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泥濘(ぬかるみ)の王杖 〜泥をすすり、痛覚を刻む第三王子の王国変革録〜  作者: げりっぱ
第1章 放課後の冒険者

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第7話:重すぎる鋼と、ちっぽけな銀貨

「うわあああっ! こっちに来るぞ、ライル!」

「アルド、右だ! 根っこに気をつけろ!」


魔物の森、第一層。

鬱蒼と茂る広葉樹の樹冠に太陽の光が遮られた薄暗い空間で、情けない悲鳴と怒声が交錯していた。

赤褐色の腐葉土を豪快に蹴り上げながら猛進してくるのは、大人の腰ほどもある巨大な牙猪(ファングボア)だ。血走った双眸と、天に向かって湾曲した二本の牙。怒りに我を忘れた百数十キロの肉の塊が、防壁を砕く破城槌となって真っ直ぐに突っ込んでくる。


「生活魔法――『土(アース)』ッ!」


後衛のライルが必死の形相で指先を突き出し、魔力を放つ。

狙ったのは牙猪の足元。土を泥濘(ぬかるみ)に変えて突進を止める作戦だった。しかし、極度の緊張と恐怖で指先が震え、術式の指向性が大きくブレた。


ボコッ、と間の抜けた音がして泥濘と化したのは、牙猪の足元から半歩ずれた場所だった。


「外れてるじゃねえかッ!」

「ごめん、アルド! 避けろ!」


突進の勢いを全く殺していない牙猪が、アルドの正面へと迫る。

「くそったれがぁッ!」

アルドは剣で受けることを諦め、無様に横へとダイブした。ズザーッ! と胸当てが泥を抉り、アルドの身体が腐葉土の上を無様に転がる。

空を突いた牙猪は、そのまま真っ直ぐ背後の大樹の幹に激突した。ドガァァンッ! と森を揺るがすような轟音が響き、頭頂部から木の葉がバラバラと降り注ぐ。


「ブギィィィッ!?」

脳震盪を起こしたのか、牙猪が木の根元でふらふらとよろめいた。


「今です、アルド! 喉元を!」

少し離れた大岩の陰から、セシルが裏返った声で叫ぶ。


「言われなくてもッ!」

泥まみれで跳き起きたアルドが、雄叫びを上げながら牙猪の横っ腹へ飛び込んだ。

刃こぼれだらけの鉄剣を両手で力任せに握りしめ、無防備な首筋へ向けて体重ごと突き立てる。


「死ねぇぇぇッ!」

ズブッ、と嫌な感触とともに、鉄剣が分厚い脂肪と筋肉を強引に引き裂いた。

ブシュゥゥッ! と温かく生臭い血の飛沫が噴き出し、アルドの顔面と革鎧を真っ赤に染め上げる。牙猪は一度だけ大きく後ろ足で痙攣するように地面を蹴ると、そのまま重い音を立てて絶命した。


「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

「や、やった……倒した……!」


アルドが血塗れの剣を握ったままその場にへたり込み、ライルも膝に手をついて肩で激しく息をした。

決して昨日思い描いていたような「洗練された連携」などではない。魔法は外れ、泥にまみれ、ただ運良く木に激突してくれた魔獣の隙を突いただけの、みっともない勝利だ。一つ間違えれば、アルドの胴体はあの牙で風穴を開けられていた。


「怪我は……ないか、二人とも」

岩陰から出てきたセシルも息を切らし、平民用に仕立てられた麻のズボンの裾を泥で汚していた。


「あ、ああ……どうにかな。血の半分以上は、こいつのだ」

アルドが顔の血糊を袖で乱暴に拭いながら、牙猪の死骸を見下ろす。

「危ねえところだったぜ。ライル、お前の魔法の狙いがズレた瞬間、本気で死んだと思ったぞ」

「本当にごめん……頭では分かっていたのに、いざ突っ込んでくる牙猪を見たら、膝が震えて魔力の制御が飛んでしまったんだ」

「へっ、気にするな。最後に勝って立ってた方が偉いんだよ、森じゃな」


アルドは手慣れた、だがまだどこかおぼつかない手つきで短刀を抜き、牙猪の胸を切り開いて親指大の魔石を抉り出した。ライルが身にまとう粗末な平民服にも、跳ねた泥の染みが無数にこびりついている。


「セシル……これで、どうだ?」

ライルが泥だらけの手で水筒をアルドに渡し、セシルへと視線を向けた。


セシルは皮袋からこれまでに貯めた魔石や銅貨を取り出し、手帳の切れ端に羽ペンで計算を始めた。

「ええと……この二週間で狩った角兎の毛皮代と魔石、それに今日の牙猪の魔石を合わせれば。……ギルドの換金手数料を差し引いて」


セシルの羽ペンがピタリと止まる。

眼鏡の奥の瞳が見開かれ、いつも冷静な豪商の息子が、ひどく間の抜けた声を出した。


「……越えました」

「えっ?」

「一千枚です。銅貨一千枚。つまり……純銀貨、十枚分です」


その言葉が落ちた瞬間。

鬱蒼とした森の静寂の中で、三人の少年たちは顔を見合わせた。


「……銀貨、十枚」

アルドが呆然と呟く。

「十枚だ! ライル、セシル、十枚貯まったぞォォォッ!!」


「やった! やったなアルド、セシル!!」

「ははっ、本当に……本当にやりましたね、私たち!」


それは、王族の矜持も、下級貴族のメンツも、豪商の体面も完全に投げ捨てた、ただの十七歳の子供たちによる無邪気な歓喜だった。

ライルは泥まみれのアルドの背中に飛びつき、セシルも手帳を放り投げて二人の肩を抱きしめた。血と泥の臭いが混じり合う中、三人は円陣を組むようにして跳き飛び、声を上げて笑い合った。


王宮の金庫からすれば、ちり紙にも等しい金額だ。

だが彼らにとって、毎日放課後に死に物狂いで森を這いずり回り、学食のスープ代すら切り詰めて、ようやく手に入れた「自分たちだけの全財産」の重みは、世界の何よりも輝いて見えた。


「行くぞ、石炭街へ! 念願の鋼鉄の剣だ!」

「ギルドで換金したら直行しましょう! ドワーフの工房が閉まる前に!」


三人は魔獣の死骸から必要な素材だけを乱暴に剥ぎ取ると、足の疲労も忘れて、王都の防壁へ向けて駆け出した。


王都外縁、石炭街。

夕暮れの空をさらに黒く染め上げる、ドワーフの鍛冶工房群の煙。

肌を焼くような熱気と、金属を叩く轟音の中を、三人は目を輝かせながら一番大きな直売所へと飛び込んだ。


「親父さん! この前の『鋼鉄の直剣』と『黒鉄の鎖帷子』をくれ!」


カウンターに、ズシリと重い麻袋が置かれた。中にはギルドで換金してきたばかりの純銀貨が十枚、鈍い光を放っている。


店番をしていた筋骨隆々の若いドワーフは、目の前の泥まみれで血の匂いをさせた少年たちを見て、面白そうにニヤリと笑った。

「おうおう、威勢のいい坊主どもだ。本当にあの額を自分たちで稼いできやがったのか。いいだろう、金は確かに受け取った」


ドワーフが店の奥から、分厚い布に包まれた片手剣と、油で丁寧に手入れされた鎖帷子を持ってくる。

「ほらよ。ドワーフ鍛冶ギルドの太鼓判付きだ。骨の硬い森狼(フォレストウルフ)の首だろうが、一刀両断にしてくれるぜ」


「すげえ……!」

アルドは震える手で、その鋼鉄の剣の柄を握った。

王宮の儀礼剣のような派手な装飾はない。だが、鍛え抜かれた鋼特有の波紋が刀身に浮かび、指を当てればスッと皮膚が切れそうなほどの鋭利な殺意を帯びている。


「アルド、早く振ってみてくれよ」

ライルが興奮を抑えきれない声で急かす。


「おう! 見てろよ、これで俺も一端の剣士だ!」

アルドは店の前のわずかな空き地に出ると、脚を開き、意気揚々と上段から剣を振り下ろした。


ブンッ! と、空気を裂く重い音が鳴る。

だが――その直後。


「おわっ!?」

アルドの身体が、剣の勢いにそのまま引っ張られるようにして大きく前のめりになり、無様に地面に手をついて転倒した。


「……え?」

ライルとセシルが目を丸くする。

「アルド、どうしたんだ? 足が滑ったのか?」


「ち、ちげえよ……なんだこれ」

アルドは顔を真っ赤にして立ち上がり、もう一度剣を構えようとした。だが、その太い腕の筋肉が、プルプルと情けなく痙攣している。

「重い……。ただ持ってるだけならいけそうだったのに、いざ振ろうとすると、切っ先から根元まで金属の塊の重力がそのまま手首と肩に乗っかってきやがる。体幹が持っていかれて、踏み込みもクソもねえ……!」


それを見て、カウンターの奥で腕を組んでいたドワーフが、腹を抱えてガハハと大笑いした。


「当たり前だ、坊主! お前らが今まで使ってたペラペラの安物鉄剣と、ドワーフの密度の高い『鋼鉄』が同じ重量なわけがねえだろうが!」

ドワーフは木樽からエールを飲みながら、呆れたように言い放った。

「武器ってのはな、ただ切れ味が良けりゃ強くなれる魔法の杖じゃねえ。その重てえ鋼鉄の遠心力を、背筋と下半身の『体幹』で完全に制御できて、初めて武器として完成するんだ。……ひょろひょろの十七歳のガキの筋肉じゃ、ドワーフの鋼を振り回すにはあと三年は早いぜ!」


「さ、三年……!?」

アルドが絶望的な声を上げる。


「ドワーフの旦那。それでは、アルドにはこの剣は使えないということですか?」

セシルが眼鏡を押し上げながら、深刻な顔で尋ねた。


「使えないこたぁねえが、魔獣の前でさっきみたいに体勢を崩せば、一撃で喉を噛み切られるだろうよ。今の坊主に必要なのは、新しい武器じゃねえ。その武器を扱えるだけの『基礎的な筋力と体幹』だ」


ライルは頭を抱えた。

銀貨十枚。あんなに死に物狂いで、泥水をすすって稼いだ夢の金額。それを払って最強の武器を手に入れれば、一気に森の第二層へ行けると無邪気に信じ込んでいた。

だが、現実は残酷だ。武器だけが一人歩きして強くなっても、彼ら自身の十七歳の未熟な肉体が、全くそれに追いついていなかったのだ。


「……馬鹿みたいだな、僕たち」

ライルは力なく笑った。

「剣を買えば強くなれるなんて、絵本の中の英雄気取りだった。現実は、武器の重さに振り回されるただの子供だ」


「くそっ……俺の腕力が足りねえばっかりに……」

アルドが悔しそうに鋼鉄の剣を見つめる。


「落ち込むのは後です」

セシルがため息をつきながら、皮袋の残りの小銭を数えた。

「装備が手に入った以上、あとはアルドの筋力が追いつくまで、この剣を振る特訓を続けるしかありません。第二層への挑戦は延期。明日からはまた、第一層での地道な小銭稼ぎと、基礎体力の向上に時間を割きますよ」


三人の少年たちは、手に入れたばかりの分厚い鋼の剣と鎖帷子を抱え、まるで重い十字架を背負った巡礼者のような足取りで、夕暮れの石炭街を後にした。

さっきまでの森での無邪気な歓喜はすっかり冷え切り、身の丈に合わない現実の重さだけが、彼らの両肩にずしりと圧しかかっていた。


翌日。ベルクンド王立貴族階級学校の、午前の講義。

窓から差し込む心地よい春の陽光の中で、教壇に立つ文部省出身の老教官が、建国史の年号を単調な声で読み上げていた。


「――して、王国歴百二十年。当時の国王は辺境の小領主どもを統合し、現在の八省体制の基礎となる法案を……こら、そこのバルツァー男爵令息!」


ビシッ! と、チョークが空を切って飛んだ。


「ふぐっ!?」

最前列に近い席で、口を開けて盛大に舟を漕いでいたアルドの額に、白いチョークが綺麗に命中した。

「痛ぇ! な、なんだ魔獣か!?」

「魔獣ではない! 私の講義だ! 貴様、昨日も演習場で動きが鈍かったそうだな。夜な夜な王都の歓楽街で遊び呆けているのではないか。武門の恥晒しめ!」


教官の雷が落ち、周囲の貴族生徒たちがクスクスと嘲笑を漏らす。

だが、アルドは反論する気力すらないのか、額をさすりながら「すんません……」と力なく突っ伏してしまった。


無理もない、とライルは後ろの席から重い瞼をこすりながら思った。

この二週間、放課後になれば休む間もなく森へ入り、命懸けで泥の中を這いずり回る生活を続けてきたのだ。しかも昨日の夜は、あの重い鋼鉄の剣を自分のものにしようと、アルドは王都の裏路地で深夜まで素振りを続けていた。

十七歳の成長期の肉体には、体力と回復力の限界がとうに訪れていたのだ。


(……僕も、人のことは言えないな)


ライルはこめかみを指で強く押し、どうにか落ちてきそうになる瞼を支えた。

指先に力を込めて魔法の精密操作を行うたび、魔力回路だけでなく脳の神経そのものが焼け焦げそうに疲弊する。身体中に残る打撲の痛みと、泥の冷えからくる微熱。

王宮のふかふかのベッドで眠っても、身体の芯に溜まった鉛のような疲労は全く抜けなかった。


「……放課後の冒険者なんて、格好いい言葉で酔っていただけだ」

ライルはノートに無意味な線を走り書きしながら、小さく自嘲した。

学校の授業をこなしながら、冒険者としての過酷な命のやり取りを続ける「二足のわらじ」。そんなものは、無限の体力を持つ英雄にしかできない芸当だ。心も体も未熟なただの子供が背伸びをすれば、こうしてあっという間に限界が露呈する。


「ライル殿下。先ほどからノートの同じ場所に円を書き続けておられますが、何か深遠な思索でも?」

今度はライルに矢の矛先が向いた。

教官の嫌味な声に、ライルはハッと顔を上げる。


「い、いえ……申し訳ありません」

「第三王子ともあろう方が、みっともない。グリード殿下は今朝も早くから法務の議論を戦わせておられたというのに。少しは兄君を見習いなさい」


周囲の生徒たちの嘲笑が、今度はライルへと向けられる。

「やはり無害なだけの出涸らしだ」「あれでは王位など夢のまた夢だな」

心無い囁きが、ひどく遠くの雑音のように聞こえた。


ライルは黙って頭を下げた。

悔しさよりも、圧倒的な疲労感と、自分がいかにちっぽけな存在であるかという無力感だけが、胸の奥を冷たく満たしていた。


その日の夜。

ベルクンド王城の、豪奢な晩餐の間。

磨き上げられた大理石の床に深紅の絨毯が敷かれ、数十個の魔石を使った巨大なシャンデリアが、昼間と見紛うほどの強烈な光を落としている。


ライルは、冷めかけた白身魚のローストをフォークでつつきながら、静かな息を吐いた。

長いマホガニーのダイニングテーブルには、国王ガイルを中心に、第一王子ギリウスと第二王子グリードが座り、いつものように政治の主導権を巡る火花を散らしている。


「――軍事大臣から報告が上がっている。北の国境付近で、隣国の小競り合いが増加していると」

父王ガイルが、ワイングラスを揺らしながら低い声で口火を切った。

「ギリウス。お前は魔法ギルドと合同で、王都での大規模な魔法演習を計画していたな。その予算、金貨五万枚。……これを、国境警備の増強に回すべきだという声が一部の貴族から上がっているが、どう答える」


「愚問です、父上」

長兄ギリウスが、優雅な手つきで口元をナプキンで拭い、自信に満ちた笑みを浮かべた。

「隣国の小競り合いなど、ただの牽制に過ぎません。それに乗じていちいち軍を動かせば、それこそ国庫の無駄遣い。王都にて、金貨五万枚を費やした『絶対的な魔法の威容』を空に示せば、隣国など恐れをなして即座に兵を引くでしょう。これこそが、戦わずして勝つ王者の戦術です」


「見栄と花火に金貨五万枚とは、恐れ入りますね」

次兄グリードが、フォークを置いて鼻で笑った。

「僕なら、その半分の金貨二万五千枚で、辺境の武門貴族から三千の私兵を徴用し、国境線に張り付けますよ。魔獣の森の境界で鍛え抜かれた連中の槍の方が、空に打ち上げる火炎球よりよっぽど隣国の喉元を冷たくさせられるはずだ」


「野蛮な平民の傭兵をかき集めて何になる。軍の統率を乱すだけだ」

「統率など、実力でねじ伏せれば済むことです」


二人の兄の言葉の応酬が、右から左へと流れていく。

ライルはテーブルの下で、制服のポケットに手を入れた。


指先が触れたのは、皮袋の中に残った、たった数枚の銅貨だった。

あんなに死に物狂いで、泥水をすすって、アルドの腹に傷を作ってまで稼ぎ出した、銀貨十枚。そのすべてを鋼の剣に換え、残ったのはこの僅かな銅貨だけだ。


(金貨、五万枚……)


ライルの脳裏で、途方もない数字が空回りする。

自分たちが手に入れた銀貨十枚は、金貨に換算すればたったの「十分の一枚」にしかならない。

兄たちが夕食の席で、ワインを傾けながら涼しい顔で動かそうとしている予算は、ライルたちがこの二週間で稼いだ全財産の『五十万倍』だ。


動員する兵力は三千人。

かたや自分たちは、三人だけのパーティ。しかもそのうちの一人は、買ったばかりの剣の重さに振り回されて転ぶ未熟な少年で、もう一人は授業中に居眠りをしてチョークを投げられる出涸らしの王子だ。


(……ちっぽけだな)


ライルはポケットの中で、銅貨を強く握りしめた。

「理不尽をぶっ壊す」「本当の力を手に入れる」。屋台の親父の前でエルフに助けられた夜、あんなに熱く語った自分の覚悟が、いかに世界の規模を知らない子供の戯言であったかを、今になって骨の髄まで思い知らされていた。


王宮という巨大な歯車から見れば、ライルたちが森の浅瀬で魔獣を狩り、銀貨を手にして無邪気に抱き合って喜んでいたことなど、ただの微笑ましい「泥遊び」でしかない。

この途方もない権力と財力の壁を前にして、自分一人がこっそり冒険者の真似事をしたところで、一体何が変わるというのだろう。


「……ライル。お前はまた、魂がどこかへ抜けているようだな」

不意に、父王ガイルの低い声が飛んできた。


ライルはハッと顔を上げ、背筋を正した。

「申し訳ありません、父上。少し、講義の疲れが残っておりまして」

「ふん。出涸らしなりに、机にしがみつく苦労はしているようだな」

ギリウスが冷笑し、グリードもまた興味なさそうに視線を外す。


「……失礼いたします。気分が優れませんので、部屋へ戻らせていただきます」

ライルは立ち上がり、深く一礼をして晩餐の間を後にした。

誰も、ライルの背中を引き留めようとはしなかった。


自室に戻ったライルは、豪華な天蓋付きのベッドに力なく倒れ込んだ。

シーツの滑らかな感触が、疲弊しきった身体を優しく包み込んでくれる。だが、その柔らかさが今はひどく居心地が悪かった。


「……僕に、何ができるんだろうな」


天井の魔道具ランプの鈍い光を見つめながら、ライルはぽつりと呟いた。

武器を買っても扱えない未熟な肉体。二足のわらじで限界を迎える体力。そして、兄たちが動かす国家という途方もないスケールを前にした、絶対的な無力感。

何もかもが足りていない。覚悟だけで現実が覆るほど、世界は甘くなかった。


ライルは寝返りを打ち、自分の手のひらを目の前にかざした。

白く滑らかだった指先には、木剣と鉄剣を握り続けたことでできた硬いマメが、確かに残っている。

爪の間に染み込んだ微かな土の汚れは、王宮の温水風呂でどれだけ洗っても落ちなかった。


(ちっぽけな泥遊びだ。……でも)


ライルはその手を、強く、血が滲むほど固く握りしめた。


(これは、僕が自分の足で踏みしめて、手に入れたマメだ。兄上たちが王座のクッションの上で動かす金貨五万枚よりも……僕には、この泥の汚れの方が信じられる)


すぐに世界を変える力なんてない。

アルドが鋼鉄の剣を自在に振れるようになるには、何ヶ月もかかるかもしれない。自分自身が、兄たちの政治に口を挟めるだけの影響力を持つ日など、一生来ないかもしれない。

それでも、ここで足を止めて王宮の温室に逃げ帰ることだけは、絶対に嫌だった。


「……明日は、休耕地でスライム狩りからやり直しだな」


ライルは目を閉じ、小さく笑った。

華々しい冒険譚の主人公にはなれない。なら、底辺の泥を這いずり回る無様な冒険者から、もう一度地道に始めればいいだけのことだ。


十七歳の少年は、身の丈に合わない現実の巨大さに打ちのめされながらも、ほんの少しだけ強くなった心の芯を抱きしめ、深い眠りへと落ちていった。

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