第2話 森の痛みと黒い杭
前回のあらすじ
勇者パーティーから無能テイマーとして追放されたレオス。
しかし彼の本当の力は、魔物一匹を支配するものではなく、生態系そのものの声を聞き、共生する力だった。
死の森と契約したレオスは、森を苦しめる「黒い杭」の存在を知る。
死の森が、俺のために道を開けている。
黒い木々が左右に分かれ、足元には濡れた土の道が一本だけ続いていた。
普通なら絶対に入りたくない光景だ。
左右は暗い。
奥はもっと暗い。
枝は獣の爪みたいに曲がっているし、草むらの奥からは時々、何かの目が光る。
だが、不思議と怖くはなかった。
森が俺を食べようとしている気配はない。
むしろ、迷わないように手を引いてくれている。
そう感じる。
「よし、行くか」
俺は一歩踏み出そうとして、すぐに足を止めた。
「……いや、待て」
肩に乗っていたスライム――ポルが、ぷるんと震えた。
「勢いで奥に行くところだった。危ない危ない」
前世で上司がよく言っていた。
トラブル対応で一番危ないのは、現場を見ずに気合いで突っ込む奴だ、と。
俺はその上司のことが好きではなかったが、その言葉だけは正しかった。
特にここは死の森だ。
いくら森が味方になったとはいえ、俺自身はただのテイマーである。
剣は弱い。
魔法もほぼ使えない。
体力も普通。
森の力を借りられると分かった直後だからこそ、調子に乗るのが一番まずい。
「まず確認だ」
俺はその場にしゃがみ、地面に短剣の鞘で簡単な図を描いた。
「現在地は森の浅層部。目的地は黒い杭。やることは現場確認。抜けるなら抜く。無理なら撤退。ここまではいい」
ポルがぽよんと跳ねる。
森の葉も、ざわりと揺れた。
聞いているらしい。
「次に、退路。俺が倒れた場合、南側へ逃がしてほしい。できればさっきの森の入口まで」
ざわり。
足元の苔がゆっくり動き、南へ続く細い緑の線を作った。
どうやら退路を示してくれているようだ。
「便利だな……」
思わず声が漏れた。
地図アプリより親切かもしれない。
「水は?」
俺が聞くと、少し先の木の根元から透明な水滴がぽたりと落ちた。
ただ、同時に頭の奥へ苦い感覚が流れ込む。
飲める。
でも少し瘴気が混じっている。
大量に飲むのは危険。
そんな感じだ。
「了解。今は飲まない」
俺は水筒の残量を確認した。
まだ半分以上ある。
無駄遣いしなければ問題ない。
「次、黒い杭の周辺に魔物は?」
問いかけた瞬間、頭の中にいくつもの気配が浮かんだ。
小型の獣。
虫。
鳥。
それから、弱った魔物の反応が三つ。
敵意は薄い。
苦しんでいる。
「……先にそっちだな」
俺は立ち上がった。
森の痛みを取る。
大きく言えばそういう話だが、実際にやることは目の前の困りごとを一つずつ潰すことだ。
いきなり森全体を救うなんて無理だ。
まずは一か所。
一匹。
一本の杭。
それでいい。
「案内頼む」
俺がそう言うと、森が静かに道を伸ばした。
しばらく歩くと、森の空気が変わった。
湿った土と草の匂いに、鉄と薬品のような臭いが混じる。
鼻の奥がつんと痛んだ。
ポルが肩の上で小さく震える。
「大丈夫か?」
ポルは、ぷるぷると震えながらも俺の首元にくっついてきた。
大丈夫、と言いたいらしい。
無理はさせたくない。
だが、ポルを通すと森の声がかなり分かりやすくなる。
この小さなスライムは、俺と森をつなぐ通訳のような存在なのかもしれない。
「きつくなったらすぐ言えよ」
ポルがぽよんと跳ねた。
さらに進むと、木々の色が変わり始めた。
黒い森の中でも、そこだけは明らかに悪い。
葉は紫に変色し、幹にはひびが入っている。
地面の草は溶けたように倒れ、虫の気配も少ない。
森全体が、そこだけ息を止めているようだった。
「これは……ひどいな」
視界の先に、それはあった。
黒い杭。
人の背丈ほどの金属杭が、地面に深く打ち込まれている。
表面には王国の紋章。
その下に、細かな魔法文字が刻まれていた。
杭の根元からは紫色の液体がにじみ出し、地面へ染み込んでいる。
周囲の根が腐っていた。
木々が苦しむ声がする。
痛い。
熱い。
抜いて。
抜けない。
助けて。
俺は奥歯を噛んだ。
「誰がこんなものを……」
魔族の仕業なら、まだ分かる。
いや、許せるわけではないが、理屈としては分かる。
敵国の森を汚染する。
国境地帯を荒らす。
そういう戦略だと言われれば納得はできる。
だが、杭に刻まれているのは王国の紋章だ。
俺が所属していた側。
勇者を送り出した側。
人間を守ると掲げている国の印。
「表向きは、死の森を封じるための杭ってところか」
俺は杭の周囲を観察した。
「でも実際は逆だな。森を封じているんじゃない。森を汚して、暴れさせている」
そう考えると、いくつか辻褄が合う。
死の森は年々広がっていると聞いた。
魔物が凶暴化し、瘴気が濃くなっているとも。
だが、それが森自身の意思ではなく、この杭の毒によるものだとしたら。
森は侵略しているのではない。
苦しんで暴れているだけだ。
怪我をした獣が、痛みで周囲に噛みつくように。
「胸くそ悪いな」
俺は杭へ近づこうとして、すぐに足を止めた。
周囲の土がぬかるんでいる。
紫色の毒が染み込んでいるのだろう。
素足どころか、靴越しでも危ないかもしれない。
無理に近づけば俺も汚染される。
「近づく前に、足場を作れるか?」
森に問いかける。
少し沈黙があった。
それから、周囲の木々から乾いた枝が落ちた。
倒れていた根がゆっくり持ち上がり、毒の染みていない場所だけを選ぶように橋を作る。
まるで森が、自分の傷口を避ける歩き方を教えてくれているみたいだった。
「ありがとう」
俺は枝と根の足場に乗り、慎重に杭へ近づいた。
その時、か細い鳴き声が聞こえた。
杭の裏側。
腐った根の間に、小さな獣が倒れている。
灰色の毛。
長い耳。
額に小さな葉のような角。
「ウサギ……いや、魔物か?」
【灰根ウサギ】
【状態:衰弱】
【原因:汚染された根を摂取】
【敵意:なし】
表示が出た。
灰根ウサギは、森の根や苔を食べて暮らす小型魔物だ。
戦闘力はほとんどない。
薬草の生える場所を好むため、冒険者からは見つけると縁起がいい魔物として扱われる。
その灰根ウサギが三匹、杭の近くで倒れていた。
体が紫に変色している。
「ポル、手伝えるか?」
肩のポルが、ぷるんと震えた。
「無理はするな。毒を全部吸えって話じゃない。ウサギの口元だけでいい。水分を薄められるか?」
ポルは俺の肩から降り、ぴょんと跳ねた。
灰根ウサギのそばへ移動し、体を薄く広げる。
スライムの体が、汚染された水分を少しだけ吸い取っていく。
ただ、ポルの体にも紫の筋が走った。
「そこまででいい!」
俺は慌ててポルを抱き上げた。
ポルは少しぐったりしている。
やはり毒を処理するには負担が大きい。
「悪い。助かった」
俺は水筒の水を布に含ませ、灰根ウサギの口元を拭いた。
次に、荷物から薬草を取り出す。
解毒作用のある月白草。
ミレーユがよく回復薬に混ぜていたものだ。
勇者パーティーから精算して持ってきた三割の薬草。
さっそく役に立った。
「食べられるか?」
細かくちぎって差し出すと、灰根ウサギの一匹が弱々しく口を動かした。
残り二匹にも少しずつ与える。
すぐに元気になるわけではないだろう。
だが、呼吸は少し落ち着いた。
森から、ほっとするような感情が流れてきた。
「先に命が助かる方からだ」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
「杭はその後」
ざわり、と森が揺れた。
感謝。
安心。
それから、申し訳なさ。
そんな感情が混ざっている。
「謝らなくていい。俺がそうしたいだけだ」
前世でも、似たようなことがあった。
大きなトラブルの原因を探す前に、まず倒れそうな新人を帰らせた。
上司には、優先順位が違うと怒られた。
でも、その新人が倒れていたら、もっと大きな問題になっていた。
目の前で倒れているものを無視して、世界を救う話なんてできない。
少なくとも俺は、そういうやり方しかできない。
灰根ウサギを安全な場所へ移した後、俺は改めて黒い杭を見た。
「さて、本題だ」
杭にはいくつもの魔法文字が刻まれている。
俺は魔術師ではないが、旅の間に最低限の魔法文字は覚えた。
読める部分だけ拾っていく。
「境界……固定……排出……蓄積……魔力圧……」
完全には分からない。
だが、仕組みは何となく見えた。
この杭は、国境を固定するためのものだ。
王国側の領域を守る結界杭。
表向きはそうだろう。
しかし実際には、王国側に溜まった瘴気や汚染魔力を、森の内側へ流し込む排出口になっている。
つまり、王国側を綺麗にするために、死の森へ汚れを押しつけている。
「ゴミ捨て場扱いかよ」
俺は低く呟いた。
死の森は、最初から呪われていたわけではないのかもしれない。
誰かが呪われた場所として扱い続けた結果、本当に呪われたようになってしまった。
胸の奥が熱くなる。
怒りだ。
だが、怒りで杭を引き抜くのはまずい。
たぶん罠がある。
王国の結界杭なら、勝手に抜かれないための防衛機能くらい当然ついている。
「森、この杭を無理に抜いたらどうなる?」
問いかけると、頭の中に映像が流れ込んできた。
杭を引き抜く。
溜まった毒が噴き出す。
周囲の根が焼ける。
俺も倒れる。
「だよな」
俺はため息をついた。
こういうのは大抵、力任せにやると悪化する。
なら、先に中身を抜く。
圧を下げる。
それから杭を外す。
配管の修理みたいなものだ。
「ポル、今度は毒を吸わなくていい。杭の表面だけ濡らせるか?」
ポルが少し復活した様子で、ぽよんと跳ねた。
俺は水筒の水を少しだけポルに含ませる。
ポルは薄く伸び、杭の下部にぴたりと張りついた。
水の膜ができる。
「森、毒を直接広げずに、あっちの枯れた根へ流せるか?」
俺は少し離れた場所にある、すでに死んでしまった太い根を指差した。
生きている根に流すより、死んだ根を使って毒を受け止める方が被害は少ないはずだ。
森は一瞬ためらった。
自分の死んだ部分に毒を流す。
痛みはないにしても、嫌な行為なのだろう。
「無理なら別の方法を考える」
俺が言うと、森は静かに応えた。
やる。
そんな意思が伝わってくる。
地面の下で、古い根がゆっくり動いた。
杭の根元から、死んだ根の方へ細い溝ができる。
「よし。次に、虫たちは離れてくれ。鳥も上へ。小型の魔物は風上へ移動」
森に頼むと、周囲の気配がすっと遠ざかった。
小さな命が避難していく。
現場確保完了。
次は圧抜きだ。
「杭の文字を一つ削る。たぶん排出量が変わる。何かおかしかったらすぐ止めてくれ」
俺は短剣を逆手に持ち、杭の下部に刻まれた魔法文字へ刃を当てた。
慎重に。
少しずつ。
文字の一画を削る。
次の瞬間、杭が震えた。
紫色の液体が根元から噴き出す。
「来た!」
液体は溝を通り、死んだ根へ流れ込む。
じゅう、と嫌な音がした。
煙が上がる。
鼻を刺す臭い。
目が痛い。
だが、毒は生きた根には広がっていない。
「そのまま、そのまま……!」
俺は布で口元を押さえながら見守る。
杭の震えが少しずつ弱まる。
流れ出す毒の量も減っていく。
やがて、ぽたり、ぽたりと垂れる程度になった。
【汚染魔力圧:低下】
【杭の防衛機能:一部停止】
【除去可能です】
「よし」
俺は杭に両手をかけた。
熱い。
手袋越しでも焼けるようだった。
だが、さっきよりはずっとましだ。
「森、根で押し上げられるか?」
足元の地面が揺れた。
杭の下で、木の根がゆっくり盛り上がる。
俺はタイミングを合わせて引く。
「せーの……!」
ずるり。
杭が少し抜けた。
その瞬間、杭の上部に刻まれた王国の紋章が赤く光る。
【警告】
【認可なき境界杭への干渉を確認】
【防衛術式を起動します】
「やっぱり来るか!」
杭の先端から赤い光が走った。
魔法攻撃。
俺の身体能力では避けきれない。
だが、森の方が早かった。
頭上の枝がしなり、分厚い樹皮が俺の前に落ちる。
赤い光が樹皮を焼いた。
焦げた匂い。
森が痛みに震える。
「悪い!」
俺は叫んだ。
謝っている場合ではない。
防衛術式が次を撃つ前に抜く。
「ポル!」
ポルが杭に張りつき、水の膜で魔法文字を覆う。
光が一瞬鈍る。
「森!」
地面の根が杭を押し上げる。
俺は全体重をかけて引いた。
「抜けろっ!」
ずぼん、と杭が抜けた。
同時に、杭の根元から最後の毒が噴き出す。
だが、それはすぐに待機していた死んだ根へ吸い込まれた。
黒い杭は俺の手の中で震え、やがて光を失った。
森が静まり返る。
数秒。
いや、もっと長く感じた。
やがて、杭が刺さっていた穴から、澄んだ水が一滴だけ湧いた。
ぽたり。
腐った土に落ちる。
その瞬間、周囲の木々が一斉に息を吐いたように揺れた。
葉の色が、ほんの少しだけ戻る。
紫に染まっていた草の先に、淡い緑が差した。
灰根ウサギの一匹が、弱々しく耳を動かす。
ポルが俺の足元で跳ねた。
【森の痛みを一つ取り除きました】
【死の森・浅層部の汚染が一部低下】
【契約領域が拡張されます】
【契約領域:死の森・浅層部から浅層外縁部へ】
【生態系テイマー権限:小規模浄化路の形成が解放されました】
表示が浮かぶ。
俺はその場に座り込んだ。
足に力が入らない。
怖かった。
正直、かなり怖かった。
でも、それ以上に胸が熱かった。
「……できた」
思わず呟いた。
俺にもできた。
魔物を命令で戦わせることはできなかった。
勇者のように魔王を斬ることもできない。
だが、森の痛みを一つ取り除くことはできた。
それは俺にとって、どんな魔物を従えるよりも大きなことに思えた。
ポルが俺の膝に乗ってくる。
灰根ウサギたちも、よろよろと近づいてきた。
三匹のうち一匹が、俺の靴に鼻を押しつける。
「礼を言うのはこっちだよ」
俺は灰根ウサギの頭をそっと撫でた。
「よく生きてたな」
森が揺れる。
今度のざわめきは、さっきまでとは違っていた。
痛みだけではない。
喜び。
安堵。
そして、期待。
俺は少し苦笑した。
「そんなに期待されても困るんだが」
森は、ざわざわと楽しそうに鳴った。
いや、今のは完全に笑っている。
なんとなく分かる。
この森、思ったより感情が豊かだ。
黒い杭を布で包み、荷物に括りつけた。
危険物なので本当は持ち歩きたくない。
だが、証拠として必要になるかもしれない。
王国の紋章が刻まれた汚染杭。
これを見れば、死の森に起きていることがただの自然現象ではないと分かる。
問題は、誰に見せるかだ。
王国に持っていけば、握り潰される可能性がある。
勇者パーティーに見せても、今の段階では信じないだろう。
なら、まずはこの森の近くで暮らす人たち。
国境沿いの村か、砦の管理者。
そういう相手から情報を集めるべきだ。
「とはいえ、今日はもう無理だな」
俺は空を見上げた。
森の中なので分かりにくいが、かなり時間が経っている。
体力も魔力も削られた。
無理に動けば判断を間違える。
「野営場所を探そう。できれば水場から少し離れて、風通しがよくて、魔物の通り道じゃない場所」
俺がそう言うと、森がすぐに道を示した。
便利すぎる。
ただ、その便利さに甘えきるのは危ない。
「一応、自分でも確認する。案内は頼むけど、最終判断は俺がする」
森が少し嬉しそうに揺れた。
たぶん、ただ命令されるより、そういう関係の方がいいのだろう。
支配ではなく共生。
この力の使い方が、少しだけ分かってきた気がする。
歩き出そうとした時、頭の奥に別の映像が流れ込んできた。
森の外縁部。
南へ向かう獣道。
そこを、泥だらけの勇者パーティーが歩いている。
アランは苛立った顔で何かを叫んでいた。
ガルドは足を引きずっている。
リリアはローブを花粉まみれにし、ミレーユは青い顔で回復魔法をかけていた。
どうやら無事に森の外へ出たらしい。
「生きてるならいい」
俺はそれだけ言った。
助けに行く気はない。
謝らせるために追いかける気もない。
俺には俺の仕事ができた。
勇者パーティーの世話係に戻るつもりはない。
その時、映像の中でアランが森を振り返った。
怒りと困惑が混ざった顔。
唇が動く。
音は聞こえない。
だが、何を言ったかは何となく分かった。
レオスのせいか。
俺は小さく息を吐いた。
「違うよ。俺がいなくなっただけだ」
それ以上、見るのをやめた。
森も、それ以上は映像を送ってこなかった。
気を遣ってくれたのかもしれない。
意外と優しい森である。
案内された野営地は、小さな窪地だった。
背後に大きな岩があり、風を防げる。
近くには細い水場があるが、直接隣接していない。
獣道からも外れている。
かなりいい場所だ。
俺が普段選んでいた条件とほとんど同じだった。
「合格」
そう言うと、森が少し誇らしげに揺れた。
「褒められて嬉しいのか?」
ざわざわ。
嬉しいらしい。
俺は笑いながら荷物を下ろした。
落ちている枝を集め、火を起こす。
火の扱いについては森に確認した。
乾いた枝だけ使う。
火の粉が飛ばないよう周囲の枯れ葉をどける。
終わったら完全に消す。
森はそれならいいと言ってくれた。
たき火のそばで保存食をかじる。
硬い。
味は薄い。
だが、今日の飯は妙にうまかった。
ポルには水を少し与えた。
灰根ウサギたちは近くの安全な苔を食べている。
どうやらそのままついてくる気らしい。
「お前たちも来るのか?」
三匹の灰根ウサギが、そろって耳を立てた。
森から感情が流れてくる。
見守りたい。
恩を返したい。
安全な根を教えたい。
「そうか。じゃあ、無理しない範囲で頼む」
俺がそう言うと、三匹は嬉しそうに苔の上を跳ねた。
従魔契約の表示は出ていない。
首輪もない。
命令権もない。
だが、それでいいと思った。
俺の力は、たぶん命令するためのものではない。
一緒にやるためのものだ。
火の向こうで、古い国境標が見えた。
王国と魔族領の境目を示す石柱。
森の中に半分埋もれている。
さっき見た時も少し動いていた気がするが、今はもっとはっきり分かる。
こつん。
こつん。
国境標が、地面を軽く叩いている。
犬が尻尾を振るみたいに。
「……だから、国境は生き物じゃないだろ」
俺が言うと、国境標はぴたりと止まった。
少し落ち込んだように見える。
「いや、落ち込むなよ」
こつん。
また動いた。
ポルが俺の膝の上で跳ねる。
灰根ウサギたちも耳を揺らす。
森は楽しそうにざわめいている。
どうやら俺は、死の森だけではなく、国境標にまで懐かれ始めているらしい。
【国境標があなたに興味を持っています】
【境界存在との親和性を確認】
【条件を満たすことで、国境線との対話が可能になります】
「対話するのか、国境と」
俺は額を押さえた。
とんでもない話だ。
だが、不思議と嫌ではない。
むしろ少し楽しみですらある。
森が喋る。
スライムが協力してくれる。
ウサギが案内してくれる。
国境標が拗ねる。
異世界は、俺が思っていたよりずっと変で、ずっと面白い。
「まあいい」
俺は保存食の残りを口に放り込んだ。
「話せるようになったら、その時はよろしく頼む。国境」
こつん、こつん。
国境標が嬉しそうに地面を叩いた。
その時だった。
森の外側から、別の気配が近づいてきた。
人間だ。
数は五人。
武装している。
足取りは荒い。
冒険者ではない。
兵士に近い。
俺はたき火の炎を小さくし、短剣に手を伸ばした。
森が警戒する。
ポルが俺の肩へ移動する。
灰根ウサギたちは岩陰に隠れた。
やがて、木々の隙間から声が聞こえた。
「おい、本当にこっちに反応があったのか?」
「ああ。境界杭の一つが停止した。誰かが抜いたんだ」
「死の森の中だぞ。魔族か?」
「分からん。だが、命令は出ている。杭に干渉した者は、発見次第捕縛。抵抗するなら処分だ」
俺はゆっくり息を吐いた。
なるほど。
黒い杭を抜けば、設置した側に気づかれる。
当然の話だ。
どうやら、この森の痛みを一つ取り除いた代わりに、新しい面倒ごとを呼び込んでしまったらしい。
兵士たちの足音が近づく。
森が俺に問いかけてくる。
隠すか。
迷わせるか。
追い払うか。
俺は短剣から手を離した。
戦えば負ける。
だが、ここはもう俺一人の場所ではない。
俺と森の職場だ。
「まずは話を聞く」
俺は小声で言った。
「でも、森を傷つけるなら止める」
木々が静かに揺れた。
了承。
そんな気配。
俺は立ち上がり、火の前に出た。
兵士たちが木々の間から姿を現す。
彼らは俺を見て、目を見開いた。
「人間……?」
そのうち一人が、俺の背中の黒い杭に気づいた。
表情が変わる。
「貴様、その杭をどこで手に入れた?」
俺は答えた。
「森に刺さっていた。痛がっていたから抜いた」
兵士たちの顔が、さらに険しくなる。
「捕らえろ」
先頭の兵士が剣を抜いた。
その瞬間、俺の背後で死の森がざわりと笑った。
そして足元の国境標が、こつん、と地面を叩いた。
まるで、俺にこう言っているみたいだった。
――ここから先は、こちら側だ。
俺は小さく笑った。
「悪いけど」
森の木々が、兵士たちの背後で静かに道を閉じる。
「ここ、俺の新しい職場なんだ」
たき火の火が揺れた。
死の森が、俺の言葉に応えるように息を潜める。
兵士たちはまだ知らない。
ここではもう、俺は無能テイマーではない。
この森の声を聞く、ただ一人の管理担当者だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
レオス、無能テイマー改め、森の管理担当者として初仕事でした。
黒い杭を抜いて一件落着……とはならず、今度は王国側の兵士たちが登場です。
どうやら死の森が苦しんでいる理由には、まだまだ裏がありそうです。
次回は、森の中でのレオスの力がもう少し分かる回になる予定です。
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