第93章:導入部 境界の越境
ゼノリス王国の西南の街を離れたアレンを乗せた魔導馬車は、荒野を突き抜け、緩やかな下り坂を南西へと向かっていた。
この異世界の地形は、我々の知る地質学の法則をあざ笑うかのように、魔法的な法則で構成されている。車輪が刻む地面は、時折、地脈の奔流により青白く発光する『魔導層』の露出部を越えていく。
アレンの手元には、バルツァー・ラボのCEOが用意した旅の行程表があった。
報告には大陸全土に広がる魔力流の変動、帝国の法魔術的障壁の脆弱性、そして通過地域の魔獣による襲撃確率までが緻密に算出された「最短・最効率の計画書」だ。
アレンは馬車の窓から流れる景色を眺めながら、アイテムボックスに手を伸ばした。そこには、親っさんの特製『特上ボアステーキ』が収められている。時間停止効果により、作りたての芳醇な香りを保ったままだ。アレンは冷えたエールと共に、その肉塊を貪るように食らった。
「食欲という名の生理的欲求さえシステム・ルーティン化すれば、この異世界における生存戦略において、無駄なストレスはゼロになる」
食後の充足感を覚えながら、彼は手元の羊皮紙に目を落とす。バルツァー・ラボの経営を独裁するCEOからの報告書だ。そこには、帝国領内の主要な魔導植物研究機関とのパイプ確保に加え、アレンが首都の検問を通過する頃には現地での研究拠点選定も完了している旨が明記されていた。
南西へ向かう道中、気候がわずかに変わり始め、空気が重たく湿気を帯びてくる。それは異世界の地脈が変化し、未知の菌糸や薬草が繁殖しやすい環境にある証拠だ。
ゼノリスという穏やかな箱庭を出て、魔法と科学の深淵であるアルカディアへ。
アレンの心にあるのは、冒険の興奮と純粋な探求心だ。未知の魔法理論と未知の味覚が交差する、巨大な実験場への期待。
魔導馬車は揺れながら、二つの国家の境界を越える。
株式会社バルツァー・ラボは、今や一介の商店ではなく、この異世界の理を書き換える「自動成長する研究機構」として、その版図を確実に南西へと広げ始めていた。
***
アルカディア魔法帝国の国境検問所。そこには、アレンの馬車を待ちわびるかのように、真っ赤な絨毯が敷かれ、儀仗兵が整列していた。
「黒曜龍を討伐せし英雄、アレン・ノア殿の御到着だ!」
高官たちが深々と頭を垂れ、国賓としての厚遇を申し出る。アレンにとって、それは以外な展開であった。アレンは単にギルドの依頼で討伐したにすぎず想定外の事態だ。
謝礼は金銭で充分なほど頂いた。このような待遇は無駄なノイズ以外の何物でもなかった。
アレンは馬車の中に置かれた「共有管理帳」をパラパラと捲った。そこには、ゼノリスを出発する際、CEOが書き残した備忘録が記されている。
『国境にて国賓待遇の申し出あり。想定内。全て独断で「要求」を突きつけておきました。結果、帝国全域における行動の自由と、国家最高機密である魔導資料へのアクセス権を確保済み。詳細は帝都の支社にて。――CEO』
アレンはそれを見て、小さく鼻を鳴らした。
「余計な事を…まぁ魔導資料はありがたいな。」
アレンは管理帳を閉じ、ペンで何かを書き込むこともせず、ただ無造作に放り投げた。
アレンは馬車から降りた。彼が足を一歩踏み出すたび、騎士たちが畏敬の念を持って道を空ける。
「アルカディア魔法帝国への招聘、感謝する。お前たちの機嫌を取ったり、行儀よく振る舞ったりするつもりはない。俺はただの冒険者だ。未知なる世界の深淵と、まだ見ぬ美味を探求しに来ただけだぞ」
高官たちはアレンの言葉に圧倒され、ただ沈黙をもって平伏した。自らをあくまで「冒険者」と定義するその姿勢に、彼らは政治的な思惑など微塵も持ち合わせていないことを理解した。
高官たちが国王への弁明に頭を抱えようが、アレンには無関係だ。彼が関心を寄せるのは、帝都という未知の環境に何が眠っているかだけである。
「すまない。あとで挨拶くらいはさせてもらう。さて……まずはどこから手を付けるか」
アレンは雑踏の中へと消えていった。背後で高官たちが慌てふためく声も、彼には街の騒音の一つとして聞き流される。冒険者アレンの、帝都における探求がここから始まる。




