第1話:放課後の裏庭と、煤けた扉
新しく書き始めました。
ベルクンド王立貴族階級学校、高等部の大講義室。
天井の高い石造りの空間には、重厚な蜜蝋の香りと、仕立ての良い羊毛の外套が擦れ合う微かな衣擦れの音が満ちていた。正面の演壇に立つ老教授が「本日の講義はここまでとする」と告げて羊皮紙の束を叩いた瞬間、張り詰めていた形式的な静寂が、一息にして打算的なざわめきへと解けた。
「グリード殿下、本日の『境界領における直轄地管理令の限界』に対する論駁、実に見事でございました。放課後、サロンの茶会にて続きをお聞かせ願えませんか」
「ああ、構わないよ。これからの国を支えるのは、先祖伝来の血筋に胡座をかいた者ではなく、実際に現場の富を動かせる者たちだ。君のところの伯爵領の鉱山事情も、ぜひ詳しく聞かせてほしい」
演壇の前、生徒たちの中心で華やかな笑みを絶やさずに応対しているのは、ライルの双子の兄――第2王子グリード=ベルクンドだった。
十七歳。ライルと同じ日に生まれ、鏡を覗き込んだかのように酷似した輪郭と鼻梁を持っている。しかし、その双眸に宿る光の温度はまるで異なっていた。内から湧き出る野心と苛烈な意志が、その立ち居振る舞いに否応なしの覇気を与えている。
王妃を母に持つ長兄ギリウスはすでに二十一歳を迎えながら、父王ガイルはいまだ王太子の座を誰にも与えていない。耄碌など微塵もしていない五十代前半の父王が「まだ見極める必要はない」と構えている隙を突き、グリードは新興貴族や実力派の官吏を急速に自陣営へと引き入れつつあった。そのための根回しと、見事な弁論。グリードは一日として無駄にせず、王冠への階段を駆け上がっている。
一方で、講義室の重い扉の付近では、第一王子派の公爵家や侯爵家の子息たちが、その輪を苦々しげに睨みつけていた。
「ふん、側室の子がどれほど取り巻きを集めようと、王統の正統性はギリウス殿下にのみあるのだ」
「地方貴族の小銭を集めて何になる。所詮は卑しい足掻きよ」
冷笑と侮蔑の混じった囁き声が、ライルの耳朶をかすめる。
この国が三百年の歴史の果てに安全な平地を開拓し尽くし、社会全体が分厚い閉塞感の壁に突き当たっている今、貴族たちの関心は「いかに領民からの搾取率を上げるか」と「限られた椅子をどう奪い合うか」にしか向いていない。講義室で交わされる高尚な法務や統治論も、突き詰めればその醜い椅子取りゲームの正当化に過ぎなかった。
ライルは講義室の最後列、午後の斜光が届かない薄暗い窓際の席で、羽ペンを革の筆入れへと静かに収めた。
双子の弟であるライルの周りには、誰一人として近寄ってこない。幼少の頃から兄のグリードを立て、魔力測定でも学術試験でも「可もなく不可もない無難な順位」を意図して維持し続けてきた成果だった。周囲の目に映るライル=ベルクンドは、才気煥発な双子の兄の影に隠れた、無害で大人しいだけの出涸らしの王子に過ぎない。
「おい、どけ。平民の成金が。外套の端が触れるだけで虫酸が走る」
前方の通路で、侯爵家の次男がわざとらしく肩をぶつける音が響いた。
ぶつかられたのは、銀縁の眼鏡をかけ、無駄のない仕立ての制服に身を包んだ少年――セシル=クラインだった。王都屈指の豪商「クライン商会」の次男。莫大な寄付金を学校へ納めて入学を認められた「特例枠」の生徒だ。
突き飛ばされたセシルは半歩よろめいたものの、眼鏡を直す素振りすら見せず、手挟んでいた手帳にペン先を走らせながら淡々とした声を返した。
「……失礼いたしました。次期侯爵閣下の外套、左肩の金糸刺繍が三本ほど解れておりますよ。当商会でお直しを承りましょうか? もちろん、前払いのツケなしで」
「な、貴様……!」
憤慨して顔を真っ赤にする貴族子息を視界の端にも留めず、セシルは機械的な会釈を一つ残して足早に講義室の出口を抜けていった。
ライルは鞄を肩にかけ、誰とも視線を交わさぬよう気配を殺して立ち上がった。扉を出る直前、すれ違いざまにセシルと視線がわずかに交差する。
言葉は交わさない。合図はそれだけで十分だった。
校舎の裏手、ツタが外壁をびっしりと覆う旧厩舎の陰。
白亜の大理石と手入れの行き届いた芝生が広がる前庭とは対照的に、背丈の低い雑草が生い茂り、湿った土と古い木材の匂いが漂うこの場所は、身分と体面を気にする貴族生徒たちが決して足を踏み入れない空白地帯だった。
「――あー……息が詰まりそうだった」
ライルは制服の襟元のボタンを二つ外すと、雑草の生い茂る地面へと背中から倒れ込んだ。
頭上に広がる青空を、旧厩舎の軒先が四角く切り取っている。土の冷たさが薄手の制服越しに背中へと伝わり、肺の奥に溜まっていた重苦しい澱が、ゆっくりと吐き出されていくのを感じた。
「おいおい殿下。そんなところで大の字になって寝転がってたら、宮廷作法番の爺さんが心臓麻痺で倒れちまうぜ」
野太い笑い声とともに、肩に一本の無骨な木剣を担いだ長身の少年が、厩舎の角から姿を現した。
アルド=バルツァー。魔物の森に隣接する北方国境の領主、「バルツァー男爵家」の三男だ。貴族学校の生徒とは思えないほど日に焼けた肌、捲り上げた制服の袖から覗く無数の切り傷、そして握り慣れた剣ダコが、彼が生粋の武門の血筋であることを物語っていた。
ドスンと音を立てて、アルドがライルの隣に腰を下ろす。
「今日の剣術教官の面も見ろよ。『型を崩さず、優雅に切っ先を止めよ』だとよ。あんな腰の引けた突き、森の牙猪に突進されたら一撃で腕ごと持っていかれて終わりだっつーの。実戦も知らねえ癖に、偉そうに能書きばかり垂れやがって」
「アルド、君の生家の基準を王都の坊ちゃんたちに求めちゃいけないよ。彼らにとって剣は、夜会の正装の飾りに過ぎないんだから」
「全くだ。あんな連中、一度本物の魔獣の唸り声を聞いただけで失禁して腰を抜かすのが目に見えてるぜ」
足音を立てずに草を踏み分け、セシルが二人の間に入り込んできた。その手には、湯気を吸って油染みの浮いた粗末な紙袋が抱えられている。
「はい、今日の配給です。大通り裏の『モルガン親父のパン屋』の黒麦パン。石窯から出たばかりの熱々を、乗合馬車の御者に銀貨の端数を持たせて停留所まで届けてもらいました。銅貨六枚、きっちり三人で割り勘ですからね。ツケは効きませんよ」
「さすがセシル、手際がいい」
ライルは身体を起こし、紙袋から無骨な黒麦パンを取り出した。分厚い焼き色がついた外殻を両手で力任せに割ると、白い蒸気とともに香ばしい麦の匂いが立ち上る。
一口かじると、硬い外皮の奥から素朴で強い穀物の甘みが広がった。
王宮の晩餐で銀の器に盛られる、冷め切ったフルコースのどれよりも、この路地裏のパンはずっと美味い。喉を通るたびに、確かな命の熱が胃の腑へと落ちていく感覚があった。
「……それにしても、教室内はいよいよ末期だな」
セシルが眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、冷ややかに呟いた。
「ギリウス派の連中は、来期の地方関税引き上げを財務省にゴリ押しする腹積もりです。グリード殿下の派閥は派閥で、新興貴族の私兵を増強するために商業ギルドから安値で物資を買い叩こうとしている。……どちらが実権を握ろうと、割を食うのは市井の商人や平民ですよ」
「兄上たちは、それしか見えていないんだ」
ライルは咀嚼を終え、膝の上に視線を落とした。
「安全な平地がもう残っていないなら、他人の取り分を奪うか、領民を絞り取るしかないと思い込んでいる。……王なんて、ばかばかしいよな」
「殿下、滅多なことを言うもんじゃありません」
セシルが呆れたように息を吐くが、その声音には咎める響きは欠片もなかった。
「ですがまあ、同感ですね。父もよく帳簿を睨みながら零していますよ。『玉座に誰が座ろうが、街の街灯を灯す魔石を森から運んでくるわけじゃない』と」
「そうだ。街灯の明かりも、台所のコンロも、王宮の温水風呂すら……全部、誰かが森で魔物を狩って、命を張って獲ってきた魔石で動いている」
ライルは自分の手のひらを見つめた。白く、傷のない、いかにも王族の手。
貴族学校で教わる高等攻撃魔法の理論も、剣の理合いも、すでに身体に叩き込んである。
魔力量に限って言えば、双子の兄であるグリードすら凌駕している自覚があった。本気で詠唱を行えば、学年の誰よりも巨大な火球を瞬時に生み出し、標的を粉砕することなど造作もない。
だが、それをひけらかして誰かを屈服させることに、一体何の意味があるというのか。
ライルの脳裏に浮かぶのは、父である国王ガイルと、その弟である叔父――騎士団総団長(四十八歳)の姿だった。
王位を兄に譲り、自らは圧倒的な武功と実力で全五つの騎士団を束ねる叔父。父王に対しても臣下の前で気兼ねなくタメ口で本音をぶつけ合い、形式骸化した騎士団の中で唯一、現場の泥臭い練度を保ち続ける人。
ライルが心から尊敬し、憧れている大人の背中がそこにあった。
「……兄上たちは、もう走り出している」
ライルは静かに呟いた。
「グリードは十七だ。僕と同じ日に生まれたのに、もう自分の足場を固めて、大貴族の腹を探り、新興貴族を束ねようと毎日頭を擦り減らしている。ギリウス兄上だって、王太子に指名されない焦りを抱えながらも、正統な後継者としてどう立つべきかを必死に演じ続けている」
ライルは自嘲するように口元を歪めた。
「僕は……どちらの兄上が王座に就いても、支えるつもりだ。それは嘘じゃない。叔父上のようになりたいんだ。父上を支えて、圧倒的な腕と器量で騎士団をまとめ上げた叔父上の生き方は、今でも僕の憧れだ。だから、兄上たちの補佐に回る覚悟はある。……あるはずなんだ」
そこで言葉が途切れた。
指先が、残りのパンを無意識に強く握りつぶしていた。
「だけど……わからないんだ。どちらが正しい王なのかも、僕がどう支えるべきなのかも。まだ、何も決められる気がしないんだよ。宮廷の図書室で統治論を読み、講義で法務を暗記しても、僕自身が何一つ現場を知らない。大地を踏みしめてもいないのに、どっちの陣営に付くべきかなんて、そんなの机上の空論じゃないか」
熱っぽく語るその言葉は、確かにライルの本音だった。
嘘は言っていない。叔父への憧れも、現場を知らなければ統治などできないという持論も、何ひとつ偽りはない。
――だが。
心の奥底、冷たく澄んだもう一つの意識が、冷ややかに囁いてくるのをライルは知っていた。
(……本当にそうか?)
大地を知るため。自立するため。兄上たちを支える力を得るため。
耳触りのいい大義名分を並べ立てているが、本当のところはどうなんだ。
叔父上のようになりたいと願いながらも、宮廷の騎士団は貴族の面子と派閥の論理に縛られ、形骸化して久しい。叔父上のような本物はごく一握りで、残りは優雅な礼装をまとったお飾りの集まりだ。宮中の枠組みに留まっている限り、本物の強さなど手に入らないことはとっくに気づいている。
だからこそ、血筋も家柄も派閥も関係なく、己の腕一本で森の脅威に立ち向かい、この国の命脈である魔石を命懸けで持ち帰ってくる――あの泥臭い「冒険者」という生き方に、ずっと目を奪われてきた。それこそが宮廷の欺瞞から最も遠く、叔父上の背中に近づく道なのだと、自分に言い聞かせてきた。
だが――それは結局、醜い足の引っ張り合いや派閥の息苦しさから目を逸らし、外の世界へ逃げ込むための免罪符として、「冒険者」という自由な響きに都合よく縋り付いているだけではないのか。
王族として最高峰の教育を受け、生まれながらに特権を享受しておきながら、その重責から目を背けて猶予を欲しがっている自分。
そんな自分に対して、心のどこかで「それで本当にいいのか?」と鋭い刃を突きつけてくる自分が確かにいる。
けれどライルは、今その刃に向き合ってしまえば、立っている足元ごと崩れ落ちることを知っていた。
だから、見ないふりをした。
その冷めた声を心の奥底へ押し込み、自ら選んだ「憧れ」という熱で塗りつぶすように、ライルは言葉を継いだ。
「……だから僕は、今日、冒険者ギルドに行く。登録してくる」
沈黙が落ちた。
風が吹き抜け、旧厩舎の草をざわざわと揺らす。
アルドとセシルは、すぐに言葉を返さなかった。
客観的に見れば、ライルの言い分は首をかしげざるを得ないものだった。
王族として育てられ、どちらかの派閥に属するか、あるいは自ら旗を揚げるかを迫られる年齢だ。それなのに「まだ早い」「現場を知りたい」と冒険者に走るのは、いかに理屈を並べようと、現実逃避の甘えに他ならない。
セシルは眼鏡の奥の目を細め、帳面を握る指にわずかに力を込めた。
(……それで、本当に良いのか、ライル)
言葉には出さなかった。
双子の兄グリードが血を吐くような思いで泥沼の政争に飛び込んでいるのを知っているからこそ、ライルの「まだ早い」という実感の奥にある、わずかな逃げ腰の匂いをセシルは敏感に嗅ぎ取っていた。
だが、その迷いごと誤魔化そうとして必死に前を向くライルの横顔を見て、セシルはそれ以上踏み込めなかった。
アルドもまた、木剣の柄を握ったまま、複雑な面持ちでライルを見つめていた。
森の境界で過酷な現実を見てきたアルドにとって、冒険者家業は決して「自分探しの場」などではない。死と隣り合わせの泥臭い生存の現場だ。王子の猶予で済む世界ではない。
(だが……こいつの目の奥にある揺らぎを、俺が笑えるかよ)
覚悟はあると言いながら、逃げ出したい自分を見ないふりをして、それでも必死に足掻こうとしているこの男の青さを、アルドは突き放すことができなかった。
沈黙を破ったのは、アルドの太い溜息だった。
「……たくよ。頭のいい王族サマの考えるこたぁ、俺には難しくてよくわかんねえが」
アルドは立ち上がると、腰の木剣を地面にトンと突いた。
「どっちの兄貴を支えるにしても、ひ弱なままじゃ背中も守れねえだろ。森で魔獣に喰われりゃ、その『覚悟』も『迷い』もおしまいだ。行くってんなら、俺が前衛を叩き込んでやるよ」
「アルド……」
「ええ、全くです」
セシルがため息混じりに、懐から一通の羊皮紙を取り出した。
「あなたのその煮え切らなさも、青臭い逃避も、全部ツケにしておきますよ。……将来、あなたがどちらかの兄上の右腕になった時、クライン商会に破格の通商特権を認めてもらうための先行投資です」
草の上にことりと置かれたのは、『ライル・クライン クライン商会見習い使用人』と記された身分証明書だった。
「先週のうちに、商会の裏帳簿を使って手配しておきました。安物の革鎧と外套も、乗合馬車の荷物預かり所にあります」
セシルは眼鏡を押し上げ、どこか諦めたような、けれど確かな友情のこもった笑みを浮かべた。
「あなたが納得いくまで世界を見て、自分で答えを出すためなら……まあ、付き合ってやりますよ、殿下」
ライルは二人を見つめ、胸の奥がきつく締め付けられるような痛みと温かさを同時に感じた。
二人が言葉にしない「それでいいのか」という戸惑いも、自分自身が押し殺した逃避の自覚も、この場の空気には確かに混ざり合っていた。
それでも二人は、自分を暴き立てず、隣に立ってくれたのだ。
「……ありがとう、二人とも」
ライルは差し出された身分証をしっかりと受け取った。
自分のずるさも、青さも、抱えたままでいい。いつか来る決断の日のために、今はまず、自分の足でこの世界を踏みしめるのだ。
「行こう。僕たちの、放課後だ」
三人は顔を見合わせると、貴族学校の豪奢な敷地を抜け出し、大通りを走る乗合馬車を目指して走り出した。
貴族街の裏手を抜けた三人は、商業ギルドが管理する乗合馬車の停留所へと滑り込んだ。
停留所の脇にある荷物預かり所の掘っ立て小屋で、セシルが手配していた粗末な麻のシャツと、使い古されて色褪せた革鎧に着替える。腰には、貴族学校の優雅な細剣ではなく、刃こぼれを研ぎ直した痕のある飾り気のない鉄の片手剣を差した。
仕立ての良い制服を脱ぎ捨てた瞬間、身体の表面を覆っていた重い皮膜が一枚剥がれ落ちたような解放感があった。
「似合わねえな、ライル。育ちの良さが滲み出ちまってるぜ」
「アルド、君こそその格好だと、ただの裏通りの乱暴者にしか見えないよ」
「おいおい、褒め言葉として受け取っておくぜ」
三人は軽口を叩き合いながら、木製の大型乗合馬車へと乗り込んだ。
御者に銅貨を一枚ずつ手渡す。ゴトゴトと鈍い車輪の音が響き、四頭立ての輓馬がゆっくりと石畳を蹴り始めた。
馬車が貴族街の防壁を越え、庶民の居住区へと入った途端、窓から流れ込んでくる空気の質が一変した。
香水と磨かれた石の無臭の世界から、雑多で生々しい匂いの世界へ。
道端では、荷車を引く人足たちが「よいしょ」と声を掛け合いながら、荷の底へ向けて微弱な風の生活魔法を放っている。荷の重量をわずかに軽減させ、汗を流しながら車輪を押し進める男たちの逞しい腕。
路地の奥からは、井戸から汲み上げた冷たい水をたらいに張り、手拭いで首筋や腕の汚れをゴシゴシと拭っている少年の姿が見えた。生活魔法の水ではコップ一杯が関の山だからこそ、井戸の水を惜しみなく使い、泥を落とすその所作には、生きることそのものの手触りがある。
夕暮れ時が近づき、軒先に並ぶ簡素な魔道具コンロからは、安価な野菜と骨を煮込むスープの湯気が漂い始めていた。
中央の広場では、点灯夫が長い棒の先を使い、街灯の中に収められた小さな魔石の覆いを外して火を灯していく。鈍く、温かい橙色の光が、薄暗くなり始めた石畳の路地を一つ、また一つと照らし出していく。
「……すごいな」
ライルは馬車の木枠に手をかけ、目を奪われていた。
「教科書には、税収の数字しか載っていなかった。だけど、みんなこうして、自分の足で息をして、今日を生きているんだ」
「ええ。宮廷の大臣たちがどれほど机の上で法を捏ね回そうと、この街の連中は、目の前のパンと明日の仕事のことしか考えていませんよ」
セシルが帳面を閉じ、静かに言った。
「そして、その暮らしの明かりを灯しているのが――これから向かう連中です」
乗合馬車が速度を落とし、車輪を軋ませて停止した。
「終点だ、冒険者ギルド前!」
御者のしゃがれた怒声が響く。
三人は馬車を降りた。
そこは、王都の最外郭、巨大な外壁の影が落ちる広場だった。
目の前にそびえ立っているのは、幾重もの風雨に晒されて黒ずんだ、巨大な樫の木造りの三階建ての建物――冒険者ギルド王都下部支部だった。
貴族学校の瀟洒な白亜の学舎とは正反対の、煤と血と泥の匂いを吸い込んで沈黙する威容。出入りする男や女たちは誰もが革や鉄の防具を身にまとい、その装備には魔獣の爪痕や、消え切らない血の染みが刻まれていた。
「行くぞ」
アルドが短く促し、無骨な手で両開きの重い樫の扉を押し開けた。
ギィィ……と蝶番が軋む音とともに、熱気と喧騒が三人を出迎えた。
鉄の匂い、乾いた泥の匂い、安酒と煙草の煙、そして――魔力特有の、わずかに皮膚をピリつかせる微かな痺れ。
中央の解体場では、森の境界で狩られてきたばかりの巨大な猪型魔獣の死骸が吊り下げられ、屈強な男たちが手際よく皮を剥いでいた。赤黒い肉が切り分けられ、その体内から取り出された親指大の濁った魔石が、換金カウンターの木皿の上へとカランと放り出される。
魔法ギルドのエリートたちが「野蛮な平民の仕事」と見下すその現場。だが、王都のすべての街灯を灯し、貴族の贅沢な温水風呂を沸かす熱源は、間違いなくこの煤けた床の上から始まっているのだ。
「おいおい、妙な坊ちゃんたちが紛れ込んできたぜ」
「おい小僧、ここは迷子のお迎え所じゃねえんだ。ママの乳でも吸いに帰りな」
酒場の長椅子に腰掛けていた荒くれ者たちから、濁った笑い声とからかいが飛ぶ。
アルドが獰猛な視線でそれらをねめつけ、セシルは一切表情を崩さずに真っ直ぐ前を見据えて歩いた。ライルはその二人の背中に守られるようにして、一番奥にある受付カウンターへと進んだ。
カウンターの奥には、事務的な冷たい瞳をした若い受付嬢が座っていた。
「新規登録ですか?」
感情の削ぎ落された声だった。
「はい。三人分、登録をお願いします」
セシルが懐から三枚の身分証と、登録料の銀貨をカウンターの上に滑らせた。
受付嬢は手際よく羊皮紙の身分証を確認し、クライン商会の印章に目を留めると、小さく鼻を鳴らした。
「商会の見習いに、地方の三男坊ですか。……死んでもギルドは遺体の回収を保証しませんよ。それでもいいなら、この魔力測定器に手を置いてください」
カウンターの上に置かれたのは、古びた真鍮の台座に嵌め込まれた、握り拳ほどの水晶玉だった。
内部に封入された魔導回路が、触れた者の魔力量に応じて淡く発光する仕組みの測定魔道具だ。
「アルド・バルツァーからどうぞ」
アルドが分厚い手を乗せる。水晶がぼんやりと鈍い黄色に灯った。
「前衛戦士、適性あり。次、セシル・クライン」
セシルが指先を触れさせる。水晶はさらに弱く、淡い青色を帯びた。
「後衛支援、魔力微弱。……最後、ライル・クライン」
ライルの番だった。
ライルは深呼吸をし、胸の奥で渦巻く膨大な魔力の奔流を意識の底へと押し込めた。
幼い頃から、兄のグリードに劣るように見せるために何万回と繰り返してきた魔力隠蔽の技術。体内の巡りを極限まで細く絞り、皮膚の表面から漏れ出る魔力を針の穴を通すように制御する。
震える右手を伸ばし、冷たい水晶の表面へと手のひらを重ねた。
(……抑えろ。並の下、駆け出しの平民程度に)
じわり、と水晶の奥が灯る。
淡い、頼りなげな薄緑色の光。消え入りそうなその輝きを見て、受付嬢は退屈そうに羽ペンを走らせた。
「……はい、結構です。生活魔法適性、風。魔力量は下級。戦闘魔法の適性は見られませんね」
ライルは胸中で、誰にも悟られないように安堵の息を吐き出した。
体内の奥底では、絞り切った魔力の奔流が堤防を叩くように激しく脈打っていたが、表面上は完全に欺き通せた。
カタ、とカウンターの上に三枚のプレートが並べられた。
金属製ではなく、安価な樫の木を削り出して作られた、無骨な木製プレート。中央には『F』の文字が焼き印で刻まれている。最底辺、駆け出し冒険者の証。
「登録完了です。紛失した場合は再発行に銀貨二枚。死ぬ時はプレートだけでも回収されるよう、首から下げておきなさい。……次の人どうぞ」
ライルは木製プレートを指先で拾い上げた。
ざらりとした木の感触。手のひらに伝わるそのささやかな重みは、王宮で与えられたどんな白銀の徽章よりも、ライルの皮膚を熱く焼いた。
「取れたな、ライル」
アルドが自分のプレートを指で弾きながら、白い歯を見せて笑った。
「これで晴れて、泥水すする側の一員だ」
「ええ。これで後戻りはできませんよ、ライル・クラインさん」
セシルもまた、眼鏡を押し上げながら口の端を緩めていた。
ライルは木製プレートを強く握りしめた。
自分の中にある逃避の弱さも、欺瞞も、消えたわけではない。客観的に見れば、これはただの愚かな王子の道楽に過ぎないのかもしれない。
それでも――。
煤けた酒場の喧騒の中、汗と血の匂いが満ちるこの場所で、ライルは生まれて初めて、自分の足で大地を踏み締めたような確かな息苦しさと、それ以上の高揚感を覚えていた。
「行こう」
ライルは二人に笑いかけた。
「まずは、一番安い依頼からだ」
薄暗いギルドの掲示板へ向かって歩き出す三人の背中を、夕暮れの街灯の光が長く、頼りなげに照らしていた。
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