智奈と綾香
わたしがもっとも恐れるもの、それは『幽霊』だ。
夏にテレビで放送されている心霊特番で、全身真っ黒の女性が鏡に映っていた――という映像を見て以来、わたしは積極的に鏡を避けている。
朝起きて、洗面所で顔を洗っているときに、鏡を見ると映ってるなんて洒落にならない。それが怖くていつしかわたしは窓ガラスさえ避けて通るようになった。そう、自分が映るものの前を横切るとき、決まって中腰になる。
「幽霊なんているわけない」そんなことを言ってるやつが、いざ幽霊と対面すると、直ぐ様「うぎゃーっ!」と叫ぶに決まっている。そう、「うぎゃーっ!」とだ。
そんなわたしだってたまに考えを変えるときはある。「幽霊なんてやはりいないのではないか?」そう思うのは、どれもこれもCGにしか見えないからだ。
幽霊が出てきたとき、その場にいた人の悲鳴も演技くさい。そう考えていると、わたしは自分の思考が分からなくなってしまう。
わたしというのは新崎智奈のことだ。
これぞといって特殊なわけではなく、学力や身体能力は平均より少し上といったところ。
友達は少ない方である。うん。
だからこそ、普通の友達とは違う、不安定な距離感にあると思う。友達が少ないということは、よりその友達と関わるができるということなのではないだろうか。泣き言でしょうか。泣き言でしょうね。
それでも、わたしは充実した人生をおくっていると思う。
家にはいつも笑顔で、元気な妹がいる。学校には友達がいて、部活の先輩もいる。
充実しているといえば間違いだけど、楽しいといえば正論になる。
小鳥の囀ずりが聞こえてくる朝、智奈は今日も寝坊している。
「お姉ちゃん、今日月曜日だよ?起きて、一緒に学校行こうってば!」
誰かが智奈を呼びながら体を揺すっている。それが智奈には心地のいい音色と揺り籠の中に思えたのは、寝ぼけていたからだろう。
「ぅ···あぁ···なんだ、お母さんか」
「ブッブーだよ!ってかお母さんはもういません!」
――誰だ?訳も分からなくなり、智奈はもう一度寝ようと目を閉じた。
「···そう、お姉ちゃんが寝てるのは好都合。どうなっても絶対怒らないでね!」
その言葉から数秒後、智奈の寝ているベッドが少しだけ沈んだ。誰かが乗ったのだろう。それから誰かの呼吸が首に当たり、首にくすぐられたような感覚が走る。
「フフッ、くすぐったいよ」
とても柔らかく、たまにザラザラしている部分が当たる。この感触、いままでで体感したことのないような、あるような――よく分からない感触だ。
「フフフ、気持ちが悪いよ――って、やめてよっ!」
智奈が力強い声をあげながら目を開いた。智奈が見た光景、それは――実の妹が智奈の上に乗り、首を舐めていた。
「ヒッ、フッ、ヒャーッ!?綾香がわたしを襲ってるぅ!」
綾香というのは、智奈の妹の名前だ。智奈の首を舐めている人物、彼女こそが綾香だ。
「あ、起きちゃった···」
「「起きちゃった」じゃない!何してんの!?」
智奈が顔を赤くしながら叫ぶ。多分、一階にまで声は届いていただろう。
「だってだって、お姉ちゃんが起きないからだもん!」
綾香が駄々を捏ねるようにして智奈に返す。こういうところが正に『THE・妹』――いや、『THE・歳下』といえるのだろうか。
友達と一緒にいる綾香は大人しいのに、智奈と一緒にいるときはテンションが異常になる。姉には甘えたいという妹の本心なのだろう。
それから2人は朝食を食べ、制服に着替える。
「第一私たちは『姉妹』だよ?こんなことおかしいよ」
いくら朝食のヨーグルトを一口あげようが機嫌を直さない智奈に、綾香は少し焦れったさを感じた。
「···じゃあ『女の子同士』はどうなの?」
「お、女の子同士?うーん···この前読んだ漫画に出てくるキャラクターが「愛は性別や種族の壁を越える」って言ってたし、ありなことはありかもね」
智奈が読んだ漫画というのは、知る人こそ少ないものの読むと病みつきになると思われる《囚われの少女》という悲恋系漫画である。
「へー、じゃあお姉ちゃんは友達とアレな関係になってもいいんだ?」
「アレな関係って···そうとは限らないよ、友達は友達であって恋人にはなれないんじゃないかな。恋人は恋人だからね」
「···え?」
智奈自身、自分が何を言っているのか分からない。言い訳といえば違っている。際どいところにあるのが『友達』だ。
「ごめん、わたし自身何言ってるか分かんなくなった」
そもそも『友達』とはどの範囲までいっても大丈夫なのだろうか、智奈には検討もつかない。
「···お姉ちゃんが誰を好きになろうと勝手だけどさ」
綾香が淡々とした口調で着替えを済ませる。
「綾香、髪結んであげる」
智奈が小さな小物入れからシュシュを幾つか取り出して机に並べる。
「ん、お姉ちゃん、ありがと。じゃあ···今日は水色がいい」
綾香は机の上に並べられたシュシュの中から、水色のシュシュを手にとって智奈に渡す。
「いいよ、じゃあ座って」
そう言われると、綾香はベッドの上に座る。
2人の部屋には椅子がない。あるのは着替えとベッド、新聞紙1つ収まらない机、無造作に置かれているような小物類だけ。物足りない部屋だけど、2人は何不自由ない生活を送っている。
「綾香は髪がふわふわしてていいね」
「そんな···お姉ちゃんみたいなストレートの方が好きなんだけどな。天然パーマ?は友達に色々言われるし」
綾香の髪型は母譲りだろう。髪が綺麗で柔らかくて、暇があれば触っていたいような髪だ。一方、智奈の髪はどちらに似たのか分からない。父なのだろうか。でも、父は年中丸刈りのため分からない。
「···お父さんとお母さんがいなくなってさ、綾香は寂しくない?」
智奈の脱線した失言に、綾香は黙り込んだ。――智奈と綾香には親がいない。半年前に死んだ。
「――あ、ごめん、こんな話して···ほんと、ごめん···」
智奈は気を取り直して綾香の髪を結ぶ。1分もしない内に髪を結び、綾香の目の前に小さな鏡を置く。
「よし、完成!」
智奈が綾香の肩を軽く叩くのが出来上がりのサインだ。綾香は鏡を見ながら前髪を整える。
「うん、今日も1日頑張れる気がするよ!」
綾香の両手を胸元に引き寄せるポーズ――智奈には理解できなかった。
「じゃあわたしは···やっぱヘアピンかな。このヘアピン可愛いから好きなんだ」
『黄色の薔薇が描かれているヘアピン』を手に取って智奈は柄に見とれる。ヘアピンはいくつもある、それでも智奈はこの『黄色の薔薇が描かれているヘアピン』が一番好んでいる。
「お姉ちゃんもたまにはイメチェンしたらいいのに···」
「いいの、私このヘアピン気に入ってるし」
黄色の薔薇の花言葉――友情。誰にも親しく接し、正しさを理解できる智奈には打ってつけともいえる。
「ふーん。愛着ってやつかな――って、そろそろ出ないと遅刻しちゃう!」
家に唯一ある時計が指すのは7時52分。新崎家から学校まで歩いていくと40分はかかってしまう。
「ヤバイね···走って行こうか!綾香!」
綾香の返事を待たずに、智奈は綾香の手を握って引っ張る。突然のことに驚き足がすくんだが、智奈の手の温かさに、不意に笑顔が溢れてしまった。
「うん、行こう!お姉ちゃん!」
2人で降りた階段、2人で開けたドア。今日は、なんだか良いことがありそうだ。智奈と綾香は、心の中でそう思った。




