第3話:王宮の温もり、泥の残り香
王都南門をくぐり、商業ギルドの荷物預かり所で再び貴族階級学校の制服に着替え直した頃には、空はすっかり濃紺の帳に覆われていた。
「じゃあな、ライル。明日は剣術の実技演習だ。今日掴んだ足の踏ん張り、講義の型稽古でも忘れるんじゃねえぞ」
「アルド、君の教え通りに動いたら、また教官に『所作が野蛮だ』って小言を言われるよ」
「へっ、言わせておけ。命を拾うのは綺麗な型じゃなく、泥臭い重心移動だからな」
アルドは豪快に笑って暗い路地へと消え、セシルは懐中時計の針を確認しながら眼鏡の奥の目を細めた。
「銅貨三枚、確かに各自の取り分として渡しましたよ。……それからライル、王宮へ戻る前に、手と爪の間をよく洗っておきなさい。土の匂いは、鼻の利く宮廷侍従には一発でバレますからね」
「分かってる。セシルも、気をつけて」
セシルと別れたライルは、夜間通行証を外套のポケットに忍ばせ、王都の中心にそびえる白亜の王城――ベルクンド城の通用門へと向かった。
見上げる王城は、威容そのものだった。
巨大な石工ギルドの手によって三百年間修繕され続けてきた強固な城壁。その上部には、魔石をふんだんに使った高級な魔道具街灯がずらりと並び、夜の闇を昼間のように白く照らし出している。
休耕地のあの荒涼とした土の匂いも、焚き火の煙も、ここには微塵も届かない。別世界だった。
「ライル殿下、お戻りになられましたか」
通用門の詰め所にいた近衛兵が、胸に手を当てて深く頭を垂れる。
「ああ。学友と遅くまで図書室で調べ物をしていた。父上や兄上方は?」
「国王陛下は執務室にて工部大臣との謁見を終えられたところです。ギリウス殿下は先ほどサロンからお戻りに、グリード殿下はまだ私兵団の宿舎を視察されておられます」
(グリードは、まだ働いているのか……)
ライルは胸の奥に小さな棘が刺さるのを覚えながら、静かに頷いて城内へと足を踏み入れた。
磨き抜かれた大理石の廊下を歩く。
足音がコツコツと高く響くたび、昼間に踏みしめた休耕地の柔らかい赤土の感触が、足裏の記憶から遠ざかっていくような錯覚に囚われる。
壁には名うての画家が描いた歴代国王の肖像画が並び、天井からは精巧な魔道具シャンデリアが眩い光を投げかけていた。
「殿下、お帰りなさいませ」
自室の前で待っていた専属の老侍従、バルトが恭しく一礼した。
「遅くまでご勉学、精が出ますな。すでにお湯の用意は整っております。湯冷めせぬうちに、どうぞ浴室へ」
「ありがとう、バルト」
扉を開けて自室へ入ると、奥の浴室から湿り気を帯びた熱気がふわりと漂ってきた。
衣服を脱ぎ、浴室へ足を踏み入れる。
そこには、大人が三人ゆったりと足を伸ばせるほどの白磁の湯船が据えられていた。
表面には薔薇の香油が浮かべられ、底からは澄んだ温水が並々と注がれている。王宮のお抱え魔法士たちが、莫大な魔力を使って一気に水を湧かせ、火の魔法で適温まで加温した、贅沢の極みのような湯船。
ライルは湯船の縁に腰掛け、湯の中に足を浸した。
「――っ……」
熱い湯が、昼間の戦闘と長歩きで強張っていた筋肉をじんわりと解きほぐしていく。
本来なら極上の心地よさであるはずだった。だが、ライルの脳裏に浮かんだのは、休耕地の薄暗い岩陰で、たったコップ一杯の生活魔法の水を惜しみ、井戸の冷たい水を手拭いに浸して首筋の泥を拭っていた市井の少年の姿だった。
(……この湯船一杯の水と熱を出すために、どれだけの魔石と魔力が費やされているんだろう)
庶民が数週間かけて使う魔石の量を、王族はただ一晩の汗を流すためだけに消費している。
自分もまた、その途方もない搾取と特権の上に胡座をかいて暮らしてきたのだ。
「王なんてばかばかしい」と吐き捨てながら、その王族の恩恵を一番貪っているのは、他ならぬ自分ではないのか。
ライルは湯の中に深く身を沈めた。
肩まで湯に浸かり、目を閉じる。
鼻腔をくすぐる薔薇の香油の奥に、まだ爪の間に微かに残っていた土と焚き火の煙の匂いを探そうとしたが、豪奢な湯気はそれを無慈悲に洗い流してしまった。
浴室を出ると、寝室のテーブルには銀の蓋が被せられた夜食が用意されていた。
蓋を開けると、白身魚のソテーに細かく刻まれた香草のソース、焼きたての白いパン、そして冷えた果実水。
一口運んでみる。柔らかく、洗練された味だった。けれど、先ほど休耕地でアルドが焚き火で炙ってくれた、あの硬くて塩辛い干し肉ほどの強烈な生命の味はしなかった。
ライルは制服のポケットから、そっと布に包んだものを取り出した。
小さな木製の『F』の冒険者プレート。
そして、今日稼いだ三枚の銅貨。
金属の硬い冷たさを指先に感じる。
銀貨でも金貨でもない、安っぽい赤銅色の小銭。だが、スライムの突進を躱し、剣を突き立てて自らの力で手に入れたこの三枚の銅貨だけが、ライルにとって唯一の「嘘偽りのない現実」だった。
ライルは机の引き出しの奥、誰の目にも触れない二重底の隙間に、プレートと銅貨を大切に仕舞い込んだ。
翌朝。
朝靄が立ち込める王宮の中庭を、ライルは少し早めの足取りで歩いていた。
貴族学校の登校時間まではまだ間がある。昨日のレベルアップの感覚――背骨を突き抜けたあの熱い雫の感触が、一晩眠った今も身体の芯に鮮明に残っていた。
歩くたびに、地面を蹴る足の裏の感覚が驚くほど明瞭で、風の動きや木々の葉擦れの音が、昨日までよりも一段高い解像度で耳に飛び込んでくる。
(身体が……軽い)
これが「レベル」が上がるということなのか。
貴族学校の演習場でいくら型稽古を繰り返しても決して得られなかった、身体の内側からの変容。その手応えを確かめたくて、ライルは足の向くまま、城内の第1騎士団の鍛錬場へと向かっていた。
早朝の鍛錬場には、すでに鋭い金属音が響き渡っていた。
キンッ! カンッ!
空気を切り裂くような太刀筋。
見取り稽古用の木柵の向こう、鍛錬場の中央で一人の男が二振りの大剣を相手に、片手半剣一本で立ち回っていた。
肩幅の広い屈強な体躯。無駄な贅肉の一切ない鋼のような筋肉。短く刈り込んだ黒髪に白いものが混じり始めているが、その眼光は猛禽のように鋭い。
男が剣を一閃させると、大剣を構えていた屈強な近衛騎士二人が、まるで大木に薙ぎ払われたかのように砂煙を上げて吹き飛んだ。
「そこまで!」
男が剣を収め、息を乱すことすらなく告げた。
「踏み込みが甘い。剣の重さに身体が振り回されているぞ。形式美に囚われて腰が浮けば、森の魔獣はおろか、隣国の歩兵の槍一本止められんぞ」
「は、はッ……! 申し訳ございません、総団長閣下!」
地面に倒れ伏した騎士たちが、痛みに顔を歪めながらも敬礼を返す。
男は汗を拭いながら振り返り、木柵の外に立っていたライルに気づくと、険しい顔つきを一瞬にして崩して苦笑を浮かべた。
「なんだ、ライルか。こんな朝早くから、珍しいな」
騎士団総団長――ガイル国王の同母弟であり、ライルの叔父。四十八歳。
かつて若い頃に「自分は兄を支える」と宣言して王位継承権を自ら放棄し、政治工作ではなく圧倒的な武功と実力だけで五大騎士団の頂点に登り詰めた、ベルクンド王国の生ける伝説。
「叔父上。……早朝から息災なことで」
ライルが頭を下げると、叔父は無造作にタオルで首筋を拭きながら歩み寄ってきた。
「他人行儀な挨拶はよせ。周りに兄貴(王)の目もねえんだ、いつもの調子でいい」
叔父は柵に肘をかけ、値踏みするようにライルの全身を見つめた。
その鋭い双眸が、ライルの足元から肩のラインへと滑る。ライルは思わず背筋を正した。魔力は完璧に隠しているはずだったが、百戦錬磨の武人の前では、身体の重心の変化すら見抜かれそうで心臓が跳ねる。
「……ん?」
叔父がわずかに眉を寄せた。
「おい、ライル。お前、何かあったか?」
「え……? 何もありませんが」
「嘘をつけ。立ち姿が変わってるぞ。……前はもっと、こう、宮廷のサロンにいそうな腰の引けた立ち方をしていたが、今朝のお前は重心が綺麗に落ちている。それに、目の光が少し締まったな」
ライルは息を呑んだ。
たった一度のスライム討伐、たった一度のレベルアップによる微かな身体の変化を、この人は一目で見抜いたのだ。
「……少し、身体の鍛錬法を見直してみたんです」
ライルは平静を装って答えた。
「学友に、北方のバルツァー男爵家の三男がいまして。彼の実戦的な足捌きを真似してみただけです」
「バルツァーの倅か。あそこの血筋は森の魔獣相手に泥をすすってきた連中だからな。形式ばかりの学校の教官より、よっぽどいい手本だ」
叔父はカラカラと喉を鳴らして笑い、大きな掌でライルの肩を力任せに叩いた。
ずしりと重い衝撃。だが、今のライルの足は、その衝撃を受け止めて地面にしっかりと踏み止まっていた。
「いい傾向だ、ライル。お前は昔から兄貴たちに遠慮して、自分を引っ込めすぎているからな。グリードは今朝も早くから私兵の視察で鼻息を荒くしているし、ギリウスはギリウスで魔法ギルドの爺どもと茶会を開いて血統自慢だ。……まったく、どいつもこいつも玉座のクッションの座り心地ばかり気にしやがって」
叔父は吐き捨てるように言い、腰の剣帯を締め直した。
「兄貴(王)にも言ってやったんだよ。『いつまでも出し惜しみしてねえで、さっさと王太子を決めろ。下で軍や貴族がピリピリしてて迷惑なんだよ』ってな」
「父上は、何と?」
「『俺はまだ耄碌しちゃいねえ。どいつもこいつも器が足りねえから悩んでるんだろうが』だとよ。……まあ、兄貴の言うことも一理あるがな。国を背負うってのは、派閥の頭数や魔法の派手さで決まるもんじゃねえ。自分の足で泥を被る覚悟があるかどうかだ」
叔父の言葉が、ライルの胸の奥に深く突き刺さる。
(自分の足で、泥を被る覚悟……)
叔父はかつて、その覚悟を自らの武功で証明し、兄である父王を支える道を選んだ。
だが、今の自分はどうだ。
「叔父上のようになりたい」と言いながら、宮廷の泥沼から目を逸らし、放課後の冒険者という「自由」に逃げ込んでいるだけではないのか。
「……叔父上」
ライルは思わず口を開いていた。
「叔父上は、迷わなかったのですか? 若い頃……王位を兄上に譲り、補佐役に回ると決めた時、本当に自分の選択が正しいのか、怖くはならなかったのですか」
叔父は歩き出そうとしていた足を止め、振り返った。
その顔から武人としての鋭さが消え、一人の叔父としての温かな光が宿っていた。
「迷わねえ人間なんざ、ただの馬鹿か狂人だよ」
叔父は短く息を吐いた。
「俺だって怖かったさ。兄貴の器を信じちゃいたが、もし兄貴が道を誤ったら、俺の選んだ道も全部間違いになっちまうんだからな。……だがな、ライル。いくら頭ン中で迷ったところで、答えなんざ出ねえんだよ」
叔父は自分の分厚い、傷だらけの手のひらを広げて見せた。
「大地を踏みしめて、剣を振るって、汗を流して……そうやって自分の手で掴み取ったもんの積み重ねしか、人間を支える芯にはならねえ。選んだ道が正しかったかどうかなんて、死ぬ間際にしか分からんさ。だから俺は、今日もこうして素振りを繰り返してるんだよ」
そう言って、叔父はライルの頭にぽんと手を置いた。
「お前はお前でいい。焦るな。だが、自分の足で立つことだけはサボるなよ」
「……はい」
叔父が去った後、ライルは静まり返った鍛錬場に一人残された。
朝日が昇り、石造りの城壁を白く染め上げていく。
(焦るな、か……)
胸の奥のモヤが、完全に晴れたわけではない。
自分がやっていることは、依然として王族の責任からの逃避かもしれない。二人の友人に背中を押され、甘いモラトリアムを貪っているだけかもしれない。
けれど、叔父の言う通り、大地を踏みしめて自らの手で掴み取ったものだけが、自分を支える芯になるのだとしたら――。
昨日手に入れた三枚の銅貨と、あの身体の芯の熱さは、決して無駄ではないはずだ。
「ライル殿下、そろそろ登校のお時間でございます」
背後からバルトの声がかかる。
「ああ、今行くよ」
ライルは振り返り、真っ直ぐに背筋を伸ばした。
今日からは、昨日までと同じ退屈な講義室の景色も、きっと少しだけ違って見えるはずだった。
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