第九話 改革開始
第九話 改革開始
アイリスが王宮へ戻ってきた日。
文官たちは、なぜか全員背筋を伸ばしていた。
王宮中央棟。
長い赤絨毯の廊下を、アイリスは静かに歩いていく。
以前と違うのは服装だった。
王妃時代の豪奢なドレスではない。
深い青灰色の実務用ドレス。
装飾は最小限。
細い腰には魔導ペンケースが下がり、袖口には小型時計型魔道具。
仕事をする人間の服だった。
だが以前より、ずっと隙がない。
「……空気が変わったな」
後ろを歩くミハイルが小さく呟く。
実際そうだった。
以前のアイリスは静かだった。
誰かの失敗を黙って拾い、自分が処理し、誰も困らないよう先回りしていた。
だが今は違う。
助けない。
誤魔化さない。
放置もしない。
問題を問題として表へ引きずり出す目をしている。
会議室の扉が開く。
中では既に重臣たちが揃っていた。
だが空気は重い。
誰もが知っている。
今日から始まるのは、“王妃の復帰”ではない。
改革だ。
アイリスは席へ着くなり、一枚の書類を机へ置いた。
「本日より、王宮運営体制を変更します」
ざわり、と空気が揺れる。
老貴族の一人が顔をしかめた。
「変更とは」
「業務改革です」
アイリスは淡々と言った。
「まず、本日以降、深夜残業を禁止します」
「は?」
間抜けな声が上がる。
「午後八時以降の執務は原則停止」
「違反部署は翌月予算を削減します」
沈黙。
誰も理解できない顔をしていた。
「お、お待ちください王妃殿下!」
財務局長が慌てて立ち上がる。
「そのようなことをすれば業務が回らなくなります!」
アイリスはにこりと微笑んだ。
「今まで回っていなかったから改革するのです」
空気が凍る。
以前なら、彼女はこんな言い方をしなかった。
柔らかく配慮し、相手の顔を立てていた。
だが今は違う。
もう誰かの機嫌のために、自分を削るつもりはなかった。
「次に、人員配置の見直しを行います」
ぱらり、と資料が配られる。
「一人へ業務を集中させることを禁止します」
「必ず副担当を設置」
「進行状況は共有化」
アルバートが青ざめた。
「そ、それでは情報漏洩リスクが――」
「属人化リスクの方が深刻です」
即答だった。
アイリスは真っ直ぐ彼を見る。
「筆頭文官殿が倒れた際、財務局は三日停止しました」
アルバートが言葉を失う。
「個人依存は組織崩壊を招きます」
会議室が静まり返る。
誰も反論できない。
実際、全員地獄を見た後だからだ。
アイリスはさらに続ける。
「有給休暇制度を正式整備します」
「ゆ、有給を!?」
悲鳴みたいな声が上がった。
「そんなもの、皆が休んだら仕事になりませんぞ!」
「では質問します」
アイリスは首を傾げた。
「休めない組織は正常ですか?」
誰も答えられない。
窓の外では春風が白いカーテンを揺らしている。
以前のアイリスなら、この沈黙に焦っていた。
今は違う。
待てる。
飲み込ませるまで。
「さらに成果報酬制度を導入します」
「成果報酬……?」
「業務改善、人材育成、処理速度向上に応じて特別報酬を支給」
その瞬間、若い文官たちの目色が変わった。
今まで王宮は“根性”だけで回っていた。
どれだけ働いても評価は曖昧。
有能な人間ほど潰れる。
それを変える。
アイリスは静かに言った。
「努力を“当然”にしてはいけません」
その言葉に、若い女性文官が泣きそうな顔をした。
レナードは会議室の端で黙って見ていた。
圧倒されていた。
アイリスが変わった。
いや。
元々こうだったのかもしれない。
ただ以前は、自分たちへ配慮しすぎていただけで。
「最後に」
アイリスは資料を閉じる。
「本日以降、“王妃殿下なら何とかしてくださる”は禁止です」
びくり、と空気が震えた。
「問題は、発生した人間が責任を持って対処してください」
「私は便利な最終処理箱ではありません」
痛烈だった。
アルバートは完全に項垂れている。
その時。
老貴族の一人が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「理想論ですな」
空気が張る。
「王妃殿下は少々、労働者へ甘すぎる」
瞬間。
アイリスの微笑みが消えた。
「甘い?」
静かな声。
なのに背筋が寒くなる。
「ではお聞きします」
アイリスは書類を一枚抜き取った。
「こちら、先月倒れた文官数です」
机へ置かれる。
「十七名」
重臣たちの顔色が変わる。
「平均睡眠時間、四時間未満」
「離職希望、二十三名」
淡々と告げる。
「これを“正常”と呼ぶのであれば、私は喜んで甘くなりましょう」
完全な沈黙だった。
レナードは拳を握る。
以前なら。
アイリスはこんな数字を表へ出さなかった。
王宮の体面を守るために。
皆の負担を背負い込んで。
だがもう違う。
壊れないために、彼女は戦っている。
会議終了後。
若い文官たちがざわめいていた。
「本当に帰っていいのか……?」
「八時以降、執務停止って……」
「夢じゃないよな」
半信半疑の顔。
そこへアイリスが通りかかる。
全員が慌てて頭を下げた。
「王妃殿下!」
アイリスは少し考えてから言った。
「……定時を過ぎています」
「え?」
「帰宅してください」
文官たちは呆然とする。
「ご家族が待っているのでしょう?」
その一言で。
一人の青年文官が、ぼろりと泣いた。
王宮の窓から夕陽が差し込む。
赤く染まる廊下を見ながら、レナードは静かに息を吐いた。
以前の王宮には戻れない。
だがそれでいい。
今、ようやくこの国は、正しい形へ変わり始めていた。




