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第二話 その王宮、崩壊寸前につき

第二話 その王宮、崩壊寸前につき


 アイリスが王宮を去った翌朝。


 アストリア王宮は、静かに悲鳴を上げ始めていた。


「王妃殿下がお戻りになるまで待て!」

「だからその王妃殿下がいないんでしょうが!」

「誰だ、この外交日程を組んだのは!」


 朝から怒号が飛び交う。


 普段なら磨き抜かれた廊下を優雅に行き交う文官たちも、今日は髪を振り乱し、紙束を抱えて走っていた。


 王宮中央棟、第一会議室。


 巨大な楕円卓を囲む貴族たちの空気は最悪だった。


「どういうことですかな、アルバート殿」


 脂ぎった中年伯爵が机を叩く。


「本日の北方使節団との会談ですが、既に西部貴族連盟の会議予定が入っておりますぞ!」


「そ、それは……」


 王宮筆頭文官アルバートは青ざめていた。


 銀縁眼鏡の奥の目には隈が浮かび、襟元は乱れ、いつもの余裕は見る影もない。


「予定管理表が見当たらず……」


「見当たらない!?」


 怒声が響く。


「王妃殿下ならこのような初歩的ミスは――」


 そこで全員が黙った。


 気まずい沈黙。


 誰もが無意識に頼っていた名を口にしてしまったからだ。


 アルバートは乾いた唇を舐めた。


「……現在、確認中です」


「確認中で済む話ではあるまい!」


 会議室の扉が勢いよく開いた。


「失礼いたします!」


 若い文官が飛び込んでくる。


「騎士団補給申請書が見つかりません!」


「は?」


「北方遠征用の食料と魔鉱石燃料の承認印が押されておらず、このままでは出発準備が――」


「何をしている!」


 アルバートの怒鳴り声が飛ぶ。


 だが若い文官も泣きそうだった。


「わ、私ではありません! 例年は王妃殿下が先に確認して……!」


 またその名前。


 会議室の空気が重くなる。


 アルバートは額を押さえた。


 頭痛が酷い。


 昨日から何度も同じことが起きている。


 書類がない。


 予定が重複している。


 予算が通っていない。


 席順が違う。


 なぜだ。


 今まで問題など起きなかったのに。


「……王妃殿下は、どこまで処理していたんだ」


 誰かが呟いた。


 その時だった。


 廊下の向こうから甲高い悲鳴が聞こえた。


「きゃあっ!」


 全員が振り返る。


 次の瞬間、侍女が青ざめた顔で駆け込んできた。


「た、大変です! 茶会会場で……!」


「今度は何だ!」


「東部侯爵夫人と南方公爵夫人が鉢合わせに……!」


 会議室の全員が凍った。


「あれほど席を離せと言っただろうが!」


「そ、それが席次表に不備が……!」


 アルバートは目を剥いた。


 東部侯爵夫人と南方公爵夫人は、社交界でも有名な犬猿の仲だ。数年前、宝石利権を巡って派閥争いを起こし、互いにグラスを投げつけた過去まである。


 それを同じ卓につけた?


 最悪だ。


 案の定、遠くから怒鳴り声が響く。


「あなた、そのドレス趣味が悪すぎましてよ!」

「まあ! 負け犬の遠吠えですこと!」


 ガシャアン、と何か割れる音。


 アルバートはふらついた。


「……胃薬を」


「ありません!」


「切れております!」


「誰か買ってこい!」


「王宮内在庫管理も王妃殿下でした!」


「…………」


 沈黙。


 嫌な汗が背中を伝う。


 その頃、王の執務室でも空気は最悪だった。


「どういうことだ!」


 レナードの怒声が響く。


 机には山積みの書類。


 いつもなら綺麗に分類されていたはずの案件が、今日は混沌と積み上がっていた。


「西部の税収報告は!」

「まだ集計中です!」


「外交会談資料は!」

「見つかっておりません!」


「見つかっていないばかりではないか!」


 側近たちは縮み上がる。


 レナード自身も苛立っていた。


 机の上がこんなに散らかっているのを見るのは久しぶりだった。


 いや。


 違う。


 今までは、アイリスが片づけていたのだ。


 自然に。


 何も言わず。


「……王妃は何をしていた」


 ぽつりと零した言葉に、部屋が静まり返る。


 誰も答えられない。


 レナードは眉間を押さえた。


 昨日から、妙に胸がざわつく。


 だがその理由を考える暇もなかった。


 コンコン、と扉が叩かれる。


「失礼いたします、陛下」


 入ってきたのはセシリアだった。


 淡い桃色のドレスに身を包んでいるが、今日はいつもの華やかさがない。目元は赤く、明らかに疲れていた。


「どうした」


「その……本日の茶会なのですが……」


「問題があったのか」


 セシリアは震えた。


「皆さま、ずっと笑っているのに目が怖くて……っ」


「……は?」


「言葉も全部遠回しで、何が正解かわからなくて……! 少し返事を間違えただけで空気が凍って……!」


 ついに彼女は泣き出した。


「王妃様って、いつもあんな場所にいたんですか……?」


 レナードは言葉を失う。


 セシリアは愛らしい女性だ。


 社交界でも人気があり、男たちは皆、彼女を守りたがる。


 だが、その彼女が半日で泣き崩れている。


 王妃の仕事とは、それほど過酷だったのか。


「わ、私、書類も読めなくて……! 皆、“王妃殿下ならすぐ判断できた”って……!」


 レナードの胸が妙に重くなる。


 アイリスは一度も泣き言を言わなかった。


 どれだけ仕事を抱えても。


 どれだけ夜が遅くても。


 どれだけ疲れていても。


 いつも静かに微笑み、


「問題ありません」


 と言っていた。


 それが当然だと思っていた。


 彼女は優秀だから。


 彼女ならできるから。


 だが。


 本当に、それだけだったのか。


 その時、再び扉が開く。


 今度は騎士団長ミハイルだった。


 長身の男は険しい顔で報告書を差し出す。


「陛下。北方遠征ですが、補給遅延で出発延期になります」


「何だと」


「食料承認印が未処理です」


 レナードは眉を寄せた。


「そんな初歩的なミスをなぜ誰も気づかなかった」


 ミハイルは数秒沈黙した。


 そして低く答える。


「……今までは、王妃殿下が事前に全て確認していたのでしょう」


 その言葉が、妙に重く響いた。


 部屋の空気が静まる。


 誰も何も言わない。


 遠くでまた誰かの怒鳴り声が聞こえた。


 書類が落ちる音。


 走る足音。


 怒号。


 悲鳴。


 王宮はたった一日で崩れ始めていた。


 そして誰も、まだ本当の地獄を知らない。


 アイリスがいなくなったのは、“王妃”が消えたのではない。


 王宮そのものを支えていた柱が、一本抜け落ちたのだ。




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