第4話:優雅なる剣舞と、泥まみれの凱歌
王立貴族階級学校の広大な屋外演習場には、よく手入れされた白砂が敷き詰められ、朝の陽光を反射して眩いほどに輝いていた。
微風が吹き抜けるたび、整列した上級生たちが身にまとう演習用防具の真新しい革の匂いと、微かに漂う高級な香水の香りが混じり合って鼻腔をくすぐる。ここは血と汗の匂いが支配する戦場ではなく、あくまで「次代の支配者たちが武の嗜みを披露する場」に過ぎない。
「――そこまで! 動きが硬いぞ、次!」
白銀の胸当てを身につけた初老の剣術教官が、苛立たしげに声を張り上げた。
「剣とは貴族の魂そのものだ。魔獣という野蛮な存在に対し、我ら選ばれし者がいかに理路整然と、優雅に死を賜るか。その体現が王国の剣術である! 泥臭く地を這うような真似は、平民の傭兵に任せておけばよいのだ!」
教官の訓示に、第一王子ギリウス派の生徒たちが「その通りだ」と誇らしげに頷く。
演習場の端で順番を待っていたライルは、手にした演習用の木剣の柄を静かに握り直した。
昨日までなら、ライルもその教官の言葉を「退屈な宮廷の常識」として右から左へ聞き流していただろう。だが、今のライルには、その言葉がいかに空虚で、致命的なほどに現場を知らない戯言であるかがはっきりと分かった。
あの休耕地で直面した、泥を跳ね上げて迫り来る半透明の粘体。スライムという最弱の魔物ですら、生き物を溶かし喰らうという純粋な殺意の塊だった。あんなものに向かって「優雅に死を賜る」などと胸を張って言えるのは、高い城壁の内側で安全に守られている者だけだ。
「次、ライル殿下。前へ」
教官の声に呼ばれ、ライルは白砂の中央へと進み出た。
対峙するのは、伯爵家の長男。グリードの派閥に属する、体格の良い生徒だ。彼はライルを見下すように鼻で笑い、教本通りの美しい上段の構えをとった。
「始め!」
合図と同時、伯爵家の子息が鋭い踏み込みで打ち込んでくる。
(……遅い)
ライルの目に映るその剣筋は、まるで水の中で振るわれているかのように緩慢だった。
昨日の夕暮れ、スライムの核石を貫き、確かな命のやり取りを潜り抜けた瞬間に訪れた「レベルアップ」の感覚。
背筋を駆け抜けたあの熱い雫は、一晩眠って目覚めた後も、ライルの身体の奥底で確かな熱を保ち続けていた。筋肉の連動が滑らかになり、視界の解像度が上がり、相手の重心の移動が手に取るように分かる。
大上段から振り下ろされる木剣の軌道。その力み、足の運び、呼吸の隙間。すべてが透けて見えた。
ライルはあえて教本通りの「受けの型」をとらなかった。
力ずくで剣を受けるのではなく、相手の踏み込みに合わせて自身の重心をふっと沈め、半歩だけ斜め前へ滑り込む。刃が交差する寸前、手首の返しだけで相手の木剣の側面を軽く叩き、その力のベクトルを完全に逸らした。
「なっ――!?」
空を切った伯爵家の子息は、自身の過剰な踏み込みの力に振り回され、無様に前のめりに体勢を崩した。
ライルは力むことなく、スライムの核を突いた時と同じ最短距離の軌道で、木剣の切っ先を相手の無防備な喉元にぴたりと寸止めした。
静寂が落ちた。
勝負は一瞬だった。筋力でも魔力でもなく、純粋な「命のやり取りを知る身体の連動」が生み出した絶対的な死角からの制圧。
「……そ、そこまで!」
教官が慌てて声を上げ、ライルは静かに木剣を下ろした。
だが、教官の顔に浮かんでいたのは称賛ではなく、露骨な不快感だった。
「ライル殿下! 今の動きは何事ですか! 相手の剣を受け止めもせず、泥棒猫のように身を躱して横から突くなど、貴族の剣術の風上にも置けません! 型を重んじ、正々堂々と打ち合うのが王家の武たる――」
「申し訳ありません、教官。足が滑りました」
ライルは淡々とした声で遮り、一礼して元の列へと戻った。
背後で同級生たちが「やはり第三王子は剣の素質もない」「卑怯な戦い方だ」とひそひそと嘲笑する声が聞こえたが、ライルの心にはさざ波一つ立たなかった。
彼らの嘲笑が、ひどく遠い世界の出来事に感じられた。もはや、この白砂の演習場で「無能な王子」のレッテルを貼られることなど、ライルにとってはどうでもいいことだったからだ。
列に戻ったライルの隣で、アルドが肩を揺らして押し殺した笑い声を漏らしていた。
「おいおい、傑作だなライル。あんな見事な重心移動を『足が滑った』で片付けるたぁ。あの伯爵サマ、自分がなんで体勢を崩したのかすら分かっちゃいなかったぜ」
「アルドの故郷の剣術を思い出しながら動いてみただけだよ。……でも、少し目立ちすぎたかもしれないな」
「気にするな。あんな能書き垂れの教官の言うことなんか真に受けてたら、森じゃ真っ先に魔獣の餌だ。お前は確実に、昨日の今日で『皮』が一枚剥けたよ」
アルドのその言葉には、身分を超えた、戦友に対する確かな敬意が込められていた。
昼休み。三人はいつものように旧厩舎の裏手の草むらに集まっていた。
セシルが銀縁の眼鏡を押し上げながら、膝の上に分厚い革張りの手帳を開く。
「さて、お二人の脳味噌が筋肉で満たされる前に、現実的な資金の話をしましょう。我々冒険者パーティ『放課後』の今後の活動についてです」
セシルは羽ペンで手帳のページを叩いた。
「昨日の稼ぎは、三人で銅貨十二枚。これでは毎日依頼を受けても、平民の力仕事の日当にも届きません。冒険者ギルドには多数のFランクが滞留していますが、彼らがなぜ底辺から抜け出せないか分かりますか?」
「腕がねえからだろ?」とアルドが黒パンをかじりながら言う。
「半分正解です。残りの半分は『装備の損耗費』と『魔石の経済』のせいですよ」
セシルは理路整然と語り始めた。
「安物の鉄剣はスライムの酸や魔物の骨に当たればすぐに刃こぼれし、研ぎ直すだけで銅貨数枚が飛びます。安全な薬草採取やドブさらいばかりやっていれば、いつまでも魔石を手に入れられず、装備を新調する金も貯まらない。ジリ貧です。我々が本気で上位の依頼を受けられるようになりたいのなら、早急に単価の高い魔獣の『魔石』を狙う必要があります」
「なるほど」とライルは頷いた。「街灯一つを動かすのにも魔石が要る。需要は無限にあるのに、供給は命懸けで森に潜る冒険者に依存している。……だから魔石の買取価格は高いんだな」
「ご名答です、殿下」
セシルは手帳のページをめくった。
「そこで本日の放課後の標的ですが……スライムは卒業し、『角兎』を狙います。頭部に鋭い魔力角を持つ小型魔獣で、森の浅瀬によく出没します。こいつの魔石は不純物が少なく、一つで銀貨一枚(銅貨約百枚分)にはなります。さらに毛皮や肉も売れる。これを狩れれば、Fランクとしては上出来すぎますよ」
「角兎か。牙猪よりはマシだが、動きは素早いぞ。不用意に近づけば、あの角で太ももの動脈を抉られてあの世行きだ」アルドが真剣な顔で言った。
「だからこそ、ライルの魔法とアルドの剣の連携が必要です。……さあ、準備はいいですか? 今日も補習をサボって、命を懸けた放課後へ向かいましょう」
夕暮れが迫る王都の最外郭。冒険者ギルド下部支部。
三人が煤けた重い樫の扉を押し開けると、昨日と同じように鉄と血と酒の匂いが混じり合った喧騒が押し寄せてきた。
「おい、またあの坊ちゃん連中が来やがったぞ」
「今日は泣いてママのところに帰らねえのか?」
周囲の荒くれ者たちから飛ぶ野次を完全に無視し、三人は掲示板から『森の境界部:角兎の魔石納品』の依頼票を剥がし取った。
受付カウンターへ向かう途中、ライルはふと、ギルドの片隅の円卓に座る奇妙な人物に目を留めた。
目深に被ったフード付きの外套はボロボロに擦り切れ、一見すると年老いた人間の浮浪者のように見える。だが、テーブルの上に置かれたエール(麦酒)の木組みジョッキを持つ手は異様に白く、節くれだっていない。
そして何より、周囲の喧噪から完全に切り離されたような、静謐で透明な空気をまとっていた。
すれ違いざま、フードの奥で光る翠緑色の瞳が、ライルを射抜いた。
(――っ)
ライルは思わず息を呑んだ。魔力隠蔽を完璧に行っているはずなのに、見透かされているような悪寒が走る。
「……風が、泣いていないな」
擦れ枯れた、けれど妙に若々しい響きを持つ声が、ライルの耳元をかすめた。
「王都の中は、欲と鉄の匂いで風が重く沈んでいるというのに。小僧、お前の周りの風は随分と軽くて静かだ。……だが、少し血の匂いを欲しがりすぎている」
ライルが立ち止まり振り返ると、フードの人物はすでにエールのジョッキを干し、ふらふらとした足取りでギルドの裏口へと消えていくところだった。
その外套の隙間から、人間のものとは明らかに違う、長く尖った耳の先端がわずかに覗いたのを、ライルは見逃さなかった。
(エルフ……?)
寿命五百年を誇り、精霊魔法と風を自在に操る森の隠遁者。建国の時代から生きている者もいるという、人間社会には滅多に姿を現さないはずの長命種。
なぜあんな存在が、王都の下部ギルドに紛れ込んでいるのか。
「どうしました、ライル? 受付が終わりましたよ」
セシルの声に引き戻され、ライルはかぶりを振った。
「いや……なんでもない。行こう、森の境界へ」
「シャァァッ!」
魔物の森の浅瀬。鬱蒼と茂る広葉樹の陰から、耳障りな威嚇音が響き渡った。
落ち葉を蹴立てて飛び出してきたのは、大型犬ほどの体躯を持つ角兎だった。灰褐色の硬い毛皮に覆われ、額の中心からは漆黒の角が鋭く天を突いている。過剰な魔力環境で変異したその目は血走り、完全に殺意に支配されていた。
「来るぞ! 構えろ!」
前衛に立つアルドが、片手剣を正眼に構えて叫んだ。
王都の喧騒など届かない、静寂と死の匂いが支配する森の境界。陽の光は樹冠に遮られ、薄暗い空間に魔獣の荒い息遣いだけが響く。
ダンッ! と地を蹴る音がしたかと思うと、角兎は凄まじい速度で弾丸のように飛び込んできた。
狙いはアルドの腹部。鉄の鎧すら容易く貫く黒角の突進だ。
「くそっ、速え……!」
アルドは剣で受け流すことを諦め、咄嗟に身体を横へ捻った。刃で軌道を逸らそうとするが、角兎のパワーが勝り、アルドの革鎧の脇腹が浅く切り裂かれて鮮血が飛ぶ。
「アルド!」
「気にするな! 体勢が崩れたぞ、ライル!」
突進を躱され、木の幹に激突しそうになった角兎が、空中で器用に身を翻して着地する。そして、すぐさま次の標的――後衛にいるライルへと狙いを定めた。
(速い。スライムとは次元が違う……!)
ライルは鉄剣を握りしめ、深く息を吸い込んだ。
王立学校の教官の言葉が脳裏をよぎる。「優雅に死を賜るか」――冗談ではない。こんな理不尽な暴力の前で、優雅さなど何の役にも立たない。必要なのは、生き汚くても確実に相手の命を刈り取る手段だ。
角兎の後ろ足の筋肉が限界まで収縮し、再び弾丸となって跳躍した。
ライルは剣を構えない。代わりに、空いた左手の指先を、突進してくる角兎の顔面へと向けた。
体内の奥底で渦巻く膨大な魔力。そのほんの一滴だけを指先に絞り出し、五歳の加護で得た生活魔法の術式を編み上げる。
生活魔法の『風』は、本来、荷運びの重量をわずかに軽減するためのものに過ぎない。
だが、ライルは魔力の「出力」ではなく「指向性」を極限まで鋭く束ねた。
「生活魔法――『風』」
ボウッ! と短い風切り音が鳴った。
攻撃力など皆無の微風。だが、ライルが放った一筋の風は、空中で回避不能な状態にある角兎の「両目」の眼球の表面だけを正確に撫で上げた。
「ギィッ!?」
突如として眼球の水分を奪われ、視界を乾燥の痛みで塞がれた角兎が、空中でパニックを起こして体勢を崩した。
絶対の命中を誇るはずだった突進の軌道が、大きく右へ逸れる。
「今です、ライル!」
背後からセシルの冷静な叫びが飛ぶ。
ライルは踏み込んだ。
昨日のレベルアップで得た身体の連動。今朝の演習場で伯爵子息の体勢を崩した、あの無駄のない重心移動。
それを今、生きるか死ぬかの極限の状況で完璧に再現する。
体勢を崩して落下してくる角兎の胴体へ向けて、ライルは鉄剣を力強く突き出した。
「はぁッ!」
鈍い肉を裂く音。
鉄剣の刃が角兎の硬い毛皮を突き破り、心臓を正確に貫通した。断末魔の叫びを上げる間もなく、角兎は痙攣し、地面へドサリと落ちて動かなくなった。
ドクン、と。
またしても、背筋を熱いものが駆け抜けた。昨日よりもさらに太く、強烈なレベルアップの熱が全身の細胞を書き換えていく。
「……やったな、ライル」
脇腹を押さえながら、アルドが荒い息を吐いて笑った。「魔法ギルドの連中が見たら泡吹いて倒れるぜ。生活魔法の風を目潰しに使う王族なんて、歴史上お前くらいだろうよ」
「アルド、怪我は!?」
「かすり傷だ。セシル、止血の粉を頼む」
セシルが手際よく鞄から薬草の粉末を取り出し、アルドの傷口に押し当てて布で縛り上げた。
「全く……寿命が縮みますよ。ですが、見事な連携でした。これで銀貨一枚、Fランクの稼ぎとしては破格です」
ライルは血塗れの剣を草で拭い、鞘に収めた。
足元に転がる角兎の死骸。周囲に漂う生々しい血の匂いと、土の匂い。
宮廷の温水風呂でどれほど身体を洗い流しても、この匂いだけは絶対に忘れないだろうとライルは思った。
(……僕は、もっと知らなければならない)
王宮の政治がどれほど泥沼であろうと、外の世界にはこうして命を懸けて魔石を狩り、日々のパンを稼ぐ者たちがいる。その現実の重みを肌で知るたびに、ライルの中にある「逃避」の甘い皮膜が、一枚ずつ確実に剥がれ落ちていくのを感じていた。
「帰ろう」
ライルは二人に振り返り、力強く頷いた。
「僕たちの、王都へ」
宵闇が迫る森の境界。三人の少年たちは血と泥にまみれながらも、その足取りはどこまでも軽く、確かな熱を帯びて王都の防壁へと向かっていった。
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