表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/11

第三話 休むことに、許可が必要ですか?

第三話 休むことに、許可が必要ですか?


 アストリア王都から馬車で二日。


 ルヴェリア公爵領は、王都とはまるで空気が違った。


 窓の外には緩やかな丘陵が広がり、風に揺れる薬草畑が淡い緑の波を作っている。王都の張り詰めた空気とは違う。土と草の匂いが混ざった風は柔らかく、胸の奥までゆっくり染み込んできた。


 馬車が屋敷の正門をくぐる。


「お嬢様!」


 懐かしい声だった。


 玄関前へ飛び出してきたのは、白髪混じりの老執事グレアムだ。厳格な男だが、幼い頃からアイリスを知っている。


 彼は王妃の帰郷にも関わらず、深々と頭を下げるより先に顔をしかめた。


「……なんという顔色をしておられるのです」


 アイリスは思わず笑った。


「ただ少し疲れているだけです」


「少し、ではありません」


 即答だった。


 グレアムの後ろでは、使用人たちが心配そうにこちらを見ている。


「湯を用意しております。お食事もすぐに」


「そんなに気を遣わなくても」


「気を遣わせてください。あなた様は昔から、限界まで無理をなさる」


 懐かしい叱責に、胸の奥が少し熱くなる。


 王宮では、誰もそんなことを言わなかった。


 アイリスは馬車を降りた瞬間、軽くふらついた。


「お嬢様!」


「大丈夫よ」


 言いながら、自分でも驚く。


 身体が重い。


 王宮では動き続けるのが当たり前で、疲労を意識する暇すらなかった。だが今は静かすぎて、自分がどれほど無理をしていたのか、逆にはっきりわかってしまう。


 部屋へ戻ると、窓が開け放たれていた。


 白いレースカーテンが春風に揺れる。


 机には庭で摘まれたばかりの小花が飾られ、淡い甘い香りが漂っていた。


「……変わっていないのね」


「お嬢様のお部屋ですから」


 侍女が微笑む。


 王宮の豪奢な私室より、この部屋の方がずっと落ち着くと思ってしまった自分に、アイリスは少し戸惑った。


「お着替えを」


 差し出されたのは、生成り色のシンプルなワンピースだった。


 刺繍も宝石もない。


 王妃の衣装に比べれば驚くほど簡素だ。


 だが指先で布を撫でた瞬間、その柔らかさに息を呑む。


 王宮では常に重いドレスだった。何層もの布、宝石、締め上げるコルセット。美しく見せるための服。


 これは違う。


 着る人間を楽にする服だ。


 アイリスはゆっくりドレスを脱いだ。


 コルセットの紐を解く。


 ぎし、と締めつけが緩む感覚。


 次の瞬間、肺いっぱいに空気が入った。


「……っ」


 思わず壁に手をつく。


 苦しい。


 違う。


 楽すぎる。


 今まで、自分はこんなにも浅い呼吸で生きていたのか。


「お嬢様?」


「……なんでもないわ」


 声が震えていた。


 着替え終えた頃には、身体から力が抜けていた。


 軽い。


 驚くほど。


 窓の外では鳥が鳴いている。


 王宮では聞こえなかった音だ。


 あそこには、怒号と靴音と書類をめくる音しかなかった。


「昼食はどうなさいます?」


「あとでいただくわ」


「では、庭にお茶をご用意しますね」


 断ろうとして、やめた。


 急ぐ理由がない。


 その事実に、まだ慣れない。


 昼下がりの庭園は春の匂いで満ちていた。


 木漏れ日が白いテーブルクロスに揺れている。


 薬草畑から流れてくる香りは爽やかで、少しだけ甘い。


 アイリスは椅子に腰かけ、紅茶へ口をつけた。


 温かい。


 ちゃんと温かいうちに飲める。


 王宮では、気づけばいつも冷えていた。


 ふと、笑ってしまう。


「お嬢様?」


「……温かい紅茶って、美味しいのね」


 侍女はきょとんとした後、泣きそうな顔になった。


「王宮ではそんなことも……」


「当たり前だったのよ」


 アイリスは視線を空へ向けた。


 青い。


 ただそれだけなのに、妙に眩しかった。


 しばらくして、彼女は庭の木陰へ移動した。


 柔らかな草の匂い。


 風が頬を撫でる。


 木漏れ日がまぶたの上で揺れていた。


 静かだ。


 急かす声がない。


 呼び出しもない。


 会議も書類もない。


 何かを確認しなくていい。


 それなのに、胸の奥がざわざわする。


 休んでいる。


 こんなふうに。


 本当にいいのだろうか。


 今頃、王宮では――。


 そこまで考えて、アイリスは目を閉じた。


 知らない。


 もう業務外だ。


 そう自分へ言い聞かせる。


 けれど長年染みついた習慣は簡単には消えない。


 何かしなければ。


 働かなければ。


 役に立たなければ。


 そう思った瞬間、急激な眠気が押し寄せた。


 身体が限界だったのだ。


 抗う間もなく、意識が沈む。


 夢も見なかった。


 どれほど眠ったのかわからない。


 目を開けると、空は少し橙色に染まり始めていた。


 風が気持ちいい。


 遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。


 アイリスはぼんやり瞬きをした。


「……え」


 起き上がる。


 頭が真っ白だった。


 寝ていた。


 昼間に。


 仕事もせず。


 しかも誰にも怒られていない。


 その事実が信じられなくて、呆然とする。


「……私」


 喉が掠れる。


「昼に寝ても、よかったのね」


 ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど幼かった。


 すると後ろから、小さな笑い声がした。


「もちろんですよ、お嬢様」


 振り返ると、グレアムが立っていた。


 老執事は穏やかな目で言う。


「人間なのですから」


 その瞬間。


 なぜだか急に涙が込み上げた。


 アイリスは慌てて顔を背ける。


「……変ね」


「何がでございます?」


「泣くようなことじゃないのに」


 グレアムは何も言わなかった。


 ただ静かに、夕暮れ色の庭を見つめる。


 風が吹く。


 薬草の香りが優しく漂った。


 アイリスは胸に手を当てる。


 王宮を出てから初めてだった。


 ちゃんと息ができていると思えたのは。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ