第5話:銀貨の重みと、消えた街灯
冒険者ギルド王都下部支部の解体場。
むせ返るような血の匂いと、獣の脂、そして内臓の饐えた臭いが入り混じるその一角で、分厚い革の胸当てをつけた解体屋の老ドワーフが、作業台に乗せられた角兎の死骸を値踏みするように見下ろしていた。
「……ほう」
老ドワーフは、太く短い指で角兎の硬い灰褐色の毛皮を撫で、次いで胸の中心にある小さな刺し傷へと目を向けた。
「風穴はここ一つだけか。心臓を正確に貫いていやがる。しかも刃の入り口がブレてねえから、毛皮の損傷は最小限だ。おまけに……なんだこりゃ。両目の表面だけが綺麗に乾涸びてやがる。どうやって仕留めた?」
「企業秘密です」
セシルが銀縁の眼鏡を押し上げながら、すかさず口を挟んだ。
「毛皮に血の汚れがなく、黒角も無傷。肉はこれから血抜きをしても十分に食用として卸せるはずです。もちろん、体内の魔石も傷ついてはいないでしょう。……素人の獲物だと足元を見ず、適正な査定をお願いしますよ、解体ギルドの旦那」
老ドワーフはギロリとセシルを睨んだが、すぐにニヤリと黄ばんだ歯を見せて笑った。
「言うじゃねえか、商会上がりのヒヨッコが。だが、腕は確かだ。この見事な一突き、ただのまぐれじゃできねえ。……よし、少し待ってな」
老ドワーフは鼻歌交じりに解体包丁を振るい始めた。
驚くべき手際だった。刃が関節の隙間を滑るように通り抜け、皮と肉が瞬く間に切り離されていく。最後に胸腔の中から、親指の先ほどの大きさの、濁りの少ない漆黒の魔石がコロンと木皿の上に取り出された。
その光景を、周囲のテーブルで安酒を飲んでいた荒くれ者の冒険者たちが、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「おいおい、嘘だろ……あのお坊ちゃん連中、本当に角兎を狩ってきやがったのか?」
「三人とも怪我一つしてねえぞ。Fランクの初陣で魔獣討伐だと? どこの騎士団の隠し子だ?」
昨日までは嘲笑に満ちていた視線が、明確な驚きと、わずかな畏怖を帯びたものへと変わっている。
ギルドという場所は、身分も血統も関係ない。ただ「森から生きて獲物を持ち帰った者」だけが無条件の敬意を払われる、絶対的な実力主義の生態系だった。
やがて、受付カウンターで査定額が提示された。
「角兎の毛皮と黒角、肉の卸代、そして魔石の買取価格。ギルドの手数料を差し引きまして……合計で、銀貨一枚と銅貨四十枚になります」
受付嬢の事務的な声とともに、カウンターの上に小さな銀貨が一枚と、赤銅色の硬貨の山が積まれた。
「銀貨……」
ライルは思わず息を呑んだ。
銅貨百枚で、銀貨一枚に相当する。
王宮の金庫には、この銀貨のさらに百倍の価値を持つ金貨が、数え切れないほど山積みにされている。王宮の侍従がライルの部屋に夜食の果実水を運んできたとき、心付けとして無造作に与えられるのがこの銀貨一枚だった。
だが今、ライルの目の前にあるこのたった一枚の銀貨は、王宮で見るそれとはまるで違う輝きを放っていた。
アルドが傷を負い、自分が魔力と剣を研ぎ澄まして、本物の殺意を持つ魔獣から命懸けで奪い取った対価。その重みは、ライルの手のひらを火傷しそうなほどに熱く焦がした。
「おいライル、ボーッとしてる場合じゃねえぞ」
アルドが銀貨を指先で弾き飛ばし、空中で見事にキャッチして笑った。
「分配はセシルに任せるとして、今日はとりあえず祝勝会だ。ギルドの酒場の薄いエールじゃねえ。大通りの屋台で、一番美味い肉串を腹一杯食おうぜ!」
「ええ、異存ありません。今日は特別に、私の取り分から果実水も奢りましょう」
セシルもまた、珍しく上機嫌に口元を緩めていた。
王都の庶民街、大通りに面した屋台の並ぶ一角。
日が落ち、気温が下がり始めた街の空気の中には、焼けた肉の脂の匂いと、香辛料の刺激的な香りが充満していた。
「親父! 角兎の串焼き、塩と香草を多めで五本! それから温かい果実水を三杯だ!」
「あいよ! 威勢がいいねえ、若い衆。今日は森でいい稼ぎでもあったのかい?」
「ああ、極上の奴を仕留めてきたところさ」
屋台の親父が魔道具コンロの火力を上げ、肉の焼ける凄まじい音が弾ける。
三人は通りに面した粗末な木箱に腰掛け、受け取った熱々の串焼きに食らいついた。
「――熱ッ、でも美味い!」
ライルは目を見開いた。
先ほど自分たちが狩ったのと同じ角兎の肉だ。野性味溢れる強烈な弾力と、噛み締めるほどに溢れ出す濃厚な肉汁。宮廷の料理人が何日もかけて臭みを消し去った上品な肉料理とは対極にある、暴力的なまでの「命の味」がそこにあった。
「だろ? 魔獣の肉は、獲れたてをこうして香草と一緒に強火で焼くのが一番美味いんだ」
アルドが串から肉を引き千切りながら、得意げに笑う。
「王宮の連中は、魔獣の肉なんて野蛮人の食い物だって顔をしかめるだろうがな。森の魔力を吸い込んだ肉を食えば、人間の身体も底から熱くなる。これが生きるってことさ」
「確かに、悪くないですね」
セシルも温かい果実水を一口すすり、串焼きを上品に、だが確かなペースで食べ進めている。
ライルは串焼きを咀嚼しながら、通りを行き交う人々の姿を見つめていた。
荷車を引いて帰路を急ぐ職人、店じまいをする商人、親の手を引かれてはしゃぐ子供たち。誰もが疲れ切った顔をしているが、その瞳には明日のパンを稼ぐための確かな活力が宿っている。
(……この街は、生きている)
昨日までの自分は、図書室の窓からこの街をただの「景色」として眺めていたに過ぎなかった。
けれど今は違う。自分もまた、森へ入り、魔石を稼ぎ、こうして同じ屋台の肉を食らい、同じ空気を吸っている。この生々しい営みの一部に、確実に足を踏み入れている。
「……ん?」
ふと、ライルの視界の端で、奇妙な光景が映った。
屋台の並ぶ大通りの等間隔に設置された、巨大な鉄製の街灯。
普段であれば、日没と同時に点灯夫が魔石の覆いを外し、温かい橙色の光が大通りを昼間のように照らし出す時間だ。
だが、今日はいつまで経っても、街灯に火が灯らない。それどころか、大通りの奥の方から、何やら怒声と揉み合うような音が聞こえてきた。
「なんだ、騒がしいな」
アルドが肉を咀嚼する手を止め、身を乗り出した。
「……親父さん、街灯が点いていないようですが、何かあったんですか?」
セシルが屋台の親父に尋ねると、親父はコンロの火力を弱め、忌々しげに舌打ちをした。
「ああ、お前さんたちも気をつけな。ついさっき、中央騎士団の連中がやってきてよ。商業ギルドが管理してる街灯用の『魔石』を、ごっそり徴用して行きやがったんだ」
「徴用……? 軍が、市井のインフラ用魔石を力ずくで持っていったというのか?」
ライルは思わず立ち上がった。
「軍って言っても、あいつら第一騎士団……ギリウス殿下の息のかかった連中だ」
親父は周囲を気にするように声を潜めた。
「なんでも、来月の『建国祭』で、ギリウス殿下が魔法ギルドと合同で、前代未聞の大規模な軍事魔法の演習を披露するらしい。そのための莫大な魔力を賄うために、市中に出回ってる高純度の魔石を一時的に供出せよ、って通達だ。逆らえば反逆罪だとか抜かしやがって」
ライルは絶句した。
「建国祭の……軍事魔法の演習だと? たかが権威を示すための見世物に、この街の灯りを奪ったというのか!」
「おい、声がでけえよライル」
アルドが慌ててライルの腕を掴んだ。
「王太子の座を巡る、焦りからの強行策でしょうね」
セシルが手帳を開きながら、冷ややかな声で分析した。
「ギリウス殿下は、実力で迫り来るグリード殿下に対して、魔法ギルドという強固な後ろ盾と、『圧倒的な軍事魔法の力』を見せつけることで、保守派の貴族たちを完全に掌握しようとしている。……そのためには、燃費の悪い見世物魔法を起動するための莫大な燃料(魔石)が要る」
「だからって、民の暮らしから光を奪うなんて……!」
「しっ、見ろ」
アルドが顎で指し示した先。大通りの向こうから、白銀の鎧に身を包んだ第一騎士団の小隊が、荷馬車を引いて歩いてくるのが見えた。
荷馬車の上には、商業ギルドや各商店から強引に徴収された魔石を詰め込んだ木箱が山積みにされている。
「そこの屋台! 貴様、魔道具コンロを使っているな。魔石供出令が出ているのが聞こえなかったのか!」
部隊を率いていた若い騎士が、ライルたちのいる屋台の親父に向かって怒鳴りつけた。
「冗談じゃねえ! こっちは商売なんだ。このコンロの魔石を持っていかれたら、明日からどうやって肉を焼けってんだ!」
親父が食ってかかるが、若い騎士は冷酷に剣の柄に手をかけた。
「平民風情が、次期国王たるギリウス殿下の大業に異を唱えるか。そのコンロの中の魔石は高純度だ。没収する」
騎士の背後にいた兵士たちが歩み寄り、屋台の魔道具コンロの蓋を乱暴にこじ開けようとする。
「やめろッ!」
ライルは無意識のうちに叫び、騎士と屋台の親父の間に割って入っていた。
「……ああん? なんだお前は。薄汚い冒険者のガキが、騎士団に楯突く気か?」
若い騎士が、見下すような視線をライルに向ける。
その目には、平民を同じ人間として見ていない、純粋な選民思想の濁りが浮かんでいた。貴族階級学校の講義室で、毎日ライルが見せつけられていたあの目だ。
ライルは拳を固く握りしめた。
体内の魔力が、主の怒りに呼応して熱く渦を巻き始める。指先一つ動かせば、この騎士を吹き飛ばすだけの『風』を放つことができる。
(ギリウス兄上……あなたは、こんなことをしてまで王になりたいのか)
「僕はどちらの兄上が王になっても支えるつもりだ」――そう嘯いていた自分の言葉が、いかに浅薄で、現実を知らない綺麗事であったかを、ライルは今、骨の髄まで思い知らされていた。
ギリウスが王になれば、この街は「見栄と権威」のために光を奪われ、凍えることになる。
グリードが王になれば、この街は「実力主義の戦争」のために兵站として絞り尽くされることになる。
「どけ。その汚い手で俺の鎧に触れたら、腕を切り落とすぞ」
騎士がライルを小突こうと手を伸ばした、その瞬間だった。
「――おっと、騎士様。そのへんにしておきなさいな」
横からスッと伸びてきた手が、騎士の手首を的確に、そして万力のような力で掴んで止めた。
「……っ!? 貴様、なんだ!?」
ライルが驚いて横を向くと、そこには先ほどギルドの酒場で見かけた、あのボロボロのフードを被った人物が立っていた。
隙間から覗く、長く尖った耳。エルフだ。
「この屋台のコンロに入ってる魔石は、純度が低くて煤まみれのクズ石だぜ。そんなもんをギリウス殿下の『輝かしい魔法演習』に混ぜてみろ。術式が濁って、演習場で大爆発を起こすのがオチだ。……あんた、殿下を暗殺する気かい?」
「な、なんだと……!?」
エルフの言葉に、若い騎士は顔を青ざめさせた。
軍事魔法における魔石の不純物がどれほど致命的な事故を招くか、騎士であれば当然知っている。
「ち、チィッ……! 今日はこれくらいにしておいてやる! 行くぞ!」
騎士はエルフの手を振り解き、逃げるように部下たちを引き連れて闇の中へと消えていった。
「……助かったよ、あんた」
屋台の親父がへなへなとその場に座り込み、安堵の息を吐いた。
ライルは呆然と、エルフの横顔を見つめていた。
「風が怒っているな、小僧」
エルフはライルを見下ろし、翠緑色の瞳を細めて低く笑った。
「良い怒りだ。だが、その怒りを今のちっぽけな器で爆発させても、自分を焼き尽くすだけだぜ。……お前が本気でその『理不尽』をどうにかしたいと思うなら、もっと深い風の根源を知ることだ」
エルフはそれだけ言い残し、足音も立てずに夜の街の雑踏へと姿を消した。
「ライル、無事ですか!」
セシルとアルドが駆け寄ってくる。
「……ああ。大丈夫だ」
ライルは握りしめていた拳をゆっくりと解き、自分の手のひらを見つめた。
そこには、さっきまで感じていた銀貨の温もりはない。代わりに、どうしようもないほどの自分の無力さと、王族としての血の業の冷たさがこびりついていた。
「セシル、アルド」
ライルは暗闇に沈んだ大通りを見据えたまま、二人に言った。
「僕は……逃げていたんだ」
「ライル……?」
「大地を知るとか、冒険者になるとか、耳触りのいい言葉を並べて、本当は、兄上たちのあの醜い権力争いから目を逸らしたかっただけだった。……でも、僕が逃げている間にも、兄上たちの政治は確実に、この街の人々の息の根を止めようとしている」
ライルは振り返り、二人の親友を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥には、これまでに見せたことのない、青い炎のような静かで強烈な覚悟が宿っていた。
「強くなりたい。兄上たちの顔色を窺う無害な弟なんかじゃなく……この街の光を理不尽に奪う力に、正面から『違う』と叩きつけられるだけの、本物の力が欲しい」
ライルは腰の鉄剣の柄を固く握りしめた。
「森の浅瀬じゃ足りない。もっと深くへ潜ろう。この国の本当の命脈が流れる、魔物の森の深部へ」
アルドはライルのその顔を見て、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「……ようやく、目が覚めたみたいだな、王子様。いいぜ、とことん付き合ってやるよ」
「全く、命がいくつあっても足りませんね」
セシルもまた、呆れたように眼鏡を押し上げながら、その横顔には隠しきれない頼もしさが滲んでいた。
消えた街灯の代わりに、夜空には無数の星が冷たく輝いていた。
三人の少年たちの放課後は、ここから本当の意味で、死と隣り合わせの「冒険」へと足を踏み入れていくことになる。
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