ACT.1 セントラル=テアトル ①空の青さを知る蛙
腐臭に満ちた黄昏時。
ゴシック調の陰鬱な街の外れに、とうの昔に見捨てられたみすぼらしい井戸があった。
どこからかゴツンと鈍い音が聞こえてきて、ぬかるみの腐肉を啄んでいたカラスが一斉に飛び立つ。
三拍ほど置いたあと、裏路地の暗闇から赤ら顔がぬっと現れた。
足が悪いのだろう。左に重心をかけるような歩き方で、片手には小さな塊を引き摺っている。
荒れた街道の上を一直線に伸びるのは、鮮烈な赤色。ドクドクと今なお溢れ出るそれは、崩れかけのレンガを横切り、むき出しの土を湿らせて──
──ぱたたっ。
石造りの井戸枠を汚したのを最後に、途切れた。
血の滴る幼子を投げ入れた男は、手についた汚れを石の表面に擦り付けながら井戸を覗き込んだ。底の様子は、暗くてよく見えない。
さもありなん。この井戸は、そういう用途を前提に、あえて深く作られたのだから。
男の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
ほんの数分間、誰も気にもとめない悲劇は、この街のつまらない日常となっていた。
肥える獣も貧しき人も皆平等に恐怖と暴力からは逃れられず、淀んだ目をした生者が飯をむさぼるこの場所では、たかが幼子一人の命はあまりに軽過ぎたのだ。
今日もまた、井の中で小さな蛙が積み上がる。
大海をも知らぬまま、ただ惨めに腐り果てるだけの蛙が。
──しかし、今回ばかりは場違いな先客がいた。
まさか井戸の中で目覚めるとは思ってもみなかった、生後三分という驚きの鮮度を誇る少年が。
少年は背中で冷たい肉の形が崩れたを感じながら、流れてくる血でぬめった顔面を、少々乱暴に手の甲で拭った。
右頬にこすった血の跡が付着したが、まあ、口にさえ入らなければいいのかもしれない。
死体と勘違いして集ってきた蝿を手で追い返しながら、彼は言った。
「君には選択肢がある。
今この場でサクッと死ぬか、ここ以外の場所……僕の目の届かない場所で死ぬか。
選べ」
その子どもは、少年の上に覆い被さり朦朧としていた。
井戸の口は高い位置にあるが、落下の際に彼をクッション代わりにしたからだろう、殴られた以外の傷跡は見当たらない。
少年が、腕の中の細い身体を抱きしめるように力を込めた。
このまま答えがなければ、その手でひと息に首を折るつもりなのだろう。
そのとき、子どもが僅かに身じろいだ。苦しさにか胸を大きく上下させ、息も絶え絶えに掠れた声を漏らす。
「……と、と……」
赤々と広がる血に、透明な液体が混じる。それは目尻からとめどなく溢れ、頬を伝って少年の服に染み込んでいく。
ボロボロにひび割れた指が、か弱い力で、それでも確かな意思を持って、彼の胸元を掴んでいた。
暗がりでも不気味なほどに青く輝く瞳が、その様子を一瞥する。
彼は子どもの答えをどう受け取ったのか、枯葉のような手のひらを包むように自身の手をかぶせ、服にかかった指をそっと外した。
そして、おもむろに上体を起こすと──
──子どもの首根っこを引っ掴み、空高く放り投げた。
ポイッと。それはもう軽々と、テキトウに。お手玉を投げるがごとく。
当然小さな体躯はバビュンと空を裂いて上昇し続けた。
ようやくはっきりと意識を取り戻した子どもだったが、理解を超えた状況に目を白黒させることしかできなかった。カッと視界を茜色に焼いた西日が、やせ細った足首やシラミの湧いた頭髪を容赦なく照りつける。
その子どもが放物線の頂点に達したとき。
高いところからは目玉のように小さく見えた井戸の口、そこからあの少年がはい出てくるのが見えた。
思わず子どもはアッと叫びそうになって、ようやく異変に気づく。
──いたく、ない。
咄嗟に頭に手をやった。殴られてぱっくり割れた傷が、嘘みたいに塞がっている。
自身の格好を見下ろしてみれば、なんということだろう。血を吸って真っ赤に染まっていたはずのボロ布が、とりどりのシミや黄ばみを取り戻しているではないか!
子どもはあまりの嬉しさに心まで空高く舞い上がった。
どうして気づかぬ間に怪我が治ったのかはわからない。
だが、これでまた父のもとに戻れる。そうしたら、次は違う大人に掛け合って、今度こそ薬を買わせてもらうのだ。大丈夫、父はきっとよくなる。……もし、よくならなくとも。最後まで、傍にいてあげられる。
開けた未来に高鳴る胸を落ち着かせて、そっと目を開ければ。
あの少年が、路地裏の方へ立ち去ろうとしているのが見えた。
己よりも先に、井戸の中にいた少年。どうしてお貴族様のような綺麗な格好をした人が、あんなところにいたのかはわからない。それでも、死にかけていた己をあの井戸から出してくれたのはあの人。それだけは、確かなことだ。
なのに、まだお礼を言えていない。
「まって!」
思わずそう叫べば、彼はなぜか少し驚いたような様子で、弾かれるようにこちらを見上げた。
視線が交錯したその瞬間、は、と息ができなくなる。
──きれい。
その子どもは、ロクでもない街に生まれた。
それでも今日まで生き残ることができたのは、ただ、きれいなものを知っていたからだ。
それは人の目。父のように真っ直ぐな目。
濁っていたり、いやに乾いていたりするのはダメなのだ。信用できない。薬の取引を持ちかけてきたあの男の目だって、本当は、膿袋のように汚れていた。
この街は見ていられないほど汚い目でいっぱいで、たまに見つかるきれいなものも、いつかは霞んでしまうけれど。
不思議と、彼の目はきっとずっときれいなままなのだろうと、そう思わせる引力があった。
街の景色も、腐臭も、雑音も、取り巻く全てが遠のいた。
その子どもは、父の傍に身を寄せるときのように。ただ、その瞳だけを見つめた。
ふいに、青い瞳がちらりと下を向く。
つられて彼の視線の先を辿ると、そこには地面がある。
地面。
ああ、そういえば空中にいたんのだと、子どもはようやく思い出したがあれ落ちるときどうすればと焦りも虚しくあれよあれよという間に大地が迫りきて──
──ズボッ!
頭から着地した。
不思議なことに落下の衝撃でペチャンコになることはなかったが、代わりに頭が地面にめり込んでしまった。
子どもは両手をめいっぱい地べたに広げてバランスをとりつつ、足をバタバタ動かしていた。抜けぬ。
逆さのまま奮闘する子どもの近くまで寄った少年は、少々バツが悪そうに声をかけた。
「……すまない、着地地点の調整を誤ったようだ。自力で抜け出せそうか?」
ピタリと動きが止まった。どうやら無理らしい。
少年は片手で肉づきの悪いふくらはぎを掴むと、ラディッシュを引っこ抜くかのような雑さで引っ張った。
すぽんと音を立てて無事顔を出した子どもを、そのまま藁を放るように地面に投げ捨てる。
「でっ」と転がった子どもを助け起こすことはなかったが、だからといってどこかへ行く気配もないようだ。
子どもが自力で起き上がるのを待ってから、少年はその場で何もない空間に腰掛けた。
いわゆる空気椅子である。
「それで、君。何か訊きたいことがあったんじゃないのかい」
そのとき子どもは、はじめて少年の顔を正面から見た。
年頃は自分とそう変わらないはずなのに、涼やかな顔立ちや、頭から爪先までぴんと伸びた美しい所作ゆえか、やけに大人びてみえる。整った身なりにべったり付いた赤色はおそらく自分のせいで、ひと様を汚してしまったことに顔から火が吹き出そうなほど恥ずかしくなった。
しかし、だからといって弁償できるような金はない。
せめてもの誠意を込めて、子どもは真っ直ぐに少年の目をみてから勢いよく頭を下げた。
「たすけてくれて、ありがとう、ございました!」
「どういたしまして」
……ドウイタシマシテ?
ドウイタシマシテと言われたら、次はどんな返事をすればいいんだったっけか。
今までクソをドブで煮詰めたような環境で育ってきた子どもにとって、感謝の言葉に返事が返ってきたのは実に初めてのことであった。
何か、何か言わなければと、必死に考えていたことをつらつらと並べ立てる。
「たたったすけてもらったら、おおおおれいをしなきゃって、ととがいってたから、だから、その、あっ、……」
うまく舌が回らない。羞恥のあまり前を見ていられず俯いてしまう前に、少年が口を開いた。
「そうかい、お父様が。上出来じゃないか」
「は、はい!」
「次も君の悪運が働くとは限らない。精々気をつけることだ。それがどんなに難しくともね」
「はい! あのっ、本当に、……っ、ありがとうございました……!」
もう一度、深く深く頭を下げる。
ありがとうという言葉でしか気持ちを伝えられない自分が情けない。だが、それでも。どんなに学がなくとも、彼がなにをしてくれたのかさえわかっていなくても、今できる感謝に全力を尽くしたかった。
少年は小さく頷くと、組んでいた足を解いて立ち上がった。
そして、すれ違い様に一度だけ。子どもの乱れた頭にぽんと手を置いて、今度こそ裏路地の先へと向かう。
少年の背中が暗がりの奥に吸い込まれて、しばらく経ってからも、子どもはずっと微動だにせずそこにいた。
#####
「もし。そこの御仁」
それは突然現れた。
予兆があったわけではない。ただ、いつものように金を稼いでいた。しいて言えば、あの男のガキに手を出したことくらいか、いつもと違ったのは。一部の連中はあの親子に手を出すな、とか言っていたが、余所者が大人しく聞いてやる義理もない。
この街はとにかく入り組んでいて、どこへ行くにも狭い裏道を通らなければならない。
人通りのない路地を俯きがちに歩いていたら、視界の上端にいかにも上質そうな靴のつま先が映りこんだ。
「見ておくれよ。ほら、」
声につられて顔を上げれば、服を真っ赤な血で染めた子どもが一人。
あれは、いい服だ。血で汚れているのは仕方ない。頑丈な内ポケットには、金目のものをたんまり隠し持っていることだろう。
「君のおかげでこの通り、酷い有様でね。
せっかくボクのパパンが買ってくれた、とっておきの一張羅だというのに。おーいおいおい」
貴族の坊ちゃんかと思ったが、護衛の姿はない。
その上、両目を閉じているときた。もしかしたら盲目なのかもしれない。
で、あれば。
「だから君、クリーニング代をいただいても?」
このとき男の頭の中を占めていたのは、この臨時収入が果たしてどれくらいの額になるだろうか、ということだけだった。
こんな場所に一人で来るような世間知らずは、殺されたって仕方ない。
なに、そこらの檻にでも引っ掛けておけば、犬に食われたものとして処理されるだろう。
そうと決まれば。
やはり見えていないのか、錆びたナイフを取り出そうが動こうとすらしないバカな金蔓に、男は嬉々として襲いかかり──
──顔面に衝撃が走る。
続いて、背中を凄まじい衝撃が襲う。
腿に熱が走った。遅れて、太く鋭利なもので突き刺されたかのような痛みを脳が知覚する。
「なんだ、ボク。喧嘩は初めてか? ま、肩の力を抜いて楽にしてくれ」
動けない。
ただでさえ右足は言うことを聞かないのだ。
左足の自由を奪うこの傷は、男にとっては紛れもなく致命傷だった。
血を流しているなら、はやく、隠れないと。
はやく、はやくはやく! でないと血のにおいにつられて、今にもあいつらがやって来
グシャリ。
しゃがれた悲鳴が逢魔が時の街を切り裂く。
血しぶきをあげる餌の絶叫につられて、一匹、また一匹と、飢えた犬が男の元に群がる。
ぐちゃぐちゃ、ガツガツ、生きたまま食われる苦痛はいかほどか。
奇跡的に生還したとしても、その精神は果たして無事でいられるのだろうか。
しばらくは狂ったブリキのように手足を投げ出し暴れていた男は、穴という穴から濁った汁を垂れ流し、やがてただ痙攣するだけとなり。
ついには完全に動かなくなった。
獲物を食い尽くした獣が、新たな餌を求めて気配を探り、そこに佇む少年の姿を捉えた。直後、一目散に逃げていく。
慌ただしい足音が去り、静寂がその場を支配する。
蛇足にもならない事の顛末を見届けて、少年は男の死体に背を向けた。
それから、この場にキャストがいないからだろうか。いかにもおざなりに、棒読みを隠そうともせずこう言った。
「あー。すっきりした」




