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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第1章 放課後の冒険者

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第8話:不恰好な風と、商人の短剣

ズン、ズン、と。

王都南門の外に広がる休耕地に、重く鈍い足音が響いていた。


「……九十八、九十九、ひゃくッ!」


叫び声とともに、アルドが抱え上げていた巨大な岩を地面に放り投げた。

ドスゥン! と重い音を立てて土埃が舞い上がる。アルドはそのまま大の字になって枯れ草の上に倒れ込み、天を仰いで激しく肩で息をした。


「はぁっ、はぁっ……くそっ、腕はともかく、腰と背筋が悲鳴を上げやがる……」

「当然です。貴族の剣術は『見栄えの良い立ち姿』を作るために、胸や腕の筋肉ばかりを意識させますからね。重い鋼鉄を振り回すための、泥臭い体幹の鍛錬などカリキュラムにありません」


少し離れた岩に腰掛け、手帳に何やら書き込んでいたセシルが、眼鏡を押し上げながら冷ややかに言った。

「しかし、ただ岩を抱えてスクワットをするだけでは非効率です。ドワーフの旦那が言っていた『鋼鉄の遠心力を殺さない重心移動』を身体に叩き込むには、もっと下半身の粘りが必要です。次はあそこの丸太を担いで、片足ずつ交互に踏み込む訓練を――」

「鬼かお前は! 少しは休ませろ!」

アルドが恨めしそうに叫ぶが、その顔に悲壮感はない。むしろ、自分の弱点と「次にやるべきこと」が明確になったことで、憑き物が落ちたような清々しさすら漂っていた。


昨日、全財産の銀貨十枚をはたいて手に入れた『鋼鉄の直剣』。

アルドは今日、それを王都の荷物預かり所の奥深くに封印してきた。今の未熟な筋力で無理にあの剣を振り回せば、魔獣と戦う前に自分の手首を壊すか、体勢を崩して命を落とすだけだと痛感したからだ。

「あの剣を、片手で木の枝みたいに振れるようになるまで、俺は森の第二層へは行かねえ」と、アルド自身が宣言したのだ。


そのアルドの特訓を横目に、ライルは休耕地の乾いた地面にあぐらをかき、じっと目を閉じていた。


(……僕も、手探りでも前に進まなければ)


ライルの脳裏には、先日の牙猪(ファングボア)との戦闘で、自分の土魔法が狙いを外した瞬間の恐怖が焼き付いていた。

貴族学校の演習場に立つ的(まと)に向かって魔法を撃つのは簡単だ。だが、圧倒的な殺意と質量を持って迫り来る生きた魔獣を前にした時、自分の魔法はあまりにも脆く、不正確だった。


(魔法ギルドの教えは、『自然の力を魔力で支配し、捻じ伏せる』ことだ。でも……それじゃダメなんだ)


ライルは、大通りで消えた街灯を見た夜、あの屋台の親父を助けてくれたエルフの言葉を思い出していた。


『風が怒っているな、小僧』

『もっと深い、風の根源を知ることだ』


エルフは、まるで風を生き物のように扱っていた。自然を「支配する」のではなく、自然の「声を聞く」ような、そんな静謐な響きがそこにあった。

ライルは深く息を吐き、膝の上に置いた両手の力を抜いた。体内の魔力回路を巡る膨大なエネルギーを無理やり外へ撃ち出そうとするのではなく、自分と外の世界との境界線を曖昧に溶かしていくようなイメージを抱く。


頬を撫でる微風。

草が擦れ合う微かな音。

視覚を遮断し、魔力を『感知』のアンテナとして周囲の空間へと薄く広く広げてみる。


(風は、空気を押し出すだけの力じゃない。遠くの匂いを運び、障害物にぶつかって形を変える『波』だ……)


その時だった。

ライルの曖昧な意識の網の目に、フワリと「異物」が引っかかった。


「……ん?」

ライルは目を閉じたまま、小さく眉を寄せた。

風の波紋が、右斜め前方の深い茂みのあたりで、何か不自然に乱れている気がする。獣の臭いのような、ざわざわとした感覚。


「……アルド、セシル」

ライルは目を開き、少し自信なさげな声で言った。

「右斜め前の茂み……何か、いるかもしれない。風の感覚がおかしいんだ」


「なんだと?」

アルドが即座に立ち上がり、使い古された鉄剣を引き抜いた。

「数は? 距離はどのくらいだ?」

「わからない……一つじゃない気がする。二つか、もしかしたらもっと……」

ライルの感知は、針のように鋭いレーダーには程遠い。ただ「何となく嫌な気配がする」という程度の、ひどく曖昧なものだった。


だが、アルドが剣を構えたその瞬間、ライルの予感は最悪の形で的中した。


「シィィィッ!」

茂みが爆発したように揺れ、灰褐色の影が二つ、弾丸の如く飛び出してきた。角兎(ホーンラビット)だ。


「マジで来やがった! 構えろ!」

アルドが叫び、先頭の角兎の突進を正面から迎え撃つ。

「ふんッ!」

丸太の特訓でパンパンに張った太ももを酷使して踏み込み、アルドの鉄剣が角兎の首筋を的確に捉え、横薙ぎに切り裂いた。


だが、二匹目はアルドを無視し、後衛のライルへと向かって一直線に跳躍していた。

鋭い黒角が、ライルの胸元へと迫る。


(風だ……押し返すんじゃない、風の乱れに魔力を乗せるんだ!)

ライルは咄嗟に右手を突き出し、不恰好に術式を編んだ。


「生活魔法――『風(ウィンド)』!」


狙いをすませた完璧な空気の壁など、今のライルに作れるはずもなかった。

放たれたのは、ただの乱暴な突風だ。バサァッ! と地面の枯れ草と土埃が盛大に舞い上がり、ライル自身の目にも砂が入り込む。

「うわっ!」


だが、その無軌道な突風は、空中にいた角兎の体勢を確かに崩した。

風に煽られて黒角の狙いが逸れ、角兎はライルの肩口をかすめて背後へと無様に転がっていく。


「助かった……!」

ライルが安堵したのも束の間、着地した角兎はすぐに体勢を立て直し、今度は一番無防備に見えた存在――岩陰にいたセシルへと向かって、狂ったように跳躍した。


「セシルッ!!」

ライルとアルドが悲鳴のような声を上げる。剣を持たない商人の息子に、魔獣の突進が突き刺さる――そう思った瞬間だった。


「――っ、舐めないでいただきたい!」


セシルは逃げなかった。

彼は手帳を放り捨てると同時に、外套の内側から一本の短い鉄の短剣を素早く引き抜いた。商人の護身用として売られている、刃渡り二十センチほどの安物の短剣だ。


アルドの毎日の鍛錬を横でずっと見ていたセシルの目は、ただ怯えるだけの素人ではなくなっていた。

セシルは角兎の突進に対して、半歩だけ斜め前に身体を滑らせた。完璧な回避ではない。外套の袖が鋭い角に切り裂かれ、布の破ける音が響く。

だがその瞬間、セシルはすれ違いざまに、握りしめた短剣を角兎の首の横へと力任せに突き立てた。


「はぁぁッ!」


ズブッ、と嫌な手応えとともに、短剣が角兎の急所を浅く、しかし確実に切り裂いた。

「ギャンッ!?」

角兎は血を撒き散らしながら地面に激突し、二度、三度と痙攣したのち、完全に息絶えた。


「……セ、セシル!」

アルドが慌てて駆け寄る。

セシルは外套の袖を破かれ、眼鏡は大きくズレて土埃にまみれていた。短剣を握る手はカタカタと小刻みに震え、顔面は蒼白になっている。


「無事か!? 噛まれてないか!?」

ライルも駆け寄って背中をさすると、セシルは荒い息を吐きながら、震える手でゆっくりとズレた眼鏡を押し上げた。


「……っ、ふぅぅ……。問題、ありません。商会の護身術の基礎です。……いざという時は、帳簿より刃物ですから」

強がって見せるその声は、ひどく上ずっていた。

だが次の瞬間、セシルの身体がビクッと大きく震え、彼は奇妙な声を出してその場にへたり込んだ。


「あ、あっ……な、なんですか、これ」

セシルが自らの身体を両腕で強く抱え込むようにして、驚きに目を見開く。


「……背中の奥あたりが、急に熱い。それに視界がはっきりしてきて、筋肉の震えが消えて……なんだか、身体の底から力が湧いてくるような……!」


その反応を見て、ライルとアルドは顔を見合わせた。

そして、泥だらけの顔で同時に吹き出した。


「ははっ! おめでとうセシル」

「背筋にカッと熱いもんが走ったろ? そいつが『レベルアップ』の証だ。ようこそ泥水すする側の世界へ。頭でっかちの商人サマも、これでいっぱしの冒険者だな!」


アルドに背中をバンバンと叩かれ、セシルは困惑しながらも、自分の手のひらを不思議そうに見つめたり握ったりを繰り返していた。

やがて、その口元に、いつも冷静な彼らしからぬ、年相応の少年のような無邪気な笑みがこぼれた。


「……なるほど。これが。確かにこれは……自分の資産(身体)が直接書き換えられるような、抗い難い興奮がありますね。冒険者が森に依存する理由が、少し分かった気がします」

セシルは短剣の血を草で拭いながら、少し照れくさそうに立ち上がった。

「それに……商会の後継ぎとはいえ、やはり自分の身くらい自分で守れなければ、この先あなたたちという不良債権と付き合っていけませんからね」


「不良債権とは失礼な奴だ」

アルドが豪快に笑い、三人の間に安堵の空気が広がった。


ライルは、まだ少し砂の入って痛む目をこすりながら、自分の手のひらを見つめた。

(感知も曖昧だったし、風の魔法もただの土埃を巻き上げただけ。百発百中なんて夢のまた夢だ。でも……)


ライルは小さく拳を握った。

あの無様な突風のおかげで、角兎の体勢を崩すことはできたのだ。

支配するのではなく、風の乱れに乗せる感覚。まだ手探りで、不恰好で、一歩間違えれば自爆するような未完成の技術。

それでも、目指すべき『方向性』だけは、確かな手応えとしてライルの胸の中に芽生えていた。


「よし、解体してギルドに戻ろう。今日の稼ぎは……角兎二匹分だ」

「ええ。再びゼロからの貯金箱の始まりですが、今日は少し……悪くない気分ですね」


夕暮れの休耕地に、泥と土埃にまみれた少年たちの笑い声が、どこまでも明るく響き渡っていた。


その日の夕刻。

冒険者ギルドの預かり所で制服に着替えて王城へ戻り、自室の温水風呂で急いで残った汗や微かな土の匂いを洗い流したライルは、清潔でゆったりとした上質な室内着に着替えると、図書室へ向かうために長く静かな大理石の廊下を歩いていた。


昨日の絶望的な無力感は、もうない。

自分たちがやっていることは、王宮の巨大な歯車から見ればちっぽけな泥遊びかもしれない。それでも、休耕地で角兎の気配を読み取り、セシルが自分の手で身を守り、アルドが自分の弱さと向き合って岩を抱えていたあの時間。

そのちっぽけな積み重ねだけが、いつか必ず、この巨大な理不尽の壁を穿つ力になる。ライルはそう信じられるようになっていた。


「――随分と、足取りが軽いじゃないか、ライル」


不意に、前方の廊下の交差点から声が掛かった。

ライルが足を止めると、そこには豪奢な金の刺繍が施された外套を羽織った次兄、グリード=ベルクンドが立っていた。

その後ろには、新興貴族の取り巻きたちが三名、影のように付き従っている。


「グリード兄上。……ご機嫌麗しゅう」

ライルは完璧な「無害な弟」の表情を作り、恭しく臣下の礼をとった。


「図書館へ行くのか? 相変わらず、埃っぽい本に囲まれるのが好きな出涸らしだ」

グリードは冷笑を浮かべながら、ライルの目の前まで歩み寄ってきた。

十七歳という同い年でありながら、グリードの放つ覇気と威圧感は、周囲の空気をピリピリと震わせるほどに重い。彼は王太子になるという野望の塊であり、そのためにどんな泥でもすする覚悟を決めている男だった。


「お前、最近放課後になると王宮から姿を消しているそうだな。侍従の目も誤魔化して、一体どこで何を企んでいる?」

グリードの鋭い双眸が、ライルを射抜く。


「企みなど、滅相もありません」

ライルは微笑みを崩さなかった。

「旧厩舎の裏手にある使われていない温室で、学友と植物の観察をしているだけです。土いじりは心が落ち着きますから。兄上こそ、毎日の私兵の視察、お疲れ様です」


「ふん。相変わらず向上心の欠片もない奴だ」

グリードは忌々しげに舌打ちをし、ライルの肩にポンと手を置いた。


その瞬間、グリードの指先から、明確な『魔力による威圧』が放たれた。

言葉の牽制ではない。物理的な魔力の重圧で相手の精神を屈服させようとする、貴族社会特有の陰湿なマウント(力関係の誇示)だ。取り巻きの貴族たちが、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。


かつてのライルなら、この威圧に怯えたふりをして膝を折り、「兄上には敵いません」と震えてみせただろう。平和な王宮の中で、グリードの放つ威圧はそれほどまでに強烈で、抗いがたいものだった。


――だが。

ライルは、肩に置かれたグリードの手を一瞥し、そして再びグリードの目を見つめ返した。


(……軽いな)


ライルは内心で、静かに驚いていた。

グリードの魔力威圧を跳ね返したわけではない。ただ、その威圧が「全く怖くない」のだ。


休耕地で、牙猪が放った純粋で理不尽な殺意。

森の暗がりで、角兎が仲間の喉笛を食いちぎろうと飛びかかってきた時の、あの心臓が凍るような死の恐怖。

その極限の重圧に比べれば、グリードが放つ「人間同士のちっぽけな見栄の張り合い」の魔力など、そよ風にすら満たない児戯に感じられた。


ライルの背筋は真っ直ぐに伸びたままだ。膝の震えなど微塵もない。

ただ静かに、凪いだ湖面のような瞳でグリードを見つめ返している。


「な……」

グリードの顔から、微かに余裕が消えた。

自分の魔力威圧を正面から受けて、微動だにしない。いや、威圧を受け流していることすら気づいていないかのような、底知れない静寂。


「……兄上?」

ライルが小首を傾げて微笑むと、グリードはまるで熱い鉄に触れたかのように、バッとライルの肩から手を離した。


「チッ……気味の悪い奴だ」

グリードは苛立たしげに前髪を掻き上げ、踵を返した。

「せいぜい、温室で泥遊びでも続けていろ。僕が玉座に就いた暁には、お前に辺境の草むしりの役職でもくれてやるからな」


「ご配慮、感謝いたします」

ライルは深く頭を下げ、グリードたちが廊下の角を曲がって見えなくなるまでその姿勢を崩さなかった。


足音が完全に消えた後、ライルはゆっくりと顔を上げた。

王宮の冷たい大理石の壁を見つめながら、ライルは自身の胸の奥で、確かな鼓動が力強く脈打っているのを感じていた。


(僕は、少しずつだけど……前に進めている)


まだ百発百中には程遠い、不恰好な魔法。

武器に振り回されるアルドと、泥だらけの短剣を震えながら握ったセシル。

王宮の威光から見れば無様でしかないその歩みこそが、王宮の虚飾や兄たちの威圧に飲み込まれないだけの、分厚くて泥臭い「心の体幹」を自分の中に育ててくれている。


「……待っていてくれ、二人とも」


誰もいない廊下で、ライルは誰にともなく呟いた。


「いつか必ず……あの重い鋼の剣を当たり前に振れるくらい、強くなってみせるから」


窓の外では、完全に日の落ちた王都の街並みが広がっている。

消えた街灯の代わりに、民家の小さな窓から漏れる無数の生活の灯りが、星空のように瞬いていた。ライルはそのちっぽけな灯りの一つ一つを心に焼き付けるように見つめ、静かに歩き出した。

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