第一話 王妃は本日をもって業務外となります
第一話 王妃は本日をもって業務外となります
深夜の王妃執務室には、紙をめくる乾いた音だけが響いていた。
窓の外は濃紺の夜だ。王城の尖塔に吊るされた魔導灯が白く瞬き、石畳を青白く照らしている。けれど、その光が届かない室内には、疲労の気配が澱のように溜まっていた。
机の上には書類の山。
冬季遠征に伴う騎士団補給申請。地方貴族の税収報告。来月予定されている他国使節団の接待計画。舞踏会の席次表。予算書。外交日程。
インクと紙の匂いが鼻を刺す。
アイリス・フォン・ルヴェリアは細い息を吐き、こめかみを押さえた。視界が滲む。三日、まともに眠っていない。
金糸で刺繍された濃紺のドレスは王妃としては質素な部類だが、それでも長時間座り続けた身体には重かった。締め上げられたコルセットが呼吸を浅くする。
机の端には冷めきった紅茶。
いつ淹れられたものか、もう覚えていない。
「王妃様……少しだけでもお休みになってください」
控えていた侍女のエマが、心配そうに声をかける。
まだ十九の少女だ。栗色の髪をきっちり三つ編みにしているが、眠そうな目を必死に開いている。
アイリスは小さく首を振った。
「駄目よ。明日の外交会談の資料確認が終わっていないわ」
「でも、もう午前三時です……」
「三時なら、まだ余裕があります」
口にした瞬間、自分でも何を言っているのかわからなくなった。
エマが泣きそうな顔をする。
「王妃様」
「大丈夫。慣れているもの」
慣れている。
本当に?
ペンを持つ指先が痺れている。肩は鉛のように重く、背中には鈍い痛みが張りついていた。
それでも手は止められない。
止めれば崩れる。
誰も気づいていないだけで、この王宮はとっくに限界だった。
コンコン、と扉が叩かれた。
エマが慌てて振り向く。
「へ、陛下……!」
入室してきた男を見て、アイリスは反射的に背筋を伸ばした。
レナード・アストリア。
この国の王であり、彼女の夫だ。
漆黒の軍服姿のままらしく、肩には夜気が残っていた。端正な顔立ちは疲れていても威厳を失わない。金の瞳が机上の書類を一瞥する。
「まだ起きていたのか」
「確認作業が残っておりましたので」
「……そうか」
短い返答。
労いの言葉はない。
もう慣れていた。
レナードは机へ近づき、一枚の書類を持ち上げる。
「北方貴族への対応案か」
「先方は補給費増額を要求しています。ただ、今年は魔鉱石の輸出量が減少しているので、そのまま受け入れると冬季予算を圧迫します」
「却下でいい」
「それでは反発が強まります。代替案として――」
「任せる」
また、それだ。
任せる。
信頼している、という意味なのだろう。
けれど、その言葉の先にある重さを、この人は知らない。
レナードはふと眉を寄せた。
「顔色が悪いな」
「問題ありません」
「最近、社交界で妙な噂が出ている」
低い声だった。
「王妃が愛を欲している、とな」
アイリスは瞬きをした。
空気が少し冷える。
「……誰がそのようなことを」
「重要なのはそこではない」
レナードは淡々と言った。
「アイリス。お前は王妃だ」
「はい」
「感情で職務を疎かにされては困る」
その声音は責めるでもなく、ただ事実を述べているだけだった。
だからこそ、胸に深く刺さる。
「愛を求めるな」
静かな執務室に、低い声が落ちる。
「だが王妃としての責務は完璧に果たせ」
沈黙。
時計の針が動く音がやけに大きい。
エマが息を呑む気配がした。
アイリスは何も言えなかった。
言葉が出なかったのではない。
あまりにも疲れきっていて、悲しいのか悔しいのか、それすらわからなかった。
ただ、胸の奥で何かがぷつりと切れる音がした。
細い糸が、ようやく限界を迎えたような音だった。
レナードは気づかない。
「来週の舞踏会だが――」
「陛下」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
レナードが言葉を止める。
「……なんだ」
アイリスはゆっくりペンを置いた。
乾いた音がした。
インクで汚れた指先を見つめる。
この手で何年、王宮を支えてきたのだろう。
誰より早く起き、誰より遅く眠り、笑って、頭を下げて、調整して、守ってきた。
けれど。
この人は一度でも、自分を“人”として見ただろうか。
便利な王妃。
壊れない補佐役。
それだけではなかったか。
「本日の業務は以上でよろしいでしょうか」
レナードはわずかに眉をひそめた。
「……ああ」
「承知いたしました」
それだけ言って、アイリスは立ち上がる。
くらりと視界が揺れた。
エマが慌てて支えようとする。
「王妃様!」
「大丈夫よ」
微笑もうとして、うまくできなかった。
レナードは何か言いたげだったが、結局何も言わず部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
その瞬間、アイリスは椅子へ崩れ落ちた。
「王妃様……!」
「エマ」
掠れた声で呼ぶ。
「有給休暇申請書の様式を持ってきて」
「え……?」
「今すぐ」
エマの目が大きく見開かれる。
王宮で有給休暇を申請する者など、ほとんどいない。まして王妃など。
だがアイリスは冗談を言っている顔ではなかった。
やがてエマは震えながら書類を持ってくる。
アイリスは羽ペンを取った。
さらさらと紙に文字を書き込む。
『長期有給休暇申請書』
申請期間。
三年。
理由。
心身疲弊のため。
復帰予定。
未定。
書き終えた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。
不思議だった。
今まで胸を圧迫していた何かが、少しだけ軽くなる。
エマが涙ぐみながら書類を見つめる。
「王妃様……本当に?」
アイリスは静かに笑った。
それは王妃として作った微笑みではなかった。
「ええ」
窓の外では、夜明け前の風が白いカーテンを揺らしていた。
「私、本日をもって業務外になります」




