表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/11

第五話 王妃が消えた日、国は傾いた

第五話 王妃が消えた日、国は傾いた


 アストリア王宮は、限界を迎え始めていた。


 いや。


 正確には、とうに壊れていたものが、隠しきれなくなっただけだった。


「まだ補給隊が出発できないのか!」


 騎士団詰所に怒声が響く。


 机を叩いたのは騎士団長ミハイルだった。


 分厚い革手袋を嵌めた手の下で、地図が大きく揺れる。


「申し訳ありません!」


 若い補給官が青ざめながら頭を下げた。


「魔鉱石燃料の到着が三日遅れております! 加えて食料輸送隊が西街道で足止めされており――」


「なぜ事前調整していない!」


「例年は王妃殿下が各部署へ確認を……」


 そこで言葉が止まる。


 まただ。


 最近、王宮では何か問題が起きるたび、その名前が出る。


 ミハイルは舌打ちした。


 壁際には出発待機中の騎士たちが並んでいる。


 苛立った空気。


 鉄と汗の匂い。


 冬季遠征が遅れれば、北方警備に穴が開く。


 そんな初歩的な危機管理すら、今の王宮は回らない。


「……各街道の物流状況は」


「西部で輸送遅延。南方は税関処理が滞っています」


「滞る理由は」


「承認書類未提出です」


 ミハイルは目を閉じた。


 頭痛が酷い。


 全部だ。


 全部が噛み合っていない。


 王宮中央では、さらに悲惨なことになっていた。


「誰だ、この予算配分を決めたのは!」


 財務局で怒鳴り声が飛ぶ。


「地方復興費が二重計上されているぞ!」


「そ、それは旧案と新案が混ざって――」


「確認者は!?」


「不在で……」


「不在で済むか!」


 書類が床へ叩きつけられる。


 文官たちの顔色は土気色だった。


 誰もまともに眠れていない。


 机の上には空になった栄養薬瓶が転がり、冷え切った紅茶から苦い匂いが漂っている。


「アルバート様!」


 若い女性文官が駆け込んできた。


「西部税収一覧表ですが、数値に誤差が――」


「後にしろ!」


「ですが至急確認が必要で――」


「後にしろと言った!」


 怒鳴った直後だった。


 アルバートの視界が大きく揺れる。


「あ……」


 床が近づいた。


 次の瞬間、周囲が悲鳴を上げる。


「アルバート様!」

「誰か医師を!」


 筆頭文官はそのまま床へ倒れ込んだ。


 王宮中が凍りつく。


 誰かが震えた声で呟く。


「……王妃殿下は、これを一人で?」


 返事はなかった。


 あるわけがない。


 昼過ぎ。


 王城大広間では、大規模外交会談が始まろうとしていた。


 天井には巨大なシャンデリア。


 磨かれた白大理石。


 各国使節団が色鮮やかな正装で並び、香水と酒の香りが重く漂っている。


 本来なら華やかな舞台だった。


 だが空気は張り詰めていた。


「席順が違うぞ」


 低い声が響く。


 南方連合国の大使が不快そうに眉をひそめていた。


「我々より先に北部連盟を上座へ置くとは、どういう意味だ」


「い、いえ、そのような意図では……!」


 案内役の文官が青ざめる。


 さらに別方向から怒声。


「料理が届いていない!」

「こちらの通訳官はどこだ!」

「外交資料に誤植があります!」


 会場は混乱していた。


 本来ならあり得ない失態。


 レナードは玉座の前で険しい顔をしていた。


「何をしている」


 低い声。


 だが怒気が滲んでいる。


 側近たちは震え上がった。


「も、申し訳ございません!」


「申し訳で済む状況か」


 その時だった。


 隣国バルディア王国の大使が、わざとらしく肩をすくめた。


「いやはや」


 嘲るような笑み。


「アストリア王宮も随分と余裕がなくなったようですな」


 周囲の空気が凍る。


「以前の王妃殿下は見事でしたが……なるほど、彼女が消えるとここまで混乱するとは」


 くすくす、と笑い声が漏れる。


 屈辱だった。


 レナードの拳が強く握られる。


「……撤回していただこう」


「おや? 事実では?」


 大使は薄く笑った。


「今のアストリア王宮は機能不全だ」


 その一言が、大広間に重く落ちた。


 レナードの胸に冷たいものが走る。


 機能不全。


 否定したかった。


 だができない。


 現に王宮は崩れている。


 物流遅延。


 予算混乱。


 外交失態。


 文官倒壊。


 全てが噛み合わない。


 まるで巨大な歯車から中心軸だけ抜け落ちたように。


 その時、不意に脳裏へ浮かんだ。


 深夜の執務室。


 山積みの書類。


 疲れ切った顔。


 それでも「問題ありません」と微笑んでいた女。


 アイリス。


 レナードは呼吸が浅くなるのを感じた。


 まさか。


 いや。


 そんなはずは。


 だが。


 もし本当に、今まで王宮を支えていたのが彼女一人だったとしたら?


 自分は何をしていた?


 王として。


 夫として。


 彼女へ何を背負わせていた?


「陛下?」


 側近の声で我に返る。


 気づけば爪が掌へ食い込んでいた。


 血の匂いがする。


 遠くではまだ怒号が飛び交っていた。


「資料を持ってこい!」

「会談順序を変更しろ!」

「誰か確認を――!」


 混乱。


 焦燥。


 怒鳴り声。


 その全ての中心で、レナードは初めて恐怖を覚えていた。


 国が傾いている。


 たった一人の女がいなくなっただけで。


 その事実が、何より恐ろしかった。


 夜。


 会談終了後の大広間には、疲労の匂いが残っていた。


 散乱した書類。


 飲み残しのワイン。


 乱れた椅子。


 誰もが疲れ切った顔で動いている。


 レナードは静かな玉座の前へ立っていた。


 広い。


 そして寒い。


 以前は隣に誰かがいた。


 会談の流れを整え、視線一つで先回りし、必要な言葉を静かに差し出す存在が。


 彼女はいつも当然のようにそこにいた。


 だから考えたこともなかった。


 失うことを。


 壊れることを。


 自分がどれほど彼女へ依存していたかを。


 レナードはゆっくり目を閉じる。


 脳裏に浮かぶのは、最後に見たアイリスの顔だった。


『私、本日をもって業務外になります』


 あの時。


 彼女はどんな気持ちで笑っていたのだろう。


 初めてだった。


 レナードが、アイリスのいない未来を恐れたのは。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ