109話:路地裏の決断と創業者の一筆
その頃——。
「ふぅ……。危ないところだった」
学園の敷地外、首都の雑踏に紛れたアレンは、胸を撫で下ろしながら一人静かに歩いていた。
学園でのあの怒涛の修羅場、そして自らの意志とは裏腹に留まることを知らず膨れ上がる周囲の過剰評価。
首都の雑踏の中、アレンはぽつりと呟いた。
「……ダメだな。もう誤魔化しきれない」
「ただの庭師兼執事」という都合の良い隠れ蓑を被り、平穏な日常と美味しいまかない飯を享受する——そんなアレンの小さな「スローライフ計画」は、事実上、完全に崩壊したのだ。
学園長からの過剰なまでの忖度処理、クラスメイトたちからの異様な熱度の注視、そして何よりローゼやヴィクトリア、セレスティアといった国の中心たる令嬢たちの激しい執着。自分が「一人のしがない執事」として侯爵邸の庭を弄っているだけで済むフェーズは、もう遠い過去のものとなってしまった。
(お嬢様には申し訳ないが……俺の『執事ごっこ』は、これで終わりだな)
アレンの瞳から、普段のどこか飄々とした抜け感が消え、かつて大陸最高峰「第一魔法学園」の頂点に君臨していた頃の、冷徹で深遠な光が静かに戻っていた。
あの日を境に、アレンがリゼット侯爵邸に顔を出す頻度は劇的に減った。
朝起きて、庭の手入れをし、お嬢様のお世話をして、夜は美味しいまかない飯を食べる……そんな当たり前だった日々のルーティンは姿を消した。
侯爵邸の庭師用の作業小屋は整然と片付けられ、彼が愛用していた剪定バサミや手袋だけが、まるで主の帰りを待つかのように綺麗に磨かれて置かれている。
「……アレン……? 今日もいないの……?」
侯爵邸の広大な庭園を見下ろすバルコニーで、ローゼ・フォン・リゼットは寂しげに呟いていた。
あの日、学園の廊下で恥ずかしさのあまり固まっている間に、一瞬で姿を消したアレン。翌日も、その翌日も、朝食のワゴンを押して現れるのは老執事であり、庭で楽しそうに草むしりをするアレンの姿はどこにもなかった。
時折、風のように現れては最低限の書類整理や必要な報告だけを完璧にこなし、ローゼが「アレン!」と呼び止める間もなく、気配すら残さず去ってしまう。
そこにいたのは、自分を「お嬢様」と呼んで少しフランクにあしらってくれていた『自分の執事』ではなく、どこか遠い世界から一時的に手を貸しに来ているだけの『規格外の存在』だった。
(私……何か、取り返しのつかない間違いをしてしまったのかしら……)
ローゼは胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みを覚えながら、誰もいない手入れの行き届いた庭園を、ポツンと見つめ続けるのだった。
一方、当のアレンは——学園の敷地外にある静かな酒場の席で、一杯のエールを前に思考を巡らせていた。
「執事の任を解く正式な手続きは、いずれ侯爵閣下を通しておこなうとして……。さて、これからどう動くか」
自身が求めていた「静かな日常」が潰えた以上、これ以上周囲に巻き込まれ、身分を秘匿したまま振り回される理由はどこにもない。
自身の圧倒的な存在感と実力が完全に露呈してしまった今、アレン・ノアは「執事」という仮面を脱ぎ捨て、新たな選択を迫られていた。
表通りの喧騒から離れた路地裏に佇む、小さく年月の刻まれた酒場。
木製の狭いカウンターにぽつりと腰掛け、アレンは並々と注がれた安酒のグラスをゆっくりと傾けた。
肩が触れそうなほど壁が近く、木の擦れた匂いと炒め物の香ばしい煙が立ち込める店内。この手が届く範囲にすべてが収まる独特の空間に身を置いていると、不思議と心が穏やかになっていく。
(……ふぅ。やっぱり、こういう場所が一番落ち着く)
一口喉を鳴らし、アレンは静かに目をつむった。
グラスに映る自分の顔を見つめながら、思考を過去から現在へと巡らせていく。
(……だが、スローライフか。我ながら、随分と甘い夢を見ていたものだな)
最初は本当に、ただの気まぐれだった。
ゼノリス王国「第一魔法学園」で不自由になった環境から解放され、この国では成り行きとはいえ「しがない庭師兼執事」として身を隠す。日中は汗を流して庭木の手入れをし、ローゼお嬢様のどこか抜けたお小言に「申し訳ございません」と頭を下げ、夜は厨房の美味しいまかない飯に舌鼓を打つ。
ただそれだけの、穏やかな日常が欲しかっただけなのだ。
だが、現実はどこまでも無情だった。
身についた戦闘技術や知識は秘匿しきれるものではなく、周囲の「過剰な忖度」と、ローゼやヴィクトリア、セレスティア、ミルフィといった令嬢たちの強烈な執着が、容赦なく自分を巻き込んでいった。
(……『黒樹の森』からの生還。あれで完全に逃げ道がなくなったな)
ミシェルにじーっとジト目で観察され、核心を突かれて真っ赤になっていた彼女たちの姿が脳裏をよぎる。
あそこまで事態が大きくなってしまっては、もう「ただの執事」という役割を演じ続けるのは無理がある。いつまでも侯爵邸にいれば、ローゼや周囲に無用な混乱と心労を与え続けるだけだ。
(お嬢様には本当によくしてもらった。だが……潮時だな。いつまでも『執事ごっこ』を続けているわけにはいかない)
温いエールを喉へと流し込み、アレンの瞳から柔らかさが消えていく。
仮面を脱ぎ捨てた今、自分はこの街を去るべきか。それとも、露呈してしまった実力と存在感を受け入れ、別の形で表舞台へ足を踏み入れるべきか。
狭い店内のカウンターで、アレンは一人、静かに次の選択を見据えていた。
ジョッキに揺れる酒の表面を見つめながら、アレンの脳裏に浮かんでいたのは、ルードヴィヒ伯爵館でのあの食卓での会話だった。
『質の良いブドウは育ち、製法も昔からの伝統を守ってはいるのです。しかし……このままでは領地の財政を圧迫しかねない』
領地経営の苦悩を吐露したヴァルターと、当主の厳しい表情。
『知り合いに声をかけてみることはできますが、どのような返答が得られるか、あるいは実を結ぶかどうかは分かりません。手に届く範囲で返事をもらうだけでも半年はかかると思っていただいたほうがよろしいでしょう』
あの時、自分は何気なく市場価値を分析し、人脈や学園への復帰を口にした。
木の擦れた香りと炒め物の煙が立ち込める薄暗い店内で、ジョッキに落ちる琥珀色の光をじっと見つめる。
脳裏に浮かぶのは、ルードヴィヒ伯爵館でのあの食卓の情景だ。
『近隣の領地で大量生産される安いワインに押され、我が家の伝統的なワインは市場での立ち位置を失いつつある。……このままでは領地の財政を圧迫しかねない』
自慢のワインが市場で立ち位置を失い、領地経営を圧迫していると頭を痛めていたヴァルターの真摯な表情。
あの時、自分はただ目の前の課題に対して当たり前のように「国外へ輸出・販売などはなさらないのですか?」
と導き出し、知り合いへ声をかけることを口にしていた。
静かに平穏な日々を望みながらも、困っている者を前にすれば、無意識のうちに手を差し伸べてしまう。
(……やれやれ)
酒場のガヤガヤとした喧騒を背に、アレンはひとり自嘲気味に息を漏らすと、温いエールを喉へと流し込むのだった。
安酒場のカウンターでエールを飲み干すと、アレンはポケットから一枚の極薄の羊皮紙と、魔力を帯びた特殊なインクペンを取り出した。
「バルツァー・ラボ」の創業者である彼にとって、一地方貴族の流通網のなさや経営難など、解決策はすでに見えている。直接CEOに言った方が速いか……いつも面倒かけてすまない。
アレンは迷いのない手つきで、ゼノリス本国の最高経営責任者(CEO)宛てに直接簡潔な指示を書き走らせた。
『ルードヴィヒ伯爵領のワイン事業について。
同地はブドウの発育に最適な土壌と気候を備え、出来上がるワインは最高品質である。しかし現在、近隣の安価な大量生産品に押され、市場での立ち位置を失い存続の危機にある。
株式会社バルツァー・ラボの事業ラインとして正式にこれを組み込み、適切なブランディングと付加価値を付与して市場へ展開せよ』
羊皮紙を小さく丸めると、アレンは指先にわずかな魔力を込めた。
すると、酒場の死角となった暗がりから、漆黒の羽を持つ一羽の小さな伝書鳥——バルツァー・ラボ直轄の超長距離通信用魔導鳥が静かに姿を現した。
アレンは脚の小筒に文面を押し込むと、その頭を優しく撫でた。
「本国へ。CEO直配だ」
一瞬の羽ばたきとともに、伝書鳥は夜の闇の中へ、本国ゼノリスを目指して一直線に飛び去っていった。
ルードヴィヒ伯爵領のワイン事業の動向を左右する決定が、路地裏の片隅で静かに下された瞬間だった。
◇
アルカディア魔法帝国のさらに北東――地図の端の先、標高の高い山脈を隔てたゼノリス王国に佇む、株式会社バルツァー・ラボの本社タワー最上階。
真夜中を過ぎても静まり返るCEO執務室で、男は磨き抜かれた黒檀のデスクに流れる膨大な決裁書類へ目を通していた。
ふとペンを止め、暗がりとなる部屋の隅へ視線を向ける。
空間の歪みとともに漆黒の羽を散らし、一羽の小鳥が静かに舞い降りた。
バルツァー・ラボ直轄、創業者専用の超長距離通信用魔導鳥だ。
「……また、あのお方か」
CEOは小さく息を吐くと、ペンを置いて立ち上がり、魔導鳥へと歩み寄った。
鳥の頭を指先で優しく撫で、脚の小筒から一本の小さく丸められた羊皮紙を取り出す。
指先から魔力を通すと封印が解かれ、見慣れた細身で迷いのない筆跡が浮かび上がった。
『ルードヴィヒ伯爵領のワイン事業について。
同地はブドウの発育に最適な土壌と気候を備え、出来上がるワインは最高品質である。しかし現在、近隣の安価な大量生産品に押され、市場での立ち位置を失い存続の危機にある。
株式会社バルツァー・ラボの事業ラインとして正式にこれを組み込み、適切なブランディングと付加価値を付与して市場へ展開せよ』
短く、淡々と記された命令。
だが、その一文に含まれる意味の重さを、CEOは誰よりも理解していた。
「クレイズ神聖王国のルードヴィヒ伯爵領……あの辺りの領地か」
手紙を伏せ、CEOは軽く天を仰いだ。
創業者であるアレンが、理由もなくこのような指示を出すはずがない。
「ただのワインの買い上げ」ではない。「バルツァー・ラボの事業ラインとしての組み込み」と「ブランディング」。国境を越え、バルツァー・ラボの総力を挙げて世界規模の超高級銘柄へと育て上げろという意味だ。
「またクレイズのどこかで安酒でも飲みながら、思いつきのように飛ばしてきたのだろうな……『いつも面倒かけてすまない』とでも言いたげな顔が目に浮かぶ」
CEOは苦笑交じりに呟くと、すぐさまデスクの魔導通信機へ手を伸ばした。
先ほどまでの穏やかな表情は消え、巨大グループを束ねる冷徹な最高経営責任者の顔へと切り替わる。
「広報、流通、法務の各トップを至急招集しろ。クレイズ神聖王国エリアを担当する総局にも連絡だ」
通信機から漏れる緊張した部下の声に対し、CEOは静かに命令を下した。
「創業者直達の『特命案件』が入った。クレイズのルードヴィヒ伯爵領におけるワイン事業を全社最優先ラインとして組み込み、再設計する。ブランディング計画書は明朝までに上げさせろ」
通信を切ると、CEOは窓の外の夜景を見つめ、手元の羊皮紙を愛おしそうにポケットへと収めた。
「相変わらず、人使いの荒い創業者様だ」
◇
翌日の午後、クレイズ神聖王国・ルードヴィヒ伯爵邸の執務室。
伯爵であるルードヴィヒは、机の上に広げられた帳簿を前に重い溜め息を吐いていた。
いくら質の良いブドウが実り、伝統の製法を守り抜いていようと、安価な大量生産品に市場を浸食されている現状は変わらない。熟成に時間がかかるぶんだけ資金の回収も遅れ、領地の財政は日に日に圧迫されていた。
そこへ、ノックの音とともに執事の老人が青ざめた顔で駆け込んできた。
「旦那様! 大変でございます……! 門前に、巨大な紋章入りの魔導馬車が到着いたしまして……っ」
「魔導馬車? どこの貴族だ。急な来客の約束など……」
「貴族ではございません! ……ゼノリス本国に本社を置く、あの『株式会社バルツァー・ラボ』の特使の方々でございます!」
「な……ッ!?」
ルードヴィヒは思わず立ち上がり、手にしていたペンを落とした。
バルツァー・ラボ——大陸中の流通と技術を牽引し、王侯貴族ですら直接の取引を取り付けるのに躍起となる巨大企業グループだ。一地方貴族に過ぎないルードヴィヒ伯爵家など、彼らから見れば存在すら認識されていないはずの規模である。
応接室へと案内すると、そこには仕立ての良い上質なスーツに身を包んだ男たちが、整然と控えていた。
中央に立つ総局の特使は、ルードヴィヒの姿を認めると恭しく礼を執った。
「突如の訪問、無礼をお許しください、ルードヴィヒ伯爵閣下。私は株式会社バルツァー・ラボ、クレイズ領域事業本部の者でございます」
「あ、ああ……わざわざご足労いただき感謝する。しかし、我が家のような小さな伯爵家に、一体どのようなご用件でしょうか……?」
ルードヴィヒが戸惑いを隠せずに尋ねると、特使は一切の無駄のない動作で、重厚な革製のポートフォリオから一枚の書面を取り出し、卓上へ滑らせた。
そこには、バルツァー・ラボの公式金印とともに、信じがたい内容が刻まれていた。
『ルードヴィヒ伯爵領産ワインにおける、独占包括パートナーシップおよびブランド再設計契約書』
「……な、なんだこれは……!?」
書面に目を通したルードヴィヒの目が、見開かれる。
「我が社では、閣下の領地で生産される伝統ワインの極めて高い品質と、その土壌・気候の稀少性を高く評価いたしました。つきましては、本国CEOの直達命令により、我がグループの正式な事業ラインとして本ワインを組み込みたく存じます」
「は……? 本国の……CEO、直々に……!?」
「はい。生産体制および伝統的な製法はすべて閣下のお手元に委ねたまま、我が社の世界的な流通網とブランド力を活用し、最高級銘柄として全世界の市場へ展開させていただきます。初期投資および輸送、ブランディング費用はすべて我が社が全額負担いたします」
提示された契約金の額と、破格すぎる条件に、ルードヴィヒだけでなく傍らに控えていた家臣までもが息を呑んだ。
自慢のワインが評価された歓喜よりも先に、あまりのスケールの大きさと唐突さに頭が追いつかない。
「し、しかし……我が家のような弱小な農場に、なぜこれほどの大手が……? 一体どこで我が家のワインをお知りになったのです?」
震える声で尋ねるルードヴィヒに対し、特使はただ穏やかな笑みを浮かべた。
「詳細な経緯につきましては、最高機密につきお答えできかねます。ただ……我がグループの頂点におわすお方より、『同地は最高品質のブドウを育む。付加価値をつけ、全世界へ届けよ』との強いご指示が下りた、とだけお伝えしておきます」
「最高幹部からの……直接の指示……」
呆然と立ち尽くすルードヴィヒの脳裏に、ふと昨夜の食卓の光景が過った。
ワインの苦境を打ち明けた際、静かに耳を傾け、ごく当たり前のように国外への輸出や知り合いへの連絡を口にしていた、あの「アレン」という青年の顔だ。
(……いや、まさか。いくらあのお方でも、一国の王すら動かすバルツァー・ラボの最高意思決定を左右するなど……そんなことがあり得るはずが……)
自分の突飛すぎる想像に、ルードヴィヒは冷や汗を拭いながら強く首を振った。
しかし、昨日まで領地の存続さえ危ぶまれていた伝統ワインが、今まさに世界を揺るがす巨大グループの手によって、奇跡のような躍進を遂げようとしている事実だけが、目の前に横たわっていた。
クレイズ神聖王国の路地裏で下された決定が、遥か北東のゼノリス本国の夜を静かに動かし始めていた。




