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第3話 ここから先は、森の管理区域です

前回のあらすじ


勇者パーティーから追放されたレオスは、死の森と契約し、生態系そのものの声を聞く力に目覚めた。

森を苦しめていた王国製の黒い杭を抜き、初めて森の痛みを取り除く。

しかしその直後、境界杭の異常を察知した王国兵たちが、レオスの前に現れた。

「捕らえろ」


 先頭の兵士がそう命じた瞬間、四人の兵士が一斉に剣を抜いた。


 たき火の明かりに、刃がぎらりと光る。


 普通なら終わりだ。


 こちらは短剣一本のテイマー。


 相手は武装した王国兵が五人。


 まともに戦えば、俺は数秒で地面に転がされる。


 だが、俺は剣に手を伸ばさなかった。


 ここで一番やってはいけないのは、慌てて反撃することだ。


 相手を傷つければ、話し合いの余地は消える。


 かといって、無抵抗で縛られれば終わり。


 だから、まずは相手の足を止める。


 殺さずに。


 怪我も最小限に。


「森、足元だけ頼む」


 俺が小さく呟いた直後、兵士たちの足元の苔が一斉に濡れた。


「うわっ!?」


 先頭の兵士が踏み込んだ瞬間、ぬるりと滑る。


 転倒。


 その後ろの兵士が巻き込まれ、さらに転ぶ。


 残りの二人は慌てて足を止めたが、今度は足首に蔓が絡んだ。


「なんだこれは!」


「魔法か!?」


「違う。足元を見ろ!」


 兵士たちは剣を振り、蔓を切ろうとする。


 だが、蔓は絡みついているだけで、締め上げてはいない。


 切ろうとすれば、足を取られて体勢を崩す。


 抜けようとすれば、苔で滑る。


 なかなかよくできた拘束だ。


 俺の力というより、森の現場対応力が高い。


「落ち着いてくれ」


 俺は両手を上げた。


「こっちは戦う気はない。話を聞きたいだけだ」


「ふざけるな!」


 隊長らしき男が叫ぶ。


 年齢は三十代後半くらい。


 濃い茶色の髪を短く刈り、左頬に古い傷がある。


 鎧の胸には王国の紋章。


 腰の剣だけでなく、背中には小型の弩も背負っている。


 見るからに現場慣れしている兵士だ。


「貴様、境界杭を抜いたな!」


「抜いた」


「認めるのか!」


「森に刺さっていた。毒を垂れ流していた。近くで小さな魔物が倒れていた。だから抜いた」


「境界杭は王国の重要設備だ! 勝手に触れることは重罪だぞ!」


「重罪ね」


 俺は背負っていた黒い杭を地面に下ろした。


 布を開き、王国の紋章と魔法文字を見せる。


「なら聞くが、この杭が死の森に毒を流していたことも、王国の命令か?」


 兵士たちの表情が変わった。


 全員ではない。


 隊長と、奥にいる痩せた兵士は表情を動かさなかった。


 だが、若い兵士が二人、明らかに動揺した。


「毒……?」


「おい、黙れ」


 隊長が低く言う。


 なるほど。


 全員が事情を知っているわけではないらしい。


 俺は内心で状況を整理する。


 隊長は知っている。


 痩せた兵士も知っている可能性が高い。


 若い二人は知らない。


 もう一人、転んだまま黙っている兵士は判断保留。


 無理に追い詰めるより、情報を引き出すなら若い兵士を揺らす方がいい。


 前世でもそうだった。


 隠しごとがある会議では、決裁者より先に、事情を知らされていない担当者の顔を見る。


 そこに一番正直な反応が出る。


「この杭の魔法文字、読める人はいるか?」


 俺は黒い杭を指差した。


「境界固定、魔力圧、排出、蓄積。俺は専門家じゃないが、少なくとも森を守るための杭には見えない。王国側の汚れを、森に流し込むための排出口だ」


「黙れ!」


 隊長が剣を構え直す。


 だが、足首の蔓がそれを許さない。


 ほんの少し体を動かしただけで、苔の上で靴底が滑った。


 隊長は舌打ちする。


「貴様、魔族の手先か」


「違う」


「なら、なぜ死の森を庇う」


「痛がっていたからだ」


 俺がそう答えると、兵士たちは一瞬黙った。


 まあ、そうなるだろう。


 普通の人間は森が痛がるなんて言われても困る。


 だが、嘘をついても仕方ない。


「俺はテイマーだ。魔物を従えるのは下手だけど、森や生き物の声は少し聞ける。あの杭の周りでは木も魔物も苦しんでいた。抜いた理由はそれだけだ」


「森の声だと? 馬鹿なことを」


 痩せた兵士が鼻で笑った。


「死の森は人間を食う魔境だぞ。声があるとすれば、それは呪いの声だ」


「そうかもしれないな」


 俺は頷いた。


「でも、その呪いを濃くしているのが王国の杭なら、話は変わる」


 若い兵士の一人が、小さく隊長を見た。


「隊長……この杭、本当に浄化杭なんですよね?」


「余計なことを聞くな」


「ですが、我々は国境の瘴気を封じる任務だと――」


「黙れと言った!」


 隊長の怒声が森に響いた。


 その瞬間、森の空気が冷えた。


 枝の上にいた鳥たちが一斉に首を傾ける。


 草むらの虫が動きを止める。


 ポルが俺の肩でぷるぷる震えた。


 森が怒っている。


 俺に向けた怒りではない。


 声を荒げ、恐怖で仲間を黙らせようとした隊長に反応している。


「森、まだだ」


 俺は静かに言った。


「脅すだけでいい」


 ざわり。


 背後の木々が揺れる。


 兵士たちの後ろの道が、ゆっくり閉じていく。


 太い根が盛り上がり、枝が絡み、さっきまであった道が消えた。


 兵士たちの顔から血の気が引く。


「……何をした」


「道を閉じてもらった」


「貴様……!」


「念のため言っておく。俺はあんたたちを殺したくない。森にも殺さないよう頼んである」


 俺は隊長をまっすぐ見た。


「でも、森を傷つけるなら止める。俺に剣を向けるだけならまだいい。木を焼く、毒を撒く、杭をまた刺す。そういうことをするなら、ここはあんたたちにとって敵地になる」


 言葉に合わせるように、木々の奥で低い咆哮が響いた。


 大型魔獣の声。


 いや、正確には森がいくつもの音を組み合わせて作った威嚇音だ。


 葉擦れ。


 木の軋み。


 岩のひび割れ。


 獣の唸り。


 それらが混ざり、一頭の巨大な魔物が森の奥で目覚めたように聞こえる。


 兵士たちの喉が鳴った。


 戦場慣れしている隊長でさえ、一歩も動けない。


「ここから先は、森の管理区域だ」


 俺は言った。


「許可なく荒らされると困る」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 森の管理区域。


 まるで役所の看板みたいな言い方だ。


 ただ、不思議としっくりきた。


 俺は王でも勇者でもない。


 森を支配しているわけでもない。


 ただ、森の声を聞き、状況を整理し、問題を一つずつ片づける。


 管理担当。


 そのくらいが俺にはちょうどいい。


「……貴様が何者かは知らん」


 隊長は低く言った。


「だが、その杭を持ち去ることは許されない。境界杭は王国の所有物だ」


「所有物ね」


「返せ」


「返したら、また刺すのか?」


 隊長は答えなかった。


 答えないことが答えだった。


「じゃあ返せない」


「王国に逆らうつもりか」


「森に毒を流す道具を返さないだけだ。国に逆らうとか、そんな大きい話にするつもりはない」


「十分大きい話だ!」


 隊長は怒鳴った。


「この森が国境を越えて広がれば、近隣の村が飲まれる! 魔物が増え、交易路が閉ざされ、王国の北部は孤立する! 我々はそれを防いでいる!」


「本当に防いでるのか?」


 俺は黒い杭の根元を指差した。


「この杭のせいで、周囲の木は腐っていた。魔物も弱っていた。森の瘴気は濃くなっていた。あんたたちは火事を消すと言いながら、油を流しているように見える」


「素人が知った口を!」


「素人だから現場を見るんだよ」


 俺の声が少し強くなった。


「俺は専門家じゃない。だから決めつけない。杭の周りを見た。毒の流れを確認した。生き物への影響を見た。その上で、これは森を悪化させていると判断した」


 前世で何度も見た。


 現場を見ない上層部。


 報告書の数字だけで判断する会議。


 問題を隠すために、さらに問題を重ねる人たち。


 そういうものに、俺は何度も振り回された。


 だからこそ分かる。


 この杭は、現場のための道具ではない。


 誰かの都合を守るための道具だ。


「隊長さん」


 俺は言った。


「あんたは、この杭が何をしているか知っていたのか?」


「……」


「知っていて守っていたのか。それとも知らずに守らされていたのか」


「黙れ」


「大事なことだ。知らなかったなら、今から確認できる。知っていたなら、あんたは森に毒を流した側だ」


 隊長の目が鋭くなる。


「貴様に何が分かる」


「分からないから聞いてる」


 俺は一歩だけ近づいた。


 兵士たちが身構える。


 俺は両手を見せたまま止まった。


「この森を放っておけば、近隣の村が危ない。それは分かる。でも、森を苦しめるやり方を続ければ、森はもっと暴れる。結果的に村も危ない。なら、やり方を変えるべきだ」


「変えられるものなら、とっくに変えている!」


 隊長が叫んだ。


 その声には怒りだけではなく、焦りがあった。


「浄化魔法は効かない! 聖水を撒いても三日で濁る! 結界を張れば内側から破られる! 調査隊は何度も死んだ! 魔術師も聖職者も匙を投げた! だから境界杭で押しとどめているんだ!」


「押しとどめているんじゃない。押しつけているだけだ」


「ではどうしろと言う!」


 隊長の声が森に響く。


「お前がこの森を救えるとでも言うのか!」


 俺はすぐには答えなかった。


 ここで「救える」と言えば気持ちいいかもしれない。


 だが、それは嘘だ。


 俺はまだ黒い杭を一本抜いただけだ。


 森全体がどれほど傷ついているのかも分かっていない。


 王国側の事情も、村の被害も、国境の仕組みも知らない。


 だから、俺は正直に言った。


「今すぐ全部は無理だ」


 兵士たちの表情がわずかに変わる。


「でも、杭を一本抜いたら、その周囲の汚染は少し下がった。灰根ウサギも助かった。森の浅層部も落ち着いた。つまり、少なくとも悪化を止める方法はある」


「……」


「俺は大口を叩くつもりはない。まず調べる。原因を分ける。杭の位置を確認する。毒の流れを見る。村への影響も聞く。その上で、できることからやる」


 隊長は黙った。


 若い兵士たちも黙っている。


 森も静かだった。


「俺は王様になりたいわけじゃない。勇者になりたいわけでもない」


 俺はゆっくり続けた。


「ただ、俺の周りくらいは、ちゃんと息ができる場所にしたい。それだけだ」


 ポルが肩の上で、小さく跳ねた。


 森が静かに息を吐く。


 そのざわめきは、さっきまでの威嚇とは違っていた。


 温かい。


 少しだけ誇らしげな音だった。


「……隊長」


 若い兵士の一人が、おそるおそる口を開いた。


「この者の話、一度砦に報告してもよいのでは」


「黙っていろ」


「しかし、杭の異常だけでなく、森の反応も明らかに通常と違います。無理に捕縛して刺激するより――」


「黙れと言ったはずだ!」


 隊長が振り返った。


 その瞬間だった。


 痩せた兵士が、背中の弩に手を伸ばした。


 狙いは俺ではない。


 俺の肩にいるポル。


 小さなスライムを撃ち抜けば、俺と森の接続が乱れる。


 そう判断したのかもしれない。


 判断としては悪くない。


 だが、森の中では遅い。


「ポル!」


 俺が叫ぶより早く、国境標が動いた。


 たき火の向こう、半分土に埋もれていた古い石柱。


 王国と魔族領の境目を示す国境標。


 それが、こつん、と地面を叩いた。


 次の瞬間、痩せた兵士の足元に白い線が走る。


 地面に刻まれた境界線。


 兵士の体が、見えない壁に弾かれるように後ろへ転がった。


「ぐあっ!?」


 弩が手から離れ、地面に落ちる。


 全員の視線が国境標に向いた。


 俺も見た。


 国境標は、また、こつんと地面を叩いた。


 まるで「やってやった」とでも言いたげに。


「……お前、動けたのか」


 俺が呟くと、国境標はわずかに震えた。


 嬉しそうだ。


 ポルも肩の上でぽよんぽよん跳ねている。


【境界存在との初期同調を確認】


【対象:旧国境標】


【状態:半覚醒】


【権能:線引き】


【境界線上における小規模な侵入拒否が可能です】


「線引き……」


 俺は思わず笑いそうになった。


 国境らしい能力だ。


 ただ、笑っている場合ではない。


 痩せた兵士が立ち上がり、顔を歪める。


「化け物め……!」


 今の言葉は、誰に向けたものだろう。


 俺か。


 ポルか。


 森か。


 それとも国境標か。


 どれにせよ、聞き流す気にはなれなかった。


「今、ポルを撃とうとしたな」


 俺は静かに言った。


「スライム一匹に何を」


「そのスライムは俺の仲間だ」


 声が、自分でも驚くほど冷たくなった。


 兵士たちが息を呑む。


「剣を向けられるのはいい。俺も黒い杭を抜いた立場だからな。でも、話している途中で仲間を撃とうとするなら、もう交渉相手としては扱えない」


 森がざわりと動いた。


 痩せた兵士の周囲から蔓が伸び、腕と足を拘束する。


 今度は先ほどより強い。


 骨を折るほどではないが、動けない程度には締めている。


「ぐっ、放せ!」


「殺しはしない。だが、その弩は預かる」


 足元の根が弩を拾い上げ、俺の近くへ運んできた。


 便利すぎる。


 あとで森にお礼を言わないといけない。


「隊長さん」


 俺は隊長を見た。


「今のはそっちの明確な敵対行動だ。それでもまだ、俺を捕まえるか?」


 隊長は歯を食いしばった。


 怒りと迷いが混ざっている。


 この男は悪人なのか。


 それとも、現場で追い詰められた兵士なのか。


 まだ分からない。


 ただ、一つ分かったことがある。


 痩せた兵士は危ない。


 あいつは話を聞く前に、こちらの弱点を撃とうとした。


 優先的に警戒するべき相手だ。


「……貴様の要求は何だ」


 隊長が低く尋ねた。


「要求?」


「我々を拘束し、杭を奪い、森を操っている。目的があるのだろう」


「操ってるわけじゃない。協力してもらってる」


「言い方などどうでもいい」


「俺の要求は三つ」


 俺は指を三本立てた。


「一つ。今日はこのまま帰ること。負傷者がいるなら、南の獣道を通れば森の外へ出られる」


 若い兵士が驚いた顔をする。


 逃がすと思っていなかったのだろう。


「二つ。黒い杭を追加で刺さないこと。少なくとも俺が確認するまで、この浅層外縁部には手を出さないでくれ」


「そんな権限は俺にはない」


「なら、権限のある人間に伝えてくれ」


 俺は黒い杭を持ち上げた。


「三つ。この杭について知っている情報を出すこと。設置場所、数、管理者、目的。全部とは言わない。今日話せる範囲でいい」


「貴様に渡す情報などない」


「じゃあ、次に会う時は森も俺も、あんたたちを杭の設置者として扱う」


 隊長の眉が動く。


「脅しか」


「線引きだ」


 俺は国境標をちらりと見た。


「俺も森も、無条件では譲らない。だけど、そっちが話し合う気があるなら、こちらも話す。単純な話だ」


 国境標が、こつんと地面を叩いた。


 同意しているらしい。


 隊長は長く沈黙した。


 やがて、低い声で言う。


「……境界杭は全部で十二本ある」


 若い兵士たちが驚いて隊長を見た。


「隊長!」


「黙れ」


 隊長は俺だけを見ていた。


「この近辺に三本。森の東側に四本。北の旧砦周辺に五本。設置を命じたのは北部辺境管理局だ。目的は、死の森の拡大を防ぐこと。それ以上は知らん」


「排出機能については?」


「……知らん」


 嘘か本当か。


 判断は難しい。


 だが、森から強い怒りは流れてこなかった。


 少なくとも完全な嘘ではないのかもしれない。


「管理局の責任者は?」


「グレイン子爵。北部国境保全官だ」


 知らない名前だ。


 だが、覚えておく。


 俺は短剣の鞘で地面に簡単な配置図を描いた。


「この辺りの三本の位置、分かるか?」


 隊長は答えなかった。


 代わりに、若い兵士がためらいながら言った。


「一本は、あなたが抜いたもの。もう一本は東の沢沿い。最後の一本は、旧国境道の分岐点付近です」


「おい!」


 痩せた兵士が叫ぶ。


 若い兵士は怯えたが、それでも口を閉じなかった。


「我々は浄化杭だと聞かされていました。もし本当に毒を流しているなら、確認すべきです」


 いい兵士だ。


 少なくとも、自分の目で見ようとしている。


 俺は頷いた。


「助かる。名前は?」


「エルドです」


「ありがとう、エルド」


 若い兵士――エルドは、少しだけ目を見開いた。


 たぶん、敵として扱われると思っていたのだろう。


 俺は地面の図に印をつける。


 東の沢沿い。


 旧国境道の分岐点。


 これで次の目標は決まった。


「約束通り、道を開ける」


 俺が森に頼むと、兵士たちの後ろで木々が左右に分かれた。


 南へ続く細い獣道。


 ただし、奥へ進む道は閉じたままだ。


「帰れるのか……?」


 転んでいた兵士が呟く。


「帰れる。ただ、道から外れない方がいい。森はまだあんたたちを警戒してる」


「俺たちを逃がすのか」


 隊長が言った。


「今はな」


「後悔するぞ」


「そうかもしれない。でも、ここで殺した方がたぶん後悔する」


 俺は隊長を見た。


「それに、帰って伝える人間が必要だろ。死の森に、話が通じる相手がいるって」


 隊長は何も言わなかった。


 ただ、部下たちに目配せする。


 森の蔓がゆっくりほどけた。


 痩せた兵士だけは最後まで拘束を解かず、弩も返さなかった。


「その人は、森の外まで縛ったままでいいか?」


「……構わん」


「おい、隊長!」


「黙れ。お前が先に撃とうとした」


 痩せた兵士は悔しそうに俺を睨んだ。


 俺は視線を逸らさない。


「次にポルを狙ったら、森に任せる」


 痩せた兵士の顔が青ざめた。


 脅しではない。


 本気だ。


 俺は敵に甘すぎるつもりはない。


 話をする相手と、仲間を傷つけようとする相手は別だ。


 兵士たちは、南の獣道へ向かって歩き始めた。


 エルドだけが一度振り返る。


「あの」


「何だ?」


「灰根ウサギを助けたというのは、本当ですか?」


「ああ。三匹いる」


 岩陰から、灰根ウサギたちがそっと顔を出した。


 エルドは驚いたように目を丸くした。


「死の森の魔物が、人間の近くに……」


「敵意を向けなければ、相手も敵とは限らないらしい」


 エルドは何か言いたそうにしたが、隊長に呼ばれて頭を下げた。


「お気をつけて」


「そっちも。ミレーユ……じゃなくて、回復役がいないなら、足元には気をつけた方がいい」


 エルドは小さく笑った。


 そして、兵士たちは森の外へ去っていった。


 木々が道を閉じる。


 足音が遠ざかる。


 やがて、森に静けさが戻った。


「……疲れた」


 俺はその場に座り込んだ。


 戦っていないのに、体が重い。


 人間相手の交渉は、魔物より疲れる。


 ポルが肩から降り、俺の膝に乗った。


「お前、狙われたな。怖くなかったか?」


 ポルはぷるんと震える。


 少し怖かった。


 でも怒っている。


 そんな感じが伝わってきた。


「俺も怒った」


 俺はポルの頭らしき部分をそっと撫でる。


「次はもう少し守り方を考える。お前が俺と森をつないでくれてるなら、狙われる可能性は高い」


 ポルはぽよんと跳ねた。


 任せろ、と言っている気がする。


 頼もしいが、無理はさせたくない。


 国境標が、こつんと地面を叩いた。


 俺はそちらを見る。


「お前も助かった。ありがとう」


 こつん、こつん。


 国境標は嬉しそうに揺れた。


「線引き、か。便利だったな」


 こつん。


「ただ、勝手に飛び出すと危ないから、次からは俺が合図する。できるか?」


 国境標は一瞬止まり、それから小さく震えた。


 少し不満そうだ。


「拗ねるな。連携の話だ」


 こつん。


 納得したらしい。


 森が楽しそうにざわめく。


 ポルが跳ねる。


 灰根ウサギたちが苔を食べながら耳を揺らす。


 変な仲間が増えてきた。


 でも、悪くない。


【旧国境標との親和度が上昇しました】


【仮称登録が可能です】


「仮称?」


 表示を見る。


 どうやら名前をつけられるらしい。


 スライムのポルと同じか。


 俺は国境標を見た。


 古びた石柱。


 半分埋まり、苔がつき、王国と魔族領の境目を黙って示し続けてきた存在。


 今はなぜか俺の指示を待っている。


「国境標って呼び続けるのも長いな」


 こつん。


「ボーダー……いや、さすがにそのまますぎるか」


 国境標が少し期待するように震える。


「じゃあ、キョロ」


 こつん?


「国境のキョウから、キョロ。あと、お前さっきから周りをきょろきょろ見てる感じがするし」


 国境標は沈黙した。


 やばい。


 気に入らなかったか。


 そう思った次の瞬間、国境標――キョロは、こつんこつんこつんと連続で地面を叩いた。


 森が笑うようにざわめく。


 ポルもぽよんぽよん跳ねる。


 気に入ったらしい。


【旧国境標の仮称を「キョロ」として登録しました】


【キョロとの簡易対話が可能になります】


 表示が浮かぶ。


 同時に、頭の奥にかすかな感情が流れ込んできた。


 うれしい。


 まもる。


 ここ。


 ここから。


 ここまで。


 線。


 俺は少し目を細めた。


 言葉としてはまだ幼い。


 だが、意味は分かる。


 キョロは境界を守る存在だ。


 誰かを排除するためではなく、ここからここまでを示すために立っている。


 なのに王国は、その境界を使って森に毒を流した。


 キョロもまた、森と同じように苦しんでいたのかもしれない。


「大丈夫だ」


 俺はキョロに言った。


「お前の線を、ゴミ捨て場の管にはさせない」


 こつん。


 キョロは静かに地面を叩いた。


 その音は、さっきまでよりずっと落ち着いていた。


 夜は深くなっていた。


 兵士たちは去った。


 黒い杭の情報も少し手に入った。


 次の目標は、東の沢沿いと旧国境道の分岐点にある二本の杭。


 だが、今すぐ動くのは無理だ。


 体力も魔力も減っている。


 判断力が落ちた状態で森を歩けば、味方の森の中でも事故は起きる。


「今日は休む」


 俺が宣言すると、森から同意の気配が返ってきた。


 火を小さく保ち、周囲の枯れ葉をもう一度どける。


 寝床には柔らかい苔が集まっていた。


 誰かが用意してくれたらしい。


 たぶん森だ。


「ありがとう。助かる」


 ざわり。


 森が嬉しそうに揺れる。


 俺は横になり、空を見上げた。


 木々の隙間から、わずかに星が見える。


 勇者パーティーにいた頃は、夜営中も気を張り続けていた。


 誰が見張りをするか。


 水は足りるか。


 リリアが寒がっていないか。


 ガルドが酒を飲みすぎていないか。


 ミレーユの疲労が残っていないか。


 アランが無理な進軍を言い出さないか。


 考えることばかりだった。


 今も考えることは多い。


 森の汚染。


 黒い杭。


 王国兵。


 グレイン子爵。


 勇者パーティー。


 国境標のキョロ。


 明日やることは山ほどある。


 それでも、息苦しさはなかった。


 ここでは、俺の仕事を誰も雑用とは呼ばない。


 森も、ポルも、キョロも、灰根ウサギたちも。


 俺の小さな確認や調整に、ちゃんと意味があると分かってくれる。


 それだけで、ずいぶん違う。


 目を閉じようとした時、森の外縁からかすかな気配が届いた。


 兵士たちではない。


 勇者パーティーでもない。


 もっと小さい。


 複数の人間。


 疲れていて、怯えている。


 子ども?


 いや、村人か。


 頭の中に、鳥の視界が流れ込んでくる。


 森の南側。


 古い柵の近く。


 粗末な服を着た少女が一人、森の入口で膝をついていた。


 その後ろには、荷車。


 荷車の上には、苦しそうに横たわる老人。


 少女は泣きながら、森に向かって何かを祈っている。


 声は聞こえない。


 だが、森がその願いを俺に届けてきた。


 ――薬草をください。


 ――おじいちゃんを助けてください。


 ――死の森さま。


 俺はゆっくり目を開けた。


「……死の森さま?」


 どうやらこの森は、人間全員から嫌われているわけではないらしい。


 ポルが俺の胸元で震える。


 キョロが、こつんと地面を叩く。


 森が静かに問いかけてくる。


 どうする?


 俺は上体を起こした。


 疲れている。


 正直、今すぐ寝たい。


 だが、目の前で助けを求める声を聞いてしまった。


 無視して眠れるほど、俺は器用じゃない。


「場所を教えてくれ」


 俺がそう言うと、森が南へ向かう細い道を開いた。


 ただし、今度の道はさっきまでよりずっと柔らかい。


 警戒ではなく、案内。


 少女を怖がらせないための道。


 俺は短剣を腰に差し、ポルを肩に乗せる。


 キョロはその場でこつんと鳴った。


「お前は留守番だ。ここを頼む」


 こつん。


 今度は素直に頷いた。


 俺は森の南側へ向かって歩き出す。


 勇者パーティーに追放され、兵士に捕まりかけ、黒い杭を抜き、国境標に名前をつけた。


 どう考えても濃すぎる一日だ。


 だが、どうやらまだ終わらないらしい。


 森の入口で祈る少女。


 死の森を「さま」と呼ぶ村人。


 そして、病に苦しむ老人。


 俺の新しい職場には、今日も依頼が舞い込んでくる。


「残業代、出るかな」


 冗談半分で呟くと、森がくすくす笑うように揺れた。


 たぶん出ない。


 でもまあ、悪くない。


 俺は少しだけ笑い、死の森の暗い道を南へ進んだ。


ここまで読んでいただきありがとうございます!


今回は、レオスが死の森の中で初めて王国兵と対峙する回でした。


ただ力で倒すのではなく、森やポル、そして国境標のキョロと協力しながら「線引き」をする。

レオスらしい戦い方が少しずつ形になってきたかなと思います。


そして、国境標にも名前がつきました。

まさかのキョロです。

国境なのにちょっと犬っぽいです。


次回は、死の森を「さま」と呼ぶ少女と、森の近くで暮らす村人たちの話になる予定です。

この森が人間にとって本当にただの魔境なのか、それとも別の顔を持っているのか、少しずつ見えてきます。


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