110話:自由のありかと隣人の声
【隣人の正体と居候の食卓】
半年後。ルードヴィヒ伯爵領の美しいブドウ畑に囲まれた、風の心地よい季節。
アレンは正式に学院へ休学届を提出し、あの喧騒と修羅場の渦中から静かに身を引いていた。
一方、久しぶりの長期休暇を利用して故郷へと里帰りしていたミルフィは、王都で『ルードヴィヒ・ヴィンテージ』が爆発的な最高級ブランドとして扱われている光景を目にして以来、どこか落ち着かない日々を過ごしていた。
(あんな大騒動を起こしておいて、自分はあっさり休学届を出して消えちゃうなんて……本当、アレンらしいというか何というか……)
そんなことを考えながら、久々に心地よい風が吹き抜ける伯爵邸の前庭を散歩していた時のことだった。
ふと視線を横に走らせたミルフィは、違和感に足を止めた。
「……え?」
屋敷のすぐ隣。つい数ヶ月前までは、季節の雑草がそよぐだけの静かな空き地だったはずの場所に、見覚えのない一軒の建物が建っていたのだ。
貴族の絢爛豪華な館とは異なり、木の温もりが感じられる質素ながらも非常に洗練された佇まいの平屋。庭には手入れの行き届いた小さな花壇と、小さな家庭菜園まで作られている。
(こんなところに、いつの間に……? お父様たちが新しい離れでも建てたのかしら?)
首をかしげながらも、近所に新しく越してきた住人(あるいは新しく雇われた人物)への挨拶がてら、ミルフィは引き寄せられるように敷地内へと足を踏み入れた。
小さく整えられた木製の扉に歩み寄り、トントン、と控えめに叩く。
「ごめんください。ルードヴィヒ家のミルフィと申しますが……」
すると、奥からドタバタとした様子もなく、聞き覚えのある落ち着いた声が届いた。
「はいはい、どなたですか——」
ギィ、と静かに扉が開く。
中から顔を出したのは、袖を軽く捲り上げ、穏やかな笑みを浮かべた——アレンだった。
「……あ」
「……やあ、ミルフィさん。お久しぶりですね」
まるで近所の知人にでも会ったかのように、ごく自然に手を挙げるアレン。
ミルフィは完璧に固まった。見開かれた瞳が、目の前の青年と、その背後に広がるどこか居心地の良さそうな部屋の光景を交互に行き来する。
「ア……アアア……アレンーーーッ!!???」
あまりの驚愕に、王都での令嬢らしさも忘れて叫び声を上げるミルフィ。
「な、なんで!? なんでアレンがうちに隣に家を建てて住んでるのよーーーっ!!」
「いや……休学届を出して暇になりましたしね。静かで景色の良い場所でゆっくり過ごそうと思って、伯爵閣下に相談したら『隣の土地を自由に使ってくれ』とおっしゃっていただいたので、小さく家を建てさせてもらったんですよ」
アレンは困ったように苦笑いを浮かべると、「まあ、立ち話もなんですし、中で冷たいお茶でもどうですか?」と、ごく当たり前に自分の「新居」へミルフィを招き入れるのだった。
◇
アレンの新居から目と鼻の先にある、ルードヴィヒ伯爵館のダイニングルーム。
暖炉の火が温かく室内を照らす中、今夜も整然と並べられたカトラリーが光を反射していた。
テーブルの席に着いているのは、当主であるルードヴィヒ伯爵、その妻、息子のヴァルター、そして帰省中のミルフィ。
そして——当たり前のような顔で、ヴァルターの隣の席に腰掛け、優雅にナイフとフォークを動かしているアレンの姿があった。
「アレン殿、本日のメインの肉料理はいかがかな? 我が家のシェフが、君の好みに合わせて焼き加減を調整させたのだが」
当主がごく自然な、それでいてどこか恭しいトーンで問いかける。
「ええ、大変素晴らしい焼き加減です。伯爵閣下。いつも美味しい食事をありがとうございます」
アレンが静かに微笑みながら答えると、当主は「うむ! それは良かった!」と満足そうに深く頷いた。
向かいに座るヴァルターもまた、ワイングラスを傾けながらごく普通にアレンへ話しかける。
「アレン殿、例の離れの庭の植樹だが、明日あたり手伝いに伺ってもよろしくて? 伯爵領の気候に合う珍しい苗木が手に入ったのだ」
「助かります、ヴァルター様。では明日、お時間のある時にでもお願いできますか」
「もちろんですとも!」
二人の会話も、伯爵夫人が「まあ、アレン様、食後にはおすすめの特製ハーブティーをご用意しておりますわね」と微笑む様子も、何から何までが「完璧な日常」として成立していた。
隣の空き地に家を建てて住み着いた青年が、毎晩のように伯爵家の食卓に座り、家族全員がそれを当然の権利として受け入れているこの光景。
あまりにも自然に空間に溶け込んでいるアレンと、一切の疑問を抱かずに彼をもてなす家族を交互に見比べ、ミルフィだけがスープの皿の上でプルプルとスプーンを震わせていた。
(な、なんで……? なんで当たり前にうちの食卓で一緒にご飯食べてるの……!?)
ミルフィの困惑をよそに、アレンは何食わぬ顔でスープを口に運び、上品に口元を拭う。
当主やヴァルターにとって、国家をも裏で動かす「絶対的な存在」がすぐ隣に住み、こうして自分たちの食卓を囲んでくれていること自体が、ルードヴィヒ伯爵家にとって最大の栄誉であり至福の時間だった。アレンの意を汲み、「ただのご近所さん」として接する雰囲気を完璧に作り上げているのだ。
「……ねえ、アレン」
耐えかねたミルフィが、低く抑えた声でアレンに視線を向けた。
「なんです? ミルフィさん」
「あなた、自分の家にキッチンもテーブルもあるわよね……?」
「ええ、ありますよ」
「……じゃあ、なんで毎晩うちでご飯食べてるのよ?」
ミルフィの素朴すぎる疑問に対し、アレンは一瞬だけ考える素振りを見せると、ごく当然といった体で穏やかに微笑んだ。
「一人で食べるより、大勢で食べる方が美味しいですしね。……それに、伯爵閣下の館のまかない……いえ、お夕食は本当に絶品ですから」
「まかないって言いかけたわよね!? ここ、うちの実家だからね!?」
ミルフィが思わず突っ込むと、当主が「これ、ミルフィ!」と少し厳しめの声で娘を制した。
「アレン殿に対して何という失礼な口振りを! アレン殿が我が家の食卓に華を添えてくださること以上に、素晴らしいことがどこにあるというのだ!」
「そうですよ、ミルフィ。アレン殿は我が領地の、いや我が家の最大の恩人であり大切な方なのですから」
ヴァルターまで真顔で頷き、伯爵夫人も優しく微笑んでいる。
家族全員から「お前がおかしい」と言わんばかりの視線を浴び、ミルフィはがくりと肩を落とした。
(……ダメだわ。お父様たち、完全にアレンのペースに呑み込まれてる……)
当のアレンは、ミルフィの呆れ顔などどこ吹き風といった様子で、静かにワイングラスに手を伸ばす。
「皆様の温かい心遣いに感謝します。……あ、伯爵閣下、食後のハーブティー、楽しみにさせていただいておりますね」
「おお! 心を込めて淹れさせますぞ!」
家族全員から「お前がおかしい」と言わんばかりの視線を浴び、ミルフィはがくりと肩を落とした。
スープを飲み進めながら、ミルフィの胸の奥には、呆れとは別の、複雑で甘苦い感情がゆっくりと広がっていた。
(本当に……ずるい人)
樹海の夜、自分の胸の想いを明確に断られた記憶は、まだミルフィの心に小さな傷として残っている。
王都の学園では、ヴィクトリアやセレスティア、ローゼといった雲の上の公爵・侯爵令嬢たちが彼を巡って争い、遠い存在だと痛感させられたばかりだった。
それなのに、なぜこの人は今、自分の故郷の小さなダイニングで、父親と笑いながらワイングラスを傾けているのだろう。
手元にある一本の手紙。王都の専門店で見た『ルードヴィヒ・ヴィンテージ』の恐ろしい値段。
父や兄が夜も眠れずに頭を痛めていた「領地の破滅」を、この人はたった一筆の手紙で救ってみせたのだ。家族がこうして笑顔で食卓を囲めているのは、間違いなく彼のおかげだった。
(感謝しても、しきれない……。でも……)
どんなに国家を動かす圧倒的な格を持っていても、目の前にいるアレンは昔と何も変わらない。
過剰におだてられても奢らず、ただ「美味しいご飯と静かな日常」を愛し、不器用ながらも自分たちの平穏を守ってくれる。
その飾らない素朴さと圧倒的な頼もしさのギャップに触れるたび、「もうただの同級生として諦めよう」と自分に言い聞かせていた決意が、あっけなく揺らいでしまうのだ。
「ミルフィさん? お口に合いませんでしたか?」
不意に声をかけられ、ミルフィはハッと顔を上げた。
アレンがどこか心配そうに、あの樹海の夜と変わらない穏やかな瞳で自分を見つめていた。
「っ……! なんでもないわよ! 美味しくいただいてますーだ!」
慌ててスープを口に流し込み、ぷいっと顔を背けるミルフィ。
そんな娘の様子に首をかしげる両親と、苦笑いを浮かべるヴァルター。そして、何事もなかったかのように静かに肉料理へとナイフを入れるアレン。
(……踏ん切りなんて、つけられるわけないじゃない)
胸の奥の小さなときめきと、消えない切なさを隠すように、ミルフィは温かいスープの気配に顔を埋めた。
学園での騒々しい修羅場から離れ、ルードヴィヒ伯爵家の「当然の顔をした居候」として、アレンの望む静かで贅沢なスローライフは、こうして穏やかに営まれていくのだった。
【夕暮れのベランダと本音】
食後のハーブティーが運ばれ、家族たちが満足そうにリビングへと移動していった後。
ミルフィは立ち上がりかけたアレンの袖をそっと引き、館の二階にある静かなベランダへと彼を連れ出した。
風が爽やかに吹き抜け、眼下には夕闇に包まれ始めた広大なブドウ畑が広がっている。遠くに見えるアレンの新居の小さな明かりが、ポツリと温かく灯っていた。
ミルフィは手すりに寄りかかり、隣に立つアレンの横顔をじっと見つめた。
「ねえ、アレン」
「なんです?」
「さっきは『ご飯が美味しいから』なんて言っていたけれど……本当のところを聞かせて。なんで、ここにいるの?」
冗談めかしたツッコミではなく、まっすぐな瞳で問いかけてくるミルフィ。
学園での修羅場、王都を揺るがしたワインの奇跡、そして侯爵邸からの突然の失踪。隠しきれなくなった彼のあまりにも巨大な正体と、その背後にある「理由」を、ミルフィは知りたかった。
アレンは夕暮れの空を見上げ、一口だけ温かいハーブティーを口に含むと、ふっと自嘲気味な笑みを漏らした。
「……そうですね。そろそろ、ちゃんとお話ししておいた方が良いかもしれませんね」
アレンはこれまでの出来事をひとつひとつ手繰り寄せるように、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「結局のところ……息が苦しかったんですよ。ゼノリスにいた頃も、この国に来てからもね。公爵だ、侯爵だと、周囲が過剰に盛り上がり、勝手に期待を背負わせてくる環境が、俺にはどうにも肌に合わなかった」
アレンの瞳には、普段の飄々とした態度の裏にあった、一人の青年としての素朴な本音が宿っていた。
「ただ自由に生きたかったんです。誰の思惑にも縛られず、自分の手で静かな日常を掴みたかった。だから俺はゼノリスの『第一魔法学園』を飛び出し、留学生としてこのクレイズ神聖王国へとやってきた」
「ゼノリスの学園から……」
「ええ。ですが、この国に着いたは良いものの……うっかりしていてね。ゼノリスの通貨しか持っていなくて、路頭に迷いかけたんです」
「えっ……? 通貨を持ってなかったの!?」
思わぬ世間知らずな告白に、ミルフィは目を丸くした。アレンは苦笑いを浮かべながら頷く。
「ええ。それで、手っ取り早く現金を稼くのと、その日の食事のために参加したのが、あの近衛選抜トーナメントでした。食事目当てで勝ち進んだ結果……行き着いた先が、リゼット侯爵邸の『専属執事』という立場だったというわけです」
「じゃあ……あの執事っていうのは……」
「偶然の産物ですよ」
アレンは懐かしむように遠い目をした。
「最初はすぐに辞めるつもりでした。ですが……あの『執事』という役割を演じるのが、思いのほか面白くてね。庭の手入れをして、ローゼお嬢様のお小言を聞いて、夜は美味しいまかないを食べる。誰からも重い期待をかけられない『ただの執事』でいられる時間が、俺にとってはかけがえのない自由だったんです」
一気にかたり終えたアレンは、手すりに肘をつき、穏やかな風に髪を揺らせた。
「……だから、今までずっと執事を演じていたんですよ。まあ、サバイバルやら何やらで目立ちすぎて、結局その自由も潰れてしまいましたがね」
秘密を包み隠さず明かしてくれたアレンの横顔を見つめながら、ミルフィは胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じていた。
国家を動かすほどの絶対的な存在でありながら、彼が本当に求めていたのは、そんな拍子抜けするほど素朴で、愛おしい「自由」だったのだ。
「……ふふっ」
「……ミルフィさん?」
思わず吹き出したミルフィに、アレンが不思議そうに首をかしげる。
「ごめんなさい。だって、世界を動かすような人が、お金がなくてトーナメントに出て執事になったなんて……可笑しくて」
ミルフィはフフッと微笑みながら、アレンと同じように手すりに寄りかかり、夕闇のブドウ畑を見つめた。
「でも……話してくれて、ありがとうアレン。なんだか、少しだけあなたのことが分かった気がするわ」
「それは良かったです」
夕空の下、二人の間にどこか温かく、心地よい静寂が流れる。
「……で? 執事をやめた今は、ここでの暮らしは『自由』なのかしら?」
ふと気になったように尋ねるミルフィに、アレンは穏やかな眼差しを返した。ミルフィは少しだけ視線を泳がせながら、小さな声で言葉を付け加える。
「……うち、一応は伯爵家だけどそれは大丈夫なの? また窮屈に感じたりしない?」
「ええ、大丈夫ですよ」
アレンは迷いなく首を振ると、いたずらっぽく口元を緩めた。
「それに……あの時、俺を守るって言ってくれましたからね」
「っ……! そ、それはっ……!」
樹海から戻った直後、学園の廊下で大見得を切った自身の黒歴史を突かれ、ミルフィの顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まる。動揺する彼女を前に、アレンは心底満足そうに頷き、静かに微笑んだ。
「美味しいワインと食事があって、静かな庭があって……たまに隣から、少しだけ騒がしい令嬢が文句を言いに来てくれる。……今のところ、俺にとってこれ以上の『自由』はありませんよ」
「〜〜っ! 誰が騒がしい令嬢よ……!」
恥ずかしさと嬉しさが入り混じり、真っ赤になって抗議するミルフィの声。
ルードヴィヒ伯爵領に穏やかな季節が巡るころ、首都の学園では一つの節目が訪れていた。
ゼノリス王国からの留学期間、そしてあの大邸宅(通称・過剰忖度邸)の契約期間が満了を迎えたのだ。
かつてアレン争奪戦の渦中心となり、過剰な忖度で使用人たちが狂乱していたあの広大な邸宅も、静かに主を失うこととなった。アレンが「ただの執事」という仮面を脱ぎ捨てて姿を消し、ヴィクトリアたちの留学期間が過ぎたことで、大邸宅は元の静けさへと戻っていったのだ。
◇
同じ頃。
ルードヴィヒ伯爵領の穏やかな陽光が降り注ぐ庭先で、アレンは一人、小さな植木鉢の手入れをしていた。
遠い空を渡る風の気配に、ふと作業の手を止め、北東の空を仰ぎ見る。
(……ゼノリスへ帰ったか)
ヴィクトリアやルーカス、ソフィアたちが本国へと旅立ったことを、アレンは風の便りで察していた。自分が「執事」として過ごしたあの慌ただしくも騒がしい日々が、完全に過去のものとなったのだ。
「アレーン! お父様が新しいワインの試飲をするからって呼んでるわよー!」
隣の伯爵邸のバルコニーから、ミルフィが手を振りながら元気な声を張り上げている。
「はいはい、今行きますよ」
アレンは剪定バサミを置くと、ふっと穏やかな苦笑いを浮かべた。
過剰な忖度も、身分を巡る争いもない。
どこまでも広がる青空と、美味しいワイン、そして少しだけ騒がしい隣人。
アレン・ノアの手に入れた「ささやかで自由なスローライフ」は、こうして静かに、けれど確かにこの地に根を張っていくのだった。




