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第八話 謝罪

第八話 謝罪


 その日、ルヴェリア公爵領には朝から冷たい雨が降っていた。


 灰色の空。


 濡れた石畳。


 屋敷の窓を叩く雨音は静かなのに、どこか胸をざわつかせる。


 アイリスは執務机へ向かい、薬草茶の商品帳簿を確認していた。


「東部への出荷数、先月比二割増……」


 さらさらとペンを走らせる。


 王宮時代より仕事量は減ったはずなのに、不思議と身体は軽かった。


 ちゃんと眠れる。


 温かい食事を食べられる。


 途中で紅茶が冷めない。


 そんな当たり前のことに、今でも時々泣きたくなる。


「お嬢様」


 執事グレアムが扉を叩いた。


「……国王陛下がお見えです」


 ペン先が止まる。


 アイリスはゆっくり顔を上げた。


「そう」


 短く返す。


 驚きはなかった。


 いつか来ると思っていた。


 ただ、こんな雨の日だとは思わなかった。


 応接室へ向かう廊下は、しんと静かだった。


 窓の外では雨が庭木を濡らしている。


 その音を聞きながら、アイリスは自分でも驚くほど冷静だった。


 扉を開けた瞬間、湿った空気が流れ込む。


 レナードが立っていた。


 黒い外套は雨で濡れ、裾には泥が跳ねている。髪も乱れていた。


 王としての威厳ある姿ではない。


 ひどく疲れた男だった。


「……陛下」


 アイリスは礼をする。


 レナードは何か言おうとして、言葉を失ったように黙る。


 以前なら、こんな沈黙はなかった。


 必要事項だけを淡々と話せばよかったから。


 だが今は違う。


 何をどう言えばいいのか、お互いわからない。


「座っても?」


「もちろんです」


 向かい合う。


 暖炉の火が静かに燃えていた。


 雨音が遠い。


 レナードはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「……王宮は、まだ混乱している」


「そうでしょうね」


「文官の離職希望が止まらない」

「騎士団補給も遅れている」

「外交問題も山積みだ」


 淡々とした報告。


 だが声に疲労が滲んでいた。


 アイリスは静かに紅茶を注ぐ。


 湯気が立ち上る。


「お飲みになりますか」


「ああ」


 レナードはカップを受け取る。


 温かい。


 その熱に、なぜか胸が痛んだ。


 昔もこうして、アイリスが用意していた。


 会議の合間。


 深夜の執務室。


 自分は当たり前のように受け取っていた。


 一度も感謝を口にせず。


「……倒れた」


 ぽつりとレナードが言う。


 アイリスの指先がわずかに止まった。


「過労で」


 雨音だけが響く。


「初めてわかった」


 レナードは自嘲するように笑った。


「お前が、どれほど無理をしていたのか」


 アイリスは答えない。


 責める気にもなれなかった。


 もう散々苦しんだ後だから。


 レナードは拳を握る。


「私は王だ」

「だから支えられて当然だと思っていた」


 苦い声。


「お前が優秀だから」

「お前ならできるから」

「……そうやって、全部押しつけていた」


 アイリスは静かに目を伏せた。


 暖炉の火が揺れる。


 王宮でこんなふうに話したことはなかった。


 いつも仕事の話だけだった。


 感情なんて挟む余地はなかった。


「アイリス」


 レナードが立ち上がる。


 その瞬間。


 彼はゆっくり頭を下げた。


「……すまなかった」


 空気が止まる。


 アイリスは息を呑んだ。


 王が頭を下げる。


 それは簡単なことではない。


 誇り高い男だ。


 まして彼は、誰かへ弱みを見せることを極端に嫌う。


 その彼が、泥だらけのまま深く頭を下げている。


「私は、お前を壊した」


 掠れた声だった。


「気づかなかった」

「いや、気づこうとしなかった」


 アイリスの胸がわずかに痛む。


 ずっと欲しかった言葉だった。


 謝罪。


 理解。


 労い。


 けれど。


 遅すぎた。


「顔を上げてください、陛下」


 レナードはゆっくり顔を上げる。


 その表情は疲れ切っていた。


 アイリスは静かに言った。


「謝罪は受け取ります」


 レナードの瞳が揺れる。


「ですが」


 アイリスははっきり告げた。


「復職はお断りします」


 沈黙。


 雨音だけが響く。


 レナードの顔が強張った。


「……そう、か」


 理解していたはずなのに、胸が痛む。


 だがアイリスは続けた。


「私はもう、以前の働き方へ戻るつもりはありません」


「なら、どうすればいい」


 絞り出すような声。


 王ではなく、一人の男の声だった。


 アイリスはしばらく彼を見つめる。


 以前なら考えもしなかった。


 レナードが、こんな顔をするなんて。


 やがて彼女は机の引き出しを開け、一枚の書類を取り出した。


「こちらを」


 差し出された羊皮紙。


 レナードは目を落とし、息を呑む。


『業務提携契約書』


「……提携?」


「はい」


 アイリスは静かに微笑む。


 王妃の仮面ではない。


 以前よりずっと柔らかい笑みだった。


「私は王宮へ戻るつもりはありません」


「だが」


「ただし、改革協力なら可能です」


 レナードは目を見開く。


「労働時間管理」

「人員分散」

「業務明文化」

「補給経路整理」


 淡々と並べられる言葉。


 だがそれは以前と決定的に違った。


 もう“無償の献身”ではない。


「対等な契約としてなら、お受けします」


 アイリスはまっすぐ彼を見る。


「私はもう、自分を犠牲にして働きません」


 レナードはしばらく黙っていた。


 暖炉の火がぱちりと弾ける。


 雨はまだ降っている。


 だが不思議と、部屋の空気は以前より温かかった。


 レナードはゆっくり契約書へ触れる。


 そこで初めて理解する。


 彼女はもう、“王の所有物”ではない。


 一人の人間として、自分の人生を選んでいるのだと。


 そしてその姿が、どうしようもなく眩しかった。



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