113話:前理事長の悲鳴と、気楽すぎるパートナー申請
ゼノリス王国第一魔法学園——世界中の英雄や王公貴族の子弟が集うその最高峰の学府では、年に一度、世界各国の首脳陣が一堂に会する一大式典兼世界会議、通称『学園祝賀会』が恒例行事として執り行われていた。
かつては各国の国威発揚と外交的な探り合いの場であったその式典も、今や「世界の真の支配者」たるアレンを讃え、その機嫌を窺うための国家規模の巨大イベントへと変貌を遂げている。
ルードヴィヒ伯爵領の静かな平屋。そのリビングのテーブルの上には、差出人の欄に『ゼノリス第一魔法学園 前理事長』と記された、涙で滲んだような羊皮紙の封書が置かれていた。
手紙の内容は、ただひたすらに痛切な懇願であった。
『アレン理事長、どうか……どうか今年度の祝賀会にもご出席ください! 各国の首脳陣や法皇様、果ては帝国の皇帝陛下までもが「アレン様に謁見できぬ式典など意味がない」と開催前にして本国へ引き揚げかねない状況なのです! 私の胃の寿命と世界の平和のため、何卒ご臨席を……!!』
「……前理事長も、相変わらず胃が大変そうですね」
ハーブティーを一口すすり、アレンはハァと薄い溜息をついた。
出席すること自体は別に構わない。学園の運営費やトーナメントのライセンス料の回収口座の確認など、現場で処理したい事務仕事もいくつかあったからだ。しかし、手紙の最後に書かれていた「なお、本式典は最高格の国際公式行事となりますため、パートナー(伴侶または婚約者、あるいはそれに準ずる令嬢)の同伴が義務付けられております」という一文が、実に面倒くさかった。
(パートナー、か……。後でローゼやセレスティアに知られたら面倒なことになりそうだな)
余計な修羅場や感情の摩擦は、事務作業の効率を著しく低下させる。
思考を巡らせたアレンは、最も低リスクで、後から文句を言われた際にも論理的な弁明が通りやすい選択肢を一つ選んだ。
「ミルフィでいいか」
その日の夕刻、アレンはルードヴィヒ伯爵邸の豪華な応接室へと足を運んでいた。
突然の訪問にもかかわらず、伯爵夫妻と兄のヴァルター、そしてミルフィが勢揃いしてアレンを出迎える。
「やあ、ミルフィさん。今、少しお時間大丈夫ですか?」
「な、何よ急に改まって……。変な用件じゃないでしょうね?」
身構えるミルフィに対し、アレンはポケットから一枚の招待状を取り出し、極めて淡々と事情を説明し始めた。
「実は今度、ゼノリス第一魔法学園で恒例の祝賀会……実質的な世界首脳会議が行われるのですが、前理事長から必死の出席要請が来ましてね。私も顔を出すことにしたのですが、どうやらパートナーを一人同伴するのがマナーらしいのです」
「は……? パートナー……!?」
ミルフィの顔がカッと熱くなり、語気があらぬ方向へ跳ね上がる。
「な、何言ってるのよ急に!? パートナーって……それって社交界じゃ、ほぼ『そういう関係』だって公表するようなものじゃないのーっ!!」
「ええ、ですから後からローゼさんやセレスティアさんに『なぜ自分を誘わなかったのか』と追及された際、変な誤解や感情的なトラブルを生ませないために、包み隠さず事情を話しているのです」
アレンはどこまでも事務的に、指を折り折りしながら参加予定者のリストを読み上げていった。
「今回の出席者ですが……まずはゼノリス王国から国王陛下。アルカディア魔法帝国からは皇帝陛下と第一王子。レムリア法皇国からは法皇様と丞相。クレイズ神聖王国からは国王陛下。ならびに各国の主要な高位貴族たちが一堂に会する予定です」
アレンの口から淡々と吐き出される、世界を動かす最高権力者たちの名の大洪水。
その言葉を聞いた瞬間、応接室の空気が氷結した。
ソファに腰掛けていたルードヴィヒ伯爵、母である伯爵夫人、そして兄のヴァルターの三人が、まるで時間が止まったかのようにピキリと固まった。
「……各国の、皇帝……法皇……国王……?」
伯爵が、カクカクとした機械仕掛けのような動作で首をアレンの方へと向けた。その瞳は完全に焦点を失っており、顔からは血の気が引いている。
アレンはそんな伯爵家の硬直には全く気づかない様子で、ミルフィへ向けて優しく、しかし至極気楽に語りかけた。
「というわけですので、一緒に来ていただけますか? ミルフィさんなら気心の知れた間柄ですし、変な気を遣わずに済みますから。……お願いできるかな?」
「〜〜〜〜〜っっ!?」
『お願いできるかな?』というアレンの破壊力抜群の言葉と、その背後に控える「世界首脳陣総出」という規格外すぎるスケール。ミルフィは顔を熟しきったトマトのように真っ赤にし、声にならない悲鳴を上げながら両手で顔を覆った。
「な、ななな何言ってるのよバカ!! 参加者のメンツが国家滅亡レベルじゃない!! 私みたいな田舎伯爵家の令嬢がそんな世界の頂点みたいな席に出て行けるわけないでしょーーーっ!!」
パニックを起こして断ろうとするミルフィ。
だが、その瞬間だった。
ガタリ……と、まるでゼンマイが切れかけたカラクリ人形のような音を立てて、父であるルードヴィヒ伯爵が立ち上がった。
その顔は蒼白で、目は半開き、全身をカタカタと震わせている。
「お、父様……?」
ミルフィが恐る恐る振り返ると、伯爵は固まった表情のまま、機械のような棒読みの声で一言、言い渡した。
「……行ってこい」
「えええええええっ!? お父様!? 今のメンツ聞こえてた!? 皇帝とか法皇とか勢揃いなのよ!?」
「黙りなさいミルフィ……!」
兄のヴァルターもまた、白目を剥きかけた顔でミルフィの肩を両手で強く掴んだ。その手は生まれたての小鹿のようにガクガクと震えている。
「これは……我がルードヴィヒ伯爵家の、いや、世界の命運がかかった一大事だ……! アレン殿のお供を辞退するなど、我が家が世界から蒸発させられかねん……! 行くんだミルフィ! 我が家の総力を挙げて最高の一着を仕立てさせるから!!」
「お母様も応援していますわ……! 夫婦揃っての世界首脳会談へのご出席……これ以上の誇りはありません……!」
「だから夫婦じゃないって昨日の夜から言ってるでしょーーーーーっ!!」
絶叫するミルフィの横で、アレンは「では、当日のドレスの手配等はよろしくお願いしますね」と爽やかに微笑み、冷めかけたハーブティーを一口すするのだった。
世界を揺るがす最悪に豪華な祝賀会へのカウントダウンが、こうして静かに(そして賑やかに)始まったのである。
祝賀会当日。ルードヴィヒ伯爵邸の広間は、朝から戦場のような緊迫感に包まれていた。
「いいか、裁縫師! 糸一本のほつれも許されんぞ! 我がルードヴィヒ伯爵家の誇りと世界の平和がこの一着にかかっているのだ!」
「お母様、刺繍の配置はこれでよろしいでしょうか!? 世界首脳陣の視線に耐えうる輝きでしょうか!?」
父と兄、そして母が血眼になって指示を飛ばし、王都から呼び寄せられた最高峰の仕立て屋たちが束になって完成させたドレス。それは、ルードヴィヒ伯爵家の財力と総力が注ぎ込まれた、まさに至高の逸品だった。
身支度を終えたミルフィが、おそるおそる居間の扉を開ける。
そこに立っていたのは、普段の元気いっぱいな彼女とは一線を画す、息むような美しさを纏った一人の令嬢だった。
ドレスの色は、ルードヴィヒ領の豊かな葡萄と夜空を思わせる、深みのある濃い瑠璃色。極上のシルク生地が光の加減で艶やかに揺れ、胸元と裾にはバルツァ・ラボ特製の繊細な魔導刺繍が施され、歩くたびに星屑のようなほのかな光を放っている。金髪の髪は上品に結い上げられ、普段の活発さに気品と艶やかさが完璧に調和していた。
「あ、アレン……その、お待たせ……」
ミルフィは真っ赤になった顔を背けながら、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。鏡を見た自分自身でさえ緊張で心臓が跳ね上がっていたのだ。アレンがどんな反応をするのか、不安とわずかな期待で胸が張り裂けそうになる。
すでに黒の格調高い礼装(ただし生地は機能性重視の魔導繊維)に身を包んでいたアレンは、ゆっくりとハーブティーのカップを置くと、ミルフィへ視線を向けた。
じっと、頭の先からつま先まで観察するように見つめるアレン。
(な、なによ……黙って見つめないでよ……!『似合わない』とか言ったら絶対に許さないんだから……!)
沈黙に耐えかねたミルフィが拳を握りしめ、言い訳を口にしようとしたその時。
「素晴らしいですね」
アレンは至極あっさりと、しかし淀みのない口調で言葉を紡いだ。
「色彩の選定もルードヴィヒ領の特産を意識していて好感が持てますし、何よりその生地に施された魔導刺繍の波長制御が見事です。着心地を損なわずに微弱な防護結界まで付与されている。……うん、非常に機能的で、ミルフィさんによく似合っていますよ」
「き、機能的……!?」
褒められた嬉しさと、相変わらずの斜め上すぎる評価基準に、ミルフィは脱力して肩を落とした。
「そこは『綺麗だね』とか『可愛い』でいいんじゃないの……? なんでドレスの防護結界の性能を評価してるのよ……」
「もちろん、見た目も非常に魅力的ですよ」
アレンは当然のように付け加えると、すっと自然な動作で右肘を差し出した。
「学園の馬車が到着しています。行きましょうか、パートナー」
「……っ!」
『パートナー』という響きと、目の前に差し出された腕。ミルフィの顔は再び熟しきったトマトのように赤く染まり上がった。
(もう……本当にこの男は……っ!)
ミルフィは心の中で大きなため息をつきつつも、どこか誇らしげに、アレンの腕にそっと自分の手を添えたのだった。
居間の物陰からその光景を見守っていたルードヴィヒ伯爵とヴァルターは、「おぉ……まさに我が家の『奥様』のお姿……」「世界が平和に包まれていく……」と感動の涙を流しながら、固く握手を交わしていた。
◇
【世界の頂点たちの過剰忖度と、一人だけ胃を痛める令嬢】
ゼノリス第一魔法学園の大講堂。
普段は各国の若きエリートたちが集う学園の敷地は、今や各国の王家や聖庁の紋章が入った豪華絢爛な馬車で埋め尽くされていた。
馬車からアレンが降り立ち、続いて腕に手を添えられたミルフィが姿を現す。
「……っ……!!」
馬車を降りた瞬間、ミルフィは喉の奥がヒュッと鳴るのを感じた。
赤絨毯の左右を固めるのは、各国の近衛兵や精鋭の聖騎士たち。そして会場の入り口付近には、歴史の教科書でしか見たことがないような各国の超重要人物たちがズラリと並んでいる。放たれる圧迫感と重圧だけで、立っているのすら怪しいレベルだ。
(無理無理無理!! なんで私こんなところにいるのよ!? 皇帝!? 法皇!? 本物の王様がいっぱいいるじゃないのーーーっ!!)
心の中で悲鳴をあげ、ガクガクと膝を震わせるミルフィ。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
アレンはミルフィを支えるように抱き留めた。その姿はまさしく婚約者を愛しむ姿へと変貌させてゆく。
「ダ、ダイジョウブナワケナイデショウガーーーーッ……!!」
アレンにしか聞こえない極小の声で、歯をガチガチと鳴らしながら叫ぶミルフィ。しかしアレンは「そうですか」と至極落ち着いた様子で、そのまま重厚な扉をくぐり大講堂内へと入っていった。
会場内に入ると、すぐさま各国の首脳陣が鋭い視線を向け、静かな圧迫感を伴ってアレンのもとへと歩み寄ってきた。
「アレン様、よくぞおいでくださいました」
声をかけてきたのは、アルカディア魔法帝国のオクタヴィウス宰相だ。その隣にはレムリア法皇国の法皇、そして諸国の重臣たちと王子たちがズラリと控えている。
アレンはどこまでも淡々とした口調で、手元をすっと差し出した。
「お待たせしました。本日のパートナーのミルフィです」
「ひ、ひいいぃぃぃっ……!!」
ミルフィは冷や汗を滝のように流し、アレンの腕を指が白くなるほどの力で握りしめた。
——だが、その瞬間。
世界の頂点に立つ者たちの脳内で、一斉に超高速の過剰忖度が働き始めた。
(……バ、バカな……!? あのアレン様が、ただの付き添い程度で『世界の首脳が一堂に会する場』に女性を同伴されるはずがない……!)
オクタヴィウス宰相が、凄まじい真顔のまま、心の中でガクガクと震え上がる。
(あのお方は……我ら世界の王が集うこの場を借りて提示しておられる……! 『この者こそが、我に寄り添う唯一無二の正妻(伴侶)である』と宣言しておられるのだーーーーッ!!)
(見よ……あのご令嬢の深い瑠璃色のドレスに施された精密極まる魔導刺繍を……! あれはバルツァ・ラボの最高峰技術……すなわち神ご本人(アレン様)ご自身の『愛』と『至高の庇護』が織り込まれた正妻の証……! 輝かしき『聖母』のご降臨だ……っ!!)
法皇は感動のあまり、真顔でぽろぽろと大粒の涙を流しながら胸の前で両手を組んだ。側近へ向けて極小の声で鋭く命じる。
(直ちに聖庁へ打電せよ……! 本日よりルードヴィヒ伯爵家を我が法皇国の『特級永世聖域』に指定……! ミルフィ様への一切の不敬は神への背信とみなし、全軍に通達せよ……!)
(クレイズ神聖王国も遅れをとるなッ……!)国王もまた、国家の存亡がかかったような真剣すぎる血眼で重臣の胸倉を掴む。(ルードヴィヒ領との永久無税協定を即座に締結! 我が国の国宝級鉱山をすべてミルフィ様へのご成婚祝いとして贈呈する準備を整えよ……!!)
世界の頂点たちが、超絶シリアスな顔のまま国家規模の法外な忖度と暴走を開始していた。
「……あ、あの……アレン……? なになのあの人たち……? 私を見て急に泣き出したり、恐ろしい顔でコソコソ打電し始めてるんだけど……っ!?」
ミルフィは自分に向けられる「世界の頂点たちからの重すぎる崇拝と品定め(勘違い)の視線」に寒気を覚え、半泣きになりながらアレンにしがみついた。
「さあ? 相変わらず活気があって良いことですね」
当のアレンはどこまでもマイペースに首を傾げると、通りかかった給仕のトレーから冷えた高級ハーブティーを受け取り、優雅に一口含んだ。
「それよりも、これでルードヴィヒ領のコスメ事業の輸出関税や流通ルートの確保については、各国ともスムーズに話が進みそうですね」
「この空気の中で何ちゃっかりビジネスの話進めようとしてるのよーーーーーっ!! 胃に穴が開くわよッ!!」
冷や汗ダラダラで必死に耐えるミルフィと、国家元首たちが勝手に恐れ戦き感涙する中でどこまでもマイペースにハーブティーを啜るアレン。あまりにも噛み合わない温度差を抱えたまま、祝賀会は静かにその幕を開けるのだった。
◇
世界の頂点たちが引き起こした怒濤の過剰忖度と、怒涛のビジネス交渉(という名の一方的な奉納)が繰り広げられた学園祝賀会。
その数日後——。
命からがらルードヴィヒ伯爵領へと帰還したミルフィは、平屋ではなく実家である伯爵邸の応接室のソファへ、文字通り魂が抜け出たような顔で倒れ込んでいた。
「お、おかえりミルフィ……! アレン殿……! して、祝賀会は無事にお納まりに……!?」
応接室で待ち構えていたルードヴィヒ伯爵、夫人、そして兄のヴァルターの三人は、ガクガクと膝を震わせながら二人の顔を交互に覗き込んだ。彼らにとっても、この数日間は自領の存続がかかった生きた心地のしない時間だったのだ。
「ええ、非常に実りある式典でしたよ。前理事長も胸を撫でおろしていましたしね」
アレンは何事もなかったかのように優雅にハーブティーを口にし、手元の鞄から数枚の羊皮紙を取り出した。
「まずは、ルードヴィヒ領で立ち上げた『葡萄コスメ事業』についてですが……」
「こ、コスメ事業……! 各国の首脳陣から何かお言葉が……!?」
「ええ。クレイズ神聖王国をはじめとする諸国から『ルードヴィヒ領の特産品およびコスメ製品に関する永久無税協定』の調印をいただきました。関税は全額免除、我が領の流通ラインは全土で最優先通行権が与えられます」
「なっ……! か、関税ゼロで最優先通行権ーーーーーッ!!???」
伯爵が目を剥いて立ち上がった。
「向こうからお願いしてきたの!? 各国の国王や大統領クラスが!?」
「ええ。それから……神聖国王が『領主様にお話ししたいことがある』とおっしゃっていたので、お伝えしておきますね」
「ーーーーーッ!!???」
伯爵の顔から血の気が引いていく。「一国王陛下が直々にお話しを……!?」
「あ、アレン殿……! 一体どんな奇跡の外交交渉をされたのですか……!」
「別に何も。向こうが勝手に頭を下げて書類を出してきただけですよ」
アレンは至極当然のように頷くと、二枚目の極厚の羊皮紙をテーブルの上に広げた。
「それから、レムリア法皇国からは『ルードヴィヒ伯爵家および全領地の特級永世聖域指定書』が届きました」
「「「特級永世聖域指定書ーーーーーーッ!!???」」」
応接室に家族三人の叫び声が木霊した。
「な、なんですかそれは……っ!? 我が家は一地方の伯爵家ですぞ!? 法皇国の永世聖域など、大聖堂や神聖な霊峰にしか与えられない国家最高級の神事保護規定……!」
「ええ。法皇様が『ミルフィ様ならびにルードヴィヒ家へのいかなる非礼・侵犯も、神への背信とみなし法皇国全軍をもって即座に破滅させる』と、なぜか泣きながら全軍に通達を打電されたそうです」
「国が滅ぶレベルの重さじゃないのよーーーーーっ!!」
ソファからガバッと飛び起きたミルフィが、死んだ魚の目で叫んだ。
「お父様聞いて!! 私、あそこに行ってただ立ってただけなの! アレンが『パートナーのミルフィです』って言った瞬間、皇帝も法皇も真顔で大泣きし始めて、勝手に書類書いて打電し始めたのよ!!」
「え……?」
「『正妻殿下万歳!』とか『世界の母』とか拝まれて、私、本気で生きて帰れないかと思ったんだからーーーーっ!!」
ミルフィの悲鳴のような暴露を聞いた瞬間、ルードヴィヒ伯爵の顔から一瞬で全血色が失われた。
「せ……正妻殿下……『世界の母』……?」
カクカクとした機械のような動きでアレンを見る伯爵。アレンはどこまでも涼やかな顔でハーブティーのカップを傾けた。
「まあ、勘違いとはいえ、これでルードヴィヒ領の安全保障と経済的繁栄は向こう百年間完全に担保されました。結果オーライですね」
「結果オーライで済む規模の話じゃないでしょーーーーーっ!!」
「ご、世界の……母……我が家が……世界の聖域……っ」
ガクッ。
過剰すぎる成果と、国家規模の勘違いの重圧に耐えかねたルードヴィヒ伯爵は、白目を剥いてそのまま豪快に床へ倒れ伏した。
「お父様ーーーっ!!」「あなたーーーーーっ!!」
「だ、誰か気付け薬を……! いや、法皇国へ感謝の祈りを捧げるべきか……!?」
パニックに陥るヴァルターと夫人。倒れた伯爵を介抱する騒ぎの中で、アレンは静かに羊皮紙を鞄へと仕舞い直した。
「ちなみにミルフィさんは、あちらではもう正妻で確定らしくて訂正はできませんでした。さて、関税ゼロのラインも確保できましたし、明日からはバルツァ・ラボの第二班と抽出プラントの本格稼働に入りましょうか」
「少しは反省しなさいよこの怪物ーーーーーっ!!」
領主が失神し、家族が大混乱に陥る中、アレンのマイペースな新事業計画はどこまでも順調に前進していくのだった。
【山積みの奉納品と、聖域巡礼の始まり】
祝賀会から数日後。ルードヴィヒ伯爵邸の広大な庭園は、早朝から足の踏み場もないほどの熱気と大混雑に見舞われていた。
「ひ、一列に並んでください! 順番にご案内いたしますので!!」
長男のヴァルターが声の限りを叫んでいるが、邸宅の門前には各国の紋章を掲げた豪華絢爛な使節団の車列が、見渡す限り地平線の彼方まで連なっていた。
「クレイズ神聖王国より、我が国の特産たる最高級魔導鉱石と王室御用達の絹織物一千反! ミルフィ『正妻』殿下へのご成婚およびご婚礼のお祝い品として謹んで贈呈いたします!」
「アルカディア帝国からは、帝国最深部でしか採掘されぬ極上の秘宝と、特級領地の割譲書でございます! どうかお納めを……っ!」
各国の使者たちが、まるで国運を賭けた戦いであるかのように殺気立った目で、重厚な宝箱や羊皮紙の山を邸内へ運び込んでいく。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよーーーッ!! だから結婚なんてしないし正妻でもないって言ってるでショーーーーッ!!」
ミルフィが庭で悲鳴を上げながら使者たちを止めようとするが、使者たちは「ははーっ! お戯れを! 朝日より眩しき『世界の母』のお姿……感無量にございます!」と全員で一斉に土下座し、まったく話を聞かない。
その様子を、冷めかけたハーブティーを飲みながらテラスで眺めていたアレンが、至極あっさりと補足した。
「無駄ですよミルフィさん。あちらの方々にとっては、これらを持ち帰ることこそが国家の存亡に関わる重大な任務ですからね」
「誰のせいでこんなことになってると思ってるのよーーーーっ!!」
そこへ、伝令の紙を握りしめた伯爵夫人が、顔を青ざめさせながら走ってきた。
「ア、アレン殿! ミルフィ! 大変な報告が届きましたわ……! レムリア法皇国で……法皇国全土で、大変な動きが始まっていますの……!」
「法皇国で……?」
アレンが受け取った書状に目を通すと、そこには恐るべき事態が記されていた。
法皇の「ルードヴィヒ領は特級永世聖域である」という全軍打電を受け、熱狂した法皇国の高位聖職者や信徒たちが、早くも『ルードヴィヒ聖域巡礼団』を結成。数万人規模の巡礼者が、ルードヴィヒ伯爵領を目指して徒歩で聖地巡礼を開始したというのだ。
「し、巡礼……!? 我が領が、神聖な聖地扱いされて全国から人が押し寄せてきているというのですかーーーッ!?」
案の定、応接室で横になっていたルードヴィヒ伯爵が白目を剥いて再び倒れそうになる。
「……まあ、人出が増えるのは良いことです」
アレンは何事もなかったかのように手帳を開き、淡々とペンを走らせ始めた。
「バルツァ・ラボの第二班に指示を出して、領の境界線に『巡礼者用休憩所』と『特産品販売所』を緊急設置させましょう。来訪する巡礼者たちに、完成したばかりの葡萄コスメとルードヴィヒ特製ワインを販売すれば、かなりの外貨を獲得できますね、それと、宿泊施設も必要かもしれません。」
「巡礼者からしっかりビジネスしようとしてるんじゃないわよこの悪魔ーーーーーッ!!」
庭には積み上がる国宝級の婚礼品の山、街道にはぞくぞくと押し寄せる数万の巡礼団。
もはや自身の立場を隠す気すらないアレンの規格外すぎる影響力によって、ルードヴィヒ伯爵領は世界で最も熱い「新・聖地」へと変貌を遂げていくのだった。
【聖水の奇跡と、爆発的な売上】
「ルードヴィヒ領の境界線に、法皇国の第一陣……約三千名の巡礼団が到達いたしました!」
報告に奔走するヴァルターの叫び声が響く中、ルードヴィヒ領の玄関口には、かつて見たこともない光景が広がっていた。
白と金の聖衣に身を包んだ巡礼者たちが、感涙にむせびながら地平線からぞくぞくと押し寄せてくる。彼らはルードヴィヒ領の土を踏むなり、「おお……ここが神に選ばれし特級永世聖域……!」「大気が清らかさに満ちている……!」と、地にひれ伏して大地を拝み始めていた。
そんな彼らの前に用意されていたのは、アレンの指示によりバルツァ・ラボの第二班が一夜にして組み上げた、白亜の特設販売プラントと長蛇の露店群であった。
店頭に整然と並べられているのは、濃密な葡萄の種子と果皮から抽出精製された、透き通るような紫水晶色の小瓶——ルードヴィヒ特製美容液『レーヴ・ド・ルージュ』である。
「巡礼者の皆様、長旅お疲れ様です」
アレンが露店の前に立ち、淡々とした、しかし透き通るような声で案内を始めた。
「こちらは当領の聖なる葡萄から抽出した、皮膚の再生と保湿を司る精油です。旅の疲労による肌の荒れを整え、若々しさを保つ効果があります」
その小瓶を目にした高位の司教が、息を呑んで膝を突き合わせた。
「お、おお……なんという神々しい光沢……! 微かに漂う清らかな魔素と、甘美なる葡萄の香気……!」
「……違います、司教様」
横から割り込んできた聖職者が、感涙に震える目で小瓶を仰ぎ見た。
「これは単なる美容油などではない……! 神の加護を体現されるアレン様と、『聖母』ミルフィ様のお恵みが込められた『葡萄の聖水(奇跡の油)』だ……!!」
「「「な、なんとおおおおッ!!??」」」
瞬時に巡礼団の間に駆け巡る勘違いの大波。
「ひと塗りで肌が若返り、疲れが吹き飛ぶだと……!? まさしく聖水以外の何物でもない!!」
「拝受せねば! 聖母様のお恵みを、本国の家族にも持ち帰らねばならん!!」
「あ、あの! これ普通にラボで科学的に抽出した美容液で——」
冷や汗ダラダラで止めに入ろうとしたミルフィだったが、熱狂する巡礼者たちには一切声が届かない。
「おお! 聖母ミルフィ様自らがお言葉を賜った……!」「この小瓶一つで金貨十枚!? 安すぎる! 恵みに対してあまりにも破格だ!」「私に百瓶売ってください!」「我が修道院で買い占めます!!」
押し寄せる金貨の山。巡礼者たちは争うように金貨袋を投げつけ、用意していた三千瓶の試作品と第一陣の在庫は、わずか一時間足らずで影も形もなく完売してしまった。
「完売……だと……? 専門家が何年もかけて宣伝する高級コスメが、一時間で……!?」
積み上がった金袋の山を前に、呆然と立ち尽くすルードヴィヒ伯爵。
「想定以上の需要ですね」
アレンは何事もなかったかのように手帳に売上を記録すると、隣に控えるバルツァ・ラボの研究員へ静かに指示を出した。
「第二班、ただちに葡萄の搾りかすの回収プラントをフル稼働させてください。それから、ボトルに『聖域謹製』の刻印を追加。価格を1.5倍に改定しても需要は落ちないと試算できます。次弾の仕込みに入りますよ」
「……あなた、聖水扱いされて爆売れしてるのを利用して、さらっと便乗値上げまで計画してんじゃないわよーーーーーッ!!」
ミルフィの悲鳴のようなツッコミが響き渡る中、ルードヴィヒ領の「聖水コスメ事業」は、世界の勘違いとアレンの圧倒的なビジネスセンスによって、前代未聞の爆発的利益を叩き出し始めるのだった。
【試作一号の驚愕と、無駄のない実効性】
三千瓶のコスメがあっという間に売れ飛び、特設プラントの周囲に静けさが戻った夕刻。
積み上がった金貨の集計指示を淡々と出すアレンの横で、ミルフィは脱力したように露店の縁へともたれかかっていた。
「はぁ……本当に全部売れちゃったわね……。あんな無茶苦茶な熱狂、生まれて初めて見たわ……」
「ええ、需要の波としては完璧でしたね。……ところで、ミルフィさん。これを持っていってください」
アレンがポケットから取り出したのは、店頭に置かれていたものとは少し異なる、無地の澄んだガラス小瓶だった。他の商品のような豪勢な刻印もなければ、装飾もない。
「これ……?」
「バルツァ・ラボの第二班が最初に抽出した『試作一号』です。売り物にしたものは量産化のために濃度を調整してありますが、これは葡萄の種子と果皮から抽出したポリフェノールと保湿成分、そして微弱な魔力伝導体を極限まで濃縮した完全版です。元々はミルフィさんの肌質データに合わせて配合バランスを調整していましたので」
「えっ……私のために……?」
不意を突かれたミルフィは、胸の奥がドクンと跳ねるのを感じた。
(な、何よそれ……! 『ミルフィさんのために』なんて、そんなのまるで……っ!)
赤くなりかける顔を隠すように、ミルフィはそそくさと小瓶の蓋を開けた。
一瞬で、甘く上品な葡萄の香りと、清々しいハーブのような澄んだ香気が鼻腔をくすぐる。手に取った液体の質感は驚くほどさらりとしているのに、肌に伸ばした瞬間、まるで吸い付くようにすーっと染み込んでいった。
「……っ!? なにこれ……!?」
ミルフィは思わず自分の頬に触れ、目を見開いた。
塗ったそばから、連日の緊張と祝賀会のストレスで疲れていた肌が、内側から押し返してくるような弾力と瑞々しさを取り戻していく。手触りはしっとりとしているのにベタつきは一切なく、まるで生まれ変わったかのように肌のキメが整い、ほのかな光を反射していた。
「な、なにこれすごすぎるわよ……!? 塗った瞬間に肌がもちもちになって……顔の疲れが吹き飛んでいくみたい……!」
「当然です。肌のターンオーバーを促す高濃度成分に加え、微小な魔素循環によって毛細血管の血流を活性化させていますからね。疲労回復効果があるのも計算通りです」
「計算通りってレベルじゃないわよ! 聖水とか言われてありがたがられてたけど……これ、本当に『奇跡の油』じゃないの……!!」
己の肌で体感した劇的な効果に、ミルフィは驚愕の声を上げた。女性として、このコスメが持つ価値の恐ろしさが誰よりもよく理解できたのだ。
「こんなの、世界中の令嬢や貴婦人が知ったら戦争になるわよ……! 金貨十枚どころか、一瓶で金貨百枚出しても欲しい人がごった返すわ!」
「ええ。ですから次回製造分からは、この完全版を『特別限定仕様』としてラインナップに加え、オークション形式で販売する予定です」
「しっかり商機を見出してんじゃないわよーーーーーッ!!」
自分のために作られた極上の試作品に感動したのも束の間、すぐさまそれを最高級ラインとしてビジネスに組み込むアレンの隙のなさに、ミルフィのツッコミが夕空へ響き渡る。
しかし、自分の肌に残る心地よい潤いと優しさを感じながら、ミルフィは小さく口元を緩めずにはいられないのだった。
【狂気のオークションと、跳ね上がる天文学的数字】
『聖水コスメ』の大狂乱から数日後。ルードヴィヒ伯爵邸の格調高い大ホールは、急遽開催されることとなった『葡萄コスメ特別限定仕様・極オークション』の熱気によって、今や異様な緊張感に包まれていた。
出品されるのは、バルツァ・ラボの第二班が抽出精製した完全版——ミルフィに贈られた試作一号と同等の最高濃度を誇る、世界にわずか十瓶しか存在しない超高濃度美容液『レーヴ・ド・ルージュ・エクセレント』である。
雛壇の端で手帳を開くアレンの横で、ミルフィは胃を痛めながら会場を見渡していた。
(……なんなのこの地獄みたいな空間は……っ!!)
会場に集まっているのは、各国の王室や聖庁から派遣された特使、大財閥の総帥、そして諸国の重臣たち。彼らは一様に血走った目をし、札を握りしめて殺気立っている。
「それでは……『レーヴ・ド・ルージュ・エクセレント』第一番の競りを開始いたします。最低落札価格は金貨百枚から——」
司会を務めるヴァルターが声を張り上げた瞬間だった。
「「「「「金貨一万枚!!!!!」」」」」
地鳴りのような叫び声がホール全体に響き渡った。
「いきなり百倍に跳ね上がった!?」と悲鳴を上げるヴァルター。
「ふん、ぬるいぞアルカディア帝国!」クレイズ神聖王国の筆頭特使が立ち上がり、血眼で札を掲げた。「我が国は金貨五万枚! さらに特務鉱山の一割をルードヴィヒ伯爵家に永久譲渡する!!」
「戯れ言を! レムリア法皇国を舐めるな!」白目を剥きかけた司教が、もはや神頼みの領域で絶叫する。「金貨十万枚! そして法皇様より賜りし『特級聖遺物』を奉納する!! この美容液はアレン様がミルフィ『正妻』殿下のために調合された“愛の奇跡”……! 一滴たりとも他国に渡してなるものかーーーッ!!」
(正妻の愛の奇跡って何よーーーーっ!? ただの超高濃度ポリフェノール美容液よそれーーーーッ!!)
ミルフィは心の中で絶叫した。
世界の要人たちは、単なる最高級コスメの競り合いとしてではなく、「この限定品をいくらで落札するかによって、アレン様への誠意と忠誠心が試されている」という完全な過剰忖度バトルに突入していたのだ。
「金貨三十万枚だッ!!」「いや我が国は領地を一区画差し出す!!」「我が商会は国債を買い取る!!」
跳ね上がっていく天文学的な数字。もはや一国の国家予算が数分おきに飛び交う、狂気の宴と化していた。
「……すばらしい」
アレンはどこまでも落ち着いた手つきで手帳に数字を書き込み、満足げに頷いた。
「この調子なら、十瓶すべての落札総額で、学園の向こう十年分の研究開発費と、ルードヴィヒ領の新インフラ設備投資費が完全に賄えますね。やはり限定化とオークション方式の導入は正解でした」
「正解すぎて世界全体の経済バランスがおかしくなってるのよこの悪魔ーーーーーッ!!」
冷や汗ダラダラでツッコミを入れるミルフィを余所に、ホール内では最終的に一瓶あたり国家が買えるレベルの天文学的金額で次々と札が落とされていく。
(……あ、あいつらの異常な熱狂はともかく……この美容液の本当の恐ろしさは、塗った翌朝のあのプルプル感なんだから……落札した国の妃たち、効果自体には絶対満足するんでしょうね……)
あまりの金額の跳ね上がり方に頭を抱えつつも、自分の肌で味わった劇的な効果を思い出して密かに溜息をつくミルフィ。
こうしてルードヴィヒ領は、たった十瓶のコスメによって一夜にして大陸有数の超莫大な財貨を叩き出し、さらなる伝説(と誤解)を世界に刻み込むのだった。
【遥かなる天頂と、打ちのめされた令嬢たち】
オークション開催から数日後。王都の高級サロン『ラ・ローズ』グラン子爵直営店の一室は、まるで通夜のような重苦しい静寂に包まれていた。
豪華なソファに力なく沈み込んでいるのは、侯爵令嬢ローゼと、クレイズ神聖王国の貴族セレスティアの二人だ。
二人の前のテーブルには、ルードヴィヒ領から届いたばかりの『祝賀会・特別オークション結果速報』と題された速報紙が広げられている。
「……一瓶……金貨三十万枚……さらに特級聖遺物および領地の永久無税権の譲渡……」
ローゼは掠れた声でその文字をなぞり、ガクガクと震える手で羊皮紙を握りつぶした。
「な……なんですのこれは……? わ、私は……何か悪い夢でも見ているのかしら……?」
「一瓶で……一国の……国家予算レベル……?」
セレスティアもまた、顔から完全に血の気を失わせ、白目を剥きかけながら天井を見上げていた。
当初、二人はこう考えていた。
「いくらアレン様が関わっているコスメとはいえ、ルードヴィヒ領という一地方の特産品。侯爵家や聖王国の高位貴族たる私たちの財力と権力をもってすれば、金に糸目をつけず使者を差し向ければ一瓶や二瓶、簡単に買い叩けるはず」……と。
だが、提示された数字はあまりにも狂っていた。
「わ、我が家の年間の領地収入でも……金貨五万枚程度ですわよ……!? 一瓶買うために、我が家が何年滅びればいいというのですかーーーッ!?」
ローゼが机を叩いて立ち上がろうとするが、膝に力が入らず、そのままドレスの裾を乱して絨毯の上へ崩れ落ちた。
「無駄ですわローゼ様……ッ! クレイズ神聖王国の第一国家予算ですら、今回の落札総額の前には霞んでしまいます……! もはや個人の財力や貴族の権勢などで競り合える領域ではありません……っ! あれは……国家が国運を賭けて争う『新世界の聖物』ですわ……!!」
セレスティアもまた、誇り高き貴族としてのプライドを完全に打ち砕かれ、ソファの上で頭を抱えて地悶えした。
「ずるいですわ……! あまりにもスケールが違いすぎますわミルフィ!!」
ローゼは涙をぽろぽろと零しながら、遥か遠くのルードヴィヒ領の方角を指差して叫んだ。
「あんな……あんな世界の動脈を一人で握っているような男(アレン様)の横に当たり前のような顔で立って……『一分で肌がもちもちになるわ!』なんて呑気に喜んでいるなんて……! 私たちと見ている世界が違いすぎますわーーーッ!!」
「私たち……最初から勝ち目なんてなかったのですわ……。アレン様が選ばれたのは、世界の頂点たる『正妻』……私たちのような一貴族の娘では、同じ土俵に立つことすら許されなかったのです……っ!」
「「いやあああああああああッ!!!!」」
サロンの個室に、完全に打ちのめされた二人の令嬢の悲痛な絶叫が木霊した。
一方その頃、ルードヴィヒ伯爵邸のテラス。
「……はくしょんっ!」
「またクシャミですか、ミルフィさん。寒暖差には気をつけたほうがいいですよ」
アレンはどこまでも穏やかな顔でハーブティーを一口すすると、オークションで得た莫大な資金を各部門へ分配する計算表にペンを走らせた。
「ううん、風邪じゃないんだけど……なんだか王都の方角から、心が折れるような凄まじい絶望のオーラを感じた気がして……」
ミルフィはアレンから貰った『試作一号』でモチモチになった自分の頬を触りながら、首をかしげた。
「気のせいでしょう。それよりミルフィさん、第二期プラントの稼働に伴い、次は『普段使い用の普及版コスメ』の王都出荷を計画しています。ローゼさんたちにもサロン経由でサンプルを送っておきますね」
「あいつら、届いた瞬間に嬉しさと敗北感で情緒崩壊するんじゃないかしら……」
遥か天頂に位置するアレンの規格外すぎるスケールと、それに巻き込まれて棚からボタ餅で『正妻』の座に君臨してしまったミルフィ。二人の邁進は、遠く離れた王都の令嬢たちを完全に置き去りにしたまま、どこまでも続いていくのだった。
【涙の美容液と、屈服する素肌】
『オークション一瓶で一国の国家予算』という凄まじい次元の違いに打ちのめされ、サロンで完全な廃人と化していたローゼとセレスティア。
そんな二人の元へ、ルードヴィヒ領のバルツァ・ラボ直営商会から、重々しい木箱がひとつ届けられた。
「……な、なんですの、これは……?」
ローゼが死んだような目で木箱を開けると、そこには洗練されたガラス小瓶と、アレンからの手紙が添えられていた。
『ローゼさん、セレスティアさんへ。先のオークション品は過剰な濃縮仕様でしたが、こちらは一般流通を目指して調整した普及版『レーヴ・ド・ルージュ・スタンダード』のサンプルです。王都での先行モニターとして、ぜひご意見をお聞かせください。 アレン』
「……モニター……? 私たちを……モニター扱いですの……!?」
ローゼはプライドを粉々に打ち砕かれ、ギリッと歯を噛み鳴らした。
「ふざけていますわ……! 私たちは侯爵家と聖王国の高位貴族……っ! ミルフィのように“正妻”として特別仕様を贈られるわけでもなく、ただの試供品のモニターなんて……! こんなもの、絶対に使いませんわッ!!」
「そうですわローゼ様!」セレスティアも涙目で同意した。「このような屈辱、甘んじて受けるわけにはいきません! ミルフィへの敗北を認めるようなものですわ!!」
二人は息を荒らげ、小瓶を押し返そうとした。
——しかし。
小瓶の蓋がわずかに緩んだ瞬間、そこから漂い出たほのかな葡萄とハーブの上品な香りが、二人の鼻腔をくすぐった。
「「……っ!?」」
一瞬で部屋を満たす、息を呑むほど清らかな魔素の気配と甘美な香り。
オークションで国家予算が飛び交った『あの奇跡の聖水』と同系統の香気が、二人の理性を容赦なく揺さぶり始める。
「……と、とはいえ……敵(アレン様)の技術力を正確に分析・評価することは、貴族としての義務でもありますわね……?」
「え、ええ……! 敵を知り己を知れば百戦危うからず、と言いますものね……! 決して『使ってみたいから』ではありませんわ……っ!」
二人は互いに見苦しい言い訳を口にしながら、震える手でサンプル液を数滴、手のひらに垂らした。
そして、半信半疑のまま、おそるおそる己の頬へと馴染ませていく。
——次の瞬間。
「「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!???」」
声にならない悲鳴が、サロンの個室に響き渡った。
「な……なんですの……この馴染み方は……っ!?」
ローゼは自分の頬に手を当て、目を見開いて絶句した。
スッと肌の奥へ吸い込まれるように浸透したかと思うと、日頃のストレスや夜更かしで疲れていた肌が、内側から押し返してくるようなハリと弾力を取り戻していく。手触りはさらさらなのに、吸い付くような潤いが手のひらに伝わってくる。
「すごい……すごすぎますわアレン様……っ!!」
セレスティアもまた、鏡に映る自分の素肌を見て、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
【王都の狂乱と、長蛇の列】
ルードヴィヒ領での爆発的大ヒットと、オークションにおける天文学的な落札額の噂が王都中を駆け巡ってから数日後。
ついに、一般向け普及版『レーヴ・ド・ルージュ・スタンダード』の王都先行発売日が訪れた。
会場となったのは、王都の一等地にあるバルツァ・ラボ直営の特設商会。
しかし、開店予定時間の数時間も前から、商会が位置する大通りは前代未聞の異様な光景に包まれていた。
「……な、なんなのですか、この人の数は……ッ!?」
商会の二階窓から通りを見下ろした王都商会の支配人が、膝をガクガクと震わせた。
敷地を取り囲むように伸びた行列は、大通りを埋め尽くし、隣接する三つの区画をぐるりと迂回して地平線の彼方まで続いている。並んでいるのは、王都の貴婦人や令嬢たちをはじめ、噂を聞きつけて駆けつけた遠方の富裕層、さらには代理の従者たちだ。
この異様な大行列の火付け役となったのは、他でもない侯爵令嬢ローゼとクレイズ神聖王国のセレスティアの二人であった。
二人がサロンでサンプルを使い、「悔しいけれどお肌が生まれ変わる……っ!」「ひと塗りでくすみが吹き飛びますわ!」と涙目で大絶賛していたという情報が、貴族社会のネットワークを通じて一瞬で拡散。
「あの美肌で知られるローゼ様たちが絶賛されたのよ!?」
「オークションでは国家予算レベルの値がついた『奇跡の聖水』の普及版でしょう!? 買わない理由がないわ!」
貴婦人たちの購買意欲は爆発し、開店一時間前には警備の騎士団が出動するほどの熱狂と大混騒へ発展していた。
「開門だ! 順番にお並びください! 押さないでください!!」
開店の鐘が響き渡ると同時に、悲鳴のような歓声とともに押し寄せる客層。
「私に十瓶……いいえ、買えるだけ買い占めますわ!」
「争わないで! 私の方が先でしたわ!!」
用意されていた数千瓶の『レーヴ・ド・ルージュ・スタンダード』は、まさに飛ぶような勢いで次々と売れていき、僅か二時間足らずで『本日分・完売』の看板が掲げられることとなった。
買えた者は感涙にむせび、買い逃した者は路地裏で「次回は絶対に並びますわ……!」と膝を折って悔しがるという、前代未聞のブームが王都を席巻したのである。
その頃、ルードヴィヒ伯爵領の工房。
「……王都の初回出荷分、二時間で完売とのことです」
アレンは届いた遠話魔導具からの報告を聞き、ペンを走らせながら満足げに頷いた。
「ローゼさんたちの口コミプロモーションが完璧に機能しましたね。彼女たちには『特別協力感謝枠』として、追加で試作品を数瓶贈っておきましょうか」
「あなた……本当にローゼたちのプライドと乙女心を掌の上で転がしまくってるわね……」
ルードヴィヒ領で自らの頬をモチモチさせながら、冷や汗を流すミルフィ。
「ですがこれで、王都におけるバルツァ・ラボの流通ルートと資金回収の基盤は完全に整いました。さて、次はいよいよ集まった莫大な資金を使って、ルードヴィヒ領の新インフラ設備とプラントの大規模拡張に入りますよ」
王都で巻き起こる空前のブームと巨万の富を背景に、アレンの規格外すぎる領地経営と事業拡大は、更なる加速を見せるのだった。




