第四話 代役王妃、三日で壊れる
第四話 代役王妃、三日で壊れる
朝五時。
まだ空が薄暗い時間だった。
セシリアは侍女に起こされ、半分眠ったままベッドから身体を起こした。
「……まだ夜じゃないの?」
「本日の予定確認がございますので」
侍女の声は丁寧だったが、どこか切羽詰まっている。
セシリアはぼんやり瞬きをした。
昨夜眠ったのは一時を過ぎていたはずだ。
頭が重い。
瞼も腫れている。
だが侍女たちは容赦なくカーテンを開いた。
冷たい朝の光が差し込む。
「本日の予定はこちらです」
差し出された紙束を見て、セシリアは固まった。
「……え?」
「朝食会、地方貴族との面談、慈善院視察、昼餐会、外交使節団への挨拶、その後お茶会、夜会へのご出席となります」
「ちょ、ちょっと待って。全部今日なの?」
「はい」
「無理でしょう!?」
思わず叫ぶ。
侍女たちは顔を見合わせた。
「……王妃殿下は、いつもこなされておりましたので」
その言葉に、セシリアは黙った。
胸がざわつく。
だが今さら逃げられない。
王妃代理を申し出たのは自分だ。
アイリスがいなくなった後、社交界では囁かれていた。
『愛されているのはセシリア様ですもの』
『きっと王妃業務も問題なくこなされるわ』
自分も少し、そう思っていた。
王妃の仕事とは、優雅に微笑み、隣に立つことだと。
――甘かった。
一時間後。
淡い桃色のドレスに着替えたセシリアは、既に疲れ切っていた。
腰を締め上げるコルセットが苦しい。
重たい髪飾りが首を引っ張る。
しかも侍女が次々言ってくる。
「東部侯爵夫人には先日の件への配慮を」
「西部伯爵は長話を好みます」
「北方公爵夫人は王妃殿下不在に不満を抱いておりますので慎重に」
「待って、覚えられない……!」
「王妃殿下は全て把握されておりました」
またその名前だった。
朝食会場へ向かう廊下は、既に人で溢れていた。
文官が走り回り、侍女たちが小声で指示を飛ばす。
空気がぴりついている。
セシリアは息苦しくなった。
「おはようございます、セシリア様」
貴婦人たちが優雅に礼をする。
その笑顔が怖かった。
口元は笑っているのに、目が笑っていない。
「本日は王妃代理として?」
「まあ、お可愛らしいこと」
「大変でしょうに」
言葉は柔らかい。
なのに、針のように刺さる。
何が正解かわからない。
セシリアは必死に微笑んだ。
「ありがとうございます……」
「ところで北方領の税制改革について、王家のお考えは?」
「え?」
「外交使節団受け入れ時の席順変更についてもお聞きしたいですわ」
「そ、それは……」
頭が真っ白になる。
そんな話、聞いていない。
すると遠くから小さな舌打ちが聞こえた。
「……王妃殿下なら即答でしたのに」
胸が冷える。
笑顔を保つだけで精一杯だった。
昼前にはもう限界だった。
慈善院視察では孤児たちに笑顔を向けながら寄付額を確認し、昼餐会では貴族同士の険悪な空気を必死に和ませる。
食事の味なんてわからない。
スープはぬるく、口の中が乾いていた。
それでも午後には外交使節団への挨拶が待っている。
「セシリア様、次のお時間です!」
「ま、待って……少し休ませ……」
「お時間がございません!」
引きずられるように立ち上がる。
頭がくらくらした。
王宮の廊下はどこまでも長い。
歩いても歩いても終わらない。
しかも行く先々で人に呼び止められる。
「確認をお願いします!」
「こちらへ署名を!」
「王妃代理殿下!」
「だから私は王妃じゃ――」
言いかけて、止まる。
違う。
アイリスは、これを毎日やっていたのだ。
毎日。
何年も。
外交使節団との会談室は香水の匂いで満ちていた。
各国の貴族たちが並ぶ。
視線が一斉にセシリアへ向く。
笑わなくては。
失礼があってはならない。
王家の品格を保たなくては。
頭ではわかっている。
なのに。
「セシリア様、椅子はこちらです」
案内された席へ向かおうとして、ドレスの裾が椅子脚に絡んだ。
「きゃっ」
小さく身体が傾く。
会場が静まった。
誰かが息を呑む。
セシリアの顔から血の気が引いた。
「……失礼いたしました」
必死に笑う。
だが、その瞬間。
遠くで誰かが囁いた。
「王妃殿下なら、あのような失態は」
その言葉が胸へ突き刺さった。
夜。
ようやく全てが終わった頃には、セシリアは足の感覚がなくなっていた。
部屋へ戻った瞬間、椅子へ崩れ落ちる。
「お、お湯を……」
「すぐに」
侍女が慌てて動く。
セシリアは震える手で髪飾りを外した。
重い。
首が痛い。
鏡を見ると、自分の顔が別人みたいだった。
化粧は崩れ、目は真っ赤で、唇は乾いている。
たった三日。
まだ三日しか経っていない。
「どうして……」
ぽろりと涙が落ちた。
「どうして誰も教えてくれなかったの……」
王妃の仕事が、こんな地獄だなんて。
その時、扉が叩かれた。
「失礼する」
レナードだった。
セシリアは慌てて涙を拭う。
「陛下……」
「今日はご苦労だった」
その言葉を聞いた瞬間、堪えていたものが決壊した。
「無理です……!」
レナードが目を見開く。
セシリアは泣きながら叫んだ。
「朝からずっと笑って、気を遣って、何を言っても怒られないようにして、でも正解なんて誰も教えてくれなくて……!」
肩が震える。
「皆、王妃様ならできたって言うんです……!」
レナードは黙った。
セシリアは涙で濡れた顔を覆う。
「王妃様って……」
喉が震えた。
「こんな人生だったの……?」
静まり返った部屋に、嗚咽だけが響く。
レナードは何も言えなかった。
言葉が出なかった。
脳裏に浮かぶのは、いつも静かに微笑んでいたアイリスの姿。
疲れた顔など見せず、完璧に立ち回っていた王妃。
だが本当は。
あれは完璧だったのではない。
壊れる寸前まで耐えていただけだったのではないか。
窓の外では、夜風が重たいカーテンを揺らしていた。




