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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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107話:樹海脱出(下)〜ルードヴィヒ伯爵館の食卓〜

「……着いたな。ここがヴェルデンだ」


アレンは馬車を降りると、ミルフィの手を取って降ろしてやった。


石畳の通りにはパンを焼く香ばしい匂いや、行き交う人々の威勢の良い声が満ちている。およそ三週間ぶりに接する圧倒的な文明の気配に、ミルフィは少し眩しそうに目を細めた。


「凄いわ……本当に、人里へ戻ってこられたのね……」


「ああ。まずは衣服を整えて、温かいものでも食おう。捜索隊や学院への連絡は、身なりを綺麗にしてからで十分だ」


昨夜の拒絶を経て、二人の間にはどこか一定の距離感が生まれていた。しかし、ミルフィの手を引いて人混みをかき分けるアレンの背中は、相変わらず無駄がなく頼もしさに満ちている。


ミルフィは肩に掛けられたアレンの上着をそっと抱き直し、彼の後ろを遅れまいとついていった。


長かった森での遭難劇はここで幕を閉じ、二人はヴェルデンの喧騒の中で、再び新たな局面を迎えるのだった。


ヴェルデンに到着したアレンとミルフィは、まず仕立屋へと向かい、森での遭難で泥や煤に汚れた服を脱ぎ捨てて上質な旅装へと着替えた。さっぱりとした身なりを取り戻すと、そのまま町で一番賑わっている酒場兼宿屋へと足を踏み入れる。


香ばしく焼き上げられた肉の匂いと、出来立てのシチューから立ち上る湯気。およそ三週間ぶりとなる「まともな食事」がテーブルに並ぶと、ミルフィは感極まったようにスープを口に運び、その温もりに静かに目を細めた。


食事が一段落した頃、アレンはテーブルの脇を通りかかった給仕の女性へ静かに声をかけた。


「すまない、少し尋ねたいんだが。ここから西のルードヴィヒ伯爵領まで行くとなると、乗合馬車でどのくらいかかる?」


「ルードヴィヒ伯爵領かい? ここからなら大街道を南西に下って、定期馬車を乗り継げば二日ほどだね。道も整備されているから、そう不便なく行けるはずだよ」


「そうか、ありがとう」


アレンは銀貨を一枚渡し、給仕を見送った。


ミルフィはスープを持った手を止め、驚いたようにアレンを見つめる。


「アレン……? 首都の学院へ戻るんじゃないの……?」


学院へ戻れば、二人は遭難事故の当事者として教官や生徒たちからの過剰な注目を集め、報告や事情聴取に追われることになる。だがアレンが最優先に考えたのは、学院の手続きなどではなく、行方不明となった娘を案じ続けているであろうミルフィの両親の存在だった。


「まずは君をルードヴィヒ伯爵領の実家へ送り届ける。両親を安心させることが最優先だ。学院への報告や遭難の処理なんて、君が無事に家に帰った後でどうとでもなる」


「アレン……」


昨夜、胸の想いを明確に拒絶された傷は、まだミルフィの心に残っていた。けれど、どこまでも合理的で冷徹なように見えて、一番に自分とその家族のことを気遣ってくれるアレンの揺るぎない優しさに、ミルフィは胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。


「……分かったわ。アレンの言う通りにする。ありがとう……」


ミルフィは感謝を込めて静かに頷き、差し出された温かい紅茶をそっと両手で包み込むのだった。



ヴェルデンを出発した定期馬車は、西へと伸びる平穏な大街道を滞りなく進んでいった。


車窓を流れる風景は、日を追うごとにその表情を変えていく。連なる穏やかな丘陵地帯を越えると、陽光をいっぱいに浴びた広大な斜面一面に、どこまでも続くブドウ畑の緑が広がった。爽やかな風に乗って漂う甘い果実と芳醇な土の匂い——そこは紛れもなく、神聖王国内でも名高いワインの産地、ルードヴィヒ伯爵領だった。


「懐かしいわ……。本当に帰ってきたのね……」


車窓から故郷の風景を見つめるミルフィの瞳に、うっすらと光るものが浮かぶ。森での過酷な三週間が、まるで遠い夢だったかのように思えるほどの静けさと美しさがそこにはあった。


馬車はブドウ畑の合間をぬう滑らかな石畳を走り抜け、やがて町の中央、緑豊かな庭園に囲まれた意匠の美しい領主館へと到着した。


重厚な鉄製の門が開き、馬車が前庭の車寄せで静かに停車する。


馬車の扉が開くと、アレンは先に降り立ち、ミルフィへそっと手を差し伸べた。


「着いたぞ、ミルフィ」


「ええ……ありがとう、アレン」


その手を取り、地に足をつけたミルフィの姿を、館の正面玄関に並んでいた執事や従者たちが目ざとく捉えた。行方不明となっていた令嬢の突然の帰還に、館全体が一瞬静まりかえり、次の瞬間には激しい動揺と歓喜のざわめきに包まれた。



「ミルフィお嬢様……! お無事で……お無事でございますか……っ!」


年老いた執事が声を震わせながら駆け寄り、深く頭を下げた。館の奥からは、娘の無事を聞きつけたルードヴィヒ伯爵夫妻が、なりふり構わず駆けつけてくるのが見えた。


「ミルフィ! ああ、ミルフィ……! 無事だったのか……!」


涙を流して抱きついてくる母親と、その肩を抱きながら安堵の息を漏らす厳格な父親。感動的な家族の再会を前に、アレンは己の役目はこれで終わったと判断し、気配を消して静かに後ずさった。


(よし、これでお役御免だな。あとは適当な宿でも探して、一人で首都へ戻るか)


そう思い、踵を返そうとしたアレンの腕を、ミルフィの手がキュッと強く掴んだ。


「待って、アレン……!」


ミルフィは涙を拭い、振り返って父親であるルードヴィヒ伯爵へと向き直った。


「父様、母様。私をあの危険な森から救い出し、ここまで命がけで送り届けてくださったのは、このアレン・ノアさんです。彼がいなければ、私は今頃……」


伯爵の鋭い視線がアレンへと向けられる。威厳に満ちたその瞳には、深い感謝と同時に、男特有の観察眼が宿っていた。


「君が……娘の恩人か。言葉もない。……どうか館に入ってくれ。盛大なもてなしをさせてほしい」


「いえ、お気持ちだけで十分です。俺はただの同級生ですし、無事に送り届けられたのでこれで失礼します」


アレンは丁寧に辞退し、すぐさま立ち去ろうとした。これ以上、関わりを深めて余計な貴族の威光や派閥争いに巻き込まれるのは御免だったからだ。


「そうはいかん」


伯爵の声には、引き下がりを許さない強い意志が籠もっていた。


「我がルードヴィヒ家は、恩義を仇で返すような真似は絶対にしない。それに、娘がどのような状況で救われ、どう過ごしてきたのか、親として詳しく知る義務がある。……頼む、一晩だけでも旅の疲れを癒やしていってくれ」


「アレン……父様の言う通りよ。私からもお願い……せめてもの恩返しをさせてちょうだい」


ミルフィもまた、すがるような目で見つめてくる。ここで頑なに拒み続ければ、かえって余計な邪推を生みかねないと悟ったアレンは、小さく息を吐いて諦めの笑みを浮かべた。


「……分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」


「うむ! 部屋を用意させよう。さあ、中へ」


こうして、関わりを断ち切ろうとしていたアレンの思惑とは裏腹に、彼はルードヴィヒ伯爵家の重厚な扉の奥へと招待されるのだった。


「どうぞ、我が家で最も古く、素晴らしい年代物だ」


ホストが誇らしげに掲げたボトルから、深紅の液体が静かにグラスへと注がれた。暖炉の火がゆらめくダイニングルームに、芳醇なブドウの香りが心地よく立ち込める。


アレンは静かに微笑むと、流れるような無駄のないしぐさでグラスの細い脚(ステム)を指先で包み込んだ。


手元にあった白いナフキンをそっと膝の上で広げ、その上でグラスをわずかに傾ける。透過する光とナフキンの白を背景に、ワインの縁が帯びる繊細なグラデーションと澄んだ熟成の色合いを、確かな目線で見つめた。


まずはグラスを動かさず、静かに鼻を近づける。空気に触れる前の、ブドウ本来が持つ繊細で引き締まった一番の香りを深呼吸するように受け止めた。


次いで、テーブルの上にグラスを置いたまま、手首を滑らかに動かして反時計回りに二度、三度と優しく旋回させる。空気を孕んだ液体がガラスの壁面を優美に滑り落ちていく。


グラスの中に溜まったその豊かなアロマに、再び顔を寄せた。

解き放たれた果実の凝縮感、オーク樽の燻香、そしてかすかなスパイスの香りが一気に開花し、鼻腔を心地よく満たしていく。アレンの口元に、自然と満足げな笑みが浮かんだ。


一口分だけをそっと口に含み、すぐには飲み込まず、舌全体へ行き渡らせるように静かに転がす。


まろやかな酸味、角の取れたシルクのようなタンニン、そして奥深いエキス分が口中で見事な調和を描き出していくのを確認してから、喉へと滑らせた。


「……素晴らしいですね」


余韻に浸るように一瞬だけ目を細め、アレンはホストへ向けて静かに語りかけた。


「若々しい果実の華やかさと、長く静かに眠っていたことを物語る深みが見事に同居しています。開くことで現れる豊かな香りの層と、この滑らかな口当たり……あなた様の誇りに違わぬ、実に見事な一本です。お招きいただいたことに、心から感謝します」


当主をはじめ、食卓を囲んでいた家族、そして壁際に控えていた執事やメイドたちまでもが、息を呑んでアレンの一挙手一投足に見入っていた。


事前の報告では「しがない平民の青年」と聞いていたはずだった。


しかし、目の前で繰り広げられたのは、付け焼き刃の知識や格好つけなどでは到底届かない、完璧に洗練された所作。指先の角度、視線の運び、そしてワインの真価を正確に見抜いて言葉にする優雅な佇まいは、血筋と厳しい教育によってのみ磨き上げられる最高位の王侯貴族そのものだった。


「……君は、本当にただの平民なのか?」


静寂を破り、当主が思わず漏らした声には、隠しきれない驚愕と揺らぐ猜疑心が混じっていた。


アレンはグラスをそっとテーブルに戻すと、ナフキンで静かに口元を拭い、何事もなかったかのように穏やかな微笑みをたたえた。


「はい。世間では、そのように伝えられております」


アレンは咎める風もなく、極めて自然な口調で答えた。否定も肯定もせず、ただ事実として「世間の扱い」を言葉にしただけの穏やかな返答。


しかし、その捉えどころのない笑みと完璧すぎる所作は、当主の脳内で決定的な意味へと変換された。


(『世間では』……だと? 自ら名乗ることを許されぬ立場、あるいは身分を隠して市井に身を潜めているということか……!)


当主の背中に一筋の冷汗が伝う。

洗練された立ち振る舞い、一切の隙がない気品、そして自慢のヴィンテージワインの真価を一瞬で見抜いた教養。ただの市井の民にそのような真似ができるはずがない。


(まさか……没落した旧王家の血筋、あるいは表に出せぬ王族の落胤(らくいん)……!?)


己が招いた青年の背後に広がる「途方もない血統」を勝手に確信した当主は、急激に緊張で喉を渇かせながら、握りしめたナイフとフォークの手元をかすかに震わせた。


食卓を包む空気は一変し、壁際に立つ執事とメイドたちも、まるで本物の王を前にしたかのように、いっそう深く頭を垂れていた。


静まり返った食卓で、当主がアレンの佇まいに圧倒され、息をのんでいたその時だった。


緊張感などどこ吹き風といった様子で、ミルフィが料理に手を伸ばしながら、ふっと思い出したように口を開いた。


「ねえアレン。そういえば思い出したんだけど……アレンの周りって、公爵様とか侯爵様ばかりよね?」


「……ミルフィ、食事中にそのような大げさな話を——」


「だって本当じゃない。この前だって公爵閣下が『君の淹れたお茶が恋しい』って押しかけてきてたし、先週も侯爵様からのお誘いを『忙しいから』って断ってたじゃない」


無邪気で何気ない、しかし破壊力抜群の一言。


その瞬間、当主の手に持っていたフォークがカチャンと皿に当たり、乾いた音を立てた。

食卓を囲んでいた家族の動きがピタリと止まり、壁際に控えていた執事とメイドは驚愕のあまり完全に凍りついている。


(こ、公爵……! 侯爵……だと……!?)


当主の脳内で、先ほどまでの「深読み」が完璧な事実に変わった。

最高位の貴族たちが向こうから押しかけ、あまつさえその誘いを「忙しい」という理由で断る平民が、この世のどこにいるというのか。


(やはり間違いない……! この青年は、王侯大貴族すら一目置かざるを得ない、途方もない高貴な血筋……あるいは影の支配者……!)


当主は額からダラダラと冷や汗を流しながら、背筋をこれ以上ないほどピンと伸ばし、椅子から立ち上がらんばかりの勢いでアレンに向かって深々と頭を下げた。


「ア、アレン殿……! いや、お噂以上の御身であられたとは知らず、大変な非礼を働きました! どうか……どうか本日の無礼をお許しいただきたい……!」


アレンは、無邪気に微笑むミルフィと、本気で恐縮しきっている当主を見比べ、困ったように静かに眉を下げた。


「……当主様、どうかお顔をお上げください。彼女が申しているのは、単に少々賑やかな知人が多いというだけの話ですので……」


しかし、その穏やかな謙遜すらも、当主にとっては「強大な権力を誇示しない真の王者のゆとり」としてしか受け取られなかった。



「は、ははっ……! 左様でございますか、恐れ入ります……!」


当主と嫡男のヴァルター・フォン・ルードヴィヒは、汗を拭いながら恐る恐るお互いに顔を見合わせると、アレンの意を汲んでどうにか席へと戻った。アレンのどこまでも飾らない気遣いによって、張り詰めていた空気は徐々に落ち着きを取り戻し、気を取り直すように食事が再開された。


そうして静かに食事が続けられていく中、アレンは当主の隣に座るヴァルターの様子にふと目を留めた。


先ほどまでの極度の畏縮こそ収まったものの、ヴァルターの表情にはどこか晴れない陰りが残っている。料理に手を伸ばしながらも時折手元のグラスを見つめ、ごく小さく溜息を殺していた。


(何か悩みを抱えているのだろうか……)


気になったアレンは、フォークを静かに置くと、押しつけがましくない穏やかな声で語りかけた。


「ヴァルター様。差し出がましいようですが……どこかお顔色が優れないように見受けられます。何かご不審やご懸念でもおありでしょうか?」


声をかけられたヴァルターはハッとしたように身を正したが、アレンの温かな眼差しを前に、意を決したように重い口を開いた。


「……いえ、アレン殿。このような席で暗い話題をお見せしてしまい、申し訳ない。実は……我が領地の主産物である、ワインの収益が思うように伸びておらず、頭を痛めておりましてな」


「ワインの収益、ですか」


「ええ。質の良いブドウは育ち、製法も昔からの伝統を守ってはいるのです。しかし、近隣の領地で大量生産される安いワインに押され、我が家の伝統的なワインは市場での立ち位置を失いつつある……。熟成に時間をかける分、回転も悪く、このままでは領地の財政を圧迫しかねないのです」


自慢のワインだからこそ抱える経営の苦悩。

ヴァルターの真摯な吐露を聞いたアレンは、先ほど味わったあの見事な一杯の風味と、その製法を思い返しながら、静かに思考を巡らせ始めた。



「国外へ輸出・販売などはなさらないのですか?」


アレンが素朴な疑問としてそう問いかけると、ヴァルターは驚いたように目を見開き、続いて苦笑いを浮かべながら力なく首を振った。


「国外、ですか……。考えたこともありませんでした。我が家のような一地方貴族の小さなワイナリーでは、国境を越えるための商路もコネクションも持っておりません。それに、輸送にかかるコストや税を考えれば、とても採算が合うとは思えず……」


「なるほど、流通と販路の問題ですね」


アレンは静かにうなずくと、先ほど確かめたナフキン越しの美しいグラデーションと、口中に広がったあの深く気品ある香りを思い返した。


「ですが、先ほどいただいたワインは、決して近隣の安価な品と競うべきものではありません。この深く洗練された味わいと熟成の技術は、国を選ばず、目の肥えた本物を求める王侯貴族や富裕層にこそ真価を発揮するはずです」


アレンの言葉に、ヴァルターだけでなく、隣で聞いていた当主のルードヴィヒ伯爵までもがゴクリと唾を飲み込んだ。


(国外の……王侯貴族への販売……!?)


当主の脳裏に、先ほどミルフィが口にしていた言葉——『アレンの周りは公爵や侯爵ばかり』という事実が、強烈に結びつく。


(そうか……! アレン殿はただ慰めているのではない。安物と競うのではなく『本物を求める層』へ届けるという、我が家が失いかけていた価値そのものを指摘してくださっているのだ……!)


アレンにとっては純粋な市場価値の分析と提案に過ぎなかったが、ルードヴィヒ伯爵父子の目には、行き詰まっていた領地経営の暗闇に一筋の光が差し込んだかのように映っていた。


「……ですが、あまり期待しすぎないよう、念を押させてください」


アレンは二人の表情に一瞬浮かんだ熱を落ち着かせるように、穏やかながらも釘を刺すようなトーンで言葉を継いだ。


「知り合いに声をかけてみることはできますが、どのような返答が得られるか、あるいは実を結ぶかどうかは分かりません。それに、返事をもらうだけでも半年はかかると思っていただいたほうがよろしいでしょう」


「半、半年……でございますか」


当主の言葉に、アレンは静かに頷いてみせた。


「ええ。私も近いうちに一度、学園へ顔を出さねばなりませんのでね。本格的なやり取りは、その後ということになります」


「それに、ミルフィさんも一度学園に顔を出した方が良いかもしれませんね。……当主様、ミルフィさんをお借りしてもよろしいでしょうか?」


アレンがごく自然にそう尋ねると、当主は一瞬驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には破顔し、大きく手を振ってみせた。


「いやいや、アレン殿! 我が娘でよろしければ、どうぞどうぞ! そのままお持ち帰りいただいて一向に構いませんぞ!」


「……は?」


当主のあまりに思い切りの良すぎる二つ返事と、明らかに誤解の含まれた言葉に、アレンは思わず呆気にとられた声を漏らすのだった。


「……ちょっと、お父様!?」


真っ赤になったミルフィが、勢いよく立ち上がって抗議の声を上げた。


「お持ち帰りって何ですか、お持ち帰りって! 私はアレンの荷物じゃありません!」


「は、はは、何を怒っているのだミルフィ。アレン殿のようなお方のお側にいられるなど、我が家にとってもこれ以上の光景はないではないか……」


「そういう問題じゃありません! もう、お父様ったら変な勘違いばかりして……!」


ぷくっと頬を膨らませて当主を睨みつけるミルフィと、大真面目な顔で「娘をよろしく頼む」と言わんばかりに頷く当主。


(……『お持ち帰り』も何も、ただ学園に連れて行くだけなのだが……)


伯爵家のなんとも言えないやり取りを前に、アレンは静かに額を押さえ、深々と溜息をつくのだった。


伯爵の斜上を行く「お持ち帰り」発言と、それに怒り心頭のミルフィによる不毛な押し問答もようやく収まり、一行は食卓を後にした。


翌朝。朝食を済ませたアレンとミルフィは、屋敷の正面玄関前へと足を運んでいた。


そこには、ルードヴィヒ伯爵家が誇る格調高い紋章が刻まれた、仕立ての良い一基の馬車が用意されていた。昨夜の当主の言葉通り、手配に一切の滞りはない。


「アレン殿、ミルフィ。馬車と御者の準備はすべて整っております」


見送りに立った当主とヴァルターが、並んで深く頭を下げる。


「なにからなにまで、お心遣い感謝いたします。当主様」


アレンが丁寧にお礼を述べると、当主は「滅相もない」と慌てて首を振り、どこか切実な眼差しでアレンの手を両手で固く握りしめた。


「いいえ、我が家の拙いワインに光を当てていただいたばかりか、こうして学園への足としてお役に立てるなら本望です……! どうか道中、お気をつけて」


「……ええ、それでは失礼いたします」


アレンは伯爵父子の過剰なまでの敬意を背に受けながら、苦笑いを噛み殺して馬車のステップに足をかけた。


先に乗り込んでいたミルフィは、窓から顔を出して父親に小さく手を振る。


「お父様、ヴァルターお兄様。また連絡するわね」


「ああ、ミルフィ。アレン殿の足引っ張りにならぬよう、くれぐれも失礼のないようにな……!」


「……もう、最後までそれなんだから」


最後まで自分を「アレンへのおまけ」のように扱う父親に呆れつつも、ミルフィはシートに深く腰を下ろした。


御手が御者台から鞭を振るうと、ガタゴトと重厚な車輪の音が響き、馬車はゆっくりとルードヴィヒ伯爵家の屋敷を後にした。


「……はあ、なんだか一気に疲れたわ」


遠ざかる屋敷を窓から眺めながら、ミルフィが大きな溜息をついて背もたれに倒れ込む。


「お父様もヴァルターお兄様も、アレンのことを完全に『雲の上の大物』だと思い込んじゃって……。変な気苦労ばかりかけちゃって、ごめんなさいね」


「いいえ。手厚いもてなしと、こうして立派な馬車まで貸していただけたのですから、文句はありませんよ」


アレンは静かに微笑みながら、対面のスプリングの利いたシートで腕を組んだ。


「さて……まずは学園ですね」


流れていく車窓の景色を見つめながら、アレンはこれから向かう場所へと思いを巡らせるのだった。

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