108話:帰還の狂騒と去りゆく影
ルードヴィヒ伯爵領で数日間の手厚いもてなしを受けた後、アレンはミルフィに別れを告げ、単身で首都へと戻った。
行方不明となっていた生徒の無事の帰還は、学園内に大きな激震をもたらしていた。学園に到着するや否や、すれ違う生徒や教官たちの驚愕と好奇の視線を全身に浴びながら、アレンは最上階にある校長室へと呼び出された。
重厚な扉を叩き、室内へと足を踏み入れる。
デスクの奥で待っていた校長は、アレンの姿を目にするやいなやメガネをずり下げ、息を呑んで立ち上がった。
「無事に戻られたか、アレン・ノア殿……! いや、まずは無事の生還を心より祝おう」
「ご心配をおかけしました、校長先生」
アレンが落ち着いた所作で一礼すると、校長は揉み手をする勢いで上座のソファへと着席を促した。
「演習場での事故から樹海で三週間……。教官たちの捜索も難航する中、ルードヴィヒ伯爵家の令嬢を完璧に保護し、無事に領地まで送り届けたと報告を受けている。さすがは城塞都市中央第一魔法学園の推薦を受けるお方……見事としか言いようがない手際だ」
「いえ、運良く拠点になる場所が見つかり、川の魚や薬草で凌いだだけに過ぎませんよ。ミルフィ様が無事だったのは何よりですが」
アレンはいつものように面倒事を避けるべく、至って控えめに肩をすくめてみせた。しかし、校長は「ハハハ」と感服したように大きな笑い声を上げた。
「恐れ入るほどの謙虚さだ……! 過酷な樹海を凌ぎ、病に倒れた令嬢を完治させて送り届けるなど、並の生徒にできるはずがない。ルードヴィヒ伯爵からも貴殿への深く熱い感謝状が届いておる。学園としても今回の件は公には『奇跡的な生還』として処理し、貴殿の手間にならぬよう手配を済ませたよ」
「助かります。大袈裟に騒がれては面倒ですからね」
(よしよし、これで変な表彰とか面倒な報告会は回避できたな)
心の中でほっと胸を撫で下ろすアレン。だが、校長はどこか楽し気に含みのある笑みを浮かべ、アレンを見つめた。
「しかしだな、アレン殿。貴殿がどれほど隠そうと、助け出されたミルフィ君の貴殿への傾倒、そして事態を知った周囲の貴族や教官たちの見る目は、もはや以前と同じとはいかんよ。学園にとっても、これほどの逸材が在籍しているのだからな」
「……お手柔らかにお願いしますよ」
熱い眼差しで見送られながら校長室をあとにしたアレンは、静かな廊下の窓から学園の中庭を見下ろし、深く重いため息をついた。
(……はぁ。せっかく庭仕事と美味しいまかないで平穏に過ごしたかったのに、また変に目立ってしまったか)
過酷なサバイバルは終わったものの、本人の望みとは裏腹に、周囲の期待と勘違いが加熱していく「最高に面倒くさい学園生活」が再び始まろうとしていた。
「——あっ! アレン、そこにいたのね……っ!」
廊下の曲がり角から、パタパタと少し慌ただしい足音とともに姿を現したのは、アレンの「主人」であるローゼ・フォン・リゼットだった。
少し息を弾ませながら駆け寄ってきたローゼは、アレンの無事な姿を目にするなり、「よかったぁ……」と胸を撫で下ろした。だが、自分が主であることを思い出したように、慌ててポンと小さく手を叩いて咳払いをする。
「あ、コホン……! じゃなくて、その……! 遅いですわよ、アレン! 主である私に何のお知らせもなく何週間も姿を消すなんて……! 一体どれだけハラハラさせれば気が済むのですか! あまり私を心配させないでちょうだい……!」
どこか必死で、けれど言葉のあちこちに素の焦りと愛らしさが滲み出るお小言。勢いあまって少し言葉がもつれそうになりながらも、一生懸命に「主人」としての威厳を保とうとしている。
そんなローゼの姿にアレンが「申し訳ございません、お嬢様」と頭を下げかけた、その時だった。
「あら……無事なのは何よりですけれど、ずいぶんと長引いたのね、アレン?」
長い階段の上から、氷のように冷ややかで圧倒的な威圧感を纏った人物が降りてきた。ゼノリア王国の筆頭公爵令嬢——ヴィクトリアである。
「過酷な樹海で三週間……。他国の令嬢と二人きりで、一体『どんな濃密な時間』を過ごしていらしたのかしら? 詳しくお聞かせ願えるかしら」
「ヒッ……!」
ヴィクトリアから放たれる本気の殺気と過剰な圧力に、ミルフィは思わずアレンの袖をキュッと掴んで怯えた。その背後では、付き添っていたルーカスが「うわ、ヴィクトリアの目がマジだ……」と引きつり、ソフィアが「また胃が痛くなってきましたわ……」とこめかみを押さえている。
さらにそこへ、扇子を上品に揺らした公爵令嬢セレスティアが歩み寄ってきた。
「ふふ、賑やかですわね。ですがローゼさん、ヴィクトリア様……。彼は我が校のAクラスに在籍する一人の生徒でもありますのよ? 樹海からの『生還の真相』、ぜひともクラスメイトとして伺いたいところですわ」
セレスティアの傍らから、ミシェルがじーっと射抜くような強い視線をアレンに向けながら、腕を組んで前に出てきた。
「……そうですよ。あの講義室で追及した時も誤魔化されましたけど、どこからか仕入れてきた噂によると、誰もが生還を諦めていた『黒樹の森』の深部から、ミルフィ様を無傷でお連れ戻しになったとか……。ただの執事だと言い張りながら第一魔法学園の高級制服を着て編入して、今度は樹海から生還なんて……アレン、やっぱり貴方おかしいわ。本当は何者なんですの?」
逃がさないとばかりに猫のように目を細め、ジト目でじーっとアレンの顔を観察して詰問してくるミシェル。
「おいアレン! お前マジで凄すぎるだろ! 俺にもサバイバルのコツ教えてくれよ!」と大柄なブラッドも興奮気味に声を上げた。
慌てて言い淀みながらも必死にお小言を言うローゼ、過剰な嫉妬を燃やすヴィクトリア、優雅に観察するセレスティア、アレンにしがみつくミルフィ、そしてジト目でじーっと観察しながら核心を追及してくるミシェル——。
校長室の前の廊下は、アレンを取り巻くメンバーが一堂に会し、逃げ場のない追及と注目の渦へと変貌を遂げていた。
(……やれやれ。樹海の魔物どもと対峙していた時の方が、よっぽど平和だったな)
アレンは心の中でそっと遠い目をしながら、深く、重いため息をつくのだった。
「旦那様や奥様という謎の呼び名」や「怪しい同居」に今さら驚いて抗議するのは、過去のやり取りと矛盾してしまいます。ご指摘いただき、本当にありがとうございます。
ローゼが過去の経緯(あの過剰忖度大邸宅の存在や同居の事実)を知っている前提で、それでも自分の専属執事として侯爵邸へ連れ戻そうとする形へ、自然な流れで修正・リライトいたしました。
「……で? 報告が終わったのなら、アレンは当然我が家(侯爵邸)へ連れ帰りますわ」
ローゼは胸を張り、一生懸命に「主人」としての矜持を保ちながら宣言した。
「アレンは我がリゼット侯爵家の専属執事! 学園での手続きや無事の確認が終わった以上、主の身の回りの世話をするために侯爵邸へ戻るのは当たり前です! ……ね、ねえ、アレン?」
少し語気を強めつつも、最後に「ね?」とアレンに同意を求めるあたり、どこか空回りした愛らしさが隠しきれていない。
だが、その主張を氷のように冷ややかな微笑みが一蹴した。
「あら? おかしなことをおっしゃるのね、ローゼさん」
ヴィクトリアが優雅に扇子を広げ、圧倒的な威圧感を伴って一歩前へ踏み出す。
「すでに契約を結び、私たちが同居しているあの『大邸宅』こそがアレンの現在の拠点ですわ。あそこはアレンが何一つ動く必要のない極上の環境。昼の執事勤務が終わった後のアレンの身柄は、私が預かる手はずになっていたはずですけれど?」
「うぐっ……! た、確かに夜はそちらへ譲るという約束でしたけれど……っ!」
事前に取り交わされた半ば強引な取り決めを突かれ、ローゼは言葉を詰まらせた。しかし、一生懸命に言葉を紡ぎ直して対抗する。
「ですが! アレンは過酷な樹海から戻ってきたばかりで、身も心も疲れ切っているのですよ!? あの過剰な忖度で使用人たちが狂乱しているような館に連れて行ったら、休まるものも休まりませんわ! 今日くらいは我が家で静かに静養させるべきです!」
必死にアレンの体調を気遣いつつ、主人としての正当性を主張するローゼ。だが、ヴィクトリアはくすりと艶やかに微笑んだ。
「ふふ、ご心配には及びませんわ。我が館の専属メイドや執事たちが、すでに最高級の癒やしと特製スイーツをご用意して旦那様のお帰りをお待ちしておりますもの。……それに、疲れたアレンを心を込めてお世話するのは『奥様』である私の役目ですわ」
堂々と誇らしげに語られる「奥様」という言葉。ローゼは「も、もう……! そうやってすぐ奥様気取りをするんですから……っ!」と顔を少し赤くしながらも、あわあわと手を振り乱して空回りしてしまう。
「とにかく! 今日のアレンは渡しませんわ! 執事としての体を休ませるのも主の義務です!」
「あら、譲りませんわよ。アレンの疲労を拭い去れるのは、私の愛とあの館の完璧なもてなしだけですもの」
必死にアレンの健康と所有権を主張して空回りするローゼと、圧倒的な圧力と「奥様」としての立場を押し出すヴィクトリア。
二人の公爵・侯爵令嬢がアレンの連れ帰りを巡って激しい火花を散らす横で、ミルフィはアレンの袖を離せずオロオロとし、ミシェルはジト目でその光景をじーっと観察し、ルーカスとソフィアは「また始まったよ……」と遠い目をするのだった。
「……ふふ、お二人とも。そこまででよろしくて?」
火花を散らすローゼとヴィクトリアの間に、鈴を転がすような優雅な声が割り込んだ。
扇子をパチンと静かに閉じ、一歩前へ踏み出したのは、Aクラスに君臨するもう一人の公爵令嬢——セレスティアである。
「セレスティアさん……!?」
ローゼが驚きに目を丸くし、ヴィクトリアは冷ややかな眼光を鋭くセレスティアへと向けた。
「何かご意見でもおありかしら、セレスティア?」
「ええ、大いにありますわ、ヴィクトリア様」
セレスティアはふっと艶やかな微笑みを浮かべると、視線をアレンへと滑らせた。その瞳には、彼が纏う異国の最高級制服と、今回の生還劇によってさらに深まった強烈な好奇心が宿っている。
「ローゼさんの仰る通り、何週間も樹海を彷徨い、魔物と対峙してきたアレンさんの疲労はピークのはず。それなのに、過剰な忖度で『旦那様! 奥様!』と大騒ぎされる大邸宅へお連れするなど、静養どころか余計な精神的負担を与えるだけではありませんこと?」
「なっ……! 我が館の使用人たちの誠心誠意のおもてなしを『精神的負担』と吐き捨てるなんて、聞き捨てなりませんわね……!」
ヴィクトリアの額に青筋が浮かぶ。しかしセレスティアは一歩も引かず、今度はローゼの方へと向き直った。
「そしてローゼさん。お気持ちは分かりますが、侯爵邸へ戻せば結局アレンさんは『専属執事』として立ち働き、お世話をする側に戻ってしまうのではありませんの? それでは本当の意味で体を休めることにはなりませんわ」
「うぐっ……! た、確かにそうですけれど……! 私は無理をさせるつもりなんて……っ!」
正論を突かれ、ローゼは言葉を詰まらせてあわあわと手を振り乱した。一生懸命にアレンを気遣おうとしていただけに、反論できずに空回りしてしまう。
二人の言い分を完璧に制したセレスティアは、自信に満ちた笑みをたたえ、胸を張って『第三の選択肢』を提示した。
「ですから——疲れを癒やすなら、我が【クレイヴァリア公爵邸】が最適ですわ」
「「はぁぁぁっ!!???」」
ローゼとヴィクトリアの声が、見事にハモって廊下に響き渡った。
「クレイヴァリア公爵邸には、帝国屈指の静寂を誇る迎賓離れと、最高峰の療養泉(温泉)がございますの。煩わしい忖度も、執事としての仕事も一切なし。アレンさんには『我が家の特別なお客様』として、極上の静養をお約束いたしますわ」
セレスティアはアレンの目の前まで歩み寄ると、扇子の先でそっと彼の胸元を指し、妖しく微笑んだ。
「どうかしら、アレンさん? 私の館で、二人きりで静かに疲れを癒やしてみない?」
「ちょっと待ちなさいセレスティア!! どさくさに紛れて何をお誘いになっていらっしゃいますのーーーっ!!」
ローゼが顔を真っ赤にして叫び、割り込もうとする。
「無礼な……! アレンの『正妻』であるこの私を差し置いて、アレンを我が物にしようなんて……万死に値しますわよ、セレスティア!!」
ヴィクトリアからは、先ほどまでの比ではない本気の殺気が噴き出し、廊下の空気が物理的に凍りつき始めた。
「あら、私は純粋に彼の体調を気遣って最善の提案をしたまでですわ。……それともヴィクトリア様、ご自身の『奥様ごっこ』を優先してアレンさんを酷使されるおつもり?」
「奥様ごっこですって……!? 撤回しなさい、今すぐ!!」
「嫌ですわ。事実を申し上げたまでですもの」
「お、二人とも落ち着いてくださいまし……っ! ああもう、アレン! あなたからも何か言ってちょうだい!」
怒り狂うヴィクトリア、余裕の笑みで煽り立てるセレスティア、そして二人の間で必死に仲裁に入ろうとして完全に空回りするローゼ。
三大貴族の令嬢たちがアレンの「争奪戦」でカオスな修羅場を繰り広げる横で、ミルフィは絶句してアレンの服を握りしめたままフリーズし、ミシェルはジーッと観察するような強い視線でノートにメモを取り、ルーカスとソフィアは「うわぁ……泥沼だぁ……」と遠い目をして頭を抱えていた。
そして、当のアレンはというと——。
(……うん。全員、話を聞く気がゼロだな)
ヒートアップしすぎた令嬢たちを前に、彼は静かに、完璧な動作で一歩後ずさりをするのだった。
「……な、……なんですの皆様!!」
怒号と殺気が激しく交錯する廊下に、甲高いくぐもった悲鳴のような声が響き渡った。
アレンの袖を必死に握りしめていたミルフィ・フォン・ルードヴィヒが、意を決したようにその小さな身体を前へと滑り込ませたのだ。
バンッ! と小さな両手で自分の胸元を叩き、両脚を思い切り突っぱねてアレンを背中に庇う体制を取る。その顔は限界まで真っ赤に熟し、瞳には涙が浮かんでいたが、視線だけは真っ直ぐに三大令嬢へと向けられていた。
「さっきから勝手なことばかり言わないでくださいまし! アレンをどこへ連れて行くだの、誰が世話をするだの……っ! アレンは物ではありませんわ!」
「「「……は?」」」
ローゼ、ヴィクトリア、セレスティアの三人の動きがピタリと止まった。
修羅場の渦中に、これまでアレンの陰に怯えて隠れていたはずの伯爵令嬢が飛び込んできたのだ。
「樹海で私を救い、三週間も命がけで守り抜いてくださったのはアレンです! 熱を出した私に優しい薬湯を煎じ、足を丁寧にほぐし……夜も私の不安が消えるまでずっと傍にいてくださったのですわ!」
「……は?」
ヴィクトリアの美しい顔から一切の感情が消え去り、瞳の奥にどす黒い漆黒の炎が揺らめいた。
「熱を出した彼女に薬湯……? 足を丁寧にほぐし……夜もずっと傍に……?」
「ミルフィさん……? いま、夜もずっと一緒だったとおっしゃいました……?」
ローゼもショックのあまり顔を蒼白にさせ、あわあわと手を口元に当てて後退する。
「まあ……。過酷なサバイバルの中で、そこまで深い『密度の濃いスキンシップ』を重ねておられたとは……」
セレスティアも扇子の陰で目を丸くし、怪しい笑みを深めさせた。
だが、周りの反応など耳に入らないほど限界突破していたミルフィは、叫ぶように宣言した。
「アレンはもう十分尽くしてくださいました! これ以上、皆様の勝手な争いに巻き込まれて疲弊させるわけにはいきません! 今日からのアレンは……アレンは私が守りますーーーッ!!」
「「「あなたが(あなたが)……守る(守る)……!!???」」」
三人の令嬢の声が完璧にシンクロし、廊下の壁を振動させた。
「冗談ではありませんわ!! 命がけの樹海でアレンに色目を使い、あまつさえ手当てにかこつけてアレンの身体に触れただなんて……万死どころか十万死に値しますわよ、ルードヴィヒ伯爵令嬢!!」
本気の殺気で髪を逆立てんばかりに怒り狂うヴィクトリア。
「っ……! ア、アレン!? 私という主人がいながら、他の女の子の足を揉んだり夜も一緒に過ごしたりしていたのですかーっ!? 浮気……じゃなくて、不貞……じゃなくて、不誠実ですわーーーっ!!」
パニックのあまり完全に言葉をトチりながら、涙目になってキーッと叫ぶローゼ。
「ふふ、これは面白くなってきましたわね……。救出された恩人がそのまま『守る』と宣言して参戦だなんて。クレイヴァリア公爵家としても、この争いから引くわけにはいかなくなりましたわ」
セレスティアも優雅な笑みの裏で瞳にメラメラと執着の火を灯す。
「ア、アレン……!? わたし本当のことを言っただけですのになんで皆様そんなに怒って……っ!?」
あまりの圧力の倍増に、ミルフィは「ヒィッ!」と悲鳴を上げてアレンの胸元へと飛び込み、再びしがみついた。
その瞬間、ヴィクトリア、ローゼ、セレスティアの視線が、凶器のような鋭さで一斉にアレンを撃ち抜いた。
「……アレン?」
「……アレン、説明しなさい……っ!」
「……アレンさん、言い訳を聞かせてくださるかしら?」
修羅場は加速するどころか、もはや国家間戦争前夜レベルの超極大カオスへと突入していた。
その横で、ミシェルはじーっと観察するような強い視線で「サバイバル中の密着手当と、それによる愛の芽生え……」とノートにカリカリとメモを取り、ルーカスとソフィアは「終わったな……」と互いに肩を叩き合っていた。
そして、当のアレンは——。
(……良かれと思ってやった足のマッサージと薬湯が、なんでこんな致命的な爆薬になるんだ……?)
抱きついてくるミルフィの頭越しに、冷や汗をだらだらと流しながら、アレンは静かに天を仰ぐのだった。
「……じーっ」
極限まで膨れ上がった殺気と怒号の渦中。
一人だけ完全に冷めた、けれど射抜くような強い視線でアレンと四人の令嬢たちを交互に見つめていたミシェルが、腕を組んだまま、静かに口を開いた。
「……あの、よろしいかしら?」
落ち着き払ったミシェルの声は、ヒートアップしていた廊下の異様な熱気をすーっと冷やすように届いた。
ヴィクトリア、ローゼ、セレスティア、そしてアレンにしがみついていたミルフィ。四人の視線が一斉にミシェルへと向けられる。
ミシェルは腕を組み、相変わらず逃がさないと言わんばかりのジト目で四人の令嬢たちをじーっと見回すと、なんでもないことのように身も蓋もない真実を呟いた。
「要するに皆様、理屈や立場をこねくり回して争っておられますけれど……結局のところ、アレンさんのことが好きでたまらなくて、自分だけのものにしたい(占有したい)だけなんですのね?」
「「「「……っっっ!!???」」」」
瞬間。
廊下の時が完全に止まった。
先ほどまで国家間戦争前夜のごとく荒れ狂っていた殺気と怒号が、嘘のように一瞬で霧散する。
代わりに広範囲を襲ったのは、文字通り「全員が氷漬けになったような絶対の沈黙」だった。
「な、……っ! ななな、何を戯言を言っていますのミシェルーーーーーッ!?」
沈黙を破ったのは、真っ先に顔を沸騰させたローゼだった。
「わ、私は主として! 専属執事の身を案じているだけで! 誰が好きでたまらないとか、そんな……そんな破廉恥な話では……っっ!!」
顔をリンゴよりも真っ赤に染め上げ、手足をバタバタと振り乱しながら猛スピードで弁明するが、あまりの狼狽ぶりに全く説得力がない。最後は声にならない悲鳴を上げて、あわあわと自分の両頬を両手で挟んでうずくまってしまった。
「くっ……! ぶ、無礼な……! 私は……私はただ、アレンの『正妻』としての正当な権利を……っ!」
あの圧倒的威圧感を誇っていたヴィクトリアでさえ、耳の先端まで真っ赤に染め上げ、扇子で口元を隠しながら激しく狼狽していた。冷徹な美貌は見事に崩壊し、目線を泳がせながらフシューッと荒い息を吐いている。
「ふ、ふふ……。何を仰いますのミシェル……。私はただ、彼の類まれなる才能と能力を高く評価しているだけで……」
セレスティアも優雅な笑みを張り付かせようと必死だが、パタパタと扇ぐ扇子の速度が異常なほど速い。頬には隠しきれない紅潮が浮かび、視線があちこちへ彷徨っていた。
「あ、あわ……あわわわわ……っ!!」
そしてアレンの胸元にしがみついていたミルフィは、自分の抱いていた感情の核心を第三者に暴露されたショックでキャパシティをオーバー。顔から湯気を吹き出しそうなほど真っ赤になり、ついに「ふにゃ……」と膝から崩れ落ちそうになってアレンに支えられる有様だった。
「……やっぱりね。図星ですわ」
四人のあまりに分かりやすすぎる反応に対し、ミシェルはジト目のまま「やれやれ」と溜め息を吐き、手元のノートに『全員、重度のアレン依存・好意を自覚し狼狽』と静かにペンを走らせた。
(……ミシェルさん、頼むからそれ以上は掘り返さないでくれ……!)
身も蓋もない真実を突かれて完全フリーズ・大爆発を起こした四人の令嬢を前に、アレンはダラダラと冷や汗を流しながら、この世の終わりのような顔で天を仰ぐのだった。
ミシェルの投下した「核爆弾」とも言える身も蓋もない真実。
その余波により、顔を沸騰させてうずくまるローゼ、扇子で顔を隠して目が泳ぐヴィクトリア、猛烈な勢いで扇子をパタパタさせるセレスティア、そして足腰が抜けてキャパオーバーを起こしたミルフィ——四人の令嬢は完全に思考を停止させ、その場に固まっていた。
廊下に漂うのは、異様なまでの重苦しい沈黙と、熱暴走を起こした令嬢たちの羞恥の気配のみ。
(……今だ)
アレンの頭の中で、長年培われた元第一魔法学園トップとしての戦術的判断が光の速さで下された。
この千載一遇の好機を逃せば、正気に戻った彼女たちによって再び地獄の四つ巴(+追及)へと引き戻されるのは目に見えている。
アレンは抱え込むように支えていたミルフィの身体を、驚くほど滑らかな動作で近くの壁際へと移動させた。その手際たるや、まるで高級絹織物を傷つけないようそっと横たえるかのごとき洗練ぶりである。
(ミルフィさんには申し訳ないが、ここは俺の平穏がかかっている……!)
すっと身体を起こしたアレンは、息を吸う音すら消した。
足裏にかかる体重の分散、気配の遮断、視線誘導、空間の死角の利用——かつて過酷な秘密任務すら軽々とこなした彼の「隠密技術」が、学園の廊下という非常に下らない場面で極限まで発揮される。
「あ、……アレン……? 貴方、何をし——」
ミシェルがじーっと観察していた視線をふとずらし、違和感を覚えて声をかけようとした瞬間。
トン、と微かな風が廊下を吹き抜けた。
次の瞬間には、そこにいたはずのアレンの姿は綺麗さっぱり消え失せていた。
残されたのは、静まり返った廊下と、赤面したまま固まっている令嬢たち、そして「えっ、いつ消えたの……!?」とパチパチと目を丸くするミシェルだけだった。
「……あ、あれ……? アレンは……?」
真っ赤な顔を上げたローゼが、空っぽになった目の前の空間を見て首を傾げる。
「な……消えた……!? 姿隠しの魔術……? いいえ、気配すら一切残さず逃げ出しましたわね……っ!」
ヴィクトリアが扇子をバッと開いて顔を覗かせ、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「ふふ、見事な逃げ足ですわね……。流石は私の見込んだ男性ですわ」
セレスティアもようやく顔の紅潮を抑え込み、呆れと感心が一対一で混ざったような溜め息を吐く。
「あ、アレン……置いていかれちゃいました……」
壁際でようやく正気に戻ったミルフィが、ポツリと寂しそうに呟いた。




