第三話 休むことに、許可が必要ですか?
第三話 休むことに、許可が必要ですか?
アストリア王都から馬車で二日。
ルヴェリア公爵領は、王都とはまるで空気が違った。
窓の外には緩やかな丘陵が広がり、風に揺れる薬草畑が淡い緑の波を作っている。王都の張り詰めた空気とは違う。土と草の匂いが混ざった風は柔らかく、胸の奥までゆっくり染み込んできた。
馬車が屋敷の正門をくぐる。
「お嬢様!」
懐かしい声だった。
玄関前へ飛び出してきたのは、白髪混じりの老執事グレアムだ。厳格な男だが、幼い頃からアイリスを知っている。
彼は王妃の帰郷にも関わらず、深々と頭を下げるより先に顔をしかめた。
「……なんという顔色をしておられるのです」
アイリスは思わず笑った。
「ただ少し疲れているだけです」
「少し、ではありません」
即答だった。
グレアムの後ろでは、使用人たちが心配そうにこちらを見ている。
「湯を用意しております。お食事もすぐに」
「そんなに気を遣わなくても」
「気を遣わせてください。あなた様は昔から、限界まで無理をなさる」
懐かしい叱責に、胸の奥が少し熱くなる。
王宮では、誰もそんなことを言わなかった。
アイリスは馬車を降りた瞬間、軽くふらついた。
「お嬢様!」
「大丈夫よ」
言いながら、自分でも驚く。
身体が重い。
王宮では動き続けるのが当たり前で、疲労を意識する暇すらなかった。だが今は静かすぎて、自分がどれほど無理をしていたのか、逆にはっきりわかってしまう。
部屋へ戻ると、窓が開け放たれていた。
白いレースカーテンが春風に揺れる。
机には庭で摘まれたばかりの小花が飾られ、淡い甘い香りが漂っていた。
「……変わっていないのね」
「お嬢様のお部屋ですから」
侍女が微笑む。
王宮の豪奢な私室より、この部屋の方がずっと落ち着くと思ってしまった自分に、アイリスは少し戸惑った。
「お着替えを」
差し出されたのは、生成り色のシンプルなワンピースだった。
刺繍も宝石もない。
王妃の衣装に比べれば驚くほど簡素だ。
だが指先で布を撫でた瞬間、その柔らかさに息を呑む。
王宮では常に重いドレスだった。何層もの布、宝石、締め上げるコルセット。美しく見せるための服。
これは違う。
着る人間を楽にする服だ。
アイリスはゆっくりドレスを脱いだ。
コルセットの紐を解く。
ぎし、と締めつけが緩む感覚。
次の瞬間、肺いっぱいに空気が入った。
「……っ」
思わず壁に手をつく。
苦しい。
違う。
楽すぎる。
今まで、自分はこんなにも浅い呼吸で生きていたのか。
「お嬢様?」
「……なんでもないわ」
声が震えていた。
着替え終えた頃には、身体から力が抜けていた。
軽い。
驚くほど。
窓の外では鳥が鳴いている。
王宮では聞こえなかった音だ。
あそこには、怒号と靴音と書類をめくる音しかなかった。
「昼食はどうなさいます?」
「あとでいただくわ」
「では、庭にお茶をご用意しますね」
断ろうとして、やめた。
急ぐ理由がない。
その事実に、まだ慣れない。
昼下がりの庭園は春の匂いで満ちていた。
木漏れ日が白いテーブルクロスに揺れている。
薬草畑から流れてくる香りは爽やかで、少しだけ甘い。
アイリスは椅子に腰かけ、紅茶へ口をつけた。
温かい。
ちゃんと温かいうちに飲める。
王宮では、気づけばいつも冷えていた。
ふと、笑ってしまう。
「お嬢様?」
「……温かい紅茶って、美味しいのね」
侍女はきょとんとした後、泣きそうな顔になった。
「王宮ではそんなことも……」
「当たり前だったのよ」
アイリスは視線を空へ向けた。
青い。
ただそれだけなのに、妙に眩しかった。
しばらくして、彼女は庭の木陰へ移動した。
柔らかな草の匂い。
風が頬を撫でる。
木漏れ日がまぶたの上で揺れていた。
静かだ。
急かす声がない。
呼び出しもない。
会議も書類もない。
何かを確認しなくていい。
それなのに、胸の奥がざわざわする。
休んでいる。
こんなふうに。
本当にいいのだろうか。
今頃、王宮では――。
そこまで考えて、アイリスは目を閉じた。
知らない。
もう業務外だ。
そう自分へ言い聞かせる。
けれど長年染みついた習慣は簡単には消えない。
何かしなければ。
働かなければ。
役に立たなければ。
そう思った瞬間、急激な眠気が押し寄せた。
身体が限界だったのだ。
抗う間もなく、意識が沈む。
夢も見なかった。
どれほど眠ったのかわからない。
目を開けると、空は少し橙色に染まり始めていた。
風が気持ちいい。
遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
アイリスはぼんやり瞬きをした。
「……え」
起き上がる。
頭が真っ白だった。
寝ていた。
昼間に。
仕事もせず。
しかも誰にも怒られていない。
その事実が信じられなくて、呆然とする。
「……私」
喉が掠れる。
「昼に寝ても、よかったのね」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど幼かった。
すると後ろから、小さな笑い声がした。
「もちろんですよ、お嬢様」
振り返ると、グレアムが立っていた。
老執事は穏やかな目で言う。
「人間なのですから」
その瞬間。
なぜだか急に涙が込み上げた。
アイリスは慌てて顔を背ける。
「……変ね」
「何がでございます?」
「泣くようなことじゃないのに」
グレアムは何も言わなかった。
ただ静かに、夕暮れ色の庭を見つめる。
風が吹く。
薬草の香りが優しく漂った。
アイリスは胸に手を当てる。
王宮を出てから初めてだった。
ちゃんと息ができていると思えたのは。




