智奈と杏子(2)
一時間目が始まり、「起立」の合図で生徒全員が立ち、「気を付け」の合図で生徒と先生が手を横に、足を肩幅に開ける。――最後に「礼」の一言で生徒が「お願いします」と言いながら頭を軽く下げる。先生が、生徒が席についたことを確認すると授業が始まる。
「智奈、智奈!」
授業が始まってすぐ、先生がチョークも持っていない時。杏子が智奈の背中を強く叩いた。
「え、ちょっ、杏子、痛いよ···痛いってば」
何かに夢中になって智奈の声が聞こえていないらしい。智奈は止める気配のない杏子の腕を掴み、掴んだ腕を『曲げてはいけない角度』まで持っていく。
「痛い痛い痛い」という杏子の悲鳴で智奈の怒りが収まった。
「あ、ごめん···ちょっとイラッときたからつい···」
「ついじゃないよ!最悪骨が剥き出しになって大騒ぎだよ!」
「···ご用件は何でしょうか」
「え、あ···そう。用件···うん。そう、用件だよ!」
智奈のスルーに戸惑いながらも、杏子は忘れてしまったものを必死に思い出す――演技をする役者のように頭を抱えた。そして「あ、そうだ」という声と同時に手を下ろした時、杏子は机で両手を打った。
「くぅ···」
「何がしたいのさ···」
呆れたと目で訴える智奈目の前に、杏子は、用件のことは置いておいて機嫌を取らなくてはいけないと悟った。
「あ、いや。あの···」
――話を逸らせるような話題が思い浮かばない。天気の話、勉強の話、休日の話。どれもありきたりすぎるて逆効果だ。
オロオロしながら辺りを見渡す杏子を見て、智奈は溜め息をついた。
「手、出して」
「え···?」
「手打ったでしょ?保健室、ついて行くから」
智奈の言動に驚いたのか、杏子は智奈を見つめて動かなくなった。その隙に、智奈は杏子の手を掴み引っ張った。
「あっ、あっ、ちょっ!」
「ん?どうした小林」
「え、あ。机で手ぶつけたので保健室行ってきまーす!」
智奈に引っ張られながら、杏子は隣のクラスまで聞こえるような大きな声で言った。
数人の生徒に笑われながら、恥をかく暇もなく引き摺られた。
「ちょっ、智奈!何か痛い!痛いというかキツい!腰っ!腰がグリンって!変な方向を向いてるから!」
智奈に杏子の体勢などどうだっていいことだ。智奈はお構い無しに杏子を引き摺った。廊下を出て、昇降口前を通り北校舎へ行くと、保健室はすぐそこだ。智奈は『先生は職員室にいます』という貼り紙に気付かず保健室のドアを開けた。
「縁沼先生、居ますか?」
――いない。当たり前のことなのだが、智奈は何度も先生と連呼する。
「ちょっ、智奈!先生いま職員室だから!恥ずかしいからやめて!」
いまの智奈に日本語は通じるのだろうか、そう心配したが案外通じるようだった。智奈は赤面になり、近くの椅子に腰をかけた。
「···あーあ、何か疲れたから手の痛みもひいたよ」
――なにそれ。思わず口から漏れてしまった。杏子は、さぁ、なんだろね。と言い、誤魔化した。
「どうする?戻る?それとも···もう少しだけここにいる?」
あからさまに後者を選べと、杏子は言葉の強弱で示す。智奈は何1つ悩まずに「ここにいる」を選んだ。
「···あ、そうだ。授業中何か言いたそうにしてたけど、何だったの?」
智奈の問いかけに、杏子はそうだ、と言いながら手のひらを叩いた。
「シャーペン貸してって、言いたかったの!ペンケース家に忘れちゃったから!」
「···それだけのことで保健室にくるはめになったってこと?」
智奈が顔ではぁ?と訴えた。
「い、いやいや、それだけじゃないよ?···多分」
「多分···?」
「あーもう!絶対!絶対だから!」
やはり杏子は頭が悪い。簡単に負けてしまうようなところ、言い合いや喧嘩で負ける未来は見えている。だからこそ――智奈は杏子のそばにいないといけない。幼馴染みとして。
それから、他愛もない話をして笑っていた。先生が帰ってくることはなかったし、チャイムが鳴るまでずっと話していた。
――四時間目。
体操服を忘れた智奈は青いベンチに座っている。智奈が豪快に、ベンチの真ん中に座っていると、杏子が「ちょっとだけ横にずれて」と言ってきた。
「あれ、体操服は?」
杏子は制服のままだった。
「いやぁ···綾香ちゃんがね、体操服汚しちゃったからって、洗って返すつもりだったって···季節的に短時間で乾くわけないよね」
なるほど、大体理解した。要するに体操服がずぶ濡れのまま返ってきたということか。そういう思考が綾香らしく、振り回され方が杏子らしい。
「···ぷふっ」
「あー!智奈笑ったー!なんで、わたし困ってるのに!」
智奈は笑いを隠さずにベンチの端にずれた。おいで、と言うと、杏子は犬のようにベンチに座った。
「···ほんと、杏子は犬みたいだね」
「誉め言葉···?」
チャイムが鳴り、数メートル離れたところで先生が何か話している。「はい」という声で生徒が立ち、倉庫からサッカーボールを取り出した。
「いいなー、私もサッカーしたい」
「それは···ごめん。ほんと」
綾香のせいだ。綾香が体操服を忘れていなければ良かっただけだ。――だが、体操服を貸してやれなかった智奈のせいでもある。
「···智奈はさ、今の選択に後悔したことはある?」
突然何を言い出すのか、智奈は理解できず数秒間沈黙した。
「···体操服持って来るの忘れたこと?」
「――家のことだよ」
あぁ、そんなことで悩んでいた気がする。智奈がうーんと唸ると、杏子が「欲張るとさ、智奈と綾香ちゃん、2人と一緒に暮らしたいよ」
――両親が他界して、智奈と綾香はどうしたらいいのか分からなくなった。その時に、杏子の両親に「家で暮らさないか」と言われた。
智奈と綾香は断った。
小林家に迷惑がかかるのもそうだけど、一番問題になったのは綾香だった。当時、綾香の精神は不安定だった。少しでも親のことを考えると涙を流し、夢の中でお父さんが自殺した、と嘆くほどだった。だから、智奈は2人だけで、付きっきりで慰めたかった。
「···生活は不自由なことが多い気がする。最初なんて料理が作れなかったもん。今でもだけど」
「···だったら、」
「でもね、今が一番楽しいよ」
杏子の言葉を遮り、智奈は続けた。
「綾香と一緒にいられること、学校にきたら杏子が楽しそうにはしゃいでる。みつき先輩だっているしね」
智奈がそう言うと、杏子は満足したのか不満だったのか、よく分からない顔をした。
「···最近の智奈は笑ってない」
「え、私笑ってるよ?ほら、」
智奈が作り笑いをして見せると、気に食わなかったのか杏子が智奈の頬を叩いた。
「そういうことじゃない!最近の智奈は『心から笑ってない』の!」
智奈が頬を抑えていると、次は智奈の肩を強く押した。衝撃で智奈はベンチから転げ落ちてしまった。
「ちょっ、杏子何すんのさ!――えっ、」
智奈が顔を上げると、杏子が両目を押さえていた。何をしているかは、濡れた袖を見れば一目瞭然だった。
「杏子泣いてるの···?」
あの天然で無邪気且つ大雑把の杏子が涙を流すのは珍しい。近くにクラスメートがいると、杏子の周りに群がって「貴重だ」と騒がれる程だろう。
「私は知ってるんだよ?智奈が綾香ちゃんのいないところで悩んでいるの。知ってるんだからね?」
何だかよく分からない――でも、これは杏子が私を心配してくれている。という解釈でいいのだろうか?
――智奈には、杏子の涙の訳がよく分からなかった。




