第2話:銅貨の重みと、はじめての焚き火
薄暗い冒険者ギルドの片隅に設置された依頼掲示板には、羊皮紙の端が破れ、油染みや泥に汚れた依頼票が無造作にピンで留められていた。
「おいおい、見てみろよ」
アルドが掲示板の上段を指さす。
「『北方外縁部、大牙熊の間引き』。報酬、金貨三枚。……くぅ、これ一枚でしばらく豪遊できるぜ」
「寝言は寝て言え、バルツァー」
セシルが即座に手帳の角でアルドの二の腕を突いた。眼鏡の奥の瞳は冷ややかそのものだ。
「大牙熊といえば、木工ギルドが使う大径木すらへし折る魔獣ですよ。皮は鉄を通さず、一撃で人間の首を胴体から吹き飛ばす。第一、ランクプレートの色すら見えないんですか? あれは銀(Cランク)以上の依頼です。木っ端のFランクが手を伸ばせば、受付嬢に首根っこを掴まれて路地裏に放り出されます」
「ちぇっ、冗談だよ冗談。わかってらぁ」
アルドは肩をすくめ、掲示板の最下段――床に近い、煤で黒ずんだ依頼票の束へ視線を落とした。
『市壁外、南側休耕地周辺における月光草の採取。十束につき銅貨八枚』
『街外れ、ドワーフ鍛冶工房の残灰・廃スラグの運搬手伝い。日当銅貨五枚』
『南街道沿い、低級スライムの核石回収。三個で銅貨六枚』
「……地味だな」
ライルは思わず呟いた。
王宮の侍従たちが交わす会話に出てくる数字は、金貨数十枚、あるいは数千枚単位の国税予算ばかりだった。十数枚の銅貨で人が命の危険を冒し、あるいは泥にまみれて汗を流すという現実が、一枚の薄汚れた紙きれとして目の前にある。
「地味だからこそ、生き残れるんですよ」
セシルが一番端の依頼票を剥がし取った。
「これにします。『南側休耕地周辺の薬草採取、および害獣駆除』。バルツァーの腕ならスライムや野犬程度は問題ないでしょうし、薬草の見分けなら私の商会の仕入れ台帳で叩き込んであります。ライル、これを受付へ」
「わかった」
ライルは剥がされた依頼票を受け取り、再び受付カウンターへ向かった。
先ほどの冷淡な受付嬢に票を差し出すと、彼女は三人の顔を上から下まで値踏みするように見つめ、無愛想に木製の受付印を叩いた。
「受領しました。休耕地の外側は、浅いとはいえ魔物の森の境界線と接しています。調子に乗って森の木立に足を踏み入れないこと。日の入りまでに戻らなければ、捜索願は出ませんし、ギルドの預かり金から葬儀費用を引くこともありません。……犬死にしたくなければ、影の長さをよく見て行動しなさい」
「……忠告、感謝します」
ライルが深く頭を下げると、受付嬢は意外そうに眉をわずかに動かしたが、すぐに興味を失ったように次の書類へ視線を落とした。
王都南門。
外壁の巨大なアーチをくぐり抜けた瞬間、全身を包む空気の圧力が変わった。
街を守る防壁の向こうに広がっていたのは、見渡す限りの広大な麦畑――ではなく、人間の手によって切り拓かれた平地の限界点だった。
かつて耕作地として拓かれながらも、土壌の痩せと魔物の脅威によって放棄された「休耕地」。背丈の低い灌木と赤褐色の土が広がり、その遥か先には、青黒い威容を誇る「魔物の森」の巨大な輪郭が、世界の境界線のように立ちはだかっていた。
遠目に見る森は、静まり返っている。だが、そこから吹いてくる微かな風には、湿った腐葉土と、獣の体臭、そして皮膚をチリチリと刺激する微弱な魔力の匂いが混じり合っていた。
「……ここが、外か」
ライルは立ち止まり、ブーツの底で乾いた土を踏みしめた。
王宮の窓から幾度となく眺めていた景色。だが、自らの足で立ち、背後にそびえる防壁の巨大さを仰ぎ見たとき、自分がこれまでいかに安全な揺り籠の中で守られていたかを痛感する。
「おい、ライル。ぼさっとすんな」
アルドが腰の片手剣を抜き放ち、乾いた音を立てて鞘を鳴らした。
「ここから先は、もう敷石の上じゃねえ。足元に注意を払え。草の切れ間、岩の陰、風の吹き抜ける音……全部に耳を澄ませとけ。魔獣は教科書の挿絵みたいに『ここから出ますよ』なんて教えてくれねえぞ」
「ああ、わかっている」
「薬草の群生地は、あの乾いた小川の跡地周辺です」
セシルが手帳を開き、周囲の地形を観察しながら指示を出す。
「青緑色の三つ葉で、茎の根元が赤く染まっているのが月光草です。傷薬の調合に使われる基礎薬草ですね。根を傷つけずに引き抜かなければ、買取価格が半減しますよ。アルドは周囲の警戒、私とライルで採取に入ります」
「よし、行こう」
三人は休耕地の窪地へと進んだ。
土は乾燥して硬く、歩くたびに小石が擦れ合う音が響く。ライルは膝を突き、教えられた通りの薬草を探して地面に目を凝らした。
茂みの根元に、淡い青緑色の葉を見つける。土の生活魔法をごく微弱に指先から放ち、根の周囲の土を柔らかく解してから、慎重に引き抜いた。
「……上出来です」
隣で見ていたセシルが小さく頷いた。
「土魔法の使い方が繊細ですね。貴族学校の授業じゃ、土魔法といえば岩石を撃ち出すか塹壕を掘るくらいしか教えませんが、こうして土を解すのに使うのは理にかなっています」
「五歳の加護の儀式で生活魔法をもらった時、庭の家庭菜園でよく試していたんだ。土を硬くするのも柔らかくするのも、魔力の巡りを少し変えるだけで済む」
「へえ……。王族の坊ちゃんが家庭菜園いじりとは、宮廷の連中が聞いたら卒倒しそうな趣味ですね」
「母上の部屋の小さな花壇だよ。母上は下級貴族の出だったから、土を触るのが好きだったんだ」
ライルは淡々と笑いながら、二束目の月光草を麻袋へと収めた。
その時だった。
「――止まれ」
前方で周囲を警戒していたアルドが、低く鋭い声を落とした。
その背中はすでに完全な戦闘態勢に入っており、右手の剣の切っ先が、わずかに揺れる十歩先の草むらへと向けられていた。
カサリ、と乾いた音がした。
草を押し分けて這い出してきたのは、半透明の緑色に濁った不定形の塊――スライムだった。
直径五十センチほど。体内の中心部に、親指大の濁った核石が浮かび、ゼリー状の肉体が波打っている。
「スライムか。……森から迷い出た個体だな」
アルドが舌打ちをした。「休耕地まで降りてくるたぁ、森の奥で何か小競り合いでもあったか。ライル、セシル、下がってろ。俺が核を潰す」
「待ってくれ、アルド」
ライルが立ち上がり、腰の鉄剣に手をかけた。
「……僕に、やらせてくれないか」
アルドが眉をひそめ、振り返った。
「おい、いくら最下級の魔物つったって、相手は刃物を弾く粘体だぞ。核を正確に突かなきゃ剣を腐食させられる」
「わかっている。……だけど、ここで君の後ろに隠れていたら、僕は一生、誰かの背中に守られるだけの存在だ」
ライルの双眸を見たアルドは、数瞬の沈黙の後、吐き捨てるように笑った。
「……ちっ。死にそうになったら容赦なく割り込むからな。突きの軌道は真っ直ぐだ。横から斬っても刃を取られるだけだぞ」
「ありがとう」
ライルは一歩、前に踏み出した。
地面を踏みしめるブーツの底から、乾いた砂の感触が伝わる。心臓が早鐘を打っていた。貴族学校の演習場で、防具を着込んだ同級生と木剣を合わせるのとはまるで違う。目の前にあるのは、意思を持たないただの粘塊だが、生命を喰らい、金属を溶かす本物の「異形」だった。
シューッ、とスライムが身体を圧縮させた。
直後、泥を跳ね上げるようにして、ライルの顔面めがけて跳躍してくる。
速い。だが――。
(……見える)
ライルは息を止め、体内の魔力の巡りを研ぎ澄ませた。
貴族学校で教官が語っていた「優雅な足捌き」など全て捨て去り、重心を低く落とす。跳び込んできた半透明の塊の軌道を見切り、紙一重で身体を半身に開いた。
頬のすぐ横を、生臭い風とともに粘体がかすめる。
着地寸前、スライムの体勢が崩れたその一瞬。
ライルは右腕を突き出した。狙うのは中心で鈍く輝く濁った核石。
――トン。
鋼の切っ先が、弾力のある肉体を貫き、芯にある核石へと正確に到達した。
手応えは硬質で、ガラスに釘を打ち込んだような感触が柄を通じて掌へ伝わる。
ピキリ、と核石に亀裂が入った。
「ギシィッ」と耳障りな空気が抜けるような音が響き、スライムの全身が痙攣する。
ライルが剣を引き抜くと、ゼリー状の肉体は保形性を失い、泥水のようにドロリと地面へ崩れ落ちて蒸発を始めた。
あとに残されたのは、ひび割れた小さな灰色の核石――魔石の欠片だけだった。
「……はぁっ、はぁ……」
ライルはその場に立ち尽くし、剣を握る右手を見つめた。
切っ先がわずかに震えている。恐怖からではない。命を刈り取った感触と、自分の技術が確かに通用したという生々しい実感。
その瞬間だった。
――ゾク、と。
背骨の奥底、項のあたりから、熱い雫が落ちたような奇妙な感覚が全身を駆け抜けた。
(……なんだ、これは?)
血管の中を巡る血液が、一瞬にして澄み渡ったかのように軽くなる。
筋肉の引き攣りが消え、指先の感覚が一段階鋭敏になり、視界の輪郭がくっきりと結像する。
体内の魔力の通り道が、ほんのわずかに、だが確実に太くなったような、抗いようのない身体の変容。
「……ライル」
背後から歩み寄ってきたアルドが、ライルの肩に重い手を置いた。その顔には、驚きと、どこか親しみを込めた苦笑が浮かんでいた。
「今、背筋がカッと熱くなっただろ」
「……ああ。身体の奥が、急に軽くなったような……」
「それが『レベルアップ』だ」
アルドは地面に落ちたスライムの魔石を拾い上げ、布で拭ってライルに手渡した。
「ステータスだの数字だの、神様の帳簿なんざ見えねえがな。人間、魔物を殺して命のやり取りを潜り抜けると、魂の器が広がるんだよ。筋の連動が良くなって、魔力の巡りが太くなる。冒険者が泥水すすってでも森に潜りたがるのは、この手応えに脳髄を焼かれちまうからさ」
ライルは掌の中の濁った魔石を見つめた。
冷たく、ざらりとした石。
王宮の温水風呂でどれほど優雅に身体を休めても決して得られなかった「生きている」という確かな実感が、熱となって全身の細胞を満たしていた。
「……これが」
「ええ、これが現場の現実です」
セシルが二人の元へ歩み寄り、麻袋を縛りながら言った。
「ですが見とれている暇はありませんよ。日はすでに西に傾き始めています。ギルドへ戻る前に、一度火を起こして装備の手入れと休憩を取りましょう。夜の帳が落ちる前に、南門へ滑り込まなければなりません」
休耕地の窪地、風を遮る大きな岩の陰。
三人は腰を下ろし、腰袋から干し肉と硬い黒麦パンを取り出した。
「火を起こすぞ。ライル、種火を頼む」
アルドが集めてきた乾いた小枝を円形に組み上げる。
ライルはしゃがみ込み、指先を枝の隙間へと差し伸べた。意識を指先に集中させ、体内の魔力をほんのわずかに灯す。
「生活魔法――『火』」
パチ、と小さな火花が散り、枯れ葉へと燃え移る。
息を優しく吹き込むと、火は瞬く間に枝へと広がり、赤い舌をちろちろと揺らしながら安定した焚き火となった。
立ち上る白い煙が、夕暮れの冷え始めた空気に溶けていく。
「ふう……」
アルドが枝の先に刺した干し肉を炎にかざす。脂が熱で溶け出し、パチパチと爆ぜる香ばしい匂いが漂った。
「魔道具のコンロもありゃ便利だがよ。やっぱり外じゃ、この煙の匂いと焚き火の温もりじゃねえと落ち着かねえな」
「クライン商会としては、魔道具の普及を推進したいところですがね」
セシルが水筒から冷たい水を口に含み、小さく笑った。
「ですが……確かに、悪くありません。帳簿の数字と睨み合っているより、こうして火を見つめている方が、頭が冷える」
ライルもまた、焚き火に手をかざした。
揺れる炎が、三人の影を背後の岩肌へと大きく映し出している。
煙が目に沁みて、少しだけ涙が滲んだ。
王宮の自室には、煤の出ない最上級の魔道具ランプがあり、煙の匂いなど一切しない。湯浴みの部屋には、お抱え魔法士が魔力を注ぎ込んで沸かした清潔な湯気が満ちている。
だが、あの贅沢な部屋で感じる息苦しさと、この荒涼とした休耕地で焚き火を囲む心地よさの、この決定的な違いは一体何なのだろう。
「……なあ、二人とも」
ライルは炎を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「今日の稼ぎは、どれくらいになると思う?」
セシルが即座に手帳を開き、羽ペンで計算を走らせた。
「月光草が十五束で銅貨十二枚、スライムの魔石が一個で銅貨二枚。総額で銅貨十四枚です。そこからギルドの手数料が一割強で銅貨二枚引かれますから、手残りは銅貨十二枚。……三人で分ければ、一人あたり銅貨三枚。残りの銅貨三枚は、水筒の補充や包帯代として共有の消耗品費にプールしておきましょう」
「一人、銅貨三枚か」
ライルは膝を抱えた。
「学校の学食で出される一番安いスープ一杯分にも届かないくらいだ。……僕たちは今日、半日泥にまみれて、スライムの突進をかわして、それでようやく手に入れたのがこれなんだな」
「それが平民の『一日』ですよ、ライル」
セシルが眼鏡の奥の目を伏せ、静かな声で言った。
「街の親父たちも、荷運びの人足たちも、こうして銅貨数枚を稼ぎ、家族に硬いパンを持ち帰り、たらいの水で汗を流して眠るんです。……宮廷の大臣たちが会議室で一口啜って残す紅茶一杯に、銅貨何十枚が消えているかも知らずにね」
胸の奥が、ずしりと重くなった。
自分が今日手に入れたレベルアップの高揚感。その足元には、この国の何万という民が毎日繰り返している、過酷で生々しい現実が横たわっている。
「……へっ、湿っぽい顔すんなよ、ライル」
アルドが炙り終えた干し肉を一本、ライルの口元へ突き出した。
「スープ一杯分だろうが何だろうが、これはお前が自分の剣で、自分の足で稼いだ金だ。王宮の銀の皿に盛られた料理より、何倍も胸を張っていい食い物だぜ。食えよ、美味いぞ」
ライルは差し出された干し肉を受け取り、大きくかじりついた。
塩辛く、硬く、噛み締めるほどに肉の野生的な旨味が口いっぱいに広がる。焦げた脂の匂いとともに胃の腑へと落ちていくその熱は、どんな高級料理よりも力強く、ライルの身体を芯から温めてくれた。
「……美味いな、本当に」
「だろ?」
アルドが豪快に笑い、セシルもまた苦笑しながら自分の干し肉を炎にかざした。
西の空が、茜色から深い藍色へと移り変わっていく。
魔物の森の輪郭が闇に溶け込み、夜の帳が静かに大地を覆い始めていた。
三人は焚き火の灰に土を被せ、完全に火が消えたことを確認すると、薄暗くなった街道を王都の防壁へ向けて歩き出した。
遠くに見える王都の壁の上には、魔石の街灯が星屑のように連なり、鈍い光を放っている。
あの光の群れの下へ戻れば、また明日には貴族学校の息苦しい講義が始まり、兄たちの派閥争いの視線が交錯する日常が待っている。
けれど、ライルの胸元には、安っぽい樫の木で作られた『F』の冒険者プレートと、ポケットの中で擦れ合う数枚の冷たい銅貨があった。
(僕は、ここから始めるんだ)
王族としての責任からも、兄たちの争いからも、完全に逃げ切れたわけではない。自分の中に潜む甘えも、自己欺瞞も、まだ何ひとつ解決してはいない。
それでも、手のひらに残る剣の痺れと、身体の芯に灯った確かな熱だけは、決して嘘ではないとライルは信じたかった。
夜風を孕んだ粗末な外套を翻し、三つの影は、街灯の灯る王都の南門へと吸い込まれていった。
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