第六話 私は便利な備品ではありません
第六話 私は便利な備品ではありません
ルヴェリア公爵領へ到着したのは、夕刻だった。
王都から離れるにつれ、空気が変わっていくのをレナードは感じていた。
石と煤の匂いが染みついた王都とは違う。
ここには土の香りがあった。
風が草を揺らし、遠くで子供たちの笑い声が響く。
空が広い。
その事実に、妙な息苦しさを覚える。
「陛下、お疲れでしょう。先に休憩を――」
「不要だ」
随伴していた側近の言葉を切り捨て、レナードは馬を降りた。
胸の内がざわついている。
王宮を出てから十日。
混乱は収まるどころか悪化していた。
文官の離職希望は増え、地方からは抗議文が届き続けている。
そして気づいてしまった。
王宮が回っていたのではない。
アイリスが、無理やり回していただけだったのだと。
「……陛下?」
先導の執事が怪訝そうに振り返る。
レナードは歩みを止めていた。
屋敷裏の庭園。
そこに、彼女がいた。
淡い生成り色のワンピース。
飾り気のない服装なのに、夕陽の中で柔らかく光って見えた。
アイリスは薬草籠を抱え、領民の老女と笑いながら話している。
「この時期のミントは香りが強いのね」
「ええ。今年は特に出来がよろしいんですよ」
「では茶葉へ少し混ぜましょうか」
穏やかな声だった。
レナードは言葉を失う。
王宮で見ていた笑顔とは違う。
あれはいつも完璧だった。
隙がなく、美しく、冷静で。
けれど今の彼女は違う。
肩の力が抜けている。
本当に楽しそうに笑っていた。
その笑顔を、自分は知らない。
胸がざわめいた。
アイリスがこちらへ気づく。
一瞬だけ目を見開き、それから静かに礼をした。
「……陛下」
以前と変わらない声。
だが、以前のような緊張がない。
レナードは妙に苛立った。
「急な訪問を許せ」
「問題ありません。応接室へご案内いたします」
淡々としている。
王に対して失礼な態度ではない。
なのに距離が遠い。
応接室へ入ると、薬草茶の香りが漂っていた。
王宮の重たい香水とは違う。
落ち着く匂いだ。
アイリスは向かいへ座る。
シンプルな服装なのに、不思議と以前より綺麗に見えた。
顔色がいい。
頬に血色がある。
レナードはそれが妙に気に入らなかった。
自分のいない場所で、彼女が元気になっている。
その事実が胸を刺す。
「……王宮は混乱している」
先に口を開いたのはレナードだった。
アイリスは静かに頷く。
「そうでしょうね」
「他人事のように言うな」
「現在、私は休暇中ですので」
ぴしゃりと言われる。
レナードは眉を寄せた。
「アイリス」
「はい」
「戻れ」
沈黙。
窓の外で風が揺れる音がした。
アイリスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……理由を伺っても?」
「王宮が機能不全だ」
「それは存じております」
「ならば話は早い。お前が必要だ」
言い切った瞬間。
アイリスの瞳がわずかに揺れた。
だがそれは喜びではなかった。
深い疲労を思わせる色だった。
「必要」
彼女は静かに繰り返す。
「はい。必要、ですか」
「そうだ」
「王宮運営のために?」
「当然だろう」
その瞬間、アイリスはふっと笑った。
けれどその笑みは冷たかった。
「……陛下は、何も変わっていらっしゃらないのですね」
「何?」
アイリスは立ち上がる。
本棚の引き出しを開け、一冊の分厚い書類を取り出した。
古い羊皮紙の匂いがする。
「覚えておいでですか」
机へ置かれたそれを見て、レナードは眉をひそめた。
「婚約契約書か」
「はい」
王族婚姻は契約だ。
愛情ではなく、義務と利益で結ばれる。
アイリスは静かにページを開いた。
「第二十三条。王妃は内政補佐および社交支援を行う」
指先が文字をなぞる。
「第二十七条。感情的支援義務は発生しない」
レナードの眉が動く。
「第三十一条。王妃業務範囲は補佐までとする」
ぱたり、と紙を閉じる音。
部屋が静まり返った。
「陛下」
アイリスはまっすぐ彼を見た。
「この契約書のどこに、“壊れるまで働け”と書いてありますか?」
レナードは答えられない。
「どこに、“睡眠を削って当然”と?」
「どこに、“感謝もなく働き続けろ”と?」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
だからこそ苦しかった。
「私は契約以上の仕事をしました」
アイリスは淡々と言う。
「外交調整、予算管理、人事把握、派閥制御、騎士団補給確認。王妃業務の範囲を超えていました」
「……それは、お前が優秀だったからだ」
言った瞬間。
まずいと思った。
アイリスが目を伏せる。
「そうですね」
小さな声。
「皆さま、そうおっしゃいました」
優秀だから。
できるから。
お前なら大丈夫だから。
その言葉で、どれだけ押しつけられてきたのか。
レナードは初めて理解し始めていた。
「アイリス、私は――」
「陛下」
遮られる。
彼女は静かに笑った。
だが、その瞳だけは酷く悲しそうだった。
「私は人間です」
風がカーテンを揺らす。
薬草茶の湯気がゆっくり漂う。
「疲れます」
「眠ります」
「傷つきます」
レナードの喉が詰まる。
「壊れるまで働くための道具ではありません」
その一言が、胸へ深く突き刺さった。
レナードは何も言えなかった。
言葉が出なかった。
今さら気づく。
彼女はずっと限界だった。
なのに自分は、一度も立ち止まらなかった。
一度も聞かなかった。
苦しくないか、と。
助けが必要ではないか、と。
窓の外では、夕焼けが静かに沈んでいく。
世界は穏やかだった。
だがレナードの胸の中だけが、酷く軋んでいた。




