第6話:熱の代償と、鋼への遠い道のり
「よし。今日の放課後は、森の第一層(境界)を抜けて第二層まで行こう。もっと強い魔獣を狩って、昨日よりも早く力をつけるんだ」
昼休みの旧厩舎の裏手。セシルが買い込んできた硬い黒麦パンを早々にかじり終えたライルが、立ち上がりながらそう宣言した。
頭上には抜けるような青空が広がり、旧厩舎の屋根に降り注ぐ陽光が心地よい。だが、ライルの内側にはそれ以上に熱いものが渦巻いていた。
昨日の角兎討伐によるレベルアップの全能感。全身の血肉が作り替えられ、視界の輪郭が鋭く研ぎ澄まされたあの生々しい手応え。そして何より、消えた街灯の理不尽に対して「正面からぶっ壊す力をつける」と決断した夜の興奮が、ライルの双眸にはまだ色濃く残っていた。
だが次の瞬間、ゴツンッ! と硬く鈍い音が響いた。
「いっ……!?」
頭頂部に鋭い痛みが走り、ライルは思わずうずくまった。
見上げると、アルドが木剣の柄を握りしめ、かつてないほど険しい顔でライルを見下ろしていた。その野性味のある顔から、いつもの豪快な笑みは完全に消え失せている。
「……王宮のふかふかのベッドで一晩寝て、夢と現実の区別がつかなくなったか? 莫迦野郎」
「ア、アルド……?」
アルドはため息をつき、制服のシャツの裾を乱暴にまくり上げた。
そこには、昨日の角兎の突進で切り裂かれた脇腹が、分厚い包帯で固く巻かれているのが生々しく見えた。白い布には、まだ微かに滲んだ血の染みが赤黒く残っている。
「よく見ろ。あの突進がもう数センチ深ければ、俺は今日学校には来れず、お前らは俺の死体をギルドの霊安所に運んでたんだぞ」
アルドの声は低く、怒りよりも深い実感と警告に満ちていた。
「たかが浅瀬の魔獣一匹でこれだ。その奥の『第二層』ってのがどういう場所か、王立学校の教科書じゃ教わってねえだろうな。あそこは、群れで動く森狼や、鉄の棍棒を振り回すオークの縄張りだ」
アルドは木剣の切っ先で、地面の土を乱暴に削った。
「フォレストウルフは三匹一組で狩りをする。一匹が前衛の注意を惹き、残りの二匹が死角から後衛の足を噛みちぎる。オークの筋力は角兎の突進の比じゃねえ。薄っぺらい革鎧の上からでも、棍棒の一撃で内臓を破裂させてくる。……お前がいくら魔法の工夫を思いつこうが、いまの俺たちの装備と足捌きで行けば、三分でミンチにされて終わりだ。覚悟だけで生き残れるほど、森の現場は甘くねえんだよ」
「……っ」
ライルは言葉に詰まった。
脇腹の生々しい包帯を見て、昨夜の自分の「決意」がいかに浮ついて、周囲を見えなくさせていたかを殴りつけられたように思い知った。
「僕は……」
「アルドの言う通りです、ライル」
セシルが手帳を開きながら、冷ややかな声でアルドの言葉を継いだ。
「あなたの『風』による目潰しも、あの状況での奇襲だから一度だけ通用したに過ぎない。初めから殺意を研ぎ澄ませている魔獣の群れが相手なら、術式を編む前に喉笛を噛み切られます」
セシルは手帳のページを捲り、そこに記された数字を指の腹で叩いた。
「冒険者ギルドに登録されるFランクの初心者のうち、一年以内に死亡、あるいは再起不能の重傷を負う者の割合を知っていますか? およそ六割です。彼らは皆、数回の依頼でレベルアップの全能感に酔い、身の丈に合わない魔獣に挑んで死んでいく。……ギリウス殿下の理不尽に憤る気持ちは分かりますが、死んでしまえば、その怒りごと森の腐葉土の養分になるだけですよ」
二人の言葉が、ライルの熱に浮かされていた頭を急速に冷やしていく。
(まただ……)
ライルは自身の足元を見つめ、唇を噛んだ。
兄たちへの反発から冒険者という「逃げ場」を美化し、いざ厳しい現実に直面すれば、今度は「力をつける」という大義名分のもとに、仲間を死地へ引きずり込もうとしていた。
結局のところ、周囲の犠牲を顧みずに自分の理想を押し通そうとするその傲慢さは、自分が忌み嫌っているギリウスやグリードと何ら変わらないではないか。
「すまない、アルド……セシル。僕が、間違っていた」
ライルは地面の草を強く握りしめ、深く頭を下げた。王族としての矜持などそこにはない。ただ、無二の友を死地へ追いやる寸前だった己の浅薄さへの激しい自己嫌悪だけがあった。
「君たちの命を、僕の焦りで奪うところだった。……どうすればいい? あの理不尽をただ見ているだけじゃ、僕は狂ってしまいそうだ」
アルドは小さく鼻を鳴らし、木剣を草の上に放り投げてどっかりと腰を下ろした。
「……焦んじゃねえよ。俺だって、あんな第一騎士団のクソみたいな振る舞いは胸糞が悪りぃ。だがな、下から這い上がるには、泥をすする手順ってのがあるんだ」
セシルが眼鏡を押し上げ、手帳のページをペン先で叩いた。
「手順その一。まずは死なないための『鋼』を手に入れることです」
「鋼……?」
「そうです。今のアルドの刃こぼれした鉄剣と、安物の革鎧。これでは森の第二層の魔獣の攻撃は防げません。ドワーフの鍛冶工房で打たれた『鋼鉄の片手剣』と、急所を守る『鎖帷子』。最低でもこの二つを前衛のアルドに装備させる。……これが、第二層へ足を踏み入れるための最低条件です」
「それは、いくらくらいするんだ?」
ライルの問いに、セシルは冷静に数字を告げた。
「安く見積もって、銀貨十枚。銅貨にして一千枚分です」
「銀貨……十枚」
ライルは息を呑んだ。
昨日、初めて命を懸けて角兎を狩り、毛皮と肉まで売り払ってようやく手に入れたあの輝く銀貨。あれを十枚。昨日の一枚を入れたとしてもまだ残り九枚もある。
消耗品の補充やギルドの手数料を差し引けば、少なくともこれから十数回は角兎クラスの魔獣を狩り続けなければ到達しない額だ。王宮の金庫からすればちり紙のような端金だが、自分たちの命を削って稼ぎ出すには、途方もない労力と血の匂いが伴う。
「わかったでしょう? 怒りで世界は変えられません。変えられるのは、地道な資金と準備だけです」
セシルは手帳をパタンと閉じた。
「今日からしばらくは、森の第一層で『角兎』や『牙猪』を地道に狩り、確実に銀貨を貯める。これが我々『放課後』の当面のクエスト(目標)です。異論は?」
「ない。……やろう」
ライルは顔を上げ、しっかりと二人の目を見て頷いた。
高熱のように浮かされていた覚悟が、冷たく、硬く、重みのある本物の「意志」へと固まっていくのを感じていた。
午後の大講義室。
『高等戦術魔法および陣形論』の講義中、ライルはいつになく真剣にノートへペンを走らせていた。
教壇では、魔法ギルドの幹部でもある初老の教官(子爵家の当主)が、黒板に巨大な魔法陣の図解を描きながら誇らしげに語っている。
「――よって、戦場において最も効率的なのは、十名の魔法士が魔力を共有し、敵陣の中央へ広範囲の『火炎球』を投射することである。空間の魔力密度を飽和させ、一気に炸裂させるこの術式こそが、我ら貴族の血統が持つ優位性の証明である。野蛮な傭兵どもの剣戟や、知性なき魔獣の群れなど、この美しい殲滅魔法の前に一瞬にして灰燼に帰すのだ!」
講義室の生徒たちが「素晴らしい」「さすがは魔法ギルドの叡智だ」と感嘆の声を上げる。
これまでなら、ライルも「魔力効率を無視した見栄だけの無駄な殲滅魔法だ。森の中で火炎球など放てば、延焼で自分たちも焼け死ぬ」と心の中で冷笑し、窓の外を眺めていただろう。
だが今のライルは違った。
ノートに書き写しているのは、広範囲殲滅の理論ではない。教官が板書した「魔力の共有」と「指向性の圧縮」に関する基礎術式の構造式だった。
(この圧縮と指向性の理論……火炎球ではなく、僕の生活魔法の『風』や『土』に応用できないか?)
ライルはペンの尻を噛みながら、頭の中で昨日の角兎との戦闘をリフレインさせた。
風で目を潰すのは一度しか通じない。ならば、土の生活魔法で足元の土を瞬間的に『泥濘』に変えて踏み込みを遅らせることはできないか。風の魔法をアルドの背中から放ち、彼の突進速度を数分の一秒だけ加速させることはできないか。
「教官」
ライルは静かに手を挙げた。
講義室中の視線が、普段は決して発言などしない「無害な第三王子」へと一斉に集まる。
「なんだ、ライル殿下。私の陣形論に何か質問でも?」
教官が怪訝そうに眉をひそめた。
「魔力の指向性圧縮についてです。広範囲に拡散させるのではなく、魔力の大半を術式の『安定性』に回し、威力を極小の点に絞り込む場合……例えば、半径三十センチの範囲だけを即座に陥没させるような術式を組む場合、魔力回路への負荷と発動までの遅延はどのように計算すればよいのでしょうか?」
教官は一瞬きょとんとした後、鼻でせせら笑った。
「全くナンセンスな質問ですな。殿下は魔法を、農夫の土木作業か何かと勘違いしておられるのではないか? 我々貴族の高等魔法は、いかに広範囲の敵を圧倒し、王国の権威を知らしめるかが重要です。ちまちまと極小の範囲に絞り込むなど、魔力の無駄遣い。暗殺者のような卑しい思考ですぞ」
生徒たちの間から、失笑が漏れる。「殿下は泥遊びがお好きなようだ」という囁きすら聞こえた。
「……なるほど。広範囲殲滅以外は、貴族の美学に反するのですね。よく分かりました」
ライルは静かに一礼し、席に座った。
(聞く人間を間違えたな。ならば、教本から基礎理論だけを抜き出して自分で組み直すしかない)
ライルはノートに視線を落とす。
その瞳に落胆はなかった。教官に否定されようと、周りに嘲笑されようと関係ない。この忌み嫌っていた「貴族の高度な教育」すらも、ライルにとってはこれからの森を生き抜き、銀貨を稼ぎ、理不尽をぶっ壊すための『武器』に他ならなかった。
使えるものは、何でも吸収する。泥をすする手順を踏むと決めた今のライルには、無駄なプライドなど一片も残っていなかった。
放課後。
三人が向かったのは、冒険者ギルドではなく、王都の外縁部に位置する「石炭街」だった。
もうもうと立ち込める黒煙と、肌を焼くような強烈な熱気。
王城の白亜の輝きとは対極にある、黒く煤けたレンガ造りの工房が建ち並ぶ一角。ここが、大陸横断組織の一つ『鍛冶ギルド』の直営工房街だった。
「うおっ、すげえ熱気だな……」
アルドが額から吹き出す汗を乱暴に拭いながら、工房から響いてくる凄まじい金属音に目を細めた。
キンッ、ドゴォォンッ! と、巨大なハンマーが真っ赤に焼けた鋼を打つ轟音が、腹の底までびりびりと響いてくる。道端には、廃棄された粗悪な鉄くずや、燃え尽きた石炭の灰がうず高く積まれている。
「とりあえず、目標となる装備の下見と、相場の確認です」
セシルが手帳を片手に、一番大きな工房の直売所へと入っていく。
店内には、むせ返るような鉄と油の匂いが充満していた。
王宮の近衛騎士たちが帯びるような、柄に宝玉が埋め込まれた儀礼用の美しい剣などここには一本もない。
あるのは、分厚く、無骨で、刃の重みだけで魔獣の骨と肉を断ち切るために打たれた【本物の殺意を帯びた武器】の数々だった。
壁には手入れの行き届いた鎖帷子や、金属板を編み込んだ強固な胸当てが隙間なく吊るされている。
ライルは、木箱の上に無造作に置かれていた一振りの片手剣に目を奪われた。
装飾は一切ない。だが、刃の表面には鍛え上げられた証である幾重もの波紋が浮かび、微かな明かりを反射して鈍く冷たい光を放っていた。
「……触ってもいいか?」
店番をしていた筋骨隆々の若いドワーフに尋ねると、「刃こぼれさせるなよ」と短い声が返ってきた。
ライルはそっと、その鋼鉄の片手剣の柄を握った。
(重い……!)
貴族学校の演習用の木剣や、アルドが使っている安物の鉄剣とは比べ物にならない、ずしりとした死の重量感。金属の密度が根本的に違う。これなら、角兎の黒角を正面から叩き折ることができるかもしれない。
「その『鋼鉄の直剣』、銀貨三枚だ。値引きはしねえぜ」
ドワーフが太い腕を組み、顎をしゃくって言った。
「隣の棚にある『黒鉄の鎖帷子』も合わせりゃ、銀貨十枚ってとこだな。俺たちドワーフの技術が詰まってる。命を預けるには安い買い物だ」
ライルは剣をそっと木箱に戻した。
自分たちの手元にあるのは、昨日稼いだ銀貨一枚だけ。
まだ、到底届かない。
だが、あの銀貨一枚の熱さを知っているからこそ、この銀貨十枚という目標は、決して夢物語ではないとライルは感じていた。自分の足で森を歩き、自分の腕で剣と魔法を振るえば、この手で掴み取ることができる確かな現実だ。
「……絶対に、これを手に入れる」
ライルは鋼鉄の剣を見つめたまま、静かに、だが確かな声で言った。
「銀貨十枚稼いで、アルドにこれを装備させて、森の第二層へ行くんだ」
「言うじゃねえか。その時は、俺がこの剣でフォレストウルフの群れを片っ端から捌いてやるよ」
アルドが獰猛に笑い、ライルの肩を力強く叩いた。
「まずは、明日の放課後からです。目標は角兎二匹、あるいは浅瀬に迷い込んだ牙猪一頭」
セシルが工房の熱気の中で、眼鏡を光らせながら手帳を閉じた。
「地道に、死なずに、確実に稼ぎますよ。……殿下」
「ああ」
ライルは工房の黒煙の向こう、西の空に広がる魔物の森のシルエットを見据えた。
遠回りで、泥まみれの道だ。だが、この道を自分の足で踏み越えた先にしか、自分が本当に欲しいものは手に入らないのだと、今のライルにははっきりと分かっていた。
三人の少年たちは、肌を焼く鍛冶工房の熱気の中、来るべき明日への重い覚悟を共に分け合っていた。
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