第4話 死の森さまと薬草の少女
前回のあらすじ
死の森を苦しめていた黒い杭を抜いたレオスは、王国兵たちと対峙する。
森やポル、国境標のキョロと協力し、兵士たちを殺さずに追い返したレオス。
その夜、森の入口で「死の森さま」に祈る少女の姿を見つける。
死の森の南側へ向かう道は、不思議なほど静かだった。
先ほどまで兵士たちを閉じ込めるように絡み合っていた枝は、今は穏やかに左右へ分かれている。
足元の苔は柔らかい。
草の葉は俺の足首を傷つけないように倒れている。
森が俺を急がせているのは分かった。
だが、慌てさせようとはしていない。
転ばないように。
迷わないように。
静かに背中を押してくれている。
「落ち着いてるな」
俺は小声で言った。
肩に乗ったポルが、ぷるんと震える。
どうやらポルも同意見らしい。
森の感情は、さっきまでとは少し違っていた。
兵士たちに向けた怒りでもない。
黒い杭を抜いた後の安堵でもない。
心配。
申し訳なさ。
そして、懐かしさ。
森の入口にいる少女に対して、死の森は明らかに敵意を持っていなかった。
「死の森さま、か」
俺はその呼び方を口にする。
王都で聞いた死の森の評判とは、まるで違う。
王都では、死の森は魔境だった。
魔族の瘴気に汚染された土地。
人間を食らう呪いの森。
冒険者が入れば二度と戻らない危険地帯。
地図でも黒く塗りつぶされ、近づくなと教えられる場所。
だが、その入口で少女は祈っていた。
助けを求めていた。
まるで、そこに恐ろしい魔物ではなく、昔からの守り神でもいるかのように。
「見えてきた」
木々の隙間から、淡い月明かりが差し込んだ。
森の入口。
そこに、少女がいた。
年は十歳くらいだろうか。
栗色の髪を三つ編みにして、粗末な布の服を着ている。
膝は泥で汚れ、手には小さな籠。
その後ろには古びた荷車があり、荷車の上に老人が横たわっていた。
老人は苦しそうに胸を上下させている。
呼吸が浅い。
顔色も悪い。
月明かりの下でも、唇が紫がかっているのが分かった。
少女は森の入口で両手を組み、震える声で祈っていた。
「死の森さま……お願いします。おじいちゃんを助けてください。お薬を、少しだけでいいんです。薬草をください……」
俺は足を止めた。
いきなり声をかければ驚かせる。
特に、ここは死の森の入口だ。
突然男が森の中から出てきたら、普通に怖い。
「森、少し明るくできるか? 驚かせない程度に」
ざわり。
頭上の枝が少し開き、月明かりが道に落ちた。
ついでに、俺の足元で小さな白い花がいくつか光った。
道案内の灯りのようだ。
「ありがとう」
俺は両手を見えるようにして、ゆっくり森の外縁へ出た。
「こんばんは」
少女がびくっと肩を震わせた。
こちらを振り向いた目は、大きく見開かれている。
「ひっ……!」
「大丈夫。驚かせてごめん。俺は人間だ」
「に、人間……?」
「ああ。少なくとも、今のところは」
冗談のつもりだったが、少女はさらに怯えた。
失敗した。
俺はすぐに言い直す。
「ごめん、変なことを言った。俺はレオス。森の中にいただけのテイマーだ」
「テイマー……?」
少女の視線が俺の肩へ向く。
ポルがぷるんと震えた。
少女は少しだけ目を丸くする。
「スライム……?」
「ポルだ。俺の仲間」
ポルがぽよんと跳ねる。
少女の表情から、少しだけ恐怖が薄れた。
スライムの見た目が丸くてよかった。
これが牙だらけの魔獣だったら、話を聞いてもらう前に逃げられていたと思う。
「君が、森に祈っていた子か?」
俺が聞くと、少女は慌てて荷車の前に立った。
老人を守ろうとしている。
小さな体で、震えながら。
「おじいちゃんを連れていかないでください!」
「連れていかない」
「本当ですか?」
「本当だ。助けられるかはまだ分からない。でも、まず状態を見たい」
少女は迷っていた。
当たり前だ。
知らない男に、病人の老人を見せろと言われている。
しかもその男は死の森から出てきた。
信用できる要素が少ない。
俺は少し考えて、腰の短剣を外した。
刃を鞘に入れたまま、地面に置く。
「武器はここに置く。近づいてもいいか?」
少女は俺と短剣を見比べた。
それから、荷車の上の老人を見た。
老人の呼吸は明らかに苦しそうだった。
迷っている時間はない。
少女は唇を噛み、小さく頷いた。
「……お願いします」
「任せろ、とはまだ言えない。でも、できるだけやる」
俺は荷車へ近づいた。
老人の年齢は六十代後半くらい。
頬はこけ、額には汗。
手足が冷えている。
喉の奥でぜいぜいと音がしていた。
毒か。
病か。
魔力酔いか。
俺は医者ではない。
回復魔法も使えない。
だからこそ、分かることから確認する。
「いつからこうなった?」
「三日前から咳が出て……昨日から熱が上がって、今日は息が苦しそうで……」
「水は飲めてる?」
「少しだけ」
「何か変なものを食べた?」
少女は首を振る。
「おじいちゃんは薬草採りです。変なものは食べません」
「最近、森に入った?」
「入っていません。兵士さんたちが、死の森には近づくなって……」
「兵士か」
俺は眉をひそめた。
「水はどこから?」
「村の井戸です。でも、最近少し苦いって、おじいちゃんが言ってました」
井戸。
苦い水。
黒い杭。
嫌な予感がした。
俺は老人の手に触れる。
その瞬間、頭の奥で小さな鈴の音が鳴った。
ちりん。
【対象:人間】
【状態:衰弱】
【体内魔力:濁りあり】
【原因候補:汚染水の継続摂取】
【推奨対応:清浄な水分、解毒草、呼吸補助】
表示が浮かぶ。
人間にも状態が見えるのか。
いや、たぶん人間をテイムできるわけではない。
森や水、薬草と関係している異常だから、環境側から読めているのだろう。
「汚染水か……」
「汚染?」
少女が不安そうに俺を見る。
「たぶん、井戸の水が悪くなってる。おじいさんはその影響を受けてる可能性が高い」
「そんな……村のみんなも飲んでます」
「全員がすぐ倒れるとは限らない。体力の低い人から症状が出ることがある」
俺は荷物を下ろし、薬草袋を開いた。
月白草は残り少ない。
さっき灰根ウサギに使った。
だが、ここで出し惜しみするものではない。
「名前は?」
「ミナです」
「ミナ。おじいさんの名前は?」
「トマスです」
「分かった。ミナ、トマスさんの上体を少し起こして。急に水を飲ませるとむせる。少しずつだ」
ミナは慌てて頷き、老人の背中に畳んだ布を入れた。
俺は水筒を開けようとして、止まる。
残りは少ない。
俺の水は安全だが、量が足りない。
「森、この近くで一番きれいな水は?」
少女が不思議そうに俺を見る。
俺は構わず、森へ問いかけた。
すぐに感覚が返ってくる。
北東。
浅い湧き水。
汚染は低い。
ただし、途中に毒草あり。
「取りに行くには時間がかかるな」
ポルが肩の上でぷるんと震えた。
「行けるのか?」
ぽよん。
ポルは俺の肩から降りると、森の中へ向かって跳ねた。
その前に、灰根ウサギが三匹、草むらから顔を出す。
さっき助けた子たちだ。
「お前らも来てたのか」
三匹は耳を立てると、ポルの前に並んだ。
道案内をするつもりらしい。
「無理はするな。水を少しだけでいい。毒草には触れるなよ」
ポルと灰根ウサギたちは、森の奥へ消えていった。
ミナがぽかんと口を開けている。
「今の……灰根さま?」
「灰根さま?」
「灰根ウサギです。薬草の場所を教えてくれる、森の使いって、おじいちゃんが言ってました」
「なるほど」
この村では、森の魔物をただの敵とは見ていないらしい。
少なくとも昔からの薬草採りは、森との付き合い方を知っている。
「ミナは、死の森が怖くないのか?」
「怖いです」
ミナは正直に言った。
「でも、おじいちゃんが言ってました。死の森さまは、ちゃんとお願いすれば薬をくれるって。乱暴に入ったり、欲張ったり、木を傷つけたりしなければ、助けてくれることもあるって」
俺は森を見た。
木々が静かに揺れている。
その感情は、やはり懐かしさだった。
「昔は、この森に入れたのか?」
「入口だけです。薬草採りの人だけ。森に入る前にお水を供えて、取る薬草は必要な分だけ。若い枝は折らない。灰根さまを追いかけない。そういう決まりがあったって」
「今は?」
「五年前から禁止になりました。王国の人が来て、死の森は危ないから封じるって。村の人も最初は安心してたんです。でも……」
「でも?」
「森に近づけなくなってから、薬草が足りなくなりました。井戸の水も、少しずつ苦くなって。森の近くの畑も枯れてきて……」
俺は息を吐いた。
やはり黒い杭の影響は、森の中だけではない。
水脈。
土。
村の畑。
そこまで広がっている可能性がある。
「村に病人は他にも?」
「咳をしている人はいます。お年寄りと、小さい子が多いです」
「まずいな」
俺は薬草を細かく砕き、布に包んだ。
そこへ残り少ない水を数滴たらす。
濃すぎると刺激が強い。
薄めて飲ませたいが、水が足りない。
ポルが戻るまで、できることをやる。
「ミナ、トマスさんの呼吸を見て。苦しそうになったら、すぐ教えて」
「はい!」
ミナは涙を拭き、老人のそばに座った。
ただ泣いているだけではない。
指示を聞き、すぐ動く。
しっかりした子だ。
俺は森に問いかける。
「呼吸を楽にできる草は、この近くにあるか?」
ざわり。
足元の草が一本、淡く光った。
細い葉。
白い筋。
清風草。
乾燥させて吸入に使うと、気道を少し開く薬草だったはずだ。
勇者パーティーの旅で、何度か見たことがある。
だが、生のまま使う場合は量に注意が必要だ。
「一本だけ使う。いいか?」
森から了承の気配。
俺は清風草を根元から切らず、葉を二枚だけもらった。
「ありがとう」
草が小さく揺れる。
俺は葉を揉み、湯気の代わりに手のひらで少し温める。
火を強くしたいところだが、森の中で不用意に火を大きくするのは避けたい。
すると、近くの枝がぱきりと折れた。
乾いている。
燃えやすそうだ。
森が使っていい枝を落としてくれたらしい。
「本当に気が利くな」
ざわざわ。
少し嬉しそうだ。
俺は火を小さく起こし直し、清風草の葉を温めた布に包んだ。
それをトマスさんの鼻元へ近づける。
刺激が強すぎない距離。
少しずつ。
老人の呼吸が、わずかに深くなった。
「おじいちゃん……!」
「まだ安心はできない。でも、少し楽になったはずだ」
その時、森の奥からポルたちが戻ってきた。
ポルは体内に透明な水を含んでいる。
後ろから灰根ウサギたちが、葉に包まれた青白い苔をくわえていた。
「それは?」
【白露苔】
【効果:微弱な浄化、解毒補助】
【状態:良好】
「最高だ」
俺は思わず声を出した。
森が選んでくれたのだろう。
白露苔は、清浄な水場の近くにだけ生える薬草だ。
市場では高値で取引される。
それを灰根ウサギたちは、必要な分だけ持ってきてくれた。
「ありがとう。助かる」
灰根ウサギたちは誇らしげに耳を立てた。
ポルもぷるんと胸を張る。
胸がどこかは分からないが、たぶん張っている。
俺はポルから水を受け取り、白露苔を少量だけ揉み出した。
月白草と合わせて、薄い薬水を作る。
回復薬とは呼べない。
だが、汚染水による魔力の濁りを薄めるには役立つはずだ。
「ミナ、少しずつ飲ませて。焦らなくていい。一口飲んだら、息を確認する」
「はい」
ミナは震える手で薬水を受け取り、トマスさんの唇に少しずつ含ませた。
一口。
二口。
老人の喉が動く。
むせない。
三口目を飲んだところで、苦しそうな呼吸が少し落ち着いた。
顔色も、ほんの少しだけ戻る。
ミナの目に涙が浮かんだ。
「おじいちゃん……」
老人の瞼が震える。
そして、かすれた声が漏れた。
「……ミナ」
「おじいちゃん!」
「泣くな……森さまに、失礼だろう」
この状況で最初にそれを言うのか。
俺は思わず苦笑した。
トマスさんの目が、ゆっくり俺へ向く。
濁ってはいるが、意識はある。
「あなたは……?」
「レオスです。森の中で、少し薬草の手伝いをしました」
「森の中……」
トマスさんは俺の肩のポルを見て、足元の灰根ウサギを見て、それから背後の森を見た。
そして、目を見開いた。
「まさか……森守さまか」
「森守?」
初めて聞く言葉だった。
トマスさんは弱々しく息を吸う。
「昔話です。死の森がまだ、死の森と呼ばれる前……人と森の間に立ち、取りすぎを戒め、病を癒やし、境界を守る者がいたと」
「俺はそんな立派なものじゃないです」
「灰根さまがそばにいる。森が道を開けている。なら、同じことです」
トマスさんは、ゆっくり頭を下げようとした。
俺は慌てて止める。
「動かないでください。今は休む方が優先です」
「ですが……」
「礼は元気になってからで」
そう言うと、トマスさんは少しだけ笑った。
「現実的な森守さまだ」
「ただの元会社員です」
「もと、かいしゃいん?」
「こっちの話です」
危ない。
つい前世ワードが出た。
ミナがきょとんとしている。
俺は誤魔化すように咳払いした。
「トマスさん。村の井戸の水が汚れている可能性があります。今日から、その水を飲むのは避けた方がいい」
「やはり……」
「心当たりが?」
「五年前、王国の役人が来てからです。死の森を封じると言って、兵士たちが森の周りに杭を打ち始めた。その頃から井戸の味が変わりました」
「村は抗議しなかったんですか?」
「しました。ですが、死の森に近づく方が悪いと言われました。井戸の異変も、森の瘴気のせいだと」
トマスさんの声に苦さが混じる。
「村人の中にも、そう信じる者は多い。死の森を恐れる者にとっては、全部森のせいにした方が分かりやすいのです」
分かりやすい悪者。
それは便利だ。
前世でもよくあった。
問題の原因を細かく見れば、いろんな部署や判断ミスや無理な納期が絡んでいる。
でも、誰か一人のせいにした方が説明しやすい。
この森は、その役を押しつけられてきたのだろう。
「その杭を、今日一本抜きました」
俺は黒い杭のことを話した。
森に刺さっていたこと。
紫の毒を流していたこと。
灰根ウサギが倒れていたこと。
王国兵が回収に来たこと。
トマスさんは目を閉じて聞いていた。
ミナは不安そうに手を握っている。
「やはり、あれは封じ杭などではなかったか」
「知っていたんですか?」
「確証はありませんでした。ただ、古い薬草採りたちは皆、言っていました。森は封じられて苦しんでいる、と」
「古い薬草採りたち、ということは他にも?」
トマスさんは小さく首を振った。
「もうほとんど残っていません。森に入れなくなってから、薬草採りは仕事にならなくなりました。若い者は村を出て、残った者も年を取りました」
「村の名前は?」
「リンド村です。ここから南へ少し下ったところにあります」
リンド村。
覚えておく。
「村に、古い地図や記録はありますか? 森に入っていた頃の道、水場、薬草の場所、祠、境界標。何でもいい」
「あります」
ミナが顔を上げた。
「おじいちゃんの家に、古い薬草帳があります。森の絵も、薬草の場所も書いてあります」
「それ、見せてもらえないか?」
「もちろんです!」
ミナは勢いよく頷いた。
だが、すぐに不安そうな顔になる。
「でも、村の人たちがレオスさんを信じるかどうか……」
「そこは無理しなくていい」
俺は言った。
「いきなり死の森から出てきた男を信じろって方が難しい。まずはトマスさんの容体を落ち着かせる。次に井戸の水を調べる。それから必要なら村長に話す」
「村長は、王国の兵士さんたちを怖がっています」
「だろうな」
王国の設備を疑う話だ。
村長としては簡単に乗れない。
間違えれば村ごと睨まれる。
「だから、証拠を集める。症状、水の味、畑の枯れ方、杭の場所。感情だけで訴えても潰される。事実を並べる」
ミナが少し驚いたように俺を見た。
「レオスさんって、冒険者なんですよね?」
「一応」
「なんだか、村の帳簿を見る人みたいです」
「前の職場では、だいたいそういう役だった」
勇者パーティーでも、結局そうだった。
地味な確認。
準備。
調整。
誰も評価しない仕事。
だが、今は違う。
それが必要とされている。
俺は荷車の車輪を確認した。
片方の軸が少し歪んでいる。
このまま村まで戻るのは危ない。
「森、村の近くまで安全な道は?」
返ってきた感覚は、少し鈍かった。
森の外は、森の支配域ではない。
ただ、外縁部までは案内できる。
そこから先は人間の道だ。
「分かった。外縁まで頼む」
ざわり。
草が低く倒れ、荷車が進みやすい道を作った。
「ミナ、俺も村の近くまで行く。トマスさんを運ぼう」
「でも、森さまの外に出ても大丈夫なんですか?」
「俺は人間だからな。むしろ外の方が普通は安全なんだが」
そう言った直後、森から不満そうな感情が流れてきた。
違う。
こっちの方が安全。
そう言っている気がした。
「はいはい。今の俺にとっては、この森の中が一番安全かもしれないな」
森が少し満足げに揺れた。
ミナがそれを見て、ぽかんとする。
「本当に、森さまとお話しできるんですね」
「まだ完璧じゃないけどな」
「すごい……」
少女の目がきらきらしている。
少しむずがゆい。
勇者パーティーで無能扱いされていた身としては、まっすぐ尊敬されると反応に困る。
「俺がすごいというより、森が手伝ってくれてるだけだ」
「でも、森さまは誰にでも手伝ってくれません」
ミナは真剣に言った。
「おじいちゃんが言ってました。森は、欲張りな人と乱暴な人が嫌いだって」
「じゃあ、嫌われないように気をつける」
「はい」
ミナは初めて少し笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
この子のように森を信じている人間がいるなら、死の森と人間の関係はまだ完全には終わっていない。
壊れかけているだけだ。
なら、直せる余地はある。
少なくとも、直すために動く価値はある。
荷車を押し、森の外縁へ向かう。
ミナは横でトマスさんの様子を見ている。
ポルは荷車の縁に乗り、こぼれそうになる薬水を体で支えていた。
灰根ウサギたちは先導役だ。
安全な草地を選び、毒草のある場所では耳を振って知らせてくれる。
地味だが、ありがたい。
こういう案内こそ、生き残る上では何より大事だ。
森の出口が近づくにつれて、空気が変わった。
木々の密度が薄くなり、月明かりが強くなる。
遠くに村の灯りが見えた。
小さな灯りがいくつも寄り添うように並んでいる。
リンド村。
死の森のすぐそばで暮らす人々。
その灯りを見た瞬間、森から複雑な感情が流れてきた。
懐かしい。
寂しい。
近づきたい。
でも、怖がられる。
まるで、仲直りしたいのに声をかけられない子どものようだった。
「大丈夫だ」
俺は森に向かって言った。
「一気には無理でも、少しずつやろう」
森の葉が静かに揺れる。
その時、荷車の上でトマスさんがかすかに目を開けた。
「レオス様……」
「様はいらないです」
「では、レオス殿」
「それも少し重いですね」
「レオスさん」
「それでお願いします」
トマスさんは弱々しく笑った。
「村へ入る前に、一つだけ」
「何ですか?」
「村には、森を信じる者もいれば、憎む者もいます。家族を魔物に襲われた者もいる。畑を失った者もいる。全員があなたを歓迎するとは限りません」
「でしょうね」
「それでも、来てくださいますか」
俺は村の灯りを見た。
正直、面倒ごとになる予感しかしない。
王国兵に目をつけられた直後だ。
村と関われば、さらに問題は増える。
それでも。
「井戸の水が汚れているなら、放っておけません」
俺は答えた。
「ただし、俺は村の便利屋になるつもりはありません。できることはやる。でも、村の人たちにも動いてもらう。水を調べるなら桶を用意してもらう。病人を診るなら症状をまとめてもらう。王国に訴えるなら証言を出してもらう」
トマスさんは、少し驚いた顔をした。
「ずいぶん、はっきり言われる」
「前の職場で学びました。何でも一人で抱えると、だいたい潰れるので」
「良い考えです」
トマスさんは頷いた。
「森守は、森と人の間に立つ者。どちらか一方の奴隷ではありません」
その言葉は、妙に胸に残った。
森と人の間に立つ。
どちらか一方の奴隷ではない。
俺がやろうとしていることに、思っていたより近い。
「それなら、俺にもできるかもしれません」
「ええ。あなたなら」
トマスさんはそう言って、また目を閉じた。
呼吸はさっきより安定している。
ひとまず、今夜すぐに命を落とす危険は下がったと思う。
森の外縁に着くと、灰根ウサギたちは足を止めた。
ここから先は、人間の道。
森の気配が少し薄くなる。
「ここまででいい。ありがとう」
三匹の灰根ウサギは、そろって耳を揺らした。
ポルは俺の肩に戻ってくる。
森が静かに道を閉じようとして、ふと止まった。
名残惜しそうな気配。
ミナが森へ向かって深く頭を下げる。
「死の森さま、ありがとうございました」
森の葉が、優しく揺れた。
その光景を見て、俺は少しだけ笑った。
死の森。
人間を食う魔境。
呪われた土地。
そんな風に呼ばれている場所が、一人の少女の感謝に、こんなにも嬉しそうに揺れている。
世界は、見方を変えればずいぶん違って見えるものだ。
リンド村の入口に近づくと、見張りの男が慌てて槍を構えた。
「誰だ!」
「ミナです! おじいちゃんを連れて戻りました!」
「ミナ!? お前、森に行ったのか!」
見張りの男は驚き、それから俺を見て表情を険しくした。
「その男は?」
「レオスさんです。おじいちゃんを助けてくれました」
「森から出てきたのか?」
「はい」
正直に答えると、男はさらに警戒した。
当然だ。
俺は両手を見せる。
「怪しいのは分かっています。まずはトマスさんを休ませたい。話はその後で構いません」
男は迷った。
だが、荷車の上のトマスさんを見て、すぐに村の中へ声を張った。
「誰か! トマス爺さんが戻った! 手を貸せ!」
村の中から人々が出てくる。
老人。
女性。
若い男。
咳をしている子どもを抱えた母親。
その何人かは俺を見て怯え、何人かは露骨に疑いの目を向けた。
そして、何人かは俺の肩のポルを見て小さく息を呑んだ。
「スライム……」
「魔物を連れているぞ」
「死の森から来たのか?」
ざわめきが広がる。
俺は何も言わなかった。
ここで大声で説明しても、余計に怪しくなる。
まずはトマスさんだ。
村人たちが荷車からトマスさんを下ろし、近くの家へ運び込んだ。
ミナがその後を追う。
俺は入口で待った。
すると、白髪交じりの太った男が人混みを割って出てきた。
服装からして村長だろう。
「あなたが、ミナを連れ戻してくださった方ですか」
「レオスです。トマスさんの応急処置をしました」
「村長のバルムです。まずは礼を言います。しかし……」
バルム村長の視線が、俺の肩のポルへ向く。
「死の森から来た、というのは本当ですか」
「本当です」
「王国からは、森に近づくなと厳命されています」
「でしょうね」
「あなたは何者ですか?」
村人たちの視線が集まる。
俺は少し考えた。
勇者パーティーを追放されたテイマーです。
そう言うのは簡単だ。
だが、それではこの場の説明にならない。
生態系テイマー。
森の聞き手。
森守。
どれもまだ、自分の肩書きとしてはしっくりこない。
それでも、今言うべきことは決まっていた。
「俺は、死の森の声を聞けます」
村人たちがざわついた。
バルム村長の顔が険しくなる。
俺は続ける。
「信じろとは言いません。ただ、村の井戸水が汚染されている可能性があります。トマスさんの症状も、それが原因かもしれない。確認したいので、井戸水を少し見せてください」
「井戸水が……?」
「ここ最近、苦くなっていませんか。咳をする人や、体の弱い人の不調が増えていませんか」
村人たちのざわめきが変わった。
疑いから、不安へ。
母親が抱える子どもが、小さく咳をする。
バルム村長は唇を結んだ。
「それは……」
「森のせいだと言われているんでしょう。でも、森に刺された王国の杭が、毒を流しているのを俺は見ました」
「王国の杭?」
村長の顔色が変わる。
俺は背負っていた布包みを下ろした。
中から、抜いた黒い杭を見せる。
王国の紋章。
紫色に変色した根元。
村人たちは息を呑んだ。
「これは……」
「この杭について、俺は調べます。村に被害が出ているなら、村の協力も必要です」
俺は村長を見た。
「ただし、俺一人に全部押しつけられても困ります。井戸水の確認、病人の症状の聞き取り、古い薬草帳の確認。村でできることは村でやってください」
バルム村長は、しばらく俺を見ていた。
やがて、深く息を吐く。
「……分かりました。井戸へ案内します」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
「村長!」
「王国兵に知られたら……」
「だが、このまま何もしなくても村は弱っていく」
バルム村長は苦い顔で言った。
「私は村長だ。村人の命を守る責任がある。王国を疑うのは怖い。だが、目の前に病人がいる以上、怖いだけでは済まされん」
俺は少しだけ、この村長への評価を上げた。
怖がっている。
でも、現実から目を逸らしていない。
それなら話ができる。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらです。ただ、レオスさん」
「はい」
「もしあなたが村を騙そうとしているのなら、我々は全力で抵抗します」
「それでいいです」
俺は頷いた。
「疑ってください。その上で、事実を確認しましょう」
バルム村長は一瞬驚き、それから小さく頷いた。
「では、井戸へ」
俺は村の中央へ向かって歩き出した。
肩のポルが、ぷるんと震える。
背後では、死の森の木々が静かに揺れていた。
まるで村の様子を、遠くから不安そうに見守っているようだった。
リンド村。
死の森。
黒い杭。
汚れた井戸。
王国兵。
やることは、一気に増えた。
だが、不思議と気持ちは沈んでいない。
問題が見えてきたからだ。
問題は、見えれば分けられる。
分ければ、順番をつけられる。
順番をつければ、一つずつ片づけられる。
「よし」
俺は小さく呟いた。
「まずは水質検査からだ」
ポルが肩の上で、任せろと言うように跳ねた。
村の中央にある古井戸。
その底から漂ってくる苦い臭いに、俺は黒い杭と同じものを感じていた。
どうやら、死の森の初仕事は、思っていたよりずっと村の生活に近いところまでつながっているらしい。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
今回は、森の入口で祈っていた少女ミナと、薬草採りの老人トマスさんの回でした。
死の森は人間から恐れられている一方で、昔から森と付き合ってきた人たちにとっては、ただの魔境ではなかったようです。
レオスの力も、派手に敵を倒すというより、
「状態を見る」
「原因を分ける」
「必要なものを集める」
「一つずつ解決する」
という形で少しずつ活きてきました。
そして、黒い杭の影響は森だけではなく、村の井戸や人々の暮らしにも及んでいるかもしれません。
次回は、リンド村の井戸水調査と、死の森をめぐる村人たちの反応が中心になる予定です。
続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるととても励みになります!




