番外編 疲れる前に休め
番外編 疲れる前に休め
午後三時。
改革後の王宮には、以前と違う音が流れていた。
怒号ではない。
罵声でもない。
廊下の向こうから聞こえてくるのは、湯を沸かす音と、小さな笑い声だった。
「休憩室、空いてる?」
「あと五分で交代です!」
中央棟第三文官室。
窓から春風が吹き込み、机の上の書類をふわりと揺らす。
若い文官リオは、震える手で羽ペンを置いた。
「……無理だ」
掠れた声。
机には未処理書類の山。
額は熱く、視界が霞む。
三日前から地方監査報告の修正が続き、まともに眠れていない。
だが周囲も忙しそうで、弱音を吐く空気ではなかった。
「リオ?」
隣席の女性文官が顔を上げる。
「顔色悪いよ」
「だ、大丈夫……」
そう言った瞬間、胃がきりりと痛んだ。
視界が揺れる。
インクの匂いだけで吐きそうだった。
その時。
コンコン、と机を叩く音。
「その“大丈夫”は禁止です」
静かな声だった。
全員が反射的に立ち上がる。
「お、王妃殿下!」
アイリスは青灰色の実務用ドレス姿で立っていた。
以前のような冷たい威圧感はない。
だが今の方が怖い。
仕事をごまかすと即座に見抜かれるからだ。
アイリスはリオの顔を見るなり眉を寄せた。
「熱がありますね」
「い、いえ! 問題ありません!」
「あります」
即答だった。
「立ってみてください」
「え?」
「今すぐ」
リオは慌てて立ち上がろうとした。
瞬間。
ぐらり、と身体が揺れる。
「うわっ――」
倒れかけたところを、隣の文官が慌てて支えた。
室内が静まり返る。
アイリスは深くため息を吐いた。
「……休憩室へ」
「で、ですが未処理案件が――」
「後で結構です」
「でも期限が!」
「倒れたらもっと遅れます」
ぴしゃりと言い切る。
リオは情けない顔になった。
「申し訳ありません……」
「謝罪ではなく休養を」
アイリスは机の書類を手に取る。
ぱらぱらと確認し、すぐ隣の文官へ渡した。
「これは二人で分担してください」
「こちらは明日に回します」
「緊急度C案件は後回しで」
指示が速い。
しかも正確だ。
空気が自然に動き出す。
以前なら、アイリスは全部自分で処理していただろう。
だが今は違う。
抱え込まない。
ちゃんと振り分ける。
「エマ」
「はい!」
「厨房へ。胃に優しいスープをお願い」
「承知しました!」
ぱたぱたと侍女が走っていく。
リオは呆然としていた。
「……王妃殿下」
「なんですか」
「怒らないんですか……?」
アイリスは目を瞬く。
「何を?」
「仕事、終わってなくて……」
その瞬間。
周囲の空気が少しだけ沈んだ。
以前の王宮なら、確かに怒鳴られていた。
倒れる寸前まで働くのが当然だった。
アイリスは静かに椅子へ腰かける。
「リオ」
「は、はい」
「疲労と悩みを予防する第一の鉄則は――」
彼女はゆっくり言った。
「たびたび休養すること。疲れる前に休むことです」
室内が静まり返る。
リオだけではない。
周囲の文官たちも、思わず手を止めていた。
アイリスは淡々と続ける。
「限界まで働いてから休むのでは遅いのです」
「人間は壊れてからでは修復に時間がかかる」
その声は穏やかだった。
怒っていない。
責めてもいない。
だから余計に胸へ刺さる。
「ですが王宮では……」
年配文官が苦く笑う。
「昔は、倒れるまで働くのが忠誠でした」
アイリスは小さく首を振った。
「違います」
静かな否定。
「壊れた人間は、長く働けません」
「国を支えるのは根性ではなく、継続です」
窓から風が吹き込む。
柔らかな光が彼女の銀灰色の髪を揺らした。
リオはぼんやりその姿を見る。
不思議だった。
昔は怖かった。
完璧すぎて、近寄れなかった。
今は違う。
以前よりずっと厳しいのに、なぜか安心する。
「……王妃殿下は」
リオは恐る恐る口を開いた。
「昔、休んでたんですか」
その瞬間。
空気が固まった。
エマが「あっ」と顔をする。
リオは慌てた。
「も、申し訳ありません!」
だがアイリスは少し黙った後、ふっと笑った。
「いいえ」
小さな声。
「全然」
その笑顔が、少しだけ寂しそうで。
室内が静まる。
「だから失敗しました」
アイリスは窓の外を見る。
青空が広がっていた。
「私は“休まなくても働ける人間”になろうとしていました」
「でも違った」
静かな声。
「私は普通の人間でした」
疲れる。
傷つく。
眠くなる。
寂しくなる。
当たり前のことだ。
なのに昔の自分は、それを許せなかった。
「……今は、ちゃんと休んでください」
アイリスはリオを見る。
「あなたが倒れたら、ご家族が悲しみます」
その一言で。
リオの目が赤くなる。
「……はい」
掠れた返事。
アイリスは立ち上がった。
「では十分休憩を」
「それも仕事の一部です」
去っていく背中を、文官たちは黙って見送る。
やがて誰かがぽつりと呟いた。
「……王妃殿下、変わったよな」
別の文官が苦笑する。
「いや。たぶん、やっと自分を大事にするようになったんだろ」
窓の外では、春風が王宮の旗を揺らしていた。
以前の王宮は、誰かの犠牲で成り立っていた。
だが今は違う。
ちゃんと休み、
ちゃんと生きて、
ちゃんと働く。
そんな当たり前を守るために、今日も王妃は戦っている。




