な物資が積み上げられていた。


柑橘類の芳醇な香り、塩漬けにされた干し肉の重々しい匂い、そして厳重に封をされた樽詰めのビール。長旅における食糧不足だけでなく、理由の分からぬ体調不良や病に倒れる船乗りを一人でも減らすため、アレンがこだわって用意させた保存食の数々だった。


「酒と肉はわかるが……この大量の柑橘類は何なんだ? 船員に贅沢でもさせたいのか?」


レムリアの老船長が眉をひそめながら樽を突く。


「いや、命綱だよ。長い航海で身体が腐っていくのを防ぐためのね」


アレンの言葉に、船長は半信半疑といった様子で鼻を鳴らしたが、それ以上の追及はせず手際よく積み込みの指揮を執った。ゼノリスやレムリアの航海士たちも、樽の配置や船体の重量バランスを細かく確認し、船腹へと収めていく。


すべての準備が整い、十六名の乗組員と四大国の使節団が甲板へと揃う。


アレンは船首に立ち、白波が砕ける水平線の彼方を見据えた。


「さぁ、出発だ」


その声に合わせ、老船長がドック全体に響き渡る大声を張り上げた。


「もやい綱を解け! 帆を揚げろ――っ!」


合図とともに、前檣のガフセイルと上部のフォアコースセイルが風を孕んで大きく膨らむ。風力を巧みに捉えた細身の船体が、キィと木質を鳴らしながら滑らかに加速し、レムリアの白亜の港をあとにした。


アレンは隣に立つ航海士と船長に向き直り、静かだが固い口調で告げた。


「ここから三十日航行して陸地がない場合は、一旦引き返そう」


「三十日か……」


船長は真鍮の四分儀を握り直し、ゆっくりとうなずいた。


「了解だ。毎日正午に四分儀で位置を割り出し、緯度と方位を記録する。水と食糧、そしてそのミカンとやらも計算しながら配分しよう。命あっての平和会議だからな」


二週間の猛訓練を耐え抜いた十六名の船乗りたちが、一斉に己の持ち場へと散っていく。

各国の思惑と、未知なる外洋への緊張感を乗せた純木造のスクーナー船は、三十日という猶予を胸に刻み込み、青黒い波濤がのたうつ大海原へとその船首を突き進ませた。


【風を追う刃】

出航から数日が経ち、船は順調に外洋の青黒い波を滑っていた。


甲板の全容を見渡せば、この船がいかに異常な割り切りで作られているかがよく分かる。左右の舷側に並ぶべき重々しい砲門の影はどこにもない。大砲や砲弾、火薬の樽といった莫大な重量物は一切排除されていた。


「おいおい、本当に大砲の一門も積まねえなんて、正気の沙汰じゃねえぞ」


クレイズから来た甲板員が、何も置かれていないすっきりとした舷側を叩きながら溜息をついた。


「もし海賊や凶暴な海獣に補足されたらどうするんだ? 船首についてるその竜の『船首像』と、気休め程度に突き出た『ラム(突撃角)』で突っ込む気か?」


「突っ込むわけないだろ。役に立たないよ」


アレンは呆れたように笑い、前檣の帆を見上げた。


「基本は逃げる。追いつかれなきゃ撃たれることも、乗り込まれることもないんだ」


「逃げる、か……」


「そうだ。重い鉄の砲や火薬を全部捨てたおかげで、この船の吃水(きっすい)は驚くほど浅く、船体は軽い。この細身のスクーナーに全速で風を孕ませれば、この海のどんな重装甲船も引き千切ることができる」


アレンの言葉を裏付けるように、隣で舵を握るゼノリスの操舵手が自信ありげに不敵な笑みを浮かべる。


「その通りだ。戦うための大砲なんて、俺たちの足を引っ張る重石にしかならねえ。風の道を読み、敵の射程の外を最速で駆け抜ける――それがこの船の唯一にして最強の防衛手段だ」


敵と殴り合うための装甲も火力を捨て、ただひたすらに「速さ」と「航続距離」だけに全てを捧げた木造船。


白波を切り裂き、飛ぶような速度で進むその船体は、追撃を許さぬ一筋の矢となって、見渡す限りの地平線へと向かって突き進んでいった。


果てしない水平線が広がる外洋へ出て十日が過ぎた頃。風を切るスクーナー船の甲板には、独特の緊張感が漂っていた。


アレンは甲板の最前線に立ち、静かに自身の能力――『鑑定』を発動させる。


彼の視界には、物理的な海面だけでなく、前方および左右各三十度の扇状に広がる領域が不可視の領域として認識されていた。水面下に潜む巨大な生体反応や、異様な力学を孕んだ海の「波動」を、視界と感覚の双方で正確に捉え直していく。


「――前方、および左右三十度、クリア。だが油断するな、深層の気配を常に警戒する」


アレンが低い声で指示を飛ばす。


この過酷な外洋航海において、乗組員たちが無事に故郷へ帰還(帰省)できるよう、アレンは出航前から万全の安全策を講じていた。その象徴が、メインマストの最上部に増設された「高層見張り台(クロウズ・ネスト)」だ。


高い視界から海面を遠望できるこの高所施設は、荒波の中で巨大な海獣が背ヒレを覗かせたり、水面の波立ちが不自然に変化する瞬間をいち早く察知するために作られた、まさに命綱であった。


「見張り台、周囲の潮目と影に異常はないか!」


アレンの怒号のような問いかけに、高層見張り台に陣取ったレムリアの若い水夫が、望遠鏡を握りしめながら必死に叫び返す。


「異常なし! 前方三マイル、海面に不自然な浮き上がりは見られません!」


「よし、そのまま視界を落とすな! 海獣の接近を許せば、大砲を持たないこの船に二度目のチャンスはないぞ!」


アレンの『鑑定』による精密な探知と、高層見張り台からの広域目視。この二重の警戒網こそが、火力を完全に削ぎ落とし「速さ」だけに特化したこの船が、海獣の脅威を回避して無事に目的地へと到達し、そして全員で生きて故郷へ帰るための、最も確実な防衛策であった。


【北の暖土】

出航から二十八日目。


水平線の彼方に、歪な影が浮かび上がった。


高層見張り台からの「陸地発見!」の叫び声に、甲板で四分儀を握っていた航海士たちが歓声をあげる。三十日という限界の期日を目前にして、ついに未知の大陸へと到達したのだ。


しかし、船が接近するにつれて船乗りたちの表情は強張っていった。


目の前に広がる海岸線は、険しく切り立った断崖絶壁と荒々しい礁湖(ショウコ)に阻まれている。この細身で吃水の浅いスクーナー船であっても、直接寄せられるような港や穏やかな砂浜はどこにも見当たらなかった。


「裏目に出たか……船をつけられる場所がどこにもねえぞ」


老船長が苦い顔で望遠鏡を覗き込む。


だが、アレンは静かに首を振った。絶壁の向こうから吹き寄せてくる風は、北方の海域とは思えないほど微かに温かく、豊穣な土と緑の匂いを孕んでいる。


「ここでいい。船をこれ以上近づけるのは危険だ」


アレンは甲板に用意させた一艘の小さな木造小舟へと視線を落とした。


「俺一人で小舟で上陸する」


「一人でだと!? 馬鹿を言え、いくらなんでも危険すぎる!」


驚愕する船長と乗組員たちに向き直り、アレンは揺るぎない声で告げる。


「相手は魔王やその配下が蠢く未知の大陸だ。大勢で乗り込めば敵に存在を察知され、逃げ場を失う。まずは俺が単身で潜入し、状況を探る。……船長、約束をしよう」


アレンは水平線と、波間に揺れる自船のスクーナーを見つめた。


「半年後だ。半年後の同じ日に、この海域へ俺を迎えに来てほしい」


「半年……」


船長はアレンの瞳の奥にある決意を汲み取り、深く息を吐き出すと、ガシリとアレンの拳を握りしめた。


「分かった。半年後……何があろうと、この船とこの十六名の乗組員で、必ずお前を迎えにここへ戻ってくる。それまで死ぬなよ」


アレンは短く頷くと、最低限の装備を載せた小舟を静かに海面へと下ろした。

オールを握り、打ち寄せる波を掻き分けて断崖の続く陸地へと向かって進み出す。


背後では、四大国の希望と技術を結集させたスクーナー船が、ゆっくりと船首を翻し、引き返していくのが見えた。


温かな風が吹き抜ける岸壁の隙間――小さな岩場へと足を踏み入れたアレンは、未知なる大陸の深遠へ向かって、静かに一歩を踏み出した。



【緑の帳と小さな焚火】

潮騒が遠のき、断崖の隙間を慎重に迂回しながら登りきると、視界が一気に開けた。


そこに広がっていたのは、柔らかな暖風にそよぐ一面の草原だった。


北方の海域にある陸地とは思えないほど穏やかな日差しが注ぎ、青々とした草の匂いが鼻腔を突く。アレンは足を止め、広大な緑の先に目を向けた。草原の向こうには、深く鬱蒼とした森がどこまでも広がっている。


「……さて」


アレンは息をひとつ吐き出し、背の荷を軽く背負い直すと、静かに森の中へと踏み入っていった。


大樹の葉が光を遮り、心地よい木漏れ日が地面を斑(まだら)に染めている。魔王が君臨すると言われる大陸の深部――だが、アレンに焦る色は一切なかった。半年後の約束の日まで、時間は十分に余っている。


アレンは手頃な開けた木陰を見つけると、足を止めた。

足元に転がる乾いた枝や落ち葉を手際よく集め、小石で火花を散らして小さな火を起こす。


メラメラと小さな赤が立ち上り、爆ぜる木はぜの音が静かな森に響いた。


アレンは手に持った小石と枝を見つめ、苦笑いを浮かべた。


「火魔法はあえて使わないか……キャンプみたいでいいじゃないか」


落ち葉に小さな煙が立ち上り、ふっと息を吹きかけると、赤く小さな火種が生まれた。手作業で起こした火の揺らめきと暖かさが、静かな森の暗がりをじわりと照らしていく。


アレンは腰を下ろし、火の温もりを感じながら干し肉を取り出した。急ぐ必要などどこにもないと言わんばかりに、彼はゆったりとした手つきで干し肉を炙り、静かに旅の羽を休めた。


【街道と城塞都市】

干し肉を味わい、久々の硬い陸地の感覚を存分に堪能したアレンは、立ち上がると軽く息を整えた。


「さて、そろそろ動くか」


足裏に魔力を集め、身体強化を発動させる。極限まで跳ね上がった脚力により、先ほどまで静寂に包まれていた森の木々が、まるで後方へ飛ぶように流れていった。枝を掠めるかすかな風切り音を残し、アレンは一瞬で鬱蒼とした森を駆け抜ける。


やがて木々の隙間から眩い光が差し込み、森林地帯を抜けた直後――アレンの眼前に、予想だにしない光景が広がった。


「これは……」


アレンは思わず足を止め、目の前の地面を見下ろした。


そこに広がっていたのは、踏み固められた明らかな「街道」だった。さらにその土の上には、荷車や馬車の重みによってつけられた深い車輪の跡(轍)がくっきりと残されている。ごく最近、何者かが生活や物流のためにここを通り抜けた動かぬ証拠だった。


魔物の蔓延る野蛮な魔大陸という想像を鮮やかに裏切る、文明の匂い。


アレンは気配を消しつつ、街道に沿って静かに歩みを進めた。緩やかな丘をひとつ越えると、その先に目的のものが姿を現した。


「……街、か」


視界の先に見えたのは、頑丈そうな石造りの城壁にぐるりと囲まれたひとつの「都市」だった。門には番兵が立ち、壁の内側からは人々の生活の活気が伝わってくる。


防衛のための高壁、入り口の検問、そして均整の取れた街並み――。

それは、アレンがこれまで見てきた「人間の国の都市」と、何一つ変わらない構造をしていた。


異形が跳梁跋扈する混沌の地だと思っていた魔大陸で、アレンは人間社会と酷似した静かな秩序と対面することとなった。


【通行料と金貨の小粒】

アレンは気配を殺しながら門へと近づき、検問に立つ番兵の姿を注意深く観察した。


頑丈な鎧に身を包んだその巨躯――頭部から生える立派な二本角と、牛の頭部。


「(……ミノタウロス、か?)」


人間の国の城塞都市と酷似した外観とは裏腹に、そこに立っていたのは人間ではなかった。魔大陸という名の通り、都市を守っているのは亜人や魔物と呼ばれる存在だったのだ。


正体がバレぬよう慎重に距離を詰め、周囲の様子を伺う。すると幸運なことに、商人らしき通行人と番兵のやり取りから聞こえてきたのは、アレンが聞き慣れた言葉(共通語)だった。言葉が通じるというだけで、情報収集や潜入の難易度は一気に下がる。


アレンがそのまま列に並び、自分の順番が回ってきた。


巨体の番兵が低い鼻息とともに、上からアレンを見下ろしてくる。


「入門は身分証! なければ銀貨1枚だ!」


声は低く、ややぶっきらぼうな物言いだったが、荒々しい見た目に反してルールに基づいた規律ある検問を行っているようだった。


だが、アレンは心の中でそっと溜息をついた。


「(……あぁ、またこのパターンか)」


頭に浮かんだのは、かつて学園都市へ足を踏み入れた際、現地の通貨を持ち合わせておらず立ち往生した過去の記憶だった。どれほど大陸を渡り、強大な力を得ようとも、この「現地通貨がない」という展開からは逃れられないらしい。


もちろん、この都市で流通している銀貨など持っているはずもない。


アレンは困惑したような素振りを装いながら、ポケットへと手を突っ込んだ。そして意識の奥にある『ストレージ』へとアクセスし、その中から手頃なサイズの金の小粒をひとつ指先で摘み出す。


ポケットから取り出すふりをして、アレンはその金の小粒を手のひらに載せ、番兵へと差し出した。


「すまないが、今はこれしかないんだ。これで通してくれないか?」


差し出された黄金の小粒を見た瞬間、ミノタウロスの番兵の大きな複眼がぎょっと丸くなった。


「っ……!? お、おつりは出ねぇぞ!」


巨大な手でひったくるように金の小粒を受け取ると、番兵は周囲の目を気にするようにコソコソと懐へ押し込み、低い声で威嚇するように言った。銀貨1枚の入国料に対して、金の小粒など破格の過払いだ。手に入れた幸運に興奮しつつも、目の前の男に文句を言わせまいと身構えている。


そんな番兵の慌てぶりを見ながら、アレンは穏やかに微笑んだ。


「あぁ、構わないさ。その代わり、ここでお金を簡単に稼ぐ方法を教えてくれたら、おつりは君のものだ」


「な……!?」


思いがけない申し出に、番兵は二本の立派な角をぴくりと揺らし、改めてアレンの顔をまじまじと見つめ直した。単なる身元の怪しい旅人かと思ったが、顔色ひとつ変えずに金を払い、対価としてごく自然に情報を求めてくる手慣れた様子に、少し毒気を抜かれたようだ。


番兵は太い指で顎を掻きながら、声をさらに一段落として呟いた。


「……フン、物好きな人間だ。まあいい、金主様のお望みだ。手っ取り早く金を稼ぎたいなら、街の中央区にある『ギルド』に行け。怪我をしたくねぇなら薬草採取、腕に自信があるなら魔物退治の依頼がごまんと転がってる」


そこまで言うと、番兵は鼻息をフシューッと吹き出し、満足そうに鼻を鳴らした。


「それとな……ここだけの話だ。この領地を治めておられる『ユーリ伯爵様』は、領内の整備や書物の整理なんかの『雑務作業』にも破格の報酬を出してくださる。ドジな執事や文官どもがしょっちゅう手違いで人手を募集してるからな、運が良ければそこで一儲けできるかもしれんぞ」


「伯爵……」


聞き覚えのある人間の統治職(爵位)の名に、アレンの目が微かに光る。魔物の街で「伯爵」という制度がごく自然に機能していることに、彼は興味を惹かれた。


「よし、良い情報を聞いた。ありがとう」


アレンが軽く手を振って門をくぐろうとすると、ミノタウロスの番兵はニヤリと牙を覗かせ、ぶっきらぼうに背中へ声をかけた。


「おい! 街の中で騒ぎを起こすなよ、人間! 次からはちゃんと銀貨を用意しとけ!」


一銭も持たずに足を踏み入れた未知の城塞都市。だが、アレンの手元には早くもユーリ伯爵へと繋がる興味深い糸口が転がり込んでいた。





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