111話:復学の狂騒と「同じじゃん」
ルードヴィヒ伯爵領での穏やかな休日が明け、ミルフィは首都の学園へと戻っていた。
爽やかな朝の光が差し込むAクラスの講義室。
課題のテキストを開き、いつものように自分の席で準備を進めていたミルフィの耳に、突如として周囲のざわめきが届いた。
「えっ、嘘でしょ……?」
「ちょっと、あそこに座るの……!?」
「休学届を出して街を離れていたんじゃなかったの……!?」
ひそひそと交わされる生徒たちの興奮と困惑の混ざった声。
何事かとミルフィが顔を上げたその瞬間、すぐ隣の席の椅子が静かに引かれた。
何事もなかったかのようにすっと腰を下ろし、慣れた手つきでカバンからノートを取り出す人物。
「やぁ、ミルフィ」
驚きで固まるミルフィへと視線を向け、穏やかな笑みを浮かべたのは——他ならぬアレンだった。
「……ア……アレンーーーーッ!!???」
講義室に響き渡るミルフィの悲鳴のような大声。
周りの視線が一斉に二人へと集まる中、ミルフィは立ち上がりかけて机をがたんと揺らした。
「な、なんで!? なんであなたが普通に授業に出て席に座ってるのよ!? 休学したんじゃなかったの!?」
「いや……休学届は提出しましたが、退学したわけではありませんからね」
アレンは困ったように苦笑いを浮かべると、ごく当然といった体でペンを持ち直した。
「伯爵領での生活も落ち着きましたし、単位を落とすのも面倒なので、出られる授業くらいは顔を出そうと思いまして。……それに、一人で自習するより、こうして隣で受ける方が捗りますから」
「そ、そういう問題じゃないでしょーーーっ!!」
『ただの執事』の仮面を脱ぎ捨て、国家すら動かす存在だとバレた本人が、平然と一般生徒として隣に座っている恐怖と可笑しさ。
ミルフィが顔を真っ赤にして頭を抱える横で、講義室の扉が開き、担当の教官が教壇へと向かって歩いてくる。
「……はぁ。もう、本当にどこまでもペースを狂わせてくれるんだから……」
呆れと嬉しさが混ざった溜め息を吐きながら、ミルフィは椅子に深く腰を掛け直した。
伯爵領での穏やかな日常と、学園での少しだけ騒がしい日常。
アレンの手に入れた自由なスローライフは、どうやら学園の講義室にまで、静かに侵食し始めているようだった。
アレンが平然と講義室に姿を現したとなれば、当然、残された令嬢たちが黙っているはずがなかった。特にローゼにとっては、去ったはずの「自分の専属執事」が自分に何も告げず隣の席に座っているのですから——。
「あーれーんーですーわーのーーーーーーッ!!!!」
講義室の扉がバンッ! と爆音を立てて倒れんばかりに開かれ、甲高い悲鳴のような叫びが響き渡った。
現れたのは、息を荒らげ、顔を真っ赤に沸騰させたローゼ・フォン・リゼットだった。
「ア、アレン……ッ!? なぜ……なぜあなたが普通に講義室でミルフィさんの隣に座っていらっしゃるのですかーっ!? 侯爵邸には顔も出さず、私に何の連絡もなく何ヶ月も姿を消しておいて……っ! なぜ学園の授業には普通に出てきているのですかーーーっ!!」
なりふり構わず大股で詰め寄ってきたローゼは、アレンのデスクを両手でドカンと叩き、涙目になってキーキーと問い詰める。必死に「主人」としての威厳を保とうとしながらも、あまりのショックと焦りで言葉がぐちゃぐちゃになり、完全に空回りしていた。
その背後から、パチンと優雅に扇子を閉じる音が響いた。
「あら、本当に賑やかですわね。ローゼさん」
静かに歩み寄ってきたのは、Aクラスに君臨するもう一人の公爵令嬢——セレスティアである。
セレスティアは艶やかな笑みをたたえつつも、その瞳の奥には妖しいまでの強烈な好奇心と情熱をメラメラと揺らめかせていた。アレンの目の前までゆっくりと進み出ると、扇子の先でそっとアレンの胸元を指し示す。
「お久しぶりですわ、アレンさん。休学届を出されたと聞いた時はどうなることかと思いましたけれど……こうしてまたお会いできて光栄ですわ。……それにしても、姿を隠していた間、いったいどこで『誰』とどんな時間を過ごしておられたのかしら?」
「セ、セレスティアさんまでどさくさに紛れて何を聞こうとしていらっしゃいますのーっ! アレン! 説明しなさい、説明をーっ!」
ローゼは顔を真っ赤にしてアレンとセレスティアの間に入り込み、あわあわと手を振り乱して遮ろうとする。
さらにその横から、ミシェルがジト目でじーっとアレンを観察しながらノートを開いた。
「……なるほど。休学中の密かな潜伏先、そして復帰直後にミルフィ様の隣を確保……。アレン、貴方やっぱり逃げ切れたと思っておられましたの? 追及はこれからですわ」
講義室全体が息を呑み、生徒たちが「うわぁ……残った令嬢たちの執着もヤバすぎる……」「また修羅場だ……」と震え上がる中、アレンは静かにペンを置くと、深く、重いため息をついた。
(……伯爵領の静かな暮らしに慣れすぎて、この人たちの執着心をすっかり失念していたな)
「あ、あの……皆様、もうすぐ授業が始まりますので……」
ミルフィがオロオロと宥めようとするも、ローゼの「私を置いてどこに行っていたのですかー!」という悲鳴と、セレスティアの「後ほどクレイヴァリア公爵邸でお茶でもいかが?」という優雅な追い込みにかき消されていく。
「あぁ、ミルフィの実家に居ましたけど?」
アレンは何でもないことのようにさらりと口にし、となりの席へと視線を流した。
「ねぇ、ミルフィ?」
「ひっ……!?」
不意に振られたミルフィの肩が、跳ね上がるようにびくっと震えた。
講義室に漂う空気の温度が、一瞬で氷点下まで叩き落とされる。
「……は?」
ローゼの叫びがピタリと止まった。真っ赤だった顔から急速に血の気が引き、あわあわと動いていた手がピシッと固まる。
「ミ……ミルフィさんの……ご実家……? え、……え……?」
「まあ……」
セレスティアのパタパタと動いていた扇子がピタリと止まり、その微笑の奥にある瞳に、かつてないほど濃密な闇が揺らめいた。
「休学届を出して姿を消していた間、ずっとミルフィさんのお屋敷で『ご一緒』にお過ごしだった……ということかしら?」
「ち、ちちち違いますわーっ!! 違います、誤解です!!」
ミルフィは立ち上がり、椅子を盛大にガタガタと鳴らしながら必死に手を横に振った。顔は限界まで熟し、目からは今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
「居たと言っても、隣に家を建てて勝手に居座られただけで! 毎晩うちの夕食に当然のような顔で混ざってきただけで! 私は何も、何にもやましいことなんてされていません……っ!」
「……隣に家を建てた……?」
「……毎晩、夕食をご一緒に……?」
必死の弁明が、むしろ火に油を注いでいく。
ローゼは「そんな……私を置いて他の女の子の実家の隣に……!?」と衝撃のあまりフラフラと後退りし、セレスティアは「ふふ、まあ……そこまで深く囲い込んでおられたとは……」と怪しい笑みを深め、ミシェルはカリカリと猛烈な勢いでノートに『休学期間中、伯爵領にて半同居生活』と書き込んでいく。
「……アレン。説明、どころではありませんわね?」
「アレンさん、後ほどじっくりとお話を伺わなくてはなりませんわね」
二大令嬢からの逃げ場のない圧力が講義室全体を押し潰さんばかりに膨れ上がる中、アレンは静かに天を仰ぎ、深く重いため息をついた。
(……素直に答えただけなんだがな)
隣で「アレンのバカーっ!」と顔を真っ赤にして泣きつきそうになっているミルフィと、本気の眼光で迫り寄ってくる令嬢たち。
「別に大したことではないよ、ローゼの家にも寝泊まりしてたしさ、ね? 同じじゃん」
「お、同じなわけありませんでしょーーーーーっ!!!!」
講義室の天井を突き破らんばかりの、ローゼの絶叫が響き渡った。
「うち(リゼット侯爵邸)にいた時は、あなたが『専属執事』として働いていたからですわ! 勤務! お仕事ですのよ! ミルフィさんの実家にいたのとは意味が全然違いますわーーーっ!!」
真っ赤になった顔を手で覆いながら、ローゼはバタバタと地団駄を踏み必死に反論する。しかし、言葉の端々から溢れ出るパニックと狼狽ぶりは隠しきれていない。
そんなローゼの慌てようを、セレスティアは扇子の陰から冷ややかな笑みを浮かべて見つめていた。
「あら、ローゼさん? 『同じじゃない』とおっしゃいますけれど……結局のところ、アレンさんがご自身以外の女性の元で寝食を共にしていたという事実には変わりありませんわよね?」
「うぐっ……! た、確かにそうですけれど……! セレスティアさん、追撃しないでくださいまし……っ!」
正論(と煽り)を突き刺され、ローゼはがっくりと膝から崩れ落ちそうになり、慌てて自分の頬を両手で挟んであわあわと固まった。
「……あ、あの、アレン……? お願いだからこれ以上、話をややこしくしないでちょうだい……っ!」
隣で生きた心地がしていないミルフィが、半泣きになりながらアレンの袖を引く。
しかし、当のアレンはといえば、修羅場の中心にいながらどこまでも他人事のように首を傾げて見せた。
「なにが違うのかよく分かりませんが……。俺にとっては、どちらも美味しいご飯と静かな部屋があっただけですよ」
「そうやって何事もない顔で誤魔化そうとするのが、一番タチが悪いんですのよ……っ!」
ミシェルがペンを走らせながら、ジト目で冷ややかに突っ込む。
「……なるほど。『複数の公爵・侯爵・伯爵邸を転々とし、どこでも当たり前に寝泊まりする規格外の居候』……と」
講義室の扉の向こうでは、様子を見に来た教官や生徒たちが「またあのアレンが令嬢たちを大混乱させてる……」「あのメンツ相手に『同じじゃん』で済ませようとする度胸、ヤバすぎるだろ……」と引きつった顔でヒソヒソと囁き合っていた。
追及の手を強めるローゼとセレスティア、ノートを書き進めるミシェル、そして顔を真っ赤にして頭を抱えるミルフィ。
アレンは静かにペンを持ち直すと、窓の外の穏やかな空を見上げ、本日何度目になるか分からない溜め息をそっと吐くのだった。
【路地裏の平屋と再雇用の従者たち】
授業の終わりに、学園を脱出したアレンは首都の冒険者ギルドに併設された不動産紹介窓口へと向かった。
これからの学園生活を本格的に再開するにあたって、あの過剰忖度邸の契約が切れた今、新たな拠点が必要だったからだ。
「……いらっしゃいませ! ……っ!? あ、アレン・ノア様……ッ!?」
受付の職員はアレンの顔を見るなり、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、激しく狼狽した。すでに「世界を動かす巨大企業の創業者」「樹海からの生還者」といった尾ヒレのついた噂は、ギルドの裏情報網にも広がり切っていたのだ。
「ええと、静かに暮らせる小さめの借家か宿を探しているんですが」
「は、はいっ! かしこまりました! アレン様のお立場と偉業に相応しい、最高の物件をご用意しております……!」
職員は揉み手をしながら、仰々しい羊皮紙の図面をテーブルの上にずらりと広げた。
「まずはこちら! 首都が一望できる丘の上に建つ、広さ千坪の最高級迎賓館! 敷地内には天然温泉と専用の魔導防衛陣が常時稼働しており、専属の使用人三十名が完備されて——」
「却下で」
「ひっ!? で、ではこちら! 貴族の離宮を改装した大邸宅! 豪華な大理石のバスルームと、百人を招ける大宴会場が——」
「不要です。……もっとこう、こじんまりとした普通の一軒家はありませんか?」
アレンは眉をひそめ、先回りされた過剰な忖度物件を容赦なく即座に切り捨てた。大理石の風呂も三十人の使用人も、静かな日常を求めるアレンにとっては邪魔以外の何物でもない。
「こ、こじんまりとした物件……ですか……?」
青ざめた職員は焦りながらパラパラと図面をめくり、一番端にあった地味な紙を取り出した。
「で、では……学園から徒歩十五分ほどの路地裏にある、小さな平屋はいかがでしょう? 庭と小さな畑がついておりますが、日当たりも良く、作りは頑丈です。ただ……ひとつだけ『条件』がございまして」
「条件?」
「ええ……実はこの物件のオーナーから『近隣の失業対策』としてお願いされておりまして……過剰忖度邸が閉鎖されたことで無職になってしまった使用人たちのうち、メイドと執事を再雇用してほしいと。全員を雇うのは無理としても、彼らの生活がかかっておりまして……」
職員は申し訳なさそうに身を縮めた。過剰忖度邸で働いていた者たちは、あまりの忖度ぶりに狂乱していたとはいえ、アレンへの忠誠心と技能だけは本物だったのだ。
アレンは一瞬だけ思案した。
「なるほど。……ですが、さすがに全員(本当に全員)は無理ですよ? あの人数が押しかけたら平屋が埋まりますからね」
「あ、もちろんでございます! ですので……メイドと執事、各一名ずつでいかがでしょうか?」
「一人ずつなら……まあ、掃除や最低限の手配をお願いできるなら助かりますね。分かりました、その条件で契約します」
こうして、過剰な忖度をギリギリのところで回避したアレンは、路地裏の小さな平屋と、一人ずつのメイド・執事という、ようやく手に馴染むサイズの「新たな拠点」を手に入れたのだった。
◇
【路地裏の新居と帰る場所】
冒険者ギルドで契約を済ませたアレンは、渡された鍵を手に、学園から徒歩十五分ほどの場所にある路地裏へと向かった。
表通りの喧騒が嘘のように遠のき、古い石畳と打ち水された清潔な空気が漂う静かな区画。その奥に佇む一軒の平屋が、アレンの新たな「拠点」だった。
小じんまりとしてはいるが、手入れの行き届いた小さな庭と、日当たりの良いミニ菜園スペース。派手な大理石や金の装飾など一切ない、木の温もりを感じさせる素朴で頑丈な佇まいに、アレンは満足そうに口元を緩めた。
(うん、これくらいが一番落ち着くな)
満足げに頷き、アレンは木製の玄関扉に手をかけて静かに開けた。
ギィ、と引き戸が鳴った次の瞬間——。
「「おかえりなさいませ、旦那様!!!」」
頭上から降ってくるような、完璧に揃った重厚かつ澄み切った声が玄関ホールに響き渡った。
見込めば、ピシッと皺一つない燕尾服を纏った老執事と、仕立ての良いエプロンドレスを身に包んだ若きメイドが、寸分の狂いもない見事な角度で深々と頭を下げていた。
過剰忖度邸が閉鎖され、無職となってしまっていたかつての使用人たち——その中から選ばれた、各一名の再雇用者たちだった。
「……あ、ただいま」
予想以上の熱量に一瞬だけ圧倒されつつも、アレンが苦笑交じりに返すと、二人はゆっくりと顔を上げた。
その目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「旦那様……! 再びこのようにお側に仕えるお許しをいただき、感謝の言葉もございません……っ!」
老執事は威厳ある見た目に反して、ぽろぽろと大きな涙を流し、ハンカチで目元を拭いながら声を震わせた。
「あの忖度邸が閉鎖された時は、もう二度と旦那様にお仕えすることは叶わないと絶望しておりましたのに……っ! 再雇用していただき、本当に、本当にありがとうございます……ッ!!」
メイドの方も鼻をグスグスと鳴らし、感極まった様子で涙をポロポロと溢ぼしている。
「私めたちのような者を捨て置かず、こうして再び引き取ってくださるなんて……! 旦那様はどこまでお優しいお方なのですか……っ!」
「いや……失業対策だと聞いたから一人ずつ雇っただけで、そんな感動的な話では——」
アレンが慌てて手を振って宥めようとするも、涙を流す二人の耳には届いていないようだった。
「旦那様! この狭き平屋ではございますが、我が命に代えても最高の癒やしと清掃、そして極上のまかない飯をご提供いたしますぞ!」
「はいっ! 旦那様の快適な日常のため、全力でお仕えいたします!」
涙を拭い、一転してメラメラと忠誠の炎を瞳に宿す二人の従者。
過剰忖度邸の時の「狂乱」に近い熱気は少々和らいだものの、彼らのアレンに対する常軌を逸した忠誠心と技能の高さは相変わらずだった。
(……まあ、二人だけなら部屋が埋まることもないし、掃除や食事の心配がいらないのはありがたいか)
アレンは呆れ交じりの溜め息を吐きつつも、どこか誇らしげに胸を張る二人を見つめ、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「分かりました。二人とも、これからよろしくお願いしますね」
「「ははっ!!」」
こうして、過剰な大邸宅を脱出したアレン・ノアは、路地裏の小さな平屋と二人の忠実な従者とともに、ようやく自分の手に馴染むささやかで自由なスローライフをスタートさせるのだった。
◇
アレンが平屋の鍵を開け、二人の従者と今後の生活について軽く言葉を交わしていた、まさにその時。
カツン、カツンと、洗練されたヒールの音が静かな路地裏に響き渡った。
「失礼しますわ、アレンさん」
立ち並ぶ古い家々の隙間から姿を現したのは、グラナドス公爵家の令嬢——セレスティアだった。
ローゼたちの制止を軽やかにかわし、まるで事前に示し合わせていたかのような自然体でアレンの敷地内へと足を踏み入れてくる。手には高級感あふれる革塗りの菓子箱が携えられていた。
「新居のお祝いと、学園復帰のご挨拶に伺いましたの。……あら、お邪魔でしたかしら?」
アレンが「いえ、構いませんが……相変わらず行動が早いですね」と苦笑いを浮かべた瞬間だった。
玄関先で深々と頭を下げていた老執事とメイドが、バッと顔を上げた。
二人はセレスティアの気品に満ちた佇まいと、アレンのすぐ隣に立つ自然すぎる距離感を見つめ——一瞬の迷いもなく、さらに深く、床に届かんばかりの角度で頭を下げた。
「「おかえりなさいませ、奥様!!!!」」
「……はい?」
アレンの制止の声は、二人の完璧に揃った重厚な復唱にかき消された。
「旦那様が学園へ復帰されると同時に、まさか奥様を伴って新居へお戻りになるとは……! 我ら従者一同、この上ない喜びに震えております!」
「お部屋の準備は万全でございます、奥様! お茶の用意をすぐにいたしますね!」
「いや待ちなさい、彼女はグラナドス公爵家の——」
アレンが慌てて訂正しようとしたが、セレスティアは扇子をパチンと優雅に閉じると、極上の笑みを浮かべて喉を鳴らした。
「ふふ……まあ。お気遣いありがとう。良い使用人を雇いましたわね、アレンさん?」
一切否定せず、むしろ当然のように「奥様」の立場をそのまま受け入れて見せるセレスティア。
そして——レンガ塀の影からそのやり取りを必死に盗み見ていた二人は、完全に固まっていた。
「「な、……な……っ!!!!」」
ローゼは目を見開いたまま顔面を蒼白にさせ、ミルフィは開いた口が塞がらずにスプーン(なぜかまだ持っていた)を落としそうになっている。
「オ……オオオ……奥様ーーーっ!?!?」
ローゼの金切り声のような叫びがレンガ塀の裏で炸裂した。
「あ、そうでした、あの二人はーっ!? 私の時もすかさず『奥様』認定する人たちでした!?」
「そ、そう来たかーっ!!」
ミルフィも頭を抱えて叫んだ。
「あいつら、見た目と気品だけで勝手に『アレンの嫁』って勘違いしたわね!? しかもセレスティアさん、全然否定してないじゃないのーーーっ!!」
アレンが平屋の中に三人を通し、新居での最初のお茶会が開かれた。
整えられた小さなリビングのテーブルを囲み、老執事とメイドが手際よく淹れたハーブティーを、三人でお茶をすする。
セレスティアは優雅にカップを傾け、ローゼは未だに先ほどの「奥様」発言の余韻で落ち着かない様子で一口口をつけ、ミルフィはホッと息をつきながら温かい湯気を楽しんでいた。
平屋の中に一瞬だけ訪れた、静かで穏やかな時間。
だが、アレンは手元のカップをそっとテーブルに置くと、窓の外の薄暗くなってきた空を横目で見やり、淡々とした口調で告げた。
「さて。お二人には夜も更けてきましたし、そろそろお帰りいただいて結構ですよ」
その言葉に、ピタリと手が止まる三人。
「「「……?」」」
頭の上に大きな疑問符を浮かべる三人に対し、アレンは身乗り出すこともなく、淡々と指を立てた。
まず、セレスティアを指す。
「グラナドス公爵邸はここから車馬で少し距離がありますし、門限に遅れるとご家族も心配されるでしょう」
続いて、ローゼを指す。
「リゼット侯爵邸も同様です。ローゼお嬢様、これ以上遅くなるとまたご家族に小言を言われますよ」
的確で筋の通った理由を並べられ、納得半分、不満半分といった表情で顔を見合わせるセレスティアとローゼ。
しかし——ミルフィだけが、自分の指が指されていないことに気づき、首を傾げた。
「……? アレン、私には何も言わないの……?」
疑問を口にしたミルフィに、アレンは何でもないことのようにあっさりと答えた。
「ミルフィさんは、ここに邸宅ないでしょ?」
「うん。そうだね」
「どうせ、ここで夕食を食べに来るんだから帰らなくていいんじゃない?」
「あ、なるほど……って、えええーーーっ!? ここ私の家じゃないからね!?」
ミルフィの突っ込みと同時に、隣で聞いていたローゼとセレスティアの視線が、一瞬にして冷ややかな圧力を帯びてミルフィへと注がれたのだった。
「……ちょっとミルフィさん?」
ローゼが眉をひそめ、冷ややかな視線をミルフィへと向けた。
「どういうことですの? なぜあなたが当然のようにアレンの新居で夕食を食べる前提になっていらっしゃいますの?」
「ふふ、まあ……」
セレスティアもパチンと優雅に扇子を閉じると、その微笑みの奥に一切笑っていない瞳を覗かせる。
「『ここに邸宅がない』という理由だけで、ごく当たり前にアレンさんの食卓に混ざる約束が交わされているとは……。学園復帰の初日から、ずいぶんと自然に距離を詰めておられますのね?」
「ち、違うのよふたりともーっ! 私が頼んだわけじゃないの!!」
二大令嬢からの挟み撃ちのような視線に耐えかね、ミルフィは椅子から半分立ち上がりながら必死に両手を振った。
「アレンが勝手に言ってるだけだから! 私だって今日は学園の寮に戻るつもりだったんだからね!?」
「ですがミルフィさん」
当のアレンは、修羅場と化したテーブルの空気などどこ吹く風で、手元のハーブティーを一口含んで首をかしげた。
「学園の食堂の時間はもう終わっていますよ。今から寮に戻っても、晩御飯はありませんが?」
「っ……! う、嘘でしょ、もうそんな時間!?」
「ええ。だからここで食べていけばいいでしょう。再雇用したシェフ手製の料理も試食してみたいですし」
ごく当たり前のことのように生活感を漂わせるアレン。
「ア〜〜〜〜〜〜レーーーーンっっっ!!!!」
ローゼは顔を真っ赤にしてテーブルをバンと叩き、身を乗り出した。
「話をややこしくしないでください! それに、食事が理由なら私だって……私だってリゼット侯爵邸にアレンを招待すれば済む話です!」
「まあ、それでしたらグラナドス公爵邸の料理長に最高級の晩餐をご用意させますけれど?」
対抗して優雅に、けれど絶対に引かない構えを見せるセレスティア。
二人の白熱するやり取りを横目に、新しく雇われた老執事が恭しくアレンの脇に寄り添い、静かに頭を下げた。
「旦那様。……奥様(セレスティア様)をはじめ、側室候補の皆様方の夕食の手配、ただちに進めさせましょうか?」
「だから誰が側室候補ですかーーーーーっ!!??」
ミルフィとローゼの息の合った絶叫が、新居の小さなダイニングルームに再び響き渡るのだった。
アレンは口元に悪い笑みを浮かべると、どこか楽しそうにいたずらっぽく言った。
「え? 森では俺の腕の中ですやすや寝てたのに?」
その一言が放たれた瞬間、部屋の中の空気がピキリと凍りついた。
「「…………は?」」
ローゼとセレスティアの声が完璧に重なった。
ローゼの顔からは一瞬で血の気が引き、次の瞬間には爆発したように真っ赤に染まる。セレスティアの手に握られた扇子はミシミシと怪しい音を立て、その瞳にはかつてないほど濃厚な闇が渦巻いていた。
「な……っ!? も、森で……っ!? 腕の中で……すやすや……っ!?」
「まあ……ふふ、ふふふ……。森の中で、どのような夜をお過ごしになっておられたのかしら……?」
「ち、ちちち違ーーーうッ!! 違います!! 誤解です!!」
ミルフィは弾かれたように立ち上がり、椅子を盛大に倒しながら必死に手を横に振った。顔は限界突破して熟しきったトマトのように赤くなり、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「あの時はサバイバル中で! 寒くて凍えそうだったから生き残るために暖を取っていただけで! 別に変な意味なんてこれっぽっちもないんだからーーーっ!!」
「言い訳は見苦しいですわ(よ)……っ!」
「アレンさん……後ほど、じっくりと詳細を伺わなくてはなりませんわね……」
逃げ場のない二大令嬢からの圧力がミルフィとアレンに押し寄せる中、当のアレンは「事実を言っただけなんですけどね」と何やら楽し気な顔でハーブティーをすすたのだった。
◇
翌朝。
爽やかな朝の光が路地裏の平屋に差し込む中、ミルフィは昨夜の狂騒を思い出し、ベッドの上で頭を抱えていた。
結局、昨夜はローゼとセレスティアによる壮絶な問い詰めの末、時間が遅くなりすぎたこと、そしてアレンの「だから言ったでしょう、寮の食堂は閉まってるって」という追い打ちにより、なし崩し的にこの平屋に泊まっていく羽目になったのだ。
(〜〜〜っ! あいつら……! 私が泊まるって決まった瞬間、鬼みたいな顔で睨んできたじゃない……!)
身支度を整えて部屋を出ると、1階のダイニングからは香ばしいパンと焼き立てのベーコンの美味しそうな匂いが漂っていた。
「あ、おはようミルフィさん。よく眠れましたか?」
すでにテーブルに着き、優雅にスープを口に運んでいたアレンが、ごく自然に声をかけてくる。
「ね、眠れるわけないでしょーっ! 誰のせいでこんなことになったと思ってるのよ……!」
ミルフィが顔を赤くして抗議すると、キッチンからトレイを持ったセバスとメイドが恭しく歩み寄ってきた。ミルフィの前に手際よく完璧な朝食を並べると、二人は深く深く頭を下げた。
「「おはようございます、奥様」」
「……だから! 奥様じゃありませんって昨日から何度も言ってるでしょーっ!!」
ミルフィの悲鳴のようなツッコミにも、セバスは一切動じず、感動に目を潤ませながら胸に手を当てた。
「お戯れを……。旦那様と同じ屋根の下で夜を明かし、こうして並んで朝食を摂られるお姿……どこからどう見ても、この平屋の真の主、すなわち『奥様』に他なりません」
「ええ、お顔を真っ赤にされる初々しいお姿も大変可愛らしくていらっしゃいます、奥様!」
「二人とも完全に私の話を聞いてないわよね!?」
頭を抱えるミルフィの横で、アレンは「まあ、セバスたちの認識を今さら変えるのは不可能ですから、諦めた方が楽ですよ」と他人事のようにティーカップを傾けていた。
◇
朝食を終え、二人並んで平屋の玄関を出る。
路地裏の爽やかな風が頬を撫で、二人は並んで学園へと続く石畳の道を歩き始めた。
「……はぁ。朝から無駄に体力を使っちゃったわ」
「ミルフィさんが一人で大騒ぎしていただけだと思いますけどね」
「誰の発言のせいで大騒ぎになったと思ってるのよ……!」
ジト目で睨みつけるミルフィだったが、朝の柔らかい日差しの中、こうしてアレンと肩を並べて登校している状況に、ふと胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。
学園の門が見えてくると、周囲の生徒たちの視線が二人へと集まり始める。
「えっ……あのアレンとミルフィ様、一緒に登校してない……!?」
「まさか朝から一緒って……どこから通ってきてるの……!?」
ざわめく周囲の視線を背に受けながら、ミルフィは真っ赤になった顔を誤魔化すように、少しだけ歩調を速めた。
「……たく、学園に着いたらまたローゼたちに何言われるか分かったもんじゃないわね」
「大丈夫ですよ。その時はまた『森で腕の中ですやすや寝てた』って教えてあげますから」
「絶対余計なこと言わないでちょうだいーーーっ!!」
アレンの悪戯っぽい笑みと、ミルフィの抗議の声。
二人の少し賑やかで、どこか甘い登校の風景が、学園の朝に広がっていくのだった。




