智奈と杏子(1)
新崎家には親がいない。半年前に亡くなっているからだ。
両親が海外――『イーズランド』という国に行っているときだった···と思う。
曖昧なのは、祖父母が智奈に詳しいことを話さないから。それともう1つ、両親がイーズランドに行く前、両親は智奈と綾香を祖父母に任せて行ってしまったからだ。
両親がいなくなった今でも思う。どうしてお父さんとお母さんはわたしたち子供を置いて行ったのだろうか。また、なぜ何も言わずに行ってしまったのか。
イーズランドというのは、中学一年で教わる国だ。人々が希望を求めて訪れる場所――だなんて言われているけど、それはあくまで『仮』だった。実際は『殺人』や『人身売買』が盛んだと言われている。
そんなこと、両親も知っていたハズだ。だから、智奈にはあの時の、両親の行動がよく分からなかった。
智奈と綾香は学校に着くと、昇降口まで行かずに裏口から校舎内に入る。
2人は『遅刻しそうになった用』として、もう1つ別の上履きを裏口付近に隠しているからだ。
いま思うと、どうしてこんなバカ気たことをしているのだろうか。
最初は遊び心で、楽をしたいと思ったのだ――それが綾香にバレて、智奈が誘うと、綾香が乗ってくれた···たしかそんな感じだった気がする。
智奈自信、どうしてこんなことを思い付いたのか分からない。また、それが面白くて笑ってしまう。
「よし、時間がおしてるけど走って行けばホームルームまでには間に合いそうだね」
脱いだ下履きは上履きを置いてあった所に置いて、次の休み時間に綾香と下駄箱に入れにいく。
「じゃ、私こっちだから」
綾香は校舎の3階、智奈は1階だ。もう少し近ければ良いのにと思ったが、休み時間に会えたらそれだけでいい。
「ん、じゃあね」
智奈は小さく手を振り、綾香が見えなくなった途端、教室に向かって走った。
教室に入るほんの数メートル前でチャイムが鳴った。何人もの男子生徒が混雑しながらドアを目掛けて走っている。
その波に流されそうになったが、男子の威勢には勝てないのだと智奈は確信した。
「あ、智ちー。おはよー」
教室に入るなり、ショートヘアーで低身長の幼馴染みが変なあだ名で智奈を呼んだ。
「え?」
誰のことか分からず、智奈は後ろに誰かいるのかと思った。生憎、生徒は全員席に着いている。
「智奈のことだよ、おはよ」
そう言われてやっと理解できた。
「あ···うん。おはよう」
能天気な彼女に、ぎこちない挨拶をする。
彼女の名前は小林杏子。いつも能天気で、たまに智奈が振り回される。
「何、智ちーって」
「わたしが徹夜して考えた智奈のあだ名だよ。可愛いでしょ?」
可愛い···のか?この前は「智ちょん」と言われたから怒ったというのに、やはり懲りないところが杏子らしい。
「今日はいつのより来るの遅かったけど、何かあったの?」
智奈は杏子の言葉に耳をかしながら、自分の席に座る。黒板がある方から見て左前、そこが智奈の席で――その後ろが杏子の席だ。
智奈が風邪で学校を休んだ次の日、学校に行くと席が変わっていた。欠席者がいるのに席替えをしたのだ。後から話を聞くと、杏子が智奈の席を選んだらしい。
「···寝坊しちゃって、綾香がわたしの首を舐めてて――」
「んー?待て待て待て。え?綾香ちゃんが何だって?」
「···綾香がわたしの首を舐めてたって言ったの」
すぐ後ろにいるというのに、難聴のように訊いてくる杏子に腹が立った。少しトゲのある口調で返す。
「綾香ちゃんって···そんな趣味あるんだ?」
「うん、まぁ···テクニシャンだよ」
あの舌の使い様、何度智奈が寝ているときに襲ったのやら。智奈は深く溜め息を吐いた。
「···今度、智奈ん家泊まりに行っていい?」
微かに震えながら杏子が言った。智奈は迷ったあと、小さく頷いた。
ホームルームはこんな話をして終わり。先生が喋っていた様だけど、まったく耳に入ってこない。というか、注意もしない。
一時間目まであと7分ほどの時、2年のフロアに綾香がきた。
「あれ?あそこにいるの綾香ちゃんじゃない?」
始めに気づいたのは杏子だった。――綾香だ。水色のシュシュが黒髪の中で目立っている。
「あ、お姉ちゃん!」
まじまじと見すぎていたか、綾香が髪を揺らしながら走ってくる。
――胸は揺れないようだ。
「杏子さんも、おはようございます」
「うん、綾香ちゃんおはよう」
綾香があっちの趣味があってテクニシャンだと知ったあとだからか、杏子のテンションが沈んでいた。
「どうしたの?もうすぐで授業始まるよ?」
「あ、そうそう。今日二時間目が体育なんだけど体操服家に置いてきちゃったみたいなの。それでね、お姉ちゃん四時間目体育でしょ?だから体操服かしてくれないかな?」
――なぜ知っているのか?と疑問は浮かんだが、敢えて訊かないことにした。
「あー、いいよ。ちょっと待ってて、いま取ってくるから」
「ちょっ、智奈···」
智奈が小走りで教室に入る。その後ろ姿を見ながら、杏子が待ってと言わんばかりに手を伸ばしていた。
「そうだ、杏子さん。···今日、一緒に帰りませんか?」
その問い掛けに驚きを隠せなかったのか、杏子は瞬きを忘れて綾香を見つめた。
「···智奈とは帰らないの?」
やっと瞬きをしたと思えば、杏子の言葉が綾香の胸を痛める。
「お姉ちゃんは今日、日直の仕事があるから帰るのが遅いので···」
「あ、そっか。今日は月曜日だったのか。ハハッ、曜日を忘れちゃうなんて、私ったらうっかりさんだね」
杏子が綾香に微笑むと、教室から智奈がゆっくりとした足取りで出てきた。――何も持たずに。
「···たい···わ···た···」
智奈のこちらへ歩いてくる姿は、まるで憎しみを抱えた幽霊のようだ。
「え?何て言ったの?」
「多分「体操服忘れた」って言ってます」
正解なのか、智奈の顔が一瞬晴れやかになった。が、すぐに戻ってしまった。
「ごめん···いや、洗濯はしてたハズだよね。急いでて押し入れから取り出すのを忘れてた···」
「――あー、何なら私の体操服使わない?わたしと綾香ちゃんって、身長同じぐらいだし、胸の大きさもわたし小さいから合うと思うんだけど」
――智奈だったら、年下に身長が同じや胸が小さいなんて口が裂けても言えないことだ。それを杏子は、同級生が群がる廊下で言った。
「···え、あ、ああ!そう···ですね。じゃあ、そうします」
綾香の言葉に杏子は待っていたと言わんばかりの表情で教室へ走って入った。
「ねぇ、お姉ちゃん。杏子さん優しいね」
「んー、杏子は優しいのかな?ちょっと頭が弱いとこあるからさ、なんだか人に流されてるっていうか···」
智奈は子供でも見守っているかのような気分になった。杏子は頑張ればやり遂げるけれど、頭が弱くて誰かに頼らないと物事の処理ができないことがある。だから、幼馴染みの智奈は、杏子の手助けをしようと誓った。――自分が死んででも。
「綾香ちゃん、持ってきたよ」
智奈と綾香がほぼ真剣に話していると、杏子が体操服の入った手提げバックを持ってきた。
「あ、はい。ありがとうございます」
綾香が礼をして顔を上げた時ほぼ同時に始業のチャイムが鳴った。
「やばっ···た、体育が終わったらすぐ持って来ますので!」
綾香がチラチラと後ろを確認しながら――まるで鬼ごっこで、鬼から逃げているような素振りで体操服の入った手提げバックを抱きながら走って行った。




