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第十話 定時後の恋愛業務

第十話 定時後の恋愛業務


 改革開始から一年。


 アストリア王宮は、まるで別の場所になっていた。


 午後六時。


 中央棟に設置された大型魔導時計が、澄んだ鐘の音を響かせる。


 その瞬間だった。


「……よし、終わった!」

「今日は定時だ!」

「奇跡じゃないか!?」


 文官室から歓声が上がる。


 以前なら考えられない光景だった。


 かつての王宮では、夜こそ本番だった。


 積み上がる書類。


 冷え切った紅茶。


 虚ろな目で机に向かう文官たち。


 深夜の廊下を歩く靴音は途切れず、誰も“帰る”という発想を持っていなかった。


 だが今は違う。


「お先に失礼します!」

「娘と夕食の約束なんです」

「いいな、俺も今日は妻に怒られずに済みそうだ」


 笑いながら帰っていく文官たち。


 廊下には以前のような殺気がない。


 空気が軽かった。


 騎士団補給も安定し、地方物流も正常化。


 離職率は激減。


 有給制度導入後、むしろ業務効率は上がった。


 最初は猛反発していた老貴族たちですら、最近では口を閉ざしている。


 結果が出てしまったからだ。


 そして、その改革の中心にいる女もまた、変わっていた。


「東部監査報告、確認終わりました」


 王妃執務室。


 アイリスは書類を閉じ、ゆっくり伸びをした。


 窓から夕陽が差し込み、青灰色の実務用ドレスを柔らかく染めている。


「王妃様、こちら来月分の視察予定です」


 侍女エマが書類を差し出す。


「ありがとう。……あら」


 アイリスは目を細めた。


「地方視察、二泊三日になったのね」


「はい! しかも今回は夜間移動なしです!」


「素晴らしいわ」


 本気で褒める。


 エマはなぜか誇らしげだった。


 以前のアイリスなら、こういう小さな改善にも気づかなかっただろう。


 いや。


 気づく余裕がなかった。


 今の彼女は違う。


 ちゃんと食事をする。


 ちゃんと眠る。


 そして時々、笑う。


 王宮の空気そのものが変わった理由を、皆なんとなく理解していた。


 アイリス自身が、生き返ったからだ。


「王妃様」


 エマがふふっと笑う。


「最近、本当によく笑われますね」


 アイリスは少し驚いた顔をした。


「そうかしら」


「はい。前はもっと……」


 エマは言葉を探す。


「綺麗だったんですけど、怖かったです」


「怖かった?」


「はい。なんというか、“絶対壊れません”って顔をしてました」


 アイリスは思わず吹き出した。


「何それ」


 笑い声が部屋へ広がる。


 柔らかい空気。


 それを見て、エマは嬉しそうに目を細めた。


 その頃。


 廊下の向こうでは、レナードが立ち止まっていた。


 開きっぱなしの扉から笑い声が聞こえる。


 以前の王妃執務室では、絶対に聞こえなかった音だ。


 レナードは静かに目を伏せる。


 一年前。


 あの執務室は冷えていた。


 深夜まで灯りが消えず、アイリスはいつも無表情で書類に埋もれていた。


 今は違う。


 部屋に人の温度がある。


 それが妙に嬉しくて、同時に少し苦しかった。


「陛下?」


 気づいたエマが慌てて頭を下げる。


 アイリスも振り返った。


「……陛下」


 レナードは部屋へ入る。


 以前ほど緊張はない。


 だがまだ少し距離がある。


 それを彼は理解していた。


「業務報告書だ」


「ありがとうございます」


 アイリスは書類を受け取り、さらりと目を通す。


「北方補給、改善しましたね」


「ああ。ミハイルが喜んでいた」


「でしょうね」


 自然な会話。


 以前なら、業務連絡だけで終わっていた。


 だが最近は違う。


 少しずつ。


 本当に少しずつだけ、空気が変わってきている。


 その時だった。


 鐘が鳴る。


 午後六時半。


 執務終了時刻だ。


 アイリスはぱたりと書類を閉じた。


「本日の業務終了です」


 レナードは思わず笑いそうになる。


 本当に徹底している。


 以前なら、彼女はここからさらに数時間働いていた。


 だが今は違う。


 終わる時間を決めている。


 それを王自ら守っているのだから、誰も逆らえない。


 アイリスは温かい紅茶を淹れ始めた。


 ふわりと茶葉の香りが広がる。


 レナードはその様子を見つめる。


 手慣れた動き。


 穏やかな横顔。


 胸が静かに締めつけられた。


 以前、自分はこの時間の彼女を知らなかった。


 知ろうともしなかった。


「……アイリス」


 呼ぶ声が少し掠れる。


「はい?」


 レナードは珍しく視線を逸らした。


 こういう話は苦手だ。


 外交交渉より難しい。


 だが逃げたくなかった。


「今日は定時後だ」


 アイリスが目を瞬く。


 レナードはぎこちなく続けた。


「少しだけ、夫として話してもいいか?」


 沈黙。


 窓の外では夕焼けが夜へ変わり始めている。


 遠くで文官たちの笑い声が聞こえた。


 以前なら、この時間も誰かが泣きそうな顔で働いていた。


 変わったのだ。


 王宮も。


 自分たちも。


 アイリスは紅茶を一口飲み、それから小さく笑った。


「五分だけです」


 レナードが目を見開く。


 彼女は少し悪戯っぽく続けた。


「残業代が発生しますので」


 一瞬の静寂。


 それからレナードは、堪えきれず笑った。


 本当に久しぶりだった。


 肩の力を抜いて笑えたのは。


 アイリスもつられるように笑う。


 暖かな灯りの中。


 その笑顔は、一年前よりずっと柔らかかった。


 もう彼女は、自分を犠牲にして微笑んでいるわけではない。


 ちゃんと、自分の人生を生きている。


 その隣にいられることを、レナードは静かに願った。




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― 新着の感想 ―
あのままいっていたら王妃が過労死して国が完全に壊れてしまうところだから王妃ナイス判断ですね。 文官達が無能に思えるけど、今まで甘えていた分や業務間の壁などで本来の力が発揮出来ない状態だったんですね。 …
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