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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第1章 放課後の冒険者

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第9話:スライムの泥と、銅色の勲章

カサリ、と乾いた草の揺れる音がした。

王都南門の外に広がる休耕地。そこは、冒険者たちが「小銭稼ぎのドブさらい」と呼んで見下す、最も安全で、最も実入りの少ない最下層の狩場だった。


草の陰から這い出してきたのは、半透明の緑色に濁った不定形の塊――スライムだ。

シューッ、と空気を吐き出しながら粘体を圧縮させ、ライルの顔面めがけて跳躍してくる。


(……風の乱れ、なし。軌道は直線)


ライルは腰を落とし、呼吸を整えた。

魔法は使わない。ただ静かに相手の質量と軌道を見切り、半歩だけ横に滑るようにして身体を躱す。

頬のすぐ横をスライムが通り過ぎた瞬間、ライルは右手の鉄剣を、一切の力みなく突き出した。


トン、と。

鋼の切っ先がゼリー状の肉体を貫き、中心に浮かぶ親指大の核石を正確に砕いた。

「ギシィッ」と空気が抜けるような音を立てて、スライムは泥水のように崩れ落ちる。


「……六匹目。よし」

ライルは剣を引き抜き、額の汗を拭った。


「おーい、ライル! こっちの岩の運搬も終わったぜ!」

少し離れた場所から、アルドが声をかけてきた。彼はドワーフ製の重い『鋼鉄の直剣』を背中に固く縛り付けたまま、農家が放置した巨大な岩を一つ一つ指定の場所へ運ぶという「力仕事の依頼」をこなしていた。

鋼鉄の剣の重量を常に身体に感じながら体幹を鍛えつつ、日銭を稼ぐという彼なりの泥臭い修行だ。


「お疲れ様です、二人とも」

岩陰に座って手帳を開いていたセシルが、集めたスライムの魔石の欠片を小袋に収めながら言った。

「本日の依頼、『休耕地のスライム間引き』と『農地の岩石撤去』、無事に完了です。……これで丸二週間、第一層の森にすら入らず、休耕地での基礎訓練と雑用稼ぎの毎日ですね」


「ああ。……でも、これでいいんだ」

ライルは自身の足元の土を、ブーツの底でしっかりと踏みしめた。

あの夜、王宮の晩餐で金貨五万枚という途方もない数字に打ちのめされ、己の無力さを思い知った日。ライルは「スライム狩りからやり直す」と心に誓った。


焦って強い魔獣に挑むのは、英雄気取りのただの自己満足だ。

鋼鉄の剣を手に入れたからといって、魔法の工夫を少し思いついたからといって、自分たちの根本的な未熟さが魔法のように解決するわけではない。

だから彼らは、第一層すら今の自分たちには身に余る狩場だと自らを戒め、こうして誰でもできる休耕地の依頼を泥まみれになって反復し続けていたのだ。


「不思議なもんだな」

アルドが背中の鋼鉄剣の重みを確認するように腰を回しながら、笑った。

「最初の頃はスライム一匹相手に死にそうになってたのに、今はこいつの突進の軌道が、止まって見えるぜ」

「基礎的な反復で、身体の連動が最適化された証拠です。派手な魔獣を狩らなくても、正しい負荷をかけ続ければ身体は育つということです」

セシルが手帳をパタンと閉じた。

「さあ、ギルドへ戻りましょう。今日の報告で、おそらく……届くはずですから」


夕暮れの冒険者ギルド、王都下部支部。

いつものように鉄と血と酒の匂いが充満する荒くれ者たちの吹き溜まりを、三人の少年が真っ直ぐに受付カウンターへと歩いていく。


「……スライムの魔石六個と、岩石撤去の完了証明サイン。確かに受領しました。査定額は銅貨十八枚です」

受付カウンターの奥から、無愛想な受付嬢が事務的な声で告げた。

一番最初の日に「犬死にしたくなければ影の長さをよく見なさい」と忠告してくれた、あの冷淡な女性だ。


「それと」

セシルがカウンターに身を乗り出し、ギルドカード代わりの『F』と刻まれた安っぽい木製のプレートを三枚差し出した。

「私たちのパーティの貢献ポイントの照会と……昇格審査をお願いします」


受付嬢は少しだけ眉を動かし、手元の分厚い魔道具の台帳に木製プレートをかざした。

台帳の表面に、魔力の光で幾つかの数字が浮かび上がる。それを見た彼女の目が、ほんのわずかに見開かれた。


「……討伐数、依頼達成数ともに、規定値をクリアしていますね。しかも」

受付嬢は台帳の文字を指でなぞりながら、信じられないものを見るように少年たちの顔を見た。

「この一ヶ月間、重傷によるクエスト失敗歴が『ゼロ』。加えて、ここ二週間は意図的に休耕地の低級依頼ばかりを受注し、確実な成功実績だけを積んでいる。……学生の余暇にしては、随分と理性的で、賢い泥水のすすり方を覚えたようですね」


「怖い思いをして、自分たちの身の丈を知りましたから」

ライルが静かに答えると、受付嬢は台帳を閉じ、カウンターの下から小さな木箱を取り出した。


「冒険者ギルド王都支部より、パーティ『放課後』の三名へ。これより貴方たちのランクを、最下層の『F』から、駆け出しの『E』へと昇格させます」


木箱から取り出されたのは、赤銅(あかがね)色に鈍く光る、三枚の真新しい金属プレートだった。

中央には、誇らしげに『E』の文字が刻まれている。


「……銅の、プレート」

ライルは差し出された冷たい金属の板を、震える手で受け取った。

木製のFランクプレートとは全く違う、ひんやりとした確かな重量感。


「おめでとうございます」

受付嬢が、初めてその口元にわずかな笑みを浮かべた。

「Fランクの六割が一年以内に死ぬか逃げ出すこのギルドで、貴方たちは最初の『ふるい』を生き残りました。Eランクからは、ギルドの資料室の閲覧権限が解放され、第一層の奥深い場所での薬草採取など、単価の良い指名依頼を受けることも可能になります。……ですが、ここからが本当の地獄です。銅の重さに浮かれて、森の養分にならないことですね」


「忠告、感謝します」

ライルが深く頭を下げ、三人はギルドの外へ出た。


王都の空は、すでに深い茜色に染まっていた。

「やった……やったぞ、ライル、セシル!」

アルドが首から下げた銅のプレートを握りしめ、夜空に向かって無邪気な雄叫びを上げた。

「俺たち、Eランクだ! もう木っ端のFランクじゃねえぞ!」


「ふふっ……ええ、地道な資本の積み上げが、ようやく最初の目に見える利益(ステータス)を生み出しましたね」

セシルもまた、夕日に反射する銅の輝きを満足げに見つめている。


ライルは首元の冷たい金属の感触を、服の上からそっと確かめた。

王宮の宝物庫にある純金や白金(プラチナ)の宝飾品に比べれば、銅など道端の石ころのような価値しかない。

だが、この傷一つない真新しい銅のプレートは、親がくれたものでも、王族の血がもたらしたものでもない。自分たちが泥にまみれ、自分の弱さを認めて、這いつくばって掴み取った「最初の証明書」だった。


「今日は俺の奢りだ! 屋台の串焼き、一人五本ずつ食おうぜ!」

「アルド、あなたの奢りと言っても、原資は私たちの共有財産ですが」

「細かいこと言うな! 今日は祭りだ!」


夕闇に包まれる王都の喧騒の中、三人の少年の誇らしげな笑い声がいつまでも響いていた。


翌日。

ベルクンド王立貴族階級学校の、広大な屋外演習場。

初夏の足音が近づき、じりじりとした強い日差しが白砂の上に照りつける中、百名近い上級生たちが息も絶え絶えになってグラウンドを走っていた。


「足が遅いぞ! 貴様ら、それでも誇り高き王国の次代を担う貴族か!」


白銀の胸当てを身につけた教官が、魔道具の拡声器を使って容赦ない怒声を浴びせている。

本日の午前の講義は『基礎体力演習』。生徒たちは皆、実戦を想定した重さ十キロ近い革鎧と木盾を装備させられ、演習場の外周を十周させられるという過酷なカリキュラムの真っ最中だった。


「はぁっ、はぁっ……くそっ、なんでこんな……平民の歩兵みたいな真似を……」

第一王子ギリウス派に属する伯爵家の子息が、汗で前髪を顔にへばりつかせながら呪詛のように呟く。

「僕たちは……美しい魔法で……後方から指揮を執れば……それでいいはずなのに……」


周囲の貴族生徒たちも皆、重い装備と暑さに耐えきれず、顔を真っ赤にして足を引きずっている。中にはすでに膝をつき、嘔吐している者すらいた。

彼らにとって「体力」とは、夜のサロンで優雅にダンスを踊るためのものであり、太陽の下で泥臭く汗を流すこと自体が身分に合わない屈辱だった。


だが、その惨状の集団から少し離れた先頭集団に、全く息を乱していない二つの影があった。


「なぁ、ライル。……この鎧、中に綿でも詰まってんのか? 軽すぎて着てる気がしねえんだけど」

アルドが、退屈そうにあくびを噛み殺しながら並走している。

「学校の演習用防具だからね。怪我をしないように、革を極限まで薄く鞣(なめ)して軽く作ってあるんだよ」

ライルもまた、涼しい顔で一定のペースを保って走っていた。


二人の額にはうっすらと汗が浮かんでいるものの、呼吸は全く乱れていない。

休耕地で重い岩を抱えてスクワットを続けてきたアルドと、命懸けの回避運動を繰り返してきたライルにとって、整地された平らな白砂の上を一定のペースで走るだけなど「準備運動」にすら満たない負荷だった。


「はぁっ、はぁっ……あなたたち、前衛組の無駄な体力には……呆れますね……」


二人のすぐ後ろから、かすれた声が聞こえてきた。

振り返ると、セシルが汗でずり落ちる眼鏡を何度も押し上げながら、必死の形相で二人の背中に食らいついていた。


「おお、セシル! お前も意外とやるじゃねえか。てっきり他の奴らみたいに倒れてるかと思ったぜ」

「ふざけ、ないで、ください……。商人たるもの、投資した分の……講義の元は、取る主義でして……!」


セシルは息も絶え絶えで、体力は明らかに限界に近い。

だが、彼は決して足を止めようとはしなかった。森の奥で角兎の突進から逃げ回り、死の恐怖を肌で味わった彼にとって、安全な白砂の上を走るだけの演習は、ただの「苦しいだけの運動」であり、心が折れるような絶望ではなかったからだ。


「おい、ライル殿下とバルツァーの奴……なんであんなにケロッとしてるんだ?」

「その後ろのクライン商会の奴もだ。商人上がりの分際で、しぶとい……」

後ろから聞こえてくる同級生たちの訝しむような声を、ライルは静かに聞き流した。


王宮の権力闘争や魔法の知識では、まだ兄たちには遠く及ばないかもしれない。

だが、この「大地を踏みしめて走る力」という、生き物としての最も根源的な強さにおいてだけは、自分たちは確実に前に進んでいる。

必死に走るセシルの足音を聞きながら、ライルの胸の奥には、確かな連帯感と心地よい風が吹き込んでいた。


その日の昼休み。

いつもの旧厩舎の裏手。涼しい日陰に腰を下ろした三人は、水筒の水を回し飲みしながら、今後のパーティの指針について話し合っていた。


「なぁ、セシル」

アルドが、首から下げた真新しい銅のプレートを指で弾いてチャリンと鳴らした。

「俺たちもいよいよEランクだ。これでようやく、第一層のドブさらいを卒業して、森の『第二層』ってやつに挑戦できるんじゃねえか?」


アルドの瞳には、少年のように無邪気な好奇心と、少しばかりの慢心が浮かんでいた。

「今の俺なら、鋼鉄の剣も鉈(なた)みたいに振り下ろすことくらいはできるようになった。Eランクになれば、そういう強い魔獣の依頼も受けられるんだろ?」


その言葉を聞いた瞬間、まだ演習の息の上がりが完全には引いていないセシルが、手に持っていた分厚い手帳を、パタン! と大きな音を立てて閉じた。


「……寝言は、寮のベッドに帰ってからにしてください、アルド」

セシルの眼鏡の奥の瞳が、絶対零度の冷たさを帯びてアルドを射抜いた。


「うっ……なんだよ。俺、なんか変なこと言ったか?」

「変なことどころではありません。自殺志願者の妄言です」


セシルは手帳を広げ、ギルドの資料室から書き写してきた『冒険者死亡率データ』のページをアルドの目の前に突きつけた。

「よく聞いてください。Eランクというのは『初心者を脱した』というだけの免罪符です。森の『第二層』……森狼(フォレストウルフ)やオークが群れをなす暗緑の領域は、ギルドの規定では『Dランク、あるいはCランク以上のベテラン』が立ち入る領域です」


セシルは羽ペンの尻で、アルドの額をコツンと突いた。

「Eランクに上がったばかりの子供が、ただ重い剣を『一回振り下ろせるようになっただけ』で足を踏み入れれば……三分で喉笛を噛み切られて終わりです。銅のプレートは、魔獣の牙を防ぐ盾にはなりませんよ」


「……っ」

アルドは返す言葉もなく、シュンと肩を落とした。


「セシルの言う通りだよ、アルド」

ライルもまた、真剣な顔で頷いた。

「僕の魔法だって、感知の精度はまだ曖昧だし、風の魔法も相手の体勢を少し崩すのがやっとだ。第二層で群れを相手に立ち回れるような技術は、まだ何一つ持っていない。……スライム狩りで基礎を固め直した意味を、自ら放り投げるべきじゃない」


「……わかったよ。俺が調子に乗ってた。すまねえ」

アルドが素直に頭を下げると、セシルは小さくため息をつき、口調を少しだけ和らげた。


「わかればいいんです。……では、我々パーティ『放課後』の次なる目標を設定します」

セシルは手帳の新しいページを開いた。

「現在の我々の弱点は『防具の圧倒的な不足』です。全財産をアルドの武器に注ぎ込んだため、ライルは平民の布服、私は薄い外套しか着ていません。これでは不慮の奇襲を受けた際、即死を免れません」


セシルは眼鏡を光らせ、三人の顔を見回した。

「次の目標は『パーティ全員の装備水準を、鋼のレベルに引き上げること』。……そして、その資金を稼ぐための狩場は、第二層などではなく『第一層の最深部』です」


「第一層の最深部……」

「はい。第一層と第二層の境界線ギリギリのエリア。そこなら、高値で売れる希少な薬草が群生しており、浅瀬の魔獣よりも魔石の純度が高い個体が現れます。……Eランクの身分証明があれば、この『境界エリアでの指名依頼』を受けることができるのです」


セシルは力強く宣言した。

「背伸びをして上の階層で死ぬのではなく、今の自分たちのテリトリー(第一層)を、隅から隅まで完全に支配する。それが、プロの商人と冒険者のやり方です。……異論はありますか?」


「ない。……完璧な作戦だ」

ライルが力強く頷き、アルドもまた「なるほどな。第二層へ行くのは、俺たちが第一層の王様になってからってことだな!」と、再び顔を輝かせた。


調子に乗りかけた少年たちを、冷徹な理詰めと現実的な目標でしっかりと地に足をつかせる。

セシルという優秀なブレーキ役がいる限り、このパーティは決して無駄死にすることはない。ライルは親友の頼もしさに、思わず口元をほころばせた。


「さあ、そうと決まれば、今日も放課後の準備です。……これからは、少しだけ森の奥に入りますよ」

「おう! 稼いで、お前らの分も鋼の鎧を買ってやるからな!」


旧厩舎の裏手に、三人の少年たちの明るく、そして以前よりもずっと地に足のついた笑い声が響き渡る。

彼らの冒険は、焦ることなく、泥臭く、しかし確実に、森の奥へと向かって一歩ずつ進み始めていた。

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