第88章:決戦の序曲:座標0(ゼロ)の静寂
ベストルム大陸北東。中規模国家として確固たる地位を築いてきたゼノリス王国は、今、建国以来最大の危機に瀕していた。
大陸を支配する魔法帝国アルカディアとの国境、その峻険なる山岳地帯に、世界の理を歪める「災厄」が迫っていたからだ。
幸いにも魔法帝国アルカディアとは強固な同盟関係にあり、帝国の多大な資金援助と軍備提供によって、最前線の防衛線は辛うじて形を成していた。
さらに、帝国の南方に位置するクレイズ神聖王国、レムリア法皇国という、戦力規模を超越した戦力を擁する二国も準同盟として名を連ねている。
これらの国家は、この未曾有の事態を重く見て、緩衝国として静かに、しかし着実に戦域を包囲していた。
国家の命運を分かつ開戦を前に、ゼノリス王国全土には国民への避難指示が発令された。避難誘導班が北東の街へと列を成す人々の安全を確保する
一方で、アレンが立つ山頂付近は、もはや人の領域を逸脱した極限の戦場と化していた。
作戦遂行のため、後方100kmの救護班を起点に、凡そ10kmおきに物資供給および搬送拠点が構築された。食料、武器、消耗資源――アレンの戦いを支える「血脈」が、山脈に沿って幾重にも張り巡らされている。
人々の避難と軍の配置が完了し、戦場に静寂が訪れる。
アレンがゆっくりと歩を進めると、眼前の大気が歪んだ。蜃気楼と共に浮かび上がるのは、空間そのものを食らい尽くさんとする巨大な影。
黒曜龍――その絶望的な破壊の化身が、半年の沈黙を破り、ついにその牙を剥こうとしている。
切り立った岩場にアレンが立つ。彼の視界には、人間には知覚できない数式が浮かんでいた。
空間の歪み、奔流する魔力の流れ、光の屈折率。世界を構成するすべてのパラメータが、アレンの「空間操作」によってミリ単位で制御されている。
「準備は……完了だ」
アレンの言葉は、山肌を吹き抜ける風の音にかき消された。しかし、その声に迷いは一切ない。
彼の精神は冷徹な演算装置と化し、迫り来る「黒曜龍」という名の不純なデータを、論理的に抹消するためのカウントダウンを開始していた。
雲間から差し込む月光が、アレンの携える大刀を冷たく照らし出す。
世界のバグを修正する、神にも等しき「物理デバッグ」の幕が、今上がった。




